知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『塔(継承と改革の匠の精神) 2(金閣寺に110mの七重塔が!』 『従来、アジアの塔は、仏舎利(釈迦 の遺骨)を納めるため!』

2021-11-28 09:16:29 | 寺院・仏閣・神社・お社

         『塔(継承と改革の匠の精神) 2(金閣寺に110mの七重塔が!』

『従来、アジアの塔は、仏舎利(釈迦 の遺骨)を納めるため!』

 

塔は、接地面積に比較して著しく高い構造物のことである。  日本語の「塔」は、もともと 仏教 の構造物である仏塔を意味していたが、現代では様々な比較的高い構造物(塔状構造物)に対しても使用されており、厳密な定義が存在するわけではない。

 

梅原猛氏の『塔』を読んで以来『塔』は、

エジプトのピラミッドは、太陽に近づこうと、

西欧のゴシック建築は、神に近づこうと、

アジアの塔は、仏舎利(釈迦 の遺骨)を納めようと、

『ところ変われば、・・・』と思っていました。

 

北山大塔の原形ともされる相国寺七重塔の復元図

ウェブ情報から引用

七重塔は、仏塔の形式の一つ。 層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔のうち、七重の屋根を持つものを指す。 日本では、近世までに建造された大型木造七重塔で現存するものは無いと言われています。

 

ウェブ情報にありました。 先ずは『木造城郭寿命は数百年!』の余談です。 『今、名古屋市長のリーダーシップの下、「木造・名古屋城再建」の話が具体化している。 400億円の予算が500億円を超えても「ヤル!」と、名古屋城は米軍空襲(1945年⇔築城1610年)で全焼するまで存在したのだから、復元資料もタップリ有る。 観光の目玉が乏しい名古屋にとって、そのシンボルになるのだろう。 


焦っているのは大阪だ。 太閤様のお城は今の鉄筋コンクリートの大阪城の「3倍は巨大だった」と言われても、その「太閤様の大阪城」の資料は殆ど無く、木造再建は甚だ困難だ。 その内に「木造・名古屋城再建」が果たされ、観光客も押し寄せるとなると、すぐ西には「国宝・姫路城」があるだけに、「鉄筋コンクリートの、貧相な大阪城」なんか、誰も行かなくなる。 さぁどうする大阪?


表題に戻ります。 『金閣寺に高さ約110mの七重塔があった!』には驚きました。 日本の名だたるリーダーは凄かったです。 東大寺正倉院に収蔵されている天下の香木=蘭奢待(らんじゃたい)の一部を切り取ったのは、織田信長・明治天皇の他には、足利義満だけで、『権力の絶頂に居た証』でもある。 金閣寺(北山殿)周辺に、日本史上最も高い110mの七重の塔が有っても不思議ではない。 歴史ロマンには胸が躍ります。


産経WESTから、記事です。 塔信奉者にはたまらないニュースでしたので今後の調査継続のために備忘録に残しました。

  • 「金閣寺に高さ約110mの七重塔があった!!」 破片発見 史上最も高い木造建築物
  • 「室町幕府3代将軍、足利義満が晩年を過ごした『北山殿』跡(後の金閣寺=京都市北区)から塔の先端部『相輪(そうりん)』の一部とされる青銅製の破片が出土し、京都市考古資料館が発表した」
  • 「約110mの木造の塔とされる『北山大塔』の一部の可能性が高いという。 これまで北山大塔の存在は一部の文献に記されているだけで、実際に遺物が見つかったのは今回が初めて。同資料館は『北山大塔の存在を裏付けた価値は高い』としている」
  • 「現存する最も高い木造建築物は、東寺の五重塔(55m)だが、北山大塔は相国寺七重塔と並んで日本史上最も高い木造建築物とされている」

 

相国寺七重塔

足利義満によって1399年に建てられた七重大塔は、1403年に落雷で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1ⅿ(360尺)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。 1914年の日立鉱山の大煙突(高さ155.7m)竣工までのおよそ515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。 七重大塔は北山山荘(現・鹿苑寺)内に塔を移して再建された(北山大塔)が、義満の没後の1416年に再び落雷で焼失した。 その後、足利義持の意向で相国寺の元の場所にて再建されたのが3代目の塔であるが、1470年にまたもや落雷で焼失している。

 

  • 「寺院施設の改築に伴って昨年5月から昨年7月にかけて境内の北東角、約450平方㍍で行われた調査で見つかった。 15世紀初頭の溝跡から最大幅37cm、最大高25㎝など数点の青銅製の破片が出土したという。 形から塔の先端の相輪の一部『宝輪』と判明。復元すると直径約4mになる。成分分析では、表面には金メッキが施されていたことも確認された」
  • 「出土した年代や大きさなどから、義満が、禅宗寺院・相国寺に築いた高さ110mの七重塔が落雷で焼失した翌年の1404年、自分の別荘の北山殿に再び建てようとした同規模の北山大塔の可能性が高いという」
  • 「当時の貴族の日記によると北山大塔は同年4月に起工式を行い、応永?年に落雷で焼失したとされるが、一部の専門家は未完成だったと指摘。 塔の存在も疑われてきたが、同資料館は『詳細な場所や塔の規模、構造の特定は難しいが、きらびやかで壮大な塔の存在は裏付けられた』と話している」
  • 「今谷明・帝京大教授(日本中世史)の話 『絶対的権力を手に入れた専制君主にふさわしい。 政治だけでなく、仏教の儀式を行った北山殿を仏教の一大聖地にしようとした義満の意図が読み取れる興味ある発見だ』」・・・

 

比類なき財力で建設

義満は、北山大塔は相国寺七重塔が落雷で焼失した翌年の1404年から建設を始まったと記録があり、「その財力は相当なもの。 日明貿易の成功が大きかった」と指摘される。 義満は南北朝の戦いで疲弊した朝廷の合一に尽力。 その権力は上皇、天皇を突き抜け、過去に例のない位置までのぼりつめた状況だったという。

 

新都心のシンボル
調査では、塔が立っていた場所などは分からなかったが、出土を発表した京都市考古資料館の前田義明館長は「塔は、そんなに遠くない場所にあったことは間違いない」と。

足利幕府と寺院の関係について研究を行っている池坊総務所池坊中央研究所の細川武稔さんは、義満は北山殿周辺に新都心を建設しようとしていたと指摘。街の中心を通る南北道の先に塔があったと想定し「真っすぐに延びた道の先に建つ姿は壮麗だったに違いない」と思いをはせた。

 

祭祀王としてアピール
足利義満はなぜ、これほどまでにタワー建設にこだわったのだろうか。 「父、義詮の菩提を弔うのが第一としつつ、金色に輝く金閣と合わせてシンボルにしたかったのでは」言われる。
 

また、義満は北山殿で政務を行うと同時に朝廷顔負けの宗教儀式を重ねていたという記録も残る。 今谷明・帝京大教授(日本中世史)は「国内外に朝廷以上の国王として、また祭祀王としての自分を強烈にアピールしたかったのだろう」と話していた。

 

『塔』への興味はまだまだ続きます。

  (記事投稿日:2021/11/28、#434)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『この国は、英国・イギリス・UKといろいろな呼び方がありますが』 「正式名称は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」

2021-11-28 08:38:29 | 外国

『この国は、英国・イギリス・UKといろいろな呼び方がありますが』

「正式名称は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland

長い間、攻防・争いの絶えない、イングランド・スコットランド・アイルランドですが、正式名称にはイングランド・スコットランドを連合大国として、括ったことに英国の強い意思を感じます。 『グレート・イングランド』とは呼ばず『グレート・ブリテン』と呼んだ。 アイルランドを含めたブリテン諸島を総括した意味・意思を再認識できます。

British Isles (ブリテン諸島)

ウキペデイア情報から引用

 

イギリス

ウキペデイア情報から引用

 

大英帝国版図

ウキペデイア情報から引用

 

半世紀前に『英国領香港』に丁度7年間住みました。 当時、『Crown Colony』と聞いてましたが、正確には、『王室属領、Crown dependencies)、イギリスの国王に属し、高度な自治権を持った地域である。 伝統的に国王が王国外に有していた領地であるため、イギリス(連合王国、United Kingdomには含まれず、それぞれ独自の憲法の下で政府を持っている。 ただし、外交・防衛についてはイギリス政府が責任を負う。』

 

日本では、香港を、王領や王室領、王室直轄領、王室保護領などの語が用いられいることもあるが、一般には、英国を、日本語の漢字で英国、カタカナでイギリス、英語名『United Kingdom(略称UK)』と呼び、『Kingdom(王)』が入るのは、英語名の時だけで、不思議な呼称だと理解していました。

 

日本人がイギリスの正式名称を使わずに「イギリス」と呼ぶようになった理由は、日本人がイギリスの正式名称を知る前に、ポルトガル語でイングランドを意味する「イングレス(Inglez)」がなまった「イギリス」を使っていたからだと言われています。

 

この「イングレス」という言葉は、遡ること戦国時代にポルトガル人が日本に訪れたときに「イングレス」を使っていました。 「イングレス」がイングランドという意味だったにもかかわらず、日本人はグレートブリテン及びアイルランド連合王国を指す言葉として使ったことに端を発しています。

 

また江戸時代にはオランダ語の「エンゲルシュ(Engelsch)」がなまった「エゲレス」という言葉も使われていました。 幕末以降には、「英吉利」と漢字で表記して「えいぎりす」と呼ばれていたこともあります。

 

最近、異様に急増しているのが『カタカナ英語』ですが、『イギリス』という呼び方は、『カタカナポルトガル語』か『カタカナオランダ語』であったようです。

 

言語は進化するとは言うものの、日本語はすでに、漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字と豊かな言語です。 詩歌・文学には最適と思う傘寿爺です。

         (記事投稿日:2021/10/23、#413)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『近代の日本は・日本人は凄かった 2(会津藩主・保科正之)』 『市民生活復興最優先で、江戸大火後の天守閣の再建築をやめさせた英傑』

2021-11-27 13:57:02 | 歴史・日本

『近代の日本は・日本人は凄かった 2(会津藩主・保科正之)』

『市民生活復興最優先で、江戸大火後の天守閣の再建築をやめさせた英傑』

昔、茨城県に住んでいた頃、燐家のご主人が同姓でした。 その方のご様子・お人柄から、今でも保科家のご子孫だと信じています。

保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代前期の大名。 会津松平家初代。信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主。 江戸幕府初代将軍徳川家康の孫にあたる。 3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。 将軍の「ご落胤」。

ウエブ情報から引用

復元に関連し、面白いエピソード;

1657年、江戸城の寛永度天守が焼失した後、直ちに再建が計画され、現存の御影石の天守台は建設されたが、保科正行の言「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりだが、城の守りには必要ない」ことと「江戸の町の復興が優先」の方針で中止された。 現在の日本の政治、「予算はあるのだから使わねばと、即ハコモノだ」には、保科正行のような人物待望ですか。

 

 保科正の年表

年表西暦(年齢)

1611年(1歳)に代将軍・徳川秀忠の書士として江戸で生まれる。 (幼名、幸松)

1617年(7歳)高遠藩主・保科正光の養子となる。

1629年(19歳)正室・お江の方の死により、父・徳川秀忠と面会する。

1631年(21歳)養父・保科正光の死去により、高遠藩主となる。

1636年(26歳)山形藩20万石の藩主となる。

1643年(33歳)会津藩23万石の藩主となる。

1651年(41歳)兄である三代将軍・家光が死去。 遺言により四代将軍・家綱の後見人となる。

1657年(47歳)明暦の大火が起こる。 見事な政治力を発揮して江戸の再建に努める。

1669年(59歳)子の正経に家督を譲り隠居する。

1670年(60歳)会津に御薬園を造り、薬草栽培を行う。

1673年(63歳)江戸の三田藩邸で死去する。

 

江戸時代の基礎を作った人物

保科正之は二代将軍・徳川秀忠の子として生まれますが、正室・お江の方の嫉妬を恐れ、隠されて育てられました。 秀忠は生涯、正之を自分の子と認めることはありませんでした。

しかし、三代将軍・家光は自分の実弟であることを認め、正之の清廉潔白な性格を非常に気に入り、幕政において重用しました。 自分が亡くなるときも、枕元に正之を呼び宗家を頼み置くと遺言を残しています。 四代将軍・家綱の後見人となった正之は政治に才覚を表します。 戦国の世から抜けきれず、武断派が多かった中で、正之は文武派の政治を行います。

などにお金をかける政策ではなく、民のための政策を行ったのです。 この「平和のための政治」は260年以上続く江戸時代の礎となりました。 保科正之がいたからこそ、江戸時代は長く続いたと言っても過言ではないのです。

 

保科正之にまつわるエピソードや伝説

それでは保科正之にまつわるエピソードや伝説をごいくつか紹介します。 日本初の年金制度を作った! 保科正之の偉業のひとつですが、残念なことにあまり知られていません。 会津藩23万石の藩主となった正之は、藩の改革に乗り出します。

豊作の時期に米を買い上げ、「社倉」を設けます。 これは天候不良などによる不作の時や飢饉に備えての備蓄でした。 「社倉」のおかげで、会津では飢饉になっても餓死者が一切出なかったと言います。 さらに親孝行な子供を表彰し、褒美を与えました。 また、90歳以上の老人には、食べるのに困らないだけの米を支給しました。 これが日本初の年金制度です。

働いてきちんと税金を納めれば年金がもらえる、 正之は本当に素晴らしく賢いお殿様であったと言えます。 保科正之とは?

 将軍の子として生まれ、会津藩の礎を築いた藩祖となる

日本初の年金制度を作った人物

謙虚な姿勢が兄・家光を認めさせた

民のための政治を行った

すごい人物だということが分かります。 現在の政治・行政に関わる皆様も頑張って頂きたいと期待しております。

 (記事投稿日:2021/11/27, #433) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『相撲界のスーパースター・第58代横綱千代の富士の凄さとエピソード』 『突っ張りと張り手を連発した関脇寺尾を土俵の中央で吊り上げ叩きつけた』

2021-11-26 22:05:50 | スポーツ

『相撲界のスーパースター・第58代横綱千代の富士の凄さ』

『突っ張り張り手を連発した寺尾を土俵中央で吊り叩きつけた』

ウエブ情報から引用

スーパースター・第58代横綱千代の富士関は、いろいろ話題・噂はありますが、やはり苦境を乗り切り偉大な成績を残した力士です。 脱臼癖の肩を筋肉の鎧で覆って大活躍された大横綱・千代の富士 貢関のプロフィールです。

本名 秋元 貢(あきもと みつぐ)

愛称 ウルフ、昭和最後の大横綱

生年月日 1955/06/01、没年月日 2016/07/31(61歳没)

出身 北海道松前郡福島町

身長 183cm

体重 126kg

BMI 37.62

得意技 右四つ、寄り、上手投げ

生涯戦歴 1045勝437敗159休(125場所)、勝率0.661

幕内戦歴 807勝253敗144休(81場所)、勝率0.761

優勝 幕内最高優勝31回、史上3位

 

70年秋場所初土俵。 74年九州場所新十両、75年秋場所新入幕。 80年夏場所新小結、80年九州場所新関脇。 81年初場所初優勝で大関昇進。 名古屋場所で2度目の優勝を飾って58代横綱に昇進した。 優勝31度88年夏場所から昭和以降3位の53連勝。 89年に角界初の国民栄誉賞受賞。 通算在位125場所。 1045勝は史上2位で437敗170休。 三賞7度。 金星3個。 91年夏場所限りで引退し、92年4月に年寄九重を襲名して部屋を継承した

脱臼癖と言えば、思い出すのは、アメリカのアクション映画『リーサル・ウエポン』です。 主人公の刑事が立ち回りで、肩を脱臼すると、壁に肩を叩きつけて、自分で治すシーンを思い出します。

時代が「もののふ」を希求、時代は必ず、稀代の「もののふ」を登場させた。 「もののふ」第58代横綱の、日刊スポーツ記者の記事の抜粋です。

『「一にも二にも腕立て伏せ1日1000回」、相撲担当になったのは1983年で、千代の富士はすでに横綱で7度優勝していた。 新米記者には近寄りがたい存在だった。 ただし、あくまで個人的に親近感を持っていた。 千代の富士は本土俵だけで7度、そのうち横綱になってからは4度脱臼した。 ほとんどは左肩だが、右肩も1度ある。

83年夏場所の幕下時代に初めて肩が抜けた。 花道で痛みにうずくまったが自然と入ったため、湿布を貼って医者に行かず癖になった。 千代の富士は3人の医師から「手術すると半年稽古できないから、筋肉のよろいをつけろ」と言われた。 1日1000回の腕立て伏せをノルマにした。 

北海道松前郡福島町で秋元家の長男として生まれた。元横綱千代の山とは同郷であり、それがのちの人生を決めることになった。 漁師の父を手伝って舟をこぎ、海に潜ってアワビを捕り、足腰に心臓も鍛えられた。 スポーツ万能、特に陸上の跳躍競技で活躍し、14歳で町内相撲に出て優勝した。 

台東区の福井中に転校して、本名の秋元で70年秋場所、初土俵踏んだ。 今は禁止の中学生力士で、身長177センチ、体重71キロだった。 同期は37人いたが一番出世。 序ノ口は大秋元、次の場所で千代の山と北の富士を合わせた千代の富士と改名しのちに初の5文字関取となった。入門時の約束で明大中野高に進学したが、71年名古屋場所で初の負け越し。 「中途半端、相撲1本で行く」と1学期で中退した

  • 兄弟子北の富士が命名した「ウルフ」

ケガはあったが出世は順調だった。 4年でのちにライバルとなる隆の里とともに新十両となり、5年で幕内に昇進した。 まだ20歳で昭和30年代生まれとしては初の幕内だった。 筋肉質の体に精悍(せいかん)なマスクもあり、期待のホープとなったが負け越し。 十両に落ちると右腕を痛めて幕下まで陥落した。 入幕後に幕下まで陥落した唯一の横綱になると、誰が予想しただろうか。

2場所で十両に復帰はしたが、伸び悩んでいた。 77年10月には師匠が51歳で急死する不幸にも見舞われた。 すでに引退していた兄弟子の北の富士は74年に井筒部屋を興していた。 急きょ部屋を合併させて、九重部屋を継承することになった。 ウルフの名はこの北の富士の命名だった。 入門してくると「オオカミみたいだ」と言ったのが始まりだった。

元は兄弟弟子だった2人が師弟関係になったのは、大きな転機になった。それまでは観客受けして快感でもあった、左上手をとっての強引な投げに固執していた。 新九重親方のアドバイスもあり、右を差し、左前ミツを浅くとって、頭をつけて引きつけての速攻にモデルチェンジ。 強引な投げから一気の寄りの相撲へと変身が花を開かせた。 千代の富士は左手小指のツメは切らなかった。 「まわしは小指でとれ」が基本で脇を締めるため。千代の富士は擦り切れて切る必要がなかった逸話が残る。(続く)

当該の語り草としても有名な一番は平成元年九州場所の出来事でした。現行の決まり手に当てはめると「送りつり落とし」という、しかも土俵中央で豪快無比に決めていますので、明らかな実力差がないとあのような芸当は成し得ない大技でした。 取り口序盤には寺尾が得意の速射砲ばりの突っ張りを連射しているものの、ことごとく千代の富士は当てがいつつ受け身での横綱相撲の安定感ぶりで対処していたのも印象的でした。 背景には、千代の富士に省エネという思惑が働き、余力を温存させつつ賜杯奪還を狙い、確実に勝率を高める算段も視野に入れていました。 案の定、格下の寺尾に注射を持ち掛けましたものの、ガチで挑みたい寺尾にそれを拒否され、千代の富士にとってはプライドを傷つけられたも同然で、見せしめ的に捕まえて後ろを取ると高々と寺尾の体を持ち上げ、土俵中央に叩き落とすという制裁に出ました。 八百長横綱と懐疑の目で悪評される千代の富士ですが、ガチでの強さが十二分だったからこそ、星を買い向かえたわけで、そのように揶揄されるのは絶対的な強さの裏返しであるとも証明できるのです。

寺尾はその敢闘力士のイメージ通りに、千代の富士とは常に熱戦を演じました。あの有名な、張り手を交えた突っ張りで千代の富士を怒らせてしまった寺尾が、後ろから抱え上げられて吊り落とされた相撲・・・。

繰り返しになります。 『いろいろな話題・噂がありますが、それだけではあの成績は残せません。』

 (記事投稿日:2021/11/25、#431)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『吉川英治氏と、北方謙三氏の、それぞれの「三国志」のこと』 『吉川氏は「三国志演義」に比重、北方氏は「三国志」に比重』

2021-11-23 23:02:49 | 読書

『吉川英治氏と、北方謙三氏の、それぞれの「三国志」のこと』

『吉川氏は「三国志演義」に比重、北方氏は「三国志」に比重』

 

吉川英治氏の「三国志」

日本の大衆小説作家吉川英治氏による歴史小説。 新聞連載小説として、戦時中の1939年から1943年までほぼ4年間連載され、戦後に単行本として刊行され、絶大な人気を博した。 基本的なストーリーラインは中国の歴史小説『三国志演義』に従いつつも、特に人物描写は日本人向けに大胆にアレンジし、今日までの日本における三国志関連作品へ多大な影響を及ぼした。

 

北方謙三氏の「三国志」

1996年から1998年にかけて刊行された北方謙三氏の歴史小説。 北方氏が初めて中国史を題材にとった小説、全13巻。

 

三国鼎立地図

ウキペデイア情報から引用

三国鼎立地図

ウキペデイア情報から引用

 

『三国志演義』は、中国の明代に書かれた、後漢末と蜀・魏・呉による三国時代を舞台とする時代小説・通俗歴史小説である。 四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。  著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。

 

『三国志』は、中国三国時代について書かれた歴史書。 著者は陳寿。 後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う。 二十四史の一つ。

 

王朝  年号          出来事

後漢  184   太平道を率いる張角が挙兵し、黄巾の乱が起こる。

        189   霊帝崩御。 董卓、弘農王を廃して献帝を擁立。

        190   董卓、長安に遷都。

        192   呂布、董卓を暗殺。

        193   曹操、徐州に陶謙を攻め、領民を虐殺。

                 郭汜の妻の嫉妬が原因で、李傕と郭汜が仲間割れ。

        194   劉備、徐州を領有。

        195   劉備、甘夫人を妾とする。

        196   曹操、許に献帝を擁立。 劉備、糜夫人を迎える。

        197   曹操、張繡を降伏させるが、鄒氏に溺れて大敗。

        198   呂布、劉備を破って徐州を領有。 曹操、呂布を討伐。

        199   袁紹、公孫瓚を滅ぼして華北を支配。 劉備、徐州で自立。

        200   曹操、劉備を破る。 関羽、二夫人を守って曹操に降伏。

                 関羽、白馬の戦いで顔良を斬る。 鄭玄死去。

                 曹操、官渡の戦いで袁紹を破る。

        201   劉備、劉表の客将となる。

        202   袁紹死去。袁紹の妻劉氏、嫉妬で妾を皆殺し。

                 曹操、袁譚・袁尚を破る。 曹丕、甄氏を略奪。

        207   劉備、三顧の礼で諸葛亮を迎える。

                 甘夫人、阿斗(劉禅)を生む。

                 曹操、華北を統一。

        208   劉表死去。劉琮、曹操に降伏。

                 長坂坡の戦いで、趙雲が阿斗を守る。

                 赤壁の戦い。 諸葛亮の説得で孫権・劉備は同盟を結び、曹操を破る。

        209  劉備、孫権の妹と結婚。

        210  周瑜死去。曹操、銅雀台を建設。

        211  劉備入蜀。

        214  諸葛亮、張飛・趙雲を率いて入蜀。 劉備、益州を領有。

        216  曹操、魏王となる。

        219  劉備、曹操を漢中に破って漢中王となる。 関羽敗死。

        220  曹操薨去。 夫人に「分花売履」の遺言を残す。

 

三国  220  曹丕(文帝)、献帝から禅譲を受けて曹魏を建国。

                曹皇后、兄を罵って後漢の奪に抵抗。

        221  劉備(昭烈帝)、蜀漢(季漢)を建国。

        222  劉備、夷陵の戦いで大敗。

        223  劉備崩御。 諸葛亮に劉禅を託す。

        225  諸葛亮、南征を行って反乱を平定。

        227  諸葛亮、出師表を奉り、北伐に出陣。孟達、蜀漢に内応。

        228  馬謖、街亭の戦いで張郃に敗れる。 陸遜、曹休を破る。

        229  孫権(大帝)、孫呉を建国。 諸葛亮、武都・陰平を破る。

        234  諸葛亮、五丈原で陣没。 献帝(山陽公)崩御。

        239  卑弥呼、魏に使者を派遣して親魏倭王の称号を得る。

        249  司馬懿、正始の政変で曹爽を打倒し、権力を確立。

        263  司馬昭、蜀漢を滅ぼす。諸葛瞻、奮戦して国に殉ずる。

西晋  265  司馬炎(武帝)、曹魏を滅ぼして西晋を建国。

        280  司馬炎、孫呉を滅ぼして中国を統一。

 

三国鼎立は、一見安定に見えますが、『三つ巴』の不安定差も感じます。

❶蜀は周囲を山に囲まれた四川盆地に最強の騎馬軍団を持ち、

❷呉は北の大河『長江』が天然の長城で、且つ南船北馬の最強の水軍を持つ。

❸対して最大の国土と軍隊と最長の国境線を持つ魏は、呉と蜀を滅ぼしたい。

 

北方謙三氏の三国志は、次の三点の不安定差から大歴史物語を展開しています。

❶蜀は、魏との緩衝地帯に 四川盆地からの漢水沿い出口に位置する『漢中盆地』の支 配争い継続

➋魏は、呉の長江の北側への進出を防ぐために『合肥』を死守

❸呉は、蜀との緩衝地帯として、四川盆地の長江沿い出口の『荊州北部』の、支配争い

この三つ巴が、関羽・張飛の死〈謀殺〉に追い込みます。

ここで『三国志の謎も「地形」で解ける』に思い巡らせてみました。 

三国鼎立は、劉備と孔明が、四川盆地の益州の劉璋を降伏させ成都を無血開城させた時点で成った。 『徳の劉備』と言われた、劉備さえも、すでに54歳で焦りか、益州への進軍は、道教集団五斗米道軍の反乱鎮圧という名目であった。 

三国鼎立のキー、動員兵力キャパは、曹操の魏は黄河、淮水、漢水流域を制覇でおよそ60万、孫権の呉は揚州と荊州北部でおよそ20万、劉備の蜀は、益州と荊州南部でおよそ16万、この大きな差の中でも三国鼎立は、地形で成り立った。 特に小さな国、蜀は、瓢箪のような形を成す二つの盆地、四川盆地と、その入口の漢中盆地が、生命線であった。

弱小国の蜀は、地の利にプラス、人材があった。 魏も人材は豊富であったが、蜀ほどではなかった。 呉は『赤壁の戦い』の後の余勢を駆って、軍師で名将の周瑜が益州の劉璋攻めにとりかかったが遠征途上で没した。

もともと人材不足の呉が、周瑜を失い、益州の遠征は頓挫、ここで強運の劉備の出番です。 蜀の人材は豊富です。 軍師に孔明・龐統、この時代の、『有名な二大軍師』、孔明・龐統は、在野にあった時代は夫々に臥龍(伏せた龍)鳳雛(鳳の雛)と畏敬の念で呼ばれていました。  勇名を馳せる将軍、関羽・張飛・趙雲、馬超と、曹操でさえも一人でもいいから欲しいと言っていたと。 軍師龐統は、益州の遠征途上で没した。

今回は、素晴らしい三国鼎立地図(地形のわかる)を見つけましたので、これを参考に、三国志の名場面を、吉川氏三国志(三国志演義ベース)と、北方三国志(正史三国志ベース)で比較してみたいと思いました。

(記事投稿日:2021/11/23、#430)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする