知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『李香蘭の名前と、米国日系紙の記事と、過去分のデジタル化と!』 「フーヴァー研究所は、海外で発行された日系新聞デジタル化を!」

2021-11-23 15:03:15 | 歌・音楽・歌手

『李香蘭の名前と、米国日系紙の記事と、過去分のデジタル化と!』

「フーヴァー研究所は、海外で発行された日系新聞デジタル化を!」

20211121付日経新聞文化欄に、川崎賢子氏の見出し『李香蘭 日経紙のスクープ』と載っていました。 川崎氏の著書には『もう一人の彼女 李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ』(岩波書店)がありました。

ウキペデイア情報から引用

 

ウキペデイア情報から引用

李香蘭さんの波乱万丈の人生の内容でしたが、読んでいるうちに、この表現が気になりました。 『研究者にとって、コロナ禍による打撃は、調査旅行ができなくなったというだけではない。 国会図書館や大学図書館の利用にも制限が設けられた。 たよりになったのは、コピー郵送システム、そしてウェブ上で公開されているデジタル・アーカイブである。 

日本国内の図書館や公文書館では、デジタル化がなかなか進まない現状がある。 ところがアジア歴史資料センターという、「アジ歴」で親しまれるアーカイブがある。 国立文書館、外務省外交史料館、防衛相防衛研究所からの文章の提供を受けデータベースを構築して公開している。 その「アジ歴」にスタンフォード研究所の資料がリンクすることになった。 フーヴァー研究所は、海外で発行された日系新聞のデジタル化を精力的に進めている。 海外の日系新聞は、日本人の越境や移動を知るうえで貴重な資料である。』と、

川崎氏の、『知りたいのは、三つの芸名で中国、日本、ハリウッドで活躍した女優の消息だった。 その名は、戦時下の満州映画協会や上海租界の映画界そして香港映画では李香蘭、戦後日本では山口淑子、ハリウッドではシャーリー・ヤマグチという。 

戦時中に「日本語が上手で日本びいきの中国人女優』を装うことを強いられ、李香蘭の芸名で政治に翻弄された彼女の苦悩については、劇団四季がミュージカル「李香蘭」で上演した。 戦後、本名の山口淑子で日本映画界に再デビューし、ハリウッドにわたり国際派女優として知られた。 芸能界を引退後は参議院議員も務めた。 2014年94歳で世を去るまで、波乱万丈の人生であった。

その彼女の足跡が、日系新聞資料に残されていたのである。 一つは「新世界朝日新聞」いま一つは「日米新聞」。 長谷川一夫と共演した「白蘭の歌」「支那の夜」「熱砂の誓ひ」等も、かの地でも人気を博していたことが知られる。 が、それだけではない。 プロパガンダのために伏せられていたはずの李香蘭の素性を暴露する記事が掲載されていたのである。』とありました。

1941/02/11、当時に日劇で「歌う李香蘭」というショーのチケットを求めて、日劇を7周半も取り巻き消防車も出動した。 当局ににらまれて「日本の劇場に立つのであれば技芸証が必要」だと言い渡された。 李香蘭じつは日本人・山口俊子という暴露記事となった。

更に、『サンフランシスコの「日米新聞」は「私は日本人ヨ、満州国・銀幕の女王・李香蘭は純粋の大和撫子とは判明」というスクープを飛ばしているのではないか。

海外の日系新聞のデジタル化情報が、『李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ』の、神話の再生産になったのでしょうか。 『「銃後皇国民として再出発する満映スター李香蘭」、じつは佐賀県出身の山口俊子さん』の記事にいたっては、極秘の戦略はいずこへ?と、かえって謎が深まる。

デジタル化後進国の日本に驚くのは、現行の新聞のデジタル化・ペーパーレスが行き詰っている中で、過去分の新聞業界のデジタル化・ペーパーレスにいたっては、前途多難とわかりました。

(記事投稿日:2021/11/23、#429)

 

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『波乱万丈の凄い歌手人生の渡邊はま子さんの大ファンに!』 ―時代の所為か、なぜか知らなかったことが多すぎる!―

2021-08-05 16:24:23 | 歌・音楽・歌手

『波乱万丈の凄い歌手人生の渡邊はま子さんの大ファンに!』

時代の所為か、なぜか知らなかったことが多すぎる!―

 

香港に7年も住んでおりましたので、広東語は少し話せるようになりましたが、中国語(国語)・北京語には歯が立ちませんでした。 結構荒っぽい『広東語』より、秀麗な『北京語』に魅せられ、憧れた理由は下記、ちょっと長くなりますが…。

『隋・唐・宋・元・明を経て清朝になると北京周辺で話されている言葉を「北京語」と呼ぶようになり、雍正帝の時に「北京官話」(ヨーロッパ人はこれを「マンダリン」と呼びました)が標準語に採用されて全国に広まりました。 中華民国時代には北京官話を基本とする「国語」が役所で使う標準語とされ、やがてこれが現代中国で使われている『普通話』(標準語)となっていきます。 これを「北京語」と呼ぶこともあります。』 と聞いておりましたので。

 『普通話」』(標準語)が話せるようになりたい願望があり、せめて好きなカラオケで中国語をマスターしようなどと、邪まな考えを持ちました 心がけは良くなかったのですが、少しは歌えるようになりました。 その一つが、テレサ・テンさんの『何日君再来(いつの日君帰る)』でした。 この歌は、日本語の歌より中国語の歌の方が、歌いやすいと感じていました。 カラオケでは酔狂な友人もおりまして『夜来香』をやれなんて言われることがありましたが、音痴の自分は、中国語・日本語どちらでも全くダメでした。

余談が長くなってしまいましたが表題に戻ります。

ウエブ情報から引用

 

ウエブ情報から引用

渡辺はま子さんは、『無鉄砲な女』と言われるほど、昭和の時代に活躍した流行歌手ですが、その凄さは、ただの歌手ではない。 昭和の時代、渡辺はま子さんほど、戦争と深い関わりを持った歌手はいなかった。 それは具体的には、中国戦線への従軍慰問、終戦直後の抑留生活。 抑留生活中も、収容された兵士の慰問を続けた。 先に日本に逃げ帰った軍幹部とは好対照です。 さらには、フィリッピンで冤罪で戦犯とされた日本兵の.釈放運動などが知られています。 当時の大統領に『モンテンルパの夜は更けて』のオルゴールを贈って感激された話は有名です。

先ずは、渡邊はま子さんの輝かしい履歴(ウキペディア情報の抜粋引用);

  • 1910年10月27日横浜生まれで横浜育ちの、文字通りハマっ子の渡邊は、美貌で知られた歌手であった。母方の祖父がアメリカ人だった。
  •  1933年(昭和8年)「武蔵野音楽学校」(後の武蔵野音楽大学)卒業。立松ふさに師事。 横浜高等女学校(後の横浜学園高等学校)で音楽教師に。
  •  1935年(昭和10年)渡邊はビクターの流行歌手に専念。 同年、夏川静枝の朗読によるハンセン病患者に取材した放送劇「小島の春」のラジオ主題歌「ひとり静」を歌い、初のヒット曲。 この曲をきっかけに、渡邊は終生を通じ、ハンセン病患者の病院の慰問を続けた。 特に岡山愛生園では、療養所歌として今も愛唱されている。
  •  1936年(昭和11年)、「忘れちゃいやヨ」をレコーディング。 ところが、発売から3ヵ月後、ヒットの兆しが見えた頃に、内務省から『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。 エロを満喫させる』と指摘され、ステージでの上演とレコードの発売を禁止する統制指令が下る。 ビクターの内紛と一連のネエ小唄騒動で、1年間の休業をすることになった。
  • 1937年(昭和12年)4月、コロンビアに移籍。「支那の夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目が徐々に増え、人々からは『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持された。 そのため、慰問先の満州から松平晃が持ち帰った「何日君再来(いつの日君帰る)」も渡邊が唄い、レコードが日本で発売されることになった。
  • さらに、当時はテイチクの専属であった満州の大陸女優、李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌をコロムビアから国内で日本語で発売する際には、渡邊がレコーディングした。「いとしあの星」「蘇州夜曲」といった曲は渡邊、李両者の持ち歌として大ヒットを記録している。
  •  1947年(昭和22年)に結婚し、歌手活動の傍ら横浜で花屋を営みながら、「雨のオランダ坂」「東京の夜」といったヒット曲を飛ばし続けた。
  •  
  •  1950年(昭和25年)、敗戦後初めての日本人の芸能使節団として、祖父の眠るアメリカ各地を公演。 帰国後は、古巣のビクターに移籍し、「火の鳥」「桑港のチャイナ街」などのちに代表曲となるヒット曲を出す。
  • 1952年(昭和27年)、NHKラジオ「陽気な喫茶店」を司会していた松井翠声の元に送られてきた、フィリッピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」を渡邊がレコード化。 日本国政府の厚生省復員局と渡邊の奔走で、モンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートが実現。 フィリッピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの元首であったキリノ大統領に,日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したことは、渡邊の歌手人生におけるハイライトといえる。
  •  1951年(昭和26年)の第1回紅白では、紅組トリを務めた。 昭和40年代には、東海林太郎らと共に歌手協会の発展に尽力し、1973年(昭和48年)には紫綬褒章を受章。暮れには、同年に受章した藤山一郎と共に紅白に特別出演し、「桑港のチャイナ街」を熱唱している。 渡邊は特別出演も含めてNHK紅白歌合戦に計9回出場している。

「何日君再来(いつの日君帰る)」(ホーリー ジュン ザイライ、繁体字中国語: 何日君再來、簡体字中国語: 何日君再来、拼音: Hérì jūn zàilái)は、1937年に中国で制作された楽曲。 中華圏空前のヒット曲であり、多くの歌手によって今なお唄い継がれていることでも知られる。

この曲は数多くの歌手にカヴァーされ、長年にわたり多くの人々に親しまれてきた楽曲作品であるが、作者の思いとは全く離れたところで時の権力者達の様々な政治的思惑によって翻弄され、幾度となく禁止されるなど数奇な運命をたどってきた歴史のある楽曲としての側面もある。

中国共産党政権の樹立間もない1949年頃は、この歌は「抗日歌曲」か「漢奸歌曲」はたまた「黄色歌曲(英語版)」か、などと意見が錯綜していて結論が出ずじまいだった。

この曲の作曲者:劉雪庵はこの中共政権下で、1957年の反右派闘争の際にも、文革時代(1966年-1976年)も非難を浴びることとなった。 教授職の剥奪、農村下放などを経て、「自己批判書」を書きあげ公開の場で詠唱した後、いちおうの名誉回復がされたものの、三級職教授待遇と冷遇を受けたままであった。

テレサ・テン(鄧麗君)が1980年、中華人民共和国で唄った「何日君再來」が爆発的なヒットをした後、1982年–1984年に中国共産党政府当局が「反精神汚染」および「反ブルジョア自由化」運動を発動し、本作はふたたび糾弾を受けることとなった。 そして"「猥褻な歌曲で、半封建、半植民地の奇形的産物"である黄色歌曲とされて、この歌は文化省から追放の処分となり、一時期は輸入・販売・放送などが一切禁止された。

しかし『黄色歌曲』に該当するというのは “表向きの理由” で、実際は国民生活が豊かになった敵国の中華民国から流れてくる歌を、中国共産党の圧政下で喘ぐ中国本土人民に触れさせないことが真の目的であったとされる。 また唄う側の鄧麗君も「何日君再來」を中国共産党崩壊と、中国の民主的統一実現を想起し唄っていたといわれる。 鄧麗君は生前パリで天安門事件に対する反対集会にも参加し、亡命した民主化活動家とも交流を持つなどしており、中国の民主化を終生願っていた。

鄧麗君は、パスポート偽造事件で台湾に強制送還された時に、その罪で軍隊に強制入隊させられて、金門・馬祖島に派遣され、中国本土に向けて拡声器で歌わせられたのがこの歌『何日君再來(いつの日君帰る)』でした。 この時、香港では『昼の鄧(小平)、夜の鄧(麗君)などと噂をしていました。 まだ尾ひれがつきまして、日本に復帰した最初の歌が『つぐない』でした。 余談が冗長になりましたことご容赦願います。

この曲を最初に、日本で歌ったのが渡邊はま子さんで、すぐに李香蘭さんでした。 こんどは李香蘭さんの『何日君再來(いつの日君帰る)』聞いてみます。 長い間、渡邊はま子さんを普通の演歌歌手だと思っていた自分を猛省しております。 凄い活躍・行動は、当時の軍部の圧力・強制だけでやらされたのではないと信じています。

(20210805纏め、#366)

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