知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『大女優 原節子さんの凄さ 4(「東京物語」のあの建物がマツダビル)』『「東京物語」の原さんを見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と!』

2022-06-26 23:40:25 | 映画

『大女優 原節子さんの凄さ 4(「東京物語」のあの建物がマツダビル)

『「東京物語」の原さんを見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と!』

 

先日(2022/02/20)の日経新聞の春秋に『東京物語』の風景『マツダビル』のことが載っていました。  このマツダビルのあった有楽町には、映画『君の名は』の数寄屋橋や、『銀恋の碑』の近くには「有楽町で逢いましょう」の歌碑もあるし、有楽町の由来となった織田有楽斎(信長の弟)の屋敷跡の碑もあります。 この一角には某新聞社(今は築地)もありました。 この新聞社の友人たちとは有楽町界隈のスナックで、飲みながら、よく読書論をやりました。

ウエブ情報から引用

先ずは、マツダビルの変遷(ウキペディア情報から抜粋・引用

1932年、東芝の前身の東京電気が数寄屋橋西側の土地を取得。 1934年に竣工して東京電気が入居した。 当時としては最先端の電気空調設備が整い、1階にはマツダランプのショールームが開設された。 太平洋戦争が始まると、英語の名称は時節柄ふさわしくないとして1943年に「東芝館」に改めた。

 

1956年には品川区の東京大井店に次ぐ阪急百貨店の東京における2号店として「数寄屋橋阪急」が開店。 1966年には増築が行われた。 地下1階とケーソンの間に地下2階を設けた。新館との接続部のコアは数寄屋橋公園側に移し、2階以上ではこの部分の柱を取り除くという大がかりなものとなった。

 

1984年には、港区芝浦に東芝の新たな本社社屋となる東芝ビルディングが完成。それまでは当ビルに東芝本社機能の一部を置いていたが、以降、オフィスフロアは賃貸物件として利用される。

 

2007年、東芝不動産は銀座東芝ビルの建物と敷地を東急不動産系の合同会社に1,610億円で売却した。 2012年9月よりビル解体工事に着手。 跡地には2016年に東急プラザ銀座が開業した。

 

表題『大女優 原節子さんの凄さ 4』に戻ります。

小津安二郎監督の「東京物語」に、上京した老夫婦が義理の娘と都心を巡る場面がある。 銀座で百貨店の屋上に立つと遠くに国会議事堂、手前に重厚感のあるマツダビル。 「モダンボーイで銀座っ子だった」(川本三郎著「銀幕の東京」)小津が選ぶ都会らしい風景といえる。

 

東京の顔のひとつだったこのマツダビルはすでに無い。 昭和初めに建てられ、当初はマツダビル、後に銀座東芝ビルと呼ばれた。 マツダは東芝の祖業であり看板商品だった電球の名称マツダランプ。

 

表題『「東京物語」の原さんを見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と!』に戻ります。 『東京物語』は、1953年に公開された、監督は小津安二郎、主演は笠智衆と原節子。 『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)で原節子が演じたヒロインはすべて「紀子」という名前であり、この3作品をまとめて「紀子三部作」と呼ぶことがある。

エブ情報から引用

上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、家族の絆、親と子、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品である。 戦前の小津作品、特に『戸田家の兄妹』などにすでに見出されるテーマだが、本作でより深化させられることになった。 

 

「ロー・ポジション」を多用し、カメラを固定して人物を撮る「小津調」と形容される独自の演出技法で、家族を丁寧に描いている。家族という共同体が年を経るとともにバラバラになっていく現実を、独特の落ち着いた雰囲気でつづっている。

 

作品は国内外で高く評価されている。 2012年に英国映画協会の映画雑誌『Sight & Sound』が発表した史上最高の映画ベストテンの映画監督が選ぶランキングでは第1位に選ばれた。 

(記事投稿日:2022/06/26、♯547)

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『インパクト時の呼吸 5(野球界、ベーブvs イチロー vs 大谷)』 『「永遠の野球少年」「異次元のヒーロー」とか、いろいろ言うが!』

2022-06-24 08:30:47 | スポーツ

『インパクト時の呼吸 5(野球界、ベーブvs イチロー vs 大谷)』

『「永遠の野球少年」「異次元のヒーロー」とか、いろいろ言うが!

『昨シーズン11冠達成「スケールが違うので、なにか新しい賞が必要」と!』

『先日は、MLB史上初の快挙!1試合8打点の翌日に、自己最多13奪三振!』

 

先ずは興味ある、ベーブvs イチロー vs 大谷各選手の体躯・走力比較です

         身長   体重   走力(ホーム~一塁:90ft=27.431m)

 ベーブ     188㎝  99㎏      4.6秒

 イチロー    180㎝  80㎏      3.8秒

 大谷      193㎝  97㎏      3.8秒

 

冒頭から余談で恐縮です。 大谷選手のスプリント能力は次のように、米国では紹介されています。 計時機器と映像機器の発達はいろいろな解析・比較ができます。

 

大谷のトップスピードは400M世界記録保持者とほぼ同じ

まずは走りの本職である陸上競技と比較してみる。 陸上選手と野球選手のトップスピードを比べれば、陸上選手が圧勝するのは明らかなので、ここでは大谷のトップスピードと陸上選手の平均スピードを比較する。

人類最速の男、ウサイン・ボルトが持つ100メートルの世界記録は9秒58。時速だと平均37.6キロで、トップスピードは時速44.7キロに達する。 ボルトの異次元の走りは、大谷の比較対象として相応しくないが、400メートル走の世界記録保持者になると、大谷といい勝負になる。

400メートルで世界記録を持つ、ウェイド・バンニーキルクのタイムは43秒03なので、平均時速33.5キロ。 バンニーキルクは100メートルを9秒94で走るが、本職の400メートルを走ったときの平均スピードは、大谷がホームから一塁へ走るときに出すトップスピードとほぼ同じ。』

 

大谷選手は打撃の瞬間、口を膨らませて呼吸を止める

(イチロー選手は口を膨らませて呼吸を吐く派)

ウエブ情報から引用

 

大谷選手は投球の瞬間は、口を膨らませずに呼吸を止める

ウエブ情報から引用

このシリーズのブログをご覧いただいているご年配の婦人方から『今までは、日本のプロ野球も米国のプロ野球の実況放送は見たことがありませんでしたが、最近はMLBを観るようになりました』と、ご連絡を頂きました。 とにかく想像を絶する幅ひろいファン層です。

 

昨年ホームラン19号の大谷翔平を米メディアがついに宇宙人扱い 「太陽系の外から来た」「人間なのかどうかも定かじゃない」と報じました。 プロ野球の好きな米国人ですが、今までこんな表現は見たことも聞いたこともありません。

東洋的なベイビーフェイスで、体は米国人アスリートよりも大きいです。

 

最近のたとえようですが『「体の作りが違う」「ビーストだ!」大谷翔平、劇的逆転2ランにファン絶賛の嵐』などがありますが、IT時代で、数値分析・解析がいかようにもできますが、過去の『ビースト』をリストしまた。 比較は皆様におまかせします。 

 

ビースト (beast) は、野獣を意味する英語

格闘家、プロレスラー、その他の人物の異名として使われる『ザ・ビースト』、土俵の異なる大谷選手と、どうすれば比較できるか、今後の楽しみです。

  • 米国のプロレスラー・総合格闘家のダン・スバーン
  • 米国のキックボクサー・総合格闘家・プロレスラーのボブ・サップ
  • 米国のアメリカンフットボール選手のエディ・ジョージ
  • 英国の総合格闘家のマーク・エプスタイン
  • 日本のプロゲーマーの梅原大吾
  • 南アフリカのラグビー代表のプロップ・テンダイ・ムタワリラ
  • 日本のサッカー選手の林大地

『既に、地球人を、超えて宇宙人!』もあまり使われないほどで、表現・例えが尽き、そして難しく、最近ではサイボーグを越えてロボットなども使われてきました。 『視聴率稼ぎ』とは言いませんが報道の皆さんも、『大谷選手のマナー』を見習って、もう少し落ち着て、応援・報道をしていただきたいと思います。

(記事投稿日:2022/06/24、#546)

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『大女優 原節子さんの凄さ 3(激動する時代に波乱万丈の人生)』『「東京物語」を見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と』

2022-06-23 20:05:12 | 映画

『大女優 原節子さんの凄さ 3(激動する時代に波乱万丈の人生)』

『「東京物語」を見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と』

写真家・秋山庄太郎氏は同い年のこの女優を撮りたくて、近代映画社へ入社)』 

表題のエピソード『聖母のような』と、もうひとつのエピソードがあります。 美人で、淑やかで、優雅なこの方、原節子さんは,知れば知るほどファンでシンパになります。

酒のこと、『ビール党』と自称していた自分が、大女優原節子さんが、『上品な酒豪でビール党』であったことを知り、原節子さんに、一層の親近感を覚えました。 

原節子さんには豪快なエピソードもあります。 写真家・秋山庄太郎さんは、鎌倉の原邸で、お酒とお馳走を頂いた後、泊まることになったそうですが『ふすま一枚隣に原節子さんがお休みと思うと、一晩中眠れませんでした』と言ったエピソードを読んだこともありました。   

原節子さんの波乱万丈の人生をリストしてみました。

  • 神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ヶ谷区月見台)で、末っ子として生まれた。
  • 私立横浜高等女学校(現:横浜学園高等学校)に進むが、家庭の事情もあり、姉光代の夫、映画監督の熊谷久虎の勧めで映画界に入り、女学校を二年で中退した。 一年の時には、後に小説家となる中島敦から直接の授業を受けている。
  • 1935/04/15、日活に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』で映画デビュー。 同作で演じた役名「節子」は芸名の「節子」に。
  • 1936年、撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。

ウキペデイア情報から引用

映画の一シーン、大和邸でゲルダ(右、ルート・エヴェラー)に箸の使い方を教える光子(左、原節子)

  • 1937/03/12、下関から海路大連に、そこからシベリア鉄道で0326にベルリンに到着。 先に帰国していたファンクが一行を出迎え、アドルフ・ヒトラーはじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたと伝えた。 宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された。(ちなみにこの『新しき土』における日独合作映画の製作は、11/25に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国スタッフの往来をカモフラージュするためのものだったという。

ウキペデイア情報から引用

16歳の原節子が主演した日独合作映画。 日独防共協定がらみのキナ臭い匂いのする映画ですが、今となっては大変興味深い作品です。 伊丹万作が監督した版も存在しますが、こちらはドイツ版プレスブックなのでファンク監督版。 西洋人が見るエキゾチックな日本を感じるプレスブックですが、ここではとにかく原節子です。 表紙のポートレートは額装して飾りたいくらい初々しくて素晴らしいです。

 

  • 1946/09、資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。
  • 1947/06、フリーの女優として独立。 フリー第1作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』のヒットで、戦後のトップ女優としての地位を確立した
  • 1949年、『青い山脈』では女性教師役を演じ、同名主題歌とともに映画も大ヒットした。 その後、小津監督の6作品と、山本薩夫監督の7作品に出演を果たすことになる。 小津監督は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。
  • 1963/12/12、小津監督が没し、その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。
  • 晩年は鎌倉市で親戚と暮らしているとされ、元気であったということだけが伝えられた。

引退に関しては

「老いていく姿を人前に晒したくないと考えていた」

「撮影用のライトで白内障を患い、健康上の理由で引退を決意した」

「戦前の国策映画に出演していた自分の責任を強く感じており、けじめを つけるべきだと考えていた」といった様々な憶測が飛び交ったが、

「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたとも言われ。

当時、その理由としてと

「畳の上での芝居がしづらくなったから」と語っていたそうです。

  • 201509/05、肺炎のため神奈川県内の病院で95歳の生涯を閉じた。 訃報は、没後約2か月半が経過した11/25にマスメディアで伝えられた。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いたのが原節子さんでした。 やはり稀代の大女優です。  

(記事投稿日:2022/06/23、♯545)

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『山は美しい 10(六甲山が、こんなに魅力的な山だったとは)』 『昔、お世話になった会社の保養所があり、ドライブで行った丘ぐらいに!』

2022-06-21 23:09:00 | 山・山岳

『山は美しい 10(六甲山が、こんなに魅力的な山だったとは

『昔、お世話になった会社の保養所があり、ドライブで行った丘ぐらいに!』

 

先日BSP『日本百低山』で紹介されていました。 今頃、気が付いても『遅きに失した感』いっぱいです。 昔山男は上辺の情報だけで魅力的な山を見逃していました。

 

六甲山は、神戸芦屋市街の北側を東西30㎞以上にわたって続く山地の総称。 ロック・ガーデンや魚屋道、青谷道、そして全行程56㎞におよぶ全山縦走など、広大な山域に魅力溢れる登山コースを多く持つ。 またアクセスが良く、何本ものケーブルカーやロープウェイを利用した楽な登山も可能。 ただし道迷いや急峻な岩場での滑落事故も多発しており、近郊の山ゆえの油断は禁物です。 冬には予想外の積雪もあるので注意したい。六甲最高峰(国土地理院の地形図では六甲山)の標高931mが最高地点。 南端は大阪湾近くまで迫り、阪神地域にとってのランドマークでもある。

 

甲山は比較的低山で親しみやすい山のため、しっかりした装備をしないで気軽に登ってしまう日帰りの登山初心者が多くいるようです。 そのため遭難救助を行う回数も年間100回程度あるそうです。 装備をしっかりしていけば防げた遭難もあるとのことなので、低山だからと装備をそろえず登山することはやめましょう。 また山の中は虫も多くいるため、素肌を出していると刺される危険も増します。 なるべく長袖や長ズボンなど、肌の露出を少なくするような服装をこころがけるといいでしょう。 登山の服装は重ね着で体温を調整するのが基本なので、季節に合わせてウェアを用意しましょう。

 

神戸市の市街地の西から北にかけて位置する深い山の六甲山

ウエブ情報から引用

 

神戸市の市街地から最寄りに西北に岩登りの聖地の六甲山

ウエブ情報から引用

六甲といえば、日本で最初に「ロック・クライミング」が行なわれた場所。 日本のアルピニズム発祥の地といわれる由緒正しい山域です。 堡塁岩、烏帽子岩、北山公園など古くからクライマーに親しまれてきた岩場はいまでも賑わう関西を代表するクライミングエリアです。

 

明治時代後期、この地で岩登りに興じる英国人にならって、日本人のなかにもロック・クライミングを始める人々が出てきました。 なかでも、朝日新聞神戸支局長を務めていた登山家・藤木久三氏は、大正13年に日本で初めて岩登りを主目的とした山岳会「ロック・クライミング・クラブ(RCC)」をこの地に創設。 点在する岩場をクライミングのトレーニング場とし、一帯を「ロック・ガーデン」と命名されました。 藤木氏は日本初のクライミング技術書『岩登り術』の著者としても知られています。 この場所でクライミングを練習し、日本アルプスの岩壁はもとよりヨーロッパアルプスなど海外の山にも出かけました。 六甲の岩場は、いまでいえばクライミングジムのような存在だったのかもしれません。 

 

岩をやった自分には、六甲山は、関東の『岩登りの聖地』の『三ツ峠』以上の場所です。 『三ツ峠』は「三ツ峠山」とも呼ばれていて、最高峰の 開運山(1,785m)、御巣鷹山(1,775m)、木無山(1,732m)の3つの山の総称になっています。 どちらも、もう一度登ってみたい山です。

(記事投稿日2022/06/21、#544)

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『世界の城郭・宮殿 16(海洋国家ヴェネチアの防御のための城塞都市)』 『イタリア、クロアチア、モンテネグロの3国にまたがる6つの城塞都市)』

2022-06-21 10:23:12 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭・宮殿 16(海洋国家ヴェネチアの防御のための城塞都市)』

『イタリア、クロアチア、モンテネグロの3国にまたがる6つの城塞都市)』

 

ヴェネチアよりは、『ベニス』が親しみやすい

ヴェネチアよりは、『ベニス』と呼ぶ方が、より親近感がある傘寿爺です。 

ベニスは、北イタリアのアドリア海の最も奥まった所にある潟の上に形成された水の都で、ベニスは英語であり、イタリア語ではベネチア(ヴェネツィア)と呼ばれます。 堤防のように延びるリド島によってアドリア海と隔てられ、その途中3ヵ所にある自然の水門から出入りする海水によって絶えず浄化されています。 あの映画『ベニスに死す』で有名な「リド島」もあります。

 

江戸時代には『水の都』と言われた江戸・東京も、関東大震災と東京大空襲の後、水路が廃棄物処理場として使われ、下町の市街地の濠はかなり埋め尽くされて、元の姿を完全に残しているのは皇居の内濠です。

 

東ローマ帝国の自治領として誕生した『ヴェネツィア・ベニス』の波乱万丈(元祖は波瀾万丈)の、今まで続いた長い歴史と、『江戸・東京』の歴史との比較という楽しみな課題ができました。 そのために貴重なウエブ情報を抜粋引用しました。 どちらも『湾の奥の葦の原の大湿地帯』を干拓・造成したものです。

 

10世紀ころのヴェネツィア共和国の領域

ウエブ情報から引用

 

15世紀から16世紀にかけてのヴェネツィア共和国の領域

 

ウエブ情報から引用

ヴェネツィアは、

現在はイタリアのヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都

ウエブ情報から引用

ヴェネツィアは、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。 ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。 ベネチアと表記されることもある。

中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名を持つ。 英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。 

 

ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯。 古代、ヴェネツィア周辺の地域にはウェネティ人が住んでいた。 伝説では、アクイレイア、パドバヴァなどの北イタリアの都市の住民が、5世紀のフン族やランゴバルド人のイタリア侵攻からのこの湿地帯へと避難してくることから、452年にヴェネツィアの歴史が始まる。 

 

このとき避難してきた先が現在のトルチェッロ島である。 足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることができず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。 干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒らしたり干拓したものを極刑にするという法を作る、普段は船が通れる道を杭で示していたが非常時にはその杭を抜くなど、干潟を守り、かつ有効に利用していた。

 

彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域はもともと東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属したが、実質的には自治権を持っていた。 697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めた。 これがヴェネツィア共和国の始まりである。 

 

つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治が続いたが、外敵の脅威に対して結束し、836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退した。 10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結んだが、これはイスラム教徒と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるものである。

 

9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣したため、トルチェッロにいた人々はさらなる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。 810年に東ローマ帝国・フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権も持つこととなり貿易都市への布石が置かれた。

 

このころヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にあった。 ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレキサンドリアにあり、ムスリムに奪われる恐れがあることを聞きつけ、838年、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。 このときよりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。

 

10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。 さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。 ジェノヴァ共和国などの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。

 

11世紀、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得た。

 

工廠正門ポルタ・マグナ

1104に工廠(アルセナーレ)が創られ軍船の修理を始めた。 1320年には軍船や大型商船の造船所となり、最大1万6,000人が従事し、船のロープ・帆桁などを個別に生産し、一貫作業で1日1隻の造船能力があった。 1370年代以降は銃器も生産され、16世紀には世界における造船・兵器製造の一大拠点となった。 1797年のナポレオン支配終了まで繁栄が続いた。 1593年にはガリレオ・ガリレイが技術顧問に就いている。

 

1204、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下に置かれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力を誇るようになった。

 

東地中海から黒海にかけての海域が、コンスタンティンいわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、同じ13世紀に、ヴェネツィアのmsる子・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。

 

富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭が行われるようになった。13  14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いが続いた。 1378-81年の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めた。

そのあとも侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力を持つ都市国家となった。

 

15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げた。 1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となった。そのうえ、大砲の登場により干潟に住むメリットがなくなってしまった。 

 

その後の諸外国の侵略や、ほかのイタリア都市の攻撃で、ヴェネツィアの力は弱まった。 また、1497-98年にポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見したため、貿易の対象がアジアに移り、アメリカ大陸が発見され、時は大航海時代へ遷るとともに貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下、衰退は加速された。

 

これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処した。 1508年、ヴェネツィアに対抗して神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインは同盟を結び、ヴェネツィア領土内にある財産を没収した。1516年、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権を取り戻したが、海洋国家としての地位は回復できなかった。

 

1797、ヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルトに侵略され、ついに崩壊した。 カンポ・フォルミオ条約により、ナポレオンはその領土をオースト

りアに引き渡した。 オーストリアは1805年にフランスが支配するイタリア王国に譲ったが、1814年には奪回。 オーストリアは港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重視したため、ヴェネツィア経済は衰退した。 

 

その翌年、ヴェネツィアとロンパルディアはロンバルド=ヴェネト王国を作った。ヴェネツィア人はイタリアの政治家ダニエール・マニンの指導のもとで、1848年にオーストリア支配に対する反乱(1848年革命)を起こし、ヴェネト共和国を建国した。しかし、その翌年にオーストリアの攻撃により降伏した。 1866年に普墺戦争が始まると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入された。

1987、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録された。

 

海洋国家ヴェネチアの防御のための城塞都市

ヴェネチアの海の交易路を守る海上要塞都市

今回の世界遺産は、海洋国家ヴェネチアが防御のために築いた6つの城塞都市で、これらかイタリア、クロアチア、モンテネグロの3国にまたがっている。

ヴェネチアからアドリア海を南に300キロ進んだ先、狭い海峡の奥にある町がシベニク(クロアチア)である。ここは海の交易ルートの拠点で狭い海峡の入口には聖ニコラス要塞が設置され、砲台が行き交う船に睨みを効かせていた。 16世紀頃からヴェネチアが各地に築いた防御都市の一つである。オスマン帝国の進出に備えて、クロアチアの海岸の複雑な地形を防御に利用したのである。

防御が容易な半島に築かれた町がザダル(クロアチア)。 町を丸ごと城塞で囲んで防御したヴェネチア最大最強の城塞都市である。 城壁は高さ10メートルもある分厚い壁で、町への入口は数カ所のみである。 3万人がこの都市で暮らしていて、内部には多くの交易商人が住んでいた。 ヴェネチアから派遣された行政官がここを支配し、アドリア海全体の交易を管轄し、税関では外国の商人はここで莫大な税を徴収された。

さらにモンテネグロにあるコトルは15世紀にヴェネチアが領土にした都市である。背後には垂直な断崖があり、ここには何重もの壁がある。また海側には強大な城壁を備えた

 

陸の防御のための都市も

しかしヴェネチアの敵はオスマン帝国だけではなかった。ハプスブルク帝国やフランスなどの陸上勢力も力をつけていた。そのためにヴェネチアは陸も守る必要に迫られる。ヴェネチアの北方の大平原にある星型の城壁に囲まれた都市がパルマノーヴァである。ヴェネチアの穀倉地帯であるこの地を守るために築かれた。星型の出っ張りは9つあり、入口は3箇所のみ。これらの出っ張りは砲台を備えた陣地であり、死角をなくして入口に迫る敵などを砲撃できるようになっている。これはこの時代の最先端の構造であったという(五稜郭なんかもこれを参考にしたと思われるが)。

さらにアルプス越えの交易路を守るための都市も築かれた。ベルガモはヴェネチアの西の玄関口だった。岩山の上に築かれた町は全長5キロの城壁で守られている。アルプスを越えた商人はこの街を通ってヴェネチアに運ばれた。さらにアルプスを望む湖岸に築かれたのがペスキエーラ・デル・ガルダ。ここは湖が川に流れ出す場所で水運の要であった。湖上の都市はまさに湖のヴェネチアであった。

これらの都市は16~17世紀の要塞の姿を伝えるものとして世界遺産となった。

東ローマ帝国の自治領の時代から今まで、外交と防御で、国体を維持してきた『ヴェネツィアベニス』は凄いです。

(記事投稿日:2022/06/21、#543)

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