知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『古代の日本は・日本人は凄い 4(沖ノ島は日本の歴史の原点!)』『なぜ、この島に国宝8万点’(1件)もあったのか、それも20%の発掘で』

2025-02-28 15:17:45 | 歴史・日本

『古代の日本は・日本人は凄い 4(沖ノ島は日本の歴史の原点)』

『なぜ、この島に国宝8万点(1件)もあったのか、それも20%の発掘で』

『この島の宝物は、「どこから来たのか」、「だれが集めたの か」、「だれが維持保管できたかが分かれば、日本の古代史の、さらなる解明できるはず!』 


沖ノ島は、福岡県宗像市に属し、大和朝廷と朝鮮半島を結んだ海の道「海北道中」の中間地点に位置し、九州本土から約60㎞、韓国の釜山までも145㎞。

神の宿る島・沖ノ島は、「海の正倉院」との異名を持ちます。 奈良の正倉院には約9,000点もの宝物がありますが、沖ノ島からはなんと約10万点とも言われる宝物が出土しているからです。 そして、そのうちの8万点(1件)が国宝に指定されています。

日本書紀には『天照大神と素戔嗚尊との契約によって、田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神の宗像三女神嗚尊との契約によって、田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神の宗像三女神がお生まれになりました。 天照大神は三女神に対して神勅を下し、市杵島姫神は九州本土の辺津宮、湍津姫神は大島の中津宮、田心姫神は沖ノ島の沖津宮に降り立ち、祀られるようになりました。』とあります。

沖ノ島の国宝は、日本の国宝の数1,125件のうちの1件で、点数は、8万点余になります。 国宝の数は「件数」であって、「点数」ではない。 福岡県・宗像大社所有の宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品約8万点、京都・醍醐寺の醍醐寺文書聖教69,393点、京都府立京都学・暦彩館が保管する東寺百合文書24,067通のように員数の多いものも件数としては「1件」と数えています。 国宝の括り方・纏め方も興味は尽きません。

 

 沖ノ島から出土した国宝「金製指輪」

ウエブ情報から引用

 

沖ノ島から出土した国宝「三角縁神獣鏡」

ウエブ情報から引用

 

昔、日本史より世界史をとったとはいえ、半世紀以上も、日本の歴史に興味を持ってきましたが、縄文時代から弥生時代にかけては、ほとんど勉強してなかったように反省しています。 日本史の中世から近代より縄文時代~弥生時代を勉強すれば、もっと日本を理解できそうな感じがします。

 

沖ノ島

沖ノ島(おきのしま)は、福岡県宗像市に属する、九州本土から約60キロメートル離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロメートルの島。福岡県最北端の地である 。宗像大社の神領(御神体島)で、沖津宮(おきつぐう)が鎮座する。 2017年(平成29年)、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、ユネスコにより世界文化遺産に登録された。

 

その手掛かりを沖ノ島と海人族に;

ウエブ情報から引用

 

宗像大社の線形配置も凄い

ウエブ情報から引用

 

宗像三女神とアマテラス・スサノヲ

「宗像三女神と海人族」ウエブ情報からです。

日本書紀によれば、宗像大社に祀られている神々は、アマテラスの子・3人の娘でした。 この三人の女神は、宗像市にある大社と大島、沖ノ島にそれぞれ祀られ、総称して「宗像大社」があります。この3つは一直線上にならび、玄関灘の海の道として守られています。
宗像市田島「辺津宮」には、三女「市杵嶋姫-いつきひめ」が祀られ、身を清め海にでるという意味を持ち、神に仕えるといわれています。 大島「中津宮」の次女「端津姫-たぎつひめ」は、激しい潮の流れをつかさどりといわれており、
そして沖ノ島「沖津宮」の長女「田心姫-たごリ姫」は、 海上の深い霧をつかさどるといわれています。

 ウエブ情報から引用

 

この沖ノ島の「社」は、実は「沖津宮」でした。「沖津宮」におおいかぶさるように巨大な岩があり、社を取り囲むようにたくさんの巨大な岩が並んでいます。
中には高さ20メートルを超えるものもあるといいます。 全ての巨石が神の霊がよりつくものとされ、神が宿るものとして信仰の対象になってきました。

 

原生林の中にぽっかりと広場があり、そこにはたくさんの古代の土器が無造作に散らばっています。 欠けていない土器も見つかります。 まさに「枯葉をどければ国宝が出てくる」といわれる由縁です。

沖ノ島の発掘は、まだ島全体の20%にも満たないそうです。にもかかわらず8万点の国宝。どれほどの国宝がいまだに眠っているのでしょうか。 沖ノ島では鉄製品の出土がかなりを占めるようです。 鉄の剱に描かれた模様や農耕具から推測して、かなり高度の技術を持っていたようです。

そして沖ノ島は、「宗像海人族」と深い関係があったようです。 「海人族」とは北九州に王国を築いた一大勢力でした。 紀元前1世紀、中国の後漢から金印が贈られているくらいで、まさに先進国だったのです。 「海人族」は海の道案内人のみならず、優れた製鉄という文化も持っていました。

「海人族」は「奴国」滅亡のあと、奈良県吉野で鉱山にたずさわり2万5000人もの人々が暮らす、黄金の都を築いたといわれています。 彼らは莫大な黄金の富と金属加工技術を持つ強力な集団でした。 日本古代最大の内乱・壬申の乱で天武天皇は、この「海人族」の力を借りて勝利したようです。 この沖ノ島は、「海人族」の信仰の対象であり、「海人族」の聖地でもあったようです。 

「神の島」 と呼ばれ、島全体が宗像大社沖津宮の御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも一般人は毎年5月27日の現地大祭以外は上陸を基本的に認められずその数も200人程度に制限されてきた 。 世界遺産登録に際して、島への接近・上陸対策の強化をユネスコから要請されたため、2018年からは研究者らを除く一般人の上陸は全面禁止とすることを宗像大社が2017年7月に決定した 。 島は時の大和朝廷と朝鮮半島を結んだ海の道「海北道中」の中間地点に位置し、韓国の釜山までも145キロメートルしかない。 元寇後の1297年に編まれた『夫木和歌抄』に「うつ波に 鼓の音をうち添えて 唐人よせぬ 沖ノ島守り」と詠まれており、沖ノ島が神国思想の拠り所として最前線の防波堤の役割を担っていたことがうかがえる。 1885年に作成された『皇国総海岸図』には「御号島」と記載される。 無人島であるが、現在は宗像大社の神職が10日交代で派遣され、常時滞在している。

エジプト考古学者の吉村作治が提唱し、九州全土、特に宗教地方を中心に沖ノ島を世界遺産にする運動が行われ、2009年に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(現在の名称は「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」)の構成遺産の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載され、2016年受理された。

 

これからは、日本人のルーツを少しでも理解できるように、縄文から弥生時代を勉強します。

      (記事投稿日:2021/02/13、最終更新日:2021/03/12、#286

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『日本の城郭 2.2(江戸城は当時、世界レベルの巨大城郭)』 『城郭・宮殿の巨大化競争の終焉、大筒・大砲の性能向上と絶対王政の限界』

2025-02-26 20:39:58 | 寺院・仏閣・神社・お社

『日本の城郭 2.2(江戸城は当時、世界レベルの巨大城郭)』    
『城郭・宮殿の巨大化競争の終焉、大筒・大砲の性能向上と絶対王政の限界』

昔の備忘録に補足です。
江戸城俯瞰                   
 
ウエブ情報から引用

二十数年前に、新聞に発表された当時『一番人気のある日本の城郭「安土城」』でした。 信長の信奉者である傘寿プラス爺ですが、やはりおっとり刀、ならぬ、おっとりカメラで見学して、天守閣ならぬ、巨大な天主閣(地上6階地下1階)を初めて作り、そこに住んだ稀有の戦国武将織田信長です。 高校時代に松江城を見て、城好きなったことを納得・感激したのを覚えています。 表題に戻ります。
 
江戸城の情報、ウエブで、今朝、見つけましたのでその抜粋で補足しました。

『日本の城の最高峰「江戸城」が地味に見えてしまう5つの理由』

  • 皇居のイメージが強い
第一の理由は、皇居のイメージが強いことにある。徳川将軍家の本拠であった江戸城は、明治維新の際に進駐してきた「官軍」によって占領され、明治天皇が遷幸してきて皇居(宮城)となり、現在に至っている。

  • 天守がないことを挙げざるをえない。
もともと江戸城の本丸には日本最大の天守が建っていたのだが、明暦の大火(明暦3年・1657)で消失したのちは再建されなかった。

  • 巨大すぎる城
城域が圧倒的に広大なので、通りいっぺんに見て歩いただけでは、全体像を把握しきれない。おまけに、皇居の敷地として豊かな自然が保たれているために、遠目には森のように見えてしまう。

  • 丸の内・大手町側の石垣が低い
占地と縄張から評価するなら、江戸城の本来の防禦正面は千鳥ヶ淵〜半蔵門方面となるのだが、半蔵門が皇居専用の出入り口となっていて一般の立入ができないため、この方向から江戸城を訪れる人は少ない。

  • 現存建物の大半が重要文化財等の指定を受けていない
江戸城には、櫓や城門、番所など、意外なほど多くの城郭建築が残っている。それらは、本来なら重文となっていて然るべき貴重な建物なのだが、大半は指定を受けていない。なぜなら、皇居の敷地内にあるものは、皇室の財産として宮内庁の管轄に属しているからだ。

中世の終りから近世始めに築城された世界の巨大な、城郭・宮殿の大きさ(最大時)の比較をすると、この時代の大筒・大砲の射程距離4-6kmと命中精度を考慮してか、城郭・宮殿はどんどん大きくなった。 

巨大化は、大筒・大砲攻撃に備えると、同時に権威の象徴でもあった。 武田流軍学の、『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』とあり、城を強固にしても、人の心が離れてしまえば世の中を収めることができないと。 これとは、真逆で、どこかの集団(イスラムの一部)がやる『人間の盾・ヒューマンシールド』には絶句です。

城郭・宮殿の大きさランキング(現存
❶明時代の南京城(面積:248㎢)
1位:フランス・ベルサイユ宮殿、約107平方km、周囲約42km
2位:中国・紫禁城、内城・外城合計、約63平方km、周囲約33km
❷元朝時代の大都城(面積:90㎢)
❸唐朝時代の長安城(面積:87㎢)
3位:日本・江戸城、約25平方km、 周囲約18km
4位:トルコ・コンスタンティン―プル 約15平方km、周囲約21km
5位:日本・小田原城 約4平方km、周囲約9km
6位:日本・大坂城(豊臣) 約4平方km、周囲約8km
   本来の外堀の、外側の惣濠(川・空堀含む)は、❶北の大川・寝屋川、➋東の猫間川、❸南の空堀、❹西の東横堀川で、周囲約8km 

番外:中国・万里の長城 総延長8,852km
番外:アムステルダムの防塞線(面積:490㎢)
番外:英国・ヨーク城 約0.2平方km、周囲約4.5km

この時代には、城によっては、城下町を取り込んで、城も大きくなった。
しかし豊臣の大坂城は、秀吉の『秀頼・兄弟のない一人っ子の世継ぎを守る不落の城郭』の期待も及ばず、大坂冬の陣では、大砲を天守閣に、一発撃ち込まれただけで、淀殿のみならず籠城派の精神的ダメージが 大きく和議となった。  それを反面教師に徳川江戸城は完成当時は世界トップクラスの規模であった。 大坂城は周囲約8kmのほぼ正方形、江戸城は周囲約18kmのほぼ円形で、砲撃に備えた縄張り。

大坂城の弱点は、水堀のない南側だったが、期待された強固な守りの北側は自然の地形を利用した大川の守り。 攻める徳川方は約2百門の各種の大筒・

大砲の大半をこの大川の対岸(天守閣まで距離約2km)に並べた、これが豊臣側の脅威となった。

大坂冬の陣に備え、下記の最新式大砲まで装備していた。
  • カルバリン砲 家康が大坂の役に備えてイギリスから4門購入。鋼鉄製。射程6300m。
  • セーカー砲 大坂の役に備えてイギリスから1門購入。カルバリン砲以上の射程距離

これで徳川の大川対岸の大筒・大砲陣地から天守を砲撃したが、家康の作戦通り、威嚇攻撃であった。 家康は『攻城』を『野戦』の延長と考え殲滅作戦は、とらなかったと思われる。 秀吉は『野戦』よりは、いつも『攻城』であった。 例外は、家康との『小牧長久手の戦い』くらいが野戦であったが、それは引き分けより負けに近かった。 その城攻め得意の秀吉の大坂城の規模は、何故か、
徳川江戸城と比較、面積で1/6、周囲で1/3と小さかった。 大坂に築くには小田原城規模で精いっぱいだった。

繰り返しになりますが、大阪冬の陣(1614年)での大筒・大砲の効果は、破壊力より精神的ダメージを与えることに有効で、徳川方に有利な和議に持ち込まれたのは歴史の事実(この時代、大筒・大砲で城は落とせなかった)。  

似ても似つかない大型化・小型化の余談です。 本川達雄氏の『ゾウの時間ネズミの時間』の引用です。 大陸では大きな動物はどんどん大きくなる。 

フランスのベルサイユ宮殿と、英国のヨーク城の比較での極端な差は、納得するも、 何故か、島国日本の江戸城の巨大さは特別で、他の島国にはこのような巨大な城郭・宮殿は、歴史上存在せず、不思議なことです。 

更なる不思議は、ウェブ情報からです。

日本列島には、3万とも4万ともいわれる城跡が存在する。 それらの大半は14世紀から17世紀までの間に築かれたものである。 わずか300年間にこれだけの城が構えられたことは世界史的にみても日本だけであり、日本の中
世は、まさに大築城時代であった。                                             

ヨーロッパの城郭は、山や丘の天辺が多いと思ってましたが、丘を中央に周囲の街を取り囲んだ城壁で城郭ができているケースが多い。 ヒトの考えることは、いつも同じところに着地点です。 再びウェブ情報です。

ヨーロッパには、周囲を城壁で囲まれた都市が多い。例えば、ブランデンブルク(Brandenburg) やフライブルク(Freiburg)、フランスのストラスブール(Strasbourg, ドイツ語ではシュトラス ブルク(Straßburg))のように、-burg という語尾を持つ都市の名を聞いたことがある方は多いだろう。 ドイツ語のブルク(Burg)は中世の城砦から転じて、都市や町という意味であり、ドイツ 語のビュルガー(Bürger)やフランス語のブルジョワ(bourgois)は、そこに住む都市民のことを指す。  英語に目を転じれば、古英語の burgess は、自治都市の市民という意味である。

日本の群雄割拠の戦国時代は畿内五ヶ国の覇者を狙うだけであったが、その後の築城も含め城跡は3-4万、あの広い中国でも『戦国七雄』だが、『都市、イコール、城市』で、あるので城跡・城壁の街を含め十数万か。 ヨーロッパの中世にも城跡が多く存在しやはり数万以上、それでも日本の城跡数は多いです。 
(記事投稿日:2017/05/26、最終更新:2025/02/26)
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『日本古代史に「不思議と謎」は多い、出雲王朝⇒邪馬台国⇒大和朝廷⇒朝廷(京都)と神宮(伊勢)、特に邪馬台国』

2025-02-21 17:24:32 | 寺院・仏閣・神社・お社

『日本古代史に「不思議と謎」は多い、出雲王朝⇒邪馬台国⇒大和朝廷⇒朝廷(京都)と神宮(伊勢)、特に邪馬台国』

 ウエブ情報から引用
邪馬台国はどこか、九州説と畿内説の検証『発見のカギは、伊都国と出雲』

『出雲王朝(BC18年頃~)⇒邪馬台国(3世紀~)⇒大和朝廷⇒(3世紀後半~)朝廷・京都(5世紀後半~)と神宮・伊勢(江戸時代~)、その関連と流れは理解が難しく、「不思議と謎」が多い』

『この歴史の流れの中に「空白の150年(空白の4世紀)」の、存在があったので、日本の古代史はロマン(邪馬台国と大和朝廷は同時期?)が沢山で、調べ甲斐あり!』

「古事記」も「日本書紀」も神話世界と人代(天皇の時代)世界を併記、当然だが、神話から人代(天皇の時代)はつながった!』

『日本語を話す人々の中に、漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めたのは6世紀から7世紀になってから、「古事記」と「日本書紀」の編纂は、其々、8世紀の712年、720年に編纂!』

古事記は、
奈良時代の『日本の神話を含む歴史書』、現存する日本最古の書物である。 その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。 構成は、上下中の三部構成で、『上巻には日本を造った神様の話』が、『中下巻には初代・神武天皇から第33代・推古天皇までの事業記録』が書かれています。

日本書紀は、
奈良時代に成立した日本の歴史書。 『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、第40代天武天皇の命で681年に編纂が始まり、およそ40年後の養老4年(720年)に完成し、第44代元正天皇に奏上されたと伝わる。 神代の天地開闢から国造り、天皇へと続く神話、そして第41代持統天皇までの事績と歴史が記された歴史書。 日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。 神典の一つに挙げられる。 日本書紀は神話と人代(天皇の時代)に大きく分かれ、漢文・編年体で記述されています。 全30巻。 系図1巻が付属したが失われた。

天照大御神の伊勢鎮座に関わった皇女・倭姫命、
三種の神器の一つである「八咫鏡(やたのかがみ) 日本神話 の 三種の神器の一つ、年代不詳。 『古事記』では、八尺鏡(やたかがみ)と記されている [1]。 伊勢神宮 にある 御神体 と、 皇居 にある伊勢神宮の御神体をかたどって作った」を携え、伊勢の地へ辿り着いた倭姫命(やまとひめのみこと、生没年不詳)という女性がいました。 倭姫命は第11代垂仁天皇の皇女です。

元々、八咫鏡は宮中に祀られていました。 しかし、先代の崇神天皇の頃、国内に疫病が流行ります。 これが鏡の祟りである、と考えられたのです。そのため八咫鏡は宮中を出て、他の場所に遷されるということがありました。
これで分かりました伊勢神宮の位置づけが!

最大の難問『文字なき時代とは言え、卑弥呼・邪馬台国の痕跡が全く日本史にないが中国にあるのはなぜ?』

次は『「卑弥呼・邪馬台国」、僅か約1800年前だが謎が深い、天皇制との関連は! 書物に「日本国」の名前が登場するのは、650年頃』

日本の歴史の記録には登場しない「ヤマタイコク」。 古事記や日本書紀はあえて記憶から抹消したのか、そもそも記憶がなかったのか。

出雲といえば、出雲大社。 そしてそこに祀られる大国主(オオクニヌシ)。
 毎年10月にはすべての神様が集まり、会議を開くという。 まさに『神々のふるさと』と言うべき出雲。 『神々のふるさと』といわれ、将又(はたまた)『国譲り』の説話といえば、
神々のふるさと

出雲大社の祭神である大国主大神(オオクニヌシ)が、天照大神から日本の国土を譲り受けた際に、その下知を受けるために全国の神様が集まるというもの。 この伝承は、「古事記」や「日本書紀」などの古典にも記されており、神在祭の意味や由来については、古くから「杵築大社」と呼ばれていた出雲大社が、平安時代に「出雲大社」と改称されたことに関係しています。

出雲王朝の存在を示す神話
古事記の神話では、その1/3の記述が出雲の話。 キーワードを挙げるとすると、スサノオ、ヤマタノオロチ、黄泉の国、因幡の白兎、大国主、国譲りなど、誰もが一度は耳にする話ばかりです。

スサノオ
『古事記』では、タケハヤスサノオ(速須佐之男命、須佐能男命、須佐之男命)、『日本書紀』では, スサノオ(須佐能素戔嗚尊、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊、武素戔嗚尊)、『出雲国風土記』では、カムスサノオ(神須佐能袁命、須佐能乎命)と表記。 日本神話における神の一柱であり、海神や嵐神、英雄神、冥界神などの多彩な性格を帯びています。  神話において異なる性格を見せるのも特徴で、悪神のように振る舞ったかとおもえば英雄的な行いをしたと、善と悪の二面性を併せ持っている神でもあり、神話におけるトリックスターの一人でもあります。 兄弟、及び姉妹として姉に太陽神アマテラス、兄に月神ツクヨミを持ちます。
トリックスター
神話や物語の中で神や自然界の秩序を破り、いたずら好きとして描かれる人物やその後ろいる天邪鬼のこと

ヤマタノオロチ
八岐大蛇は『日本書紀』での表記、『古事記』では八俣遠呂智と表記している。
ヤマタノオロチは、頭が八つ、尾が八つあり、谷を八つ渡るほどの巨大な体だったとされている。  表面にはコケや杉が生えており、腹は血で赤くただれており、目はほおずき(鬼灯・赤、オレンジ)のように輝き、おぞましい姿だったという。 この伝説は主に出雲地方(現在の島根県東部)に伝わる神話として知られており、『古事記』と『日本書紀』に記述されている。

ヤマタノオロチ、由来・説話は、幾つかあり、
  • 「洪水の化身」などと解釈されることがある。オロチは水神を、クシナダヒメは稲田を表すと見做した説(この説が最もらしい)。
  • 物理学者の寺田寅彦は溶岩流を連想させる(火山三瓶山・大山も遠い?)。
  • 梅原猛は『古事記』が「高志の八俣遠呂智、年毎に来て喫(く)ふなる」と記していることに着目。 この越の国からやって来た豪族が出雲の山々を支配し、海や川を支配し、そこに住む人々を苦しめていたのではなかろうか」として、越の国からやって来た侵略者こそ「高志の八俣遠呂智」ではないかとしている(納得、梅原猛氏の説、調査要)。

黄泉の国
黄古事記や日本書紀などの日本神話において、死者が行く世界のことを指します。  死後には3つの世界が存在する とされていました。 黄泉の国 地下にある「根の国」「底の国」を含めた冥界。  ちなみに 「隠り世」とは「常世」。 「現世(うつしよ)(げんせ)」に対(つい)する「永久」を意味する死後の世界。  黄泉を含む、あるいは同一視されます。

因幡の白兎
日本神話(古事記)に出てくるウサギ 、または、このウサギの出てくる物語の名。 「悪いことや良いことはした分だけ必ず自分にかえってくる」ということを、私たちに教訓として教えてくれています。  白兎は最初、ワニザメたちを利用するために嘘をついて因幡の国に渡ろうとします。 しかしその後、嘘がばれ、毛皮を剥がされるというとても痛い罰を受けてしまいます。 このことは悪いことをしたらその分自分にかえってくるということを意味しているのです。

大国主
『古事記』・『日本書紀』の異伝によると、須佐之男命の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。 父は天之冬衣神、母は刺国若比売。 また『日本書紀』正文によると素戔嗚尊の息子。 日本国を創った神とされている。

国譲り
大国主神が治めてきた豊葦原水穂国が天照大御神の御子に譲られる経緯を語り伝えるものです。 大国主神が移り住んだ宮殿は、出雲大社として平安時代の書物には、当時日本一大きい建物と記されています。  また、信濃国に移り国造りを行った建御名方神は、諏訪神社におまつりされ、全国各地でも「お諏訪さま」と呼ばれ広く親しまれています。
豊葦原水穂国
神意 によって稲が豊かに実り、栄える国の意

ここから先は、ウエブ情報ですが、随分参考になりましたので、抜粋・引用です。  長文の備忘録ですが、これをベースに調べていきたいと思っています。

戦後の歴史学は皇国史観に利用された神話を神経質すぎるくらいに排除してきたが、近年こうした神話を見直そうという気運もあり、考古学的な遺跡もいくつか発見されている。 奇しくも、2012年に「古事記撰上1300年」、2013年に出雲大社と伊勢神宮の遷宮が重なり(伊勢は20年の式年遷宮、出雲は70~80年の不定期)話題を集めたばかりだ。

980年台から1990年台にかけての遺跡調査で、出雲周辺から大量の銅剣・銅鐸が出土した。 (荒神谷遺跡、賀茂岩倉遺跡:荒神谷遺跡からは358本の銅剣、16本の銅矛、加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸)
特に荒神谷遺跡の銅剣(358本)はそれまでの日本全国の出土総数を上回るものであった。

また、出雲市大津町では弥生時代後期(2世紀末から3世紀)のものと思われる墳丘27基が確認されている。(西谷墳墓群)これは弥生時代に出雲を支配した王たちが存在したことを裏付けるといってもよいだろう。
つまり魏志倭人伝に登場する「ヤマタイコク」よりも少し前の時代から、卑弥呼が亡くなったとされる時代に『出雲にも有力な王国(もしくは有力な国)』があったことになる。

神話の流れと編纂者の意図
神話では、「天岩戸⇒スサノオのヤマタノオロチ退治⇒大国主の国造り⇒大国主の国譲り⇒天孫降臨⇒神武の東征」とすすむのだが、おおまかには追放されたスサノオ(アマテラスの弟)が出雲でヤマタノオロチ(越国のことか)を退治(三種の神器の剣を得る)して、その子孫である大国主が国造りをして、天孫に國を譲り、その天孫の孫の神武が東征(先祖は西から)をしてヤマトに入るというはなしである。

この話から見えてくる主張は、現在の政権(ヤマト王朝)は血縁の関係があった王権から平和的に政権を譲ってもらった(奪ったのではない)という事か。つまり前政権を否定する立場ではないということだろう

『アマテラス、ヤマタイコク、ヤマト王朝』が同一もしくは連続性のあるものだとすれば、出雲の神話からヤマト王朝への流れが、簡潔に説明ができる。 もちろん古事記などには『ヤマタイコク』『ヒミコ』は登場しないが、アマテラスや神功皇后のような「女王」を連想させるような女性が登場する。 ここに編纂者の何らかの意図(創作)が感じられなくもない。

広く信仰を集める大国主の神話と伝説
大国主(オオクニヌシ)といえば、出雲大社の祭神であり、現在では縁結びの神としても知られるが、もとは国造りの神、農業神として広く信仰を集めていたようだ。
 大国主は国を譲る際に、『富足る天の御巣の如き』大きな宮殿(出雲大社)を建てて祀って欲しいという条件をだしたとされる。 ちなみに、大国主を祀る主な神社は下記のようである。
出雲大社(島根県出雲市)
大前神社(栃木県真岡市)
大國魂神社(東京都府中市)
氷川神社(埼玉県さいたま市)須佐之男命、稲田姫命との三柱
大神神社(奈良県桜井市)
出雲大神宮(京都府亀岡市)
気多大社(石川県羽咋市)
気多本宮(石川県七尾市)
八桙神社(徳島県阿南市)
 など、

日本で最古の神社のひとつとされる大神神社(別称:三輪神社)の祭神は大物主神(おおものぬし)であり、これは大国主の和魂とされる。 (幸魂奇魂:さきみたまくしみたま)一部に大国主と一緒に国づくりをした協力者という説もあり。

古事記には崇神天皇の時代に、「崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れて、意富多多泥古(おおたたねこ)に私の御魂を祀らせれば、収まるであろう」という記述がある。

この天皇の御代に、役病多に起こりて、人民死にて盡きむとしき。 ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床に坐しし夜、大物主神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、『こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、國安らかに平らぎなむ。』とのりたまひき。

そこで、天皇は意富多多泥古(大物主の子か?)を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。
さらに続いて、古事記では垂仁天皇の時代にも出雲の祟が起きる。 垂仁天皇の子であるホムチワケは言葉を発することができない。 困り果てた天皇は、占い師に占ってもらう。そして、それが「出雲の大神のたたり」であることを知り、「大国主を祀って大御食を奉った」。 するうとホムチワケは話すことができるようになり、それを喜んだ天皇は「神の宮」(出雲大社か?)を修繕させた、とある。 日本書紀では斉明天皇の時代にも、出雲のたたりがあったので、「神の宮」を修繕させたという記述がある。

現在に広く伝わる大国主の信仰は、菅原道真が天満宮に祀られるように「おそれ」によるものなのかもしれない。道真のように「無実の罪」であったり、非業の死を遂げた者が「たたる」と考えれていたからで、大国主の場合も平和的な「国譲り」ではなかった可能性もある。 48メートルの巨大神殿が出雲にそびえ建つ!!

口遊(くちずさみ)という平安時代中期に編纂された児童向けの書に「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という言葉があり、これは日本で最も高い建物の順番であり、1位が出雲大社、2位が奈良の東大寺大仏殿、3位が京の平安京大極殿だという。奈良大仏殿が46メートルあるので、それより高かったというのである。

出雲社の口伝では、上古(飛鳥時代)では32丈(96m)、中古(平安時代)では16丈(48m)あったと伝えられている。ちなみに平安時代のものと思われる平面図も残っている。

しかし、学者の間では「これは歌の類で、子供が口ずさみやすい、語呂がよい言葉の組み合わせだ」などと片付けられていたが、2000年に地下室を造成していた出雲大社で、径1mの柱を3本束ねた巨大な柱跡が発見された。 まさに大国主が国譲りの条件とした大宮殿そのものではないか。 都から遠い出雲に、大宮殿を長期間、維持しつづける負担を考えると、その「おそれ」は相当なものであると想像される。

それが「おそれ」でないとすれば、すでに日本全国に浸透していた大国主信仰による権威を逆に利用しようとしたのかもしれない。(あの大国主でさえヤマト王権に従ったのだと)

今も生きる出雲王朝の記憶
これらの考古学的な成果や神話の内容から「出雲こそ邪馬台国だ」とする研究者もでてきた。 仮に「出雲王朝=ヤマタイコク」だとすると、古い事記や日本書紀は「神代」のはなしだとしながらも、ヤマト朝廷の前政権の存在を暗に明示していたといえる。(出雲邪馬台国説をとる場合、女王の存在が記紀にはないのが弱点である)畿内にあった(ヤマタイコクとヤマト政権が連続する)と仮定すると、神話のあらすじとほぼ合致する。

いずれにしろ、当時の人々にとって出雲にはヤマト政権が無視、抹消できないほどの「大いなる記憶」が残っていたにちがいない。 その「大いなる記憶」の大部分は失われてしまったようだが、今日にも確かに残っている。 古代、ヤマト政権は地方の豪族などを「国造」としたが、出雲の国造には天孫の一族が派遣され、「国造(こくぞう)」となり、この家系は現代まで続き、出雲大社の宮司として「大国主」を祀り、出雲国造家として存在するのである。

朝廷(京)の都は、延暦 13年(794年)10月22日、 第50代・桓武天皇 により、 奈良県 の 平城京 から 京都府 の 長岡京 、そして 平安京 へと 都 を移されたのが始まりである。

ウエブ情報『なぜ卑弥呼は「記紀」に登場しないのか?』を抜粋・引用・備忘録にして、今後の調査の参考にさせて頂きます。
邪馬台国の女王…卑弥呼といえば、歴史が苦手な人でも知っている日本古代史上最大の知名度を誇る女性です。
しかし卑弥呼ほど、謎に包まれ、考古学者や歴史学者を悩ませている人物も少ないでしょう。
なぜなら、卑弥呼とは日本の正史である『日本書紀』や『古事記』には登場せず、中国の歴史書にしか登場しないからでしょう。

卑弥呼の記載がある中国の歴史書といえば、『魏志倭人伝』です。

『魏志倭人伝』には、「邪馬台国、ここが女王の都とするところ」とし、「その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼という。」と記載がされています。

そして卑弥呼の特徴として、「彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。」としています。
一般的に多くの人が、”卑弥呼は邪馬台国の女王”として君臨したと思っている方が多いのではないでしょうか? しかし実は、『魏志倭人伝』には”邪馬台国の女王”とは明確に書かれているわけではありません。 『魏志倭人伝』に書かれていることは、邪馬台国は”女王の都とするところ”であり、邪馬台国は倭の女王の卑弥呼が居住し統治する都という位置づけなのです。

ほかにも239年に「親魏倭王」として倭王に任命されて以来、卑弥呼は「倭の女王」であり必ずしも「邪馬台国女王」とは書かれていないのです。 倭というのが、日本の昔の呼び名であることは周知のことでしょう。 では卑弥呼が倭国の王ならば、日本の正史である『日本書紀』や『古事記』に卑弥呼が登場してもおかしくないと思いますが、なぜ卑弥呼は『記紀』に登場しないのでしょうか?

ヒミコが卑弥呼ではなかった
まず考えられるのが『魏志倭人伝』に記される”卑弥呼”が、人物名ではないのではないか?ということです。 ヒミコを人物名ではなく、日の神に仕える女性である”日の巫女”であると考える説です。 たしかに卑弥呼は「鬼道に事え」とあるようにシャーマンとしての宗教的な性格を持ち合わせていました。
”卑弥呼”というのはあくまでも中国の歴史書に記された女王の名前であり、当時の日本に漢字が普及していなかったことを考えると倭国側の使者である難升米が「我々の国の王は日の巫女である」と言ったことに対して中国:魏の側が卑しいという漢字を当てて卑弥呼とし、役職名であった”日の巫女”が人物名のように伝わった、と考えることができます。

「この国を治めているのは、日を祀る巫女職の女性であって、卑弥呼という名前の特定の人物はいない」のであれば、『記紀』に卑弥呼という名前を持つ人物が登場しないことも理解できます。

しかしこの考え方には、ひとつ大きな矛盾が存在します。
それは次に登場する、壹与の存在です。
 『魏志倭人伝』には、「卑弥呼が死んだ。倭では女王の死後男王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合い、このとき千余人が殺されたという。 そこでまた卑弥呼の宗女である年十三の壹与を立てて王とし、国中がようやく治まった。」と記しています。

壹与は女性であり個人名です。
 もしヒミコが役職名であり”日の巫女”とするならば、「壹与があとを継ぎ卑弥呼になった」という記載になるはずですが、そうなっていません。 中国:魏側が”日の巫女”を”ヒミコ”と個人名として勘違いし、「ヒミコという人物のあとを継いだのは壹与です。」と認識した可能性もあります。

しかしそうなると、なぜ壹与という個人名はしっかりと伝わっているにもかかわらず、ヒミコだけはちゃんと伝わらなかったのか?という疑問も生まれます。
それに『記紀』は卑弥呼だけでなく、壹与や邪馬台国すら登場させていません。
 これはなぜなのでしょうか? 

邪馬台国はヤマト政権と関係ない勢力だった
日本の正史である『日本書紀』や『古事記』が卑弥呼を隠す理由…それは、卑弥呼は天皇家とは全く関係のない人物だからではないでしょうか?
そもそも歴史書というものは必ずしも史実を客観的に記述するものではありません。 むしろ、「天皇」の記である古事記にしても、「天皇」が支配する国「日本」の正史である日本書紀も、その時代の為政者すなわち天皇の統治権威の正当性と、それによる統治の意思を内外に表明するため編纂されたものです。

ですから、記紀編纂者たちは、ヤマト王権の統治に関係あることは記すけど、それ以外のことは自らの正史に記す必要はないのです。
なので『記紀』に卑弥呼や邪馬台国が登場しないということは、邪馬台国がのちのヤマト政権につながっていないことを示唆しているのです。

箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない
邪馬台国が畿内にあったと主張する人たちは、奈良県の纏向遺跡にある箸墓古墳が卑弥呼の墓と比定しています。 箸墓古墳とは、日本初の巨大前方後円墳とされているお墓です。全長約280mを誇ります。 ヤマト王権は、前方後円墳という古墳祭祀を継承した王権であり、前方後円墳はヤマト王権のレガリアです。 ヤマト王権が前方後円墳をレガリアとする王権で、その最初となる箸墓古墳の被葬者はヤマト王権の初代王かそれに準ずる人物であると考えた方が自然です。

現在宮内庁は、箸墓古墳の被葬者は倭迹迹日百襲姫命としており、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼であると考える説もあります。 倭迹迹日百襲姫命は巫女的要素がある女性でありその特徴は卑弥呼と一致していますが、卑弥呼は未婚なのに対し倭迹迹日百襲姫命は大物主と結婚しています。

一応、箸墓古墳の築造時期は3世紀中葉~後葉にかけてとされているので、卑弥呼が死んだとされる248年頃ということとはある程度一致しますが、卑弥呼の墓は直径百余歩(約144m)と言われていますが、全長約280mの箸墓古墳では大きすぎます。

もし卑弥呼が箸墓古墳の被葬者ならば、ヤマト王権を成立させた重要人物と考えられ、そのような人物をヤマト王権の正統性を主張するための書物である『記紀』が記さないはずはありません。

倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼なのかどうかは、まだ研究の必要があります。
しかし倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳と記録されている卑弥呼の墓の特徴が合わないことや、未婚の卑弥呼に対して倭迹迹日百襲姫命が結婚していることなど2人の特徴も合わない点が多くあります。

そのため日本初の巨大前方後円墳である箸墓古墳は卑弥呼の墓であり、前方後円墳に祀られているから卑弥呼もヤマト王権の重要人物だ!と考えるのは、時期尚早だと思われます。

色んな女性に擬されるヒミコ
『記紀』に卑弥呼が登場しない!という話をしていると、ただ単純に記紀編纂者は『魏志倭人伝』を知らなかっただけではないか?と思う人も多いかもしれません。 しかし記紀の編纂者は、『魏志倭人伝』の存在も知っていましたし、『魏志倭人伝』を読んでいたと思われます。

したがって、もちろん3世紀の日本に、邪馬台国が存在し卑弥呼と記載される女王がいたことは知っていたでしょう。 なぜ記紀の編纂者が『魏志倭人伝』を読み、邪馬台国や卑弥呼がいたことを知っていたか?というと、神功皇后や推古天皇など女性の登場人物に卑弥呼を擬していると思われる記載があるからです。
神功皇后とは、第14代仲哀天皇の皇后であり三韓征伐をした女性として有名です。

卑弥呼も神功皇后も、神憑りして神の意志を伝えることができたという巫女的な性格があったことは一致しています。

さらに『日本書紀』にみられる神功紀には、『魏志』倭人伝が引用されており、 ”魏の皇帝である明帝の景初3年(239)6月に、倭(日本)の女王が大夫である難斗米(難升米)らを朝鮮半島の帯方郡へ遣わし、さらに、皇帝への会見を求めてきたとある。そこで、帯方郡の太守であった劉夏は、難斗米ら使節一行を魏の都へ送った”と記載されています。 景初3年(239)という年は、卑弥呼が魏へ使節を派遣した年として有名です。

このように『日本書紀』には、『魏志倭人伝』を引用し卑弥呼を神功皇后に重ね合わせるような記載が多いことから、江戸時代まで卑弥呼と神功皇后を同一視する考えが定着していました。

しかし神功皇后がしたことは三韓征伐という朝鮮半島への侵攻ですが、卑弥呼が朝鮮半島を攻めた記録はありません。 神功皇后がいつの時代の人物で実在したのか?ということは置いておいて、わざわざ卑弥呼が魏へ使節を派遣した年に合わせるように神功皇后の記載をしていることから考えると『記紀』の編纂者が魏志倭人伝を知らなかったというのは考えにくいでしょう。

天照大神=卑弥呼もオカシイ
卑弥呼の正体について、天照大神と同一とみる人も多いでしょう。
天照大神といえば、天皇家の皇祖神です。 そのため『記紀』に描かれる天照大神は、主役であり、高天原の主宰神であり、世界を照明する力を持っています。 この天照大神の子孫だから、天皇家は日本を統治する正統性があるのです。 その天照大神と卑弥呼が同一と考えられる理由は、卑弥呼が”日の巫女”であると考え、太陽の女神である天照大神と同じ属性を持っているからです。

それに天照大神の有名なエピローグである、天照大神がお隠れになられて世の中が真っ暗になったという天岩戸隠れ神話は、卑弥呼が没した前後の、247年3月24日に、中国で日食のあったことが、『三国志』と『晋書(しんしょ)』に記されていることから、卑弥呼が没したことの神話的表現が天岩戸隠れ神話であるとも考えられています。

では天照大神が卑弥呼とするならば、なぜわざわざ神功皇后に擬する必要があるのでしょうか? 記紀は、天皇家中心のヤマト王権の正統性を示すための歴史書であり、その中で天照大神は皇祖神として位置づけられています。
 もし卑弥呼が天照大神と同一なら、わざわざほかの人物に擬するようなことはする必要はなく、”天照大神は卑弥呼と呼ばれていた”と書けばよかったのではないでしょうか?

なぜいろんな女性に擬したのか?
卑弥呼が『記紀』の中でその名前は登場はしないが、いろいろな記述の中に神功皇后や倭迹迹日百襲姫命や天照大神のように、卑弥呼的要素を持った人物として登場していることはわかりました。 ではなぜ、記紀編纂者はわざわざ卑弥呼に擬したような女性を登場させたのでしょうか?

ここは筆者の考察になりますが、倭王や倭国王を引き継ぎ、ヤマト王権は卑弥呼がいたころから倭国を統治しているようにアピールしたかったのではないか? 『日本書紀』というのは、海外主に中国に「倭国であった日本は大王家(のちの天皇家)が昔から治めています」ということをアピールしています。

したがって、魏によって倭王と認められた卑弥呼も、我らヤマト王権の王も同じ倭王なので、3世紀末から天皇家は倭王の家柄であり、卑弥呼の倭王も引き継いでいる家系。ということをアピールしたかったのではないでしょうか?
卑弥呼が天皇の系譜にいる風にみせたかったのです。

しかし事実は魏志倭人伝に書かれる卑弥呼は、ヤマト王権とは別の勢力体の王だったのでそのまま卑弥呼がヤマト王権の王として組み込んでしまうと矛盾が生じてしまいます。 その矛盾とは例えば、3世紀後半にヤマト王権に卑弥呼にあたる女性の王が存在しないといけませんが、3世紀末の天皇の系譜に女王は存在していなかったこと、卑弥呼の墓の記載とヤマト王権のレガリアである前方後円墳とでは合わないことなどです。
レガリア(ラテン語: regalia、英語: regalia、リゲイリア)
王権などを象徴し、それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品である。


記紀編纂者たちは、卑弥呼とは直接関係はないが3世紀末に卑弥呼が倭王であったことだけは利用したかったのではないでしょうか? ヤマト王権が3世紀末から倭王であったかのようにするため、ヤマト王権に関係のある女性に卑弥呼っぽさを与えて、中国の歴史書でもある『魏志倭人伝』にも登場する倭王卑弥呼のころから我々ヤマト王権が倭王でしたよ。とアピールしたのが『日本書紀』がもつひとつの一面なのかもしれません。

ヤマト王権が”倭王”や”倭国王”にこだわる理由は、倭の五王からもわかります。 倭の五王も卑弥呼と同じように中国に朝貢し、”倭国王”として認められましたが、自らも「倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武」として名乗っています。 日本国内の統治のためにも、中国側に倭国を統べるのは、我々大王家だ!とアピールし認めてもらうことは大切で「倭国王」や「倭王」という称号を受け継ぐことは重要なのです。

日本が独立国であることをアピールすることを編纂の目的のひとつとされた『日本書紀』において、卑弥呼や倭の五王が中国に朝貢していた事実は都合が悪い事実です。 したがって『日本書紀』は、倭の五王がどの天皇であるかは記載していません。

 
そして真実の天皇家の系譜との大きな矛盾や日本の独立性に問題がない程度にするため、朝貢した事実のある卑弥呼を無理やりにでも組み込むことはせず、卑弥呼エッセンスをいろんな女性に被せるだけにしたのかもしれません。
まとめ:”日の巫女”はたくさんいた。

記紀が卑弥呼を隠す理由は卑弥呼がヤマト王権と無関係の人物だったからという考察をさせていただきました。 古くからその土地を治めているというのはそれだけで権威ですし、統治の正統性をアピールする材料になります。
そうなるとより古い倭王の称号を持つ卑弥呼は、違う勢力の王だったとしても上手く天皇の系譜に埋め込みたいと記紀の編纂者は考えたのかもしれません。
私自身は、卑弥呼が”日の巫女”という役職名であったという考え方には賛成です。

そして古代日本には力のある”日の巫女”が各地に存在したのでしょう。
 その中で魏志倭人伝の卑弥呼を特定するには、やはり邪馬台国の場所を確定する必要があるので、邪馬台国が見つからない限り魏志倭人伝に登場する卑弥呼が誰なのか?も特定できないでしょう

やはり、『日本古代史に「不思議と謎」は多い、出雲王朝⇒邪馬台国⇒大和朝廷⇒朝廷(京都)と神宮(伊勢)、特に邪馬台国』、傘寿+3にも興味は尽きません!
(記事投稿日:2025/02/21、#989)
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『地図で学ぶ世界史「再入門」伊藤敏著で分かる地図と歴史』

2025-02-18 09:41:40 | 寺院・仏閣・神社・お社

『地図で学ぶ世界史「再入門」伊藤敏著で分かる地図と歴史』

『分かり易い「文明の発達」と地形との関係、日本と中国でのみ使われた
  「世界四大文明」の発達した“超合理的な理由”に納得も!』

地図で学ぶ 世界史「再入門」

 ウエブ情報から引用

先ずは、著者伊藤敏(いとう・びん)のプロフィールから、
988年、東京都に生まれる。筑波大学卒、同大学院にて修士号を取得し、
博士後期課程単位取得退学。高校非常勤講師や塾講師を経て、2019年より
代々木ゼミナール講師として首都圏や北海道などで予備校講師として活動。
世界史の「理解」を信条に、多くの受験生なかでも早慶合格者の厚い支持
を受ける。正確無比な地図の描写と、「世界史の理解」を信条とした解説に
定評がある。他の追随を許さないクオリティの地図や図解は最大の持ち味で
あり、受講生の「理解」を助ける最大のツールでもある。
授業では、言語、思想、宗教、軍事など様々な分野にわたる知識を、世界史を
楽しみながら学ぶことができる。


同氏の【大人の教養】メソポタミアで文明が発達した“超合理的な理由”「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」からの抜粋・引用、

人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。 地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。

政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。 地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。 著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。 黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。 近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

文明と都市はどう発展するのか?
世界史上で最古の文明が生じた地域の一つがオリエントと呼ばれる地域です。さて、ここでいきなりですが、「オリエント」とはどこだか説明できますか?

Orient(英)の語源はラテン語のoriorという「上がる、昇る」を意味する動詞にあり、すなわち「太陽の昇る地(=東方)」を指します。 これは大まかにインダス川以西の地域を指し、今日では「中東(中近東)」ないし「西アジア」と呼ばれる地域にあたります。

 ウエブ情報から引用

文明発達のメカニズムと合理性
さて、オリエント、すなわち中東といえば、砂漠の広がる乾燥した気候ですね。乾燥帯に属するこの地域は、年間の降水量が少ないのが特徴です。 このため水資源の豊かな地域に人口が自然と集中し、文明の形成が促されたのです。

オリエントには3本の大河があり、このうちの2本であるチグリス川とユーフラテス川は、「メソポタミア(「川に挟まれた地」の意)」を形成します。この、メソポタミア、シリア、パレスティナの一帯は「肥沃な三日月地帯」と総称されます。もう1本は「エジプト」のナイル川であり、上流のエチオピア高原で雨期に降る雨によりナイル川が増水し、氾濫を起こします。

このナイル川の氾濫は、上流の栄養に富んだ土を下流まで運ぶため、エジプトは古くから高い農業生産量を誇ります。

いずれの地域も、大河から水を引く運河など、治水による灌漑農業のための大規模な土木工事を必要とし、集村化や強力な指導者が出現します。さらに、メソポタミアとエジプトはいずれもほぼ決まった時期に氾濫が生じるため、占星術による暦の計測が発達します。

これにより、「占星術→天のメッセージを読み取る→神の意思を直接に授かる」という理屈から、占星術に長けた集団が「神官団」を形成するようになります。その頂点に立ったのが「王」だったのです。このように、神の権威により王権を正当化した政治を「神権政治」と呼びます。

人口の集中とともに近隣の部族(血縁関係を中心とした氏族が複数集まり、共通の文化的背景を有する集団)が集まることで「ムラ」を形成し、さらにそのムラが集合することで「都市」が形成されます。この都市こそ、世界史上最初の国家であり、これら最小単位の国家は「都市国家」と呼ばれます。
(『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の一部抜粋・編集を行ったものです)

『その四大文明誕生は大河川(水位変動が大きく、河床勾配が小さい)の近くで、必然的に発達』しかし、『ブラジルのアマゾン川とその流域は、その条件には合うが例外で、大文明は発祥せず』

文明        河川     長さ   水源海抜   河床勾配 
エジプト     ナイル    6853㎞   1134ⅿ    0.02%
メソポタミア   チグリス 2850㎞   1150ⅿ    0.04% 
         ユーフラテス 2800㎞   3520m    0.13%
インダス     インダス   3200㎞   4500ⅿ    0.14%
中国       黄河     5464㎞   4800ⅿ    0.09%
          長江     6300㎞   5042ⅿ    0.08%
ブラジル     アマゾン川  6516㎞   5597ⅿ    0.09%

『例外は古代アンデス文明カラル遺跡が、大河川なしでも、定住農耕・文字ありで、新大陸に古代アンデス文明カラル遺跡が存在』

ペルー カラル遺跡(写真-1)VSエジプト 大ピラミッド(写真-2)
紀元前: 3000~1800年頃       紀元前: 3000~1000年頃
総面積: 66ヘクタール        総面積: 180ヘクタール
推定人口:数万~十数万人       推定人口:数十万~百万余人

カラル遺跡(写真-1)

 ウエブ情報から引用

比較するために、大ピラミッド(写真-2)

 ウエブ情報から引用

カラル遺跡(パノラマ)
 
ウエブ情報から引用

カラル遺跡(中央部分)
 
ウエブ情報から引用

中南米の古代文明は大河川の畔に発祥せず
とくに、南米大陸、ペルー を中心とする 太平洋 沿岸地帯およびペルーからボリビア へつながるアンデス中央高地 に存在した古代アンデス文明。 メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明といったいわゆる世界四大文明などと異なり文字は持たない(初期の『キープ(結縄)』が数字と文字の機能を持っていた)。 今まで親しんできた、アステカ文明・マヤ文明・インカ文明(特に、古代アンデス文明)をもう少し調べてみたいと再認識しました。
(記事投稿日:2025/02/18、#988)
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『イスラム教徒vsキリスト教徒の攻防が最も激しかったスペインの中でアルハンブラ宮殿は奇跡的に遺った!』

2025-02-13 10:59:45 | 寺院・仏閣・神社・お社

『イスラム教徒vsキリスト教徒の攻防が最も激しかったスペインの中でアルハンブラ宮殿は奇跡的に遺った!』

『この「巨大な・華麗な宮殿」で「堅固な城塞」がレコンキスタのキリスト教徒の為政下で遺った、やはり奇跡!』

『現在まで無傷で遺ったアルハンブラ宮殿の奇跡は、イスラム教徒側のハンマド12世と、キリスト教徒側イサベル女王の英明な二人の知性による、無血開城の実現で!』

アルハンブラ宮殿・要塞
半島状の台地の先端に築城(江戸城・大阪城と同じ立地(縄張り)条件
 
ウエブ情報から引用

崖上の堅固な城壁

 ウエブ情報から引用

アルハンブラ宮殿内部

 ウエブ情報から引用

グラナダ王国最後の王ムハンマド12世は、イサベル女王の軍に、涙をためながら無血開城して去っていったと伝えられています。  宮殿を見たイサベル女王は、あまりの美しさに感動し、建物の保存を決意。 その美しさゆえ破壊されずに、奇跡的に今日に伝えられているアルハンブラ宮殿。 イスラム建築の最高峰といわれ、ユネスコ世界遺産にも登録されています。 アルハンブラ宮殿の意味は「赤い城」。

イスラム教の美術は、偶像崇拝はないので、絵画的ではなく幾何学的。 アルハンブラ宮殿は、外部は質素・シンプル・直線的、内部は質素だが比較的カラフル。 イスラムの幾何学模様とは、線で描いた幾何学模様を繰り返し均等に配した、イスラムの世界で見られる3大装飾(幾何学模様、カリグラフィー、植物模様)の一つ。 5から12角形から構成されるものが多く、単純なものから複雑なものまでパターンは無限で、モザイクタイル、絨毯や木彫細工など多くのイスラム美術で見られる。

キリスト教徒は、モスクは変えたが、宮殿は変えなかったので、アルハンブラ宮殿は変えなかった。 スペインのアンダルシア州グラナダ県グラナダ市南東の丘(サビーカの丘)の上に位置する城塞・宮殿である

宮殿と呼ばれているが城塞の性質も備えており、その中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えていた。 現代に残る大部分は、イベリア半島(アル=アンダルス)最後のイスラム王朝・ナスル朝の時代の建築とされ、初代ムハンマド1世が建築に着手し、その後のムスリム政権下で増築された。 スルタン(王)の居所であるとともに、数千人が居住する城塞都市でもあった

夏場非常に暑いと言われるグラナダの中でもとても涼しい場所に位置し、ウマの背のような形をした緑多い丘に立地する。 建築の材料には、煉瓦、木材、練土などのもろいものが多く、彫刻を施した石材などは最低限しか使用されていない。アルハンブラ宮殿の中心は、いくつかの建造物に囲まれた中庭(パティオ)におかれ、他のイスラム建築の例に倣っている。

キリスト教徒が、よく残したアルハンブラ宮殿・要塞の今後の調査のために、ウエブ情報を抜粋・引用で備忘録にしました。
歴史
アルハンブラは構造的には一つの城塞都市であるが、当初から全体の形が計画されていたのではない。 異なる時代に建てられた様々な建築物の複合体であり、時代により、建築様式や形状などが異なっている。 その前半はムーア人王朝の栄枯盛衰と共にあり、9世紀末イベリア半島南部を版図としていた後ウマイヤ朝末期の、アルカサーバと呼ばれる砦が原形であるといわれている。 これは、アラブ人が農民の反乱軍からの防御壁として築いたものである。

イスラム教徒がイベリア半島に進出する前、8世紀初頭まで、この地は西ゴート王国の支配下にあった。 711年、ウマイヤ朝の北アフリカ総督であるムーサー・イブン・ヌサイルが武将ターリクに命じ、トレドまでを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラム圏となった。 この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝であるが、このときの都はまだコルドバであり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた。 現在、アルハンブラの最も西の部分である。

11世紀前半、1031年の後ウマイヤ朝滅亡後にキリスト教徒の国土回復運動であるレコンキスタが本格化し、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世が1085年にトレドを降伏させ、後にフェルナンド3世が1236年にコルドバ、1246年にセビリアを陥れた。 このレコンキスタは、イスラム圏にとってはキリスト教徒による再征服活動であり、イスラム圏に残されたのは、グラナダを中心とするアンダルシア南部地方のみとなった。

アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、このレコンキスタが進展した時期であり、グラナダを首都としたナスル朝(1238年 - 1492年)の時代に入ってからである。 メディナ出身のデアル・アフマド家の血を引くムハンマド1世、およびその息子のムハンマド2世が60年も歳月をかけ、水道を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、宮殿(14世紀に取り壊され、現在は残っていない)を造った。

その後も歳月と共に建物や塔が建築されていったが、大きな変貌を遂げるのは、ナスル朝の黄金時代を築いたユースフ1世とその息子のムハンマド5世の時代である。

ユースフ1世時代には、城廊では、マチューカの塔、コマレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られた。14世紀の学者イブン・ファドルッラー・(アル=)ウマリー、(シハーブッディーン・(アル=)ウマリー,とも)の歴史書によると、スルタンは月曜と木曜の朝にサビーカの丘にある法廷で人々と共に座し、コーランのうちの10章や預言者ムハンマドの言行録(ハディース)の一部を朗読。 宰相(ワズィール)が人民から話の聞き取りなどを行ったと伝えている。 この集まりにはスルタンの親族らも参加していたという。

ムハンマド5世の時代には、城廊では、ぶどう酒の門(城廊のなかでは唯一アラベスク模様の装飾がある)、宮殿ではライオンの中庭を中心とする建物が造られた。ライオンの中庭は、長さ28メートル、幅16メートルで、庭を囲む4つの建物には124本の大理石円柱が立ち並んでいる。 中庭の東側にある諸王の間には、10人のアラブ人貴族を描いた絵画がある。 これは、初代のムハンマド1世から十代のアブー・サイードまでのナスル朝スルタンであるという説と、重臣が法廷を開いている場面であるという説があり、後者の説に基づき、「裁きの広間」とも呼ばれている。

ムハンマド5世没後、ナスル朝はおよそ100年間存続するが、新たな建造物はほとんど建てられなかった。

1492年1月2日、カトリックのレコンキスタによってグラナダが陥落するとアルハンブラ宮殿にも一部手が加わった。グラナダがキリスト教徒の手に渡った直後に、カルロス5世がこの地を避暑地として選び、カルロス5世宮殿を建設。当時イタリア留学であったペドロ・マチューカが、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるという設計をし(現在も未完成)、スペインにおける純イタリア様式の成功傑作と称されている。

スペインは、この地を1718年まで城代に管理を任せていたが、カルロス1世(カール5世)の時代に入ると、この宮殿を自らの帝国の支配の中心地にする考えを持っていたと言われており、いくつかの改築が行われている。 カルロス5世の噴水や、カルロス5世の宮殿の建設が始まり(宮殿は完成することはなかった)、モスクは教会へ変えられ、礼拝堂や修道院が建築されている。

現在のスペイン国家は、公式にはレコンキスタの過程でイスラム的な文化を払拭(カトリック教会側から見れば浄化)して建てられたカトリック教国であるが、現代にアルハンブラ宮殿が残されていることからも、民衆がこの宮殿の文化的価値を肯定したとも推察され、この要塞の様式がパティオなどの建築文化に与えた影響も窺える。

また、スペインを訪れるイスラム教徒たちは、このアルハンブラを他の誰にも増して特別な気持ちで見るという。 彼等にとってアルハンブラはイスラム=スペイン(アル=アンダルス)の象徴であり、イスラムの支配と信仰が砕かれてもなおスペインに残った輝かしい遺産なのである。

アルハンブラ宮殿は、栄枯盛衰を経てもなお破壊されることなく残され、現在スペイン屈指の世界遺産となり世界中からの観光客が訪れる名所となっている。
『アルハンブラ宮殿は、イスラム王朝時代の宮殿だけあって、イスラム様式の建築様式が見られ、その後スペインによって管理されたためにそれぞれの文化が見られるという点で評価されています。』といわれていますが、幾何学模様の内装のイスラム芸術の傑作は、変えよう・直しようがなさそうです。
(記事投稿日:2025/02/13、#986)
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