『日本古代史に「不思議と謎」は多い、出雲王朝⇒邪馬台国⇒大和朝廷⇒朝廷(京都)と神宮(伊勢)、特に邪馬台国』
ウエブ情報から引用
邪馬台国はどこか、九州説と畿内説の検証『発見のカギは、伊都国と出雲』
『出雲王朝(BC18年頃~)⇒邪馬台国(3世紀~)⇒大和朝廷⇒(3世紀後半~)朝廷・京都(5世紀後半~)と神宮・伊勢(江戸時代~)、その関連と流れは理解が難しく、「不思議と謎」が多い』
『この歴史の流れの中に「空白の150年(空白の4世紀)」の、存在があったので、日本の古代史はロマン(邪馬台国と大和朝廷は同時期?)が沢山で、調べ甲斐あり!』
『「古事記」も「日本書紀」も神話世界と人代(天皇の時代)世界を併記、当然だが、神話から人代(天皇の時代)はつながった!』
『日本語を話す人々の中に、漢字を読み書きできる能力を持った人が増え始めたのは6世紀から7世紀になってから、「古事記」と「日本書紀」の編纂は、其々、8世紀の712年、720年に編纂!』
古事記は、
奈良時代の『日本の神話を含む歴史書』、現存する日本最古の書物である。 その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。 構成は、上下中の三部構成で、『上巻には日本を造った神様の話』が、『中下巻には初代・神武天皇から第33代・推古天皇までの事業記録』が書かれています。
日本書紀は、
奈良時代に成立した日本の歴史書。 『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、第40代天武天皇の命で681年に編纂が始まり、およそ40年後の養老4年(720年)に完成し、第44代元正天皇に奏上されたと伝わる。 神代の天地開闢から国造り、天皇へと続く神話、そして第41代持統天皇までの事績と歴史が記された歴史書。 日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。 神典の一つに挙げられる。 日本書紀は神話と人代(天皇の時代)に大きく分かれ、漢文・編年体で記述されています。 全30巻。 系図1巻が付属したが失われた。
天照大御神の伊勢鎮座に関わった皇女・倭姫命、
三種の神器の一つである「八咫鏡(やたのかがみ) 日本神話 の 三種の神器の一つ、年代不詳。 『古事記』では、八尺鏡(やたかがみ)と記されている [1]。 伊勢神宮 にある 御神体 と、 皇居 にある伊勢神宮の御神体をかたどって作った」を携え、伊勢の地へ辿り着いた倭姫命(やまとひめのみこと、生没年不詳)という女性がいました。 倭姫命は第11代垂仁天皇の皇女です。
元々、八咫鏡は宮中に祀られていました。 しかし、先代の崇神天皇の頃、国内に疫病が流行ります。 これが鏡の祟りである、と考えられたのです。そのため八咫鏡は宮中を出て、他の場所に遷されるということがありました。
これで分かりました伊勢神宮の位置づけが!
最大の難問『文字なき時代とは言え、卑弥呼・邪馬台国の痕跡が全く日本史にないが中国にあるのはなぜ?』
次は『「卑弥呼・邪馬台国」、僅か約1800年前だが謎が深い、天皇制との関連は! 書物に「日本国」の名前が登場するのは、650年頃』
日本の歴史の記録には登場しない「ヤマタイコク」。 古事記や日本書紀はあえて記憶から抹消したのか、そもそも記憶がなかったのか。
出雲といえば、出雲大社。 そしてそこに祀られる大国主(オオクニヌシ)。
毎年10月にはすべての神様が集まり、会議を開くという。 まさに『神々のふるさと』と言うべき出雲。 『神々のふるさと』といわれ、将又(はたまた)『国譲り』の説話といえば、神々のふるさと、
出雲大社の祭神である大国主大神(オオクニヌシ)が、天照大神から日本の国土を譲り受けた際に、その下知を受けるために全国の神様が集まるというもの。 この伝承は、「古事記」や「日本書紀」などの古典にも記されており、神在祭の意味や由来については、古くから「杵築大社」と呼ばれていた出雲大社が、平安時代に「出雲大社」と改称されたことに関係しています。
出雲王朝の存在を示す神話
古事記の神話では、その1/3の記述が出雲の話。 キーワードを挙げるとすると、スサノオ、ヤマタノオロチ、黄泉の国、因幡の白兎、大国主、国譲りなど、誰もが一度は耳にする話ばかりです。
スサノオ
『古事記』では、タケハヤスサノオ(速須佐之男命、須佐能男命、須佐之男命)、『日本書紀』では, スサノオ(須佐能素戔嗚尊、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊、武素戔嗚尊)、『出雲国風土記』では、カムスサノオ(神須佐能袁命、須佐能乎命)と表記。 日本神話における神の一柱であり、海神や嵐神、英雄神、冥界神などの多彩な性格を帯びています。 神話において異なる性格を見せるのも特徴で、悪神のように振る舞ったかとおもえば英雄的な行いをしたと、善と悪の二面性を併せ持っている神でもあり、神話におけるトリックスターの一人でもあります。 兄弟、及び姉妹として姉に太陽神アマテラス、兄に月神ツクヨミを持ちます。
トリックスター
神話や物語の中で神や自然界の秩序を破り、いたずら好きとして描かれる人物やその後ろいる天邪鬼のこと。
ヤマタノオロチ
八岐大蛇は『日本書紀』での表記、『古事記』では八俣遠呂智と表記している。
ヤマタノオロチは、頭が八つ、尾が八つあり、谷を八つ渡るほどの巨大な体だったとされている。 表面にはコケや杉が生えており、腹は血で赤くただれており、目はほおずき(鬼灯・赤、オレンジ)のように輝き、おぞましい姿だったという。 この伝説は主に出雲地方(現在の島根県東部)に伝わる神話として知られており、『古事記』と『日本書紀』に記述されている。
ヤマタノオロチ、由来・説話は、幾つかあり、
- 「洪水の化身」などと解釈されることがある。オロチは水神を、クシナダヒメは稲田を表すと見做した説(この説が最もらしい)。
- 物理学者の寺田寅彦は溶岩流を連想させる(火山三瓶山・大山も遠い?)。
- 梅原猛は『古事記』が「高志の八俣遠呂智、年毎に来て喫(く)ふなる」と記していることに着目。 この越の国からやって来た豪族が出雲の山々を支配し、海や川を支配し、そこに住む人々を苦しめていたのではなかろうか」として、越の国からやって来た侵略者こそ「高志の八俣遠呂智」ではないかとしている(納得、梅原猛氏の説、調査要)。
黄泉の国
黄古事記や日本書紀などの日本神話において、死者が行く世界のことを指します。 死後には3つの世界が存在する とされていました。 黄泉の国 地下にある「根の国」「底の国」を含めた冥界。 ちなみに 「隠り世」とは「常世」。 「現世(うつしよ)(げんせ)」に対(つい)する「永久」を意味する死後の世界。 黄泉を含む、あるいは同一視されます。
因幡の白兎
日本神話(古事記)に出てくるウサギ 、または、このウサギの出てくる物語の名。 「悪いことや良いことはした分だけ必ず自分にかえってくる」ということを、私たちに教訓として教えてくれています。 白兎は最初、ワニザメたちを利用するために嘘をついて因幡の国に渡ろうとします。 しかしその後、嘘がばれ、毛皮を剥がされるというとても痛い罰を受けてしまいます。 このことは悪いことをしたらその分自分にかえってくるということを意味しているのです。
大国主
『古事記』・『日本書紀』の異伝によると、須佐之男命の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。 父は天之冬衣神、母は刺国若比売。 また『日本書紀』正文によると素戔嗚尊の息子。 日本国を創った神とされている。
国譲り
大国主神が治めてきた豊葦原水穂国が天照大御神の御子に譲られる経緯を語り伝えるものです。 大国主神が移り住んだ宮殿は、出雲大社として平安時代の書物には、当時日本一大きい建物と記されています。 また、信濃国に移り国造りを行った建御名方神は、諏訪神社におまつりされ、全国各地でも「お諏訪さま」と呼ばれ広く親しまれています。
豊葦原水穂国
神意 によって稲が豊かに実り、栄える国の意
ここから先は、ウエブ情報ですが、随分参考になりましたので、抜粋・引用です。 長文の備忘録ですが、これをベースに調べていきたいと思っています。
戦後の歴史学は皇国史観に利用された神話を神経質すぎるくらいに排除してきたが、近年こうした神話を見直そうという気運もあり、考古学的な遺跡もいくつか発見されている。 奇しくも、2012年に「古事記撰上1300年」、2013年に出雲大社と伊勢神宮の遷宮が重なり(伊勢は20年の式年遷宮、出雲は70~80年の不定期)話題を集めたばかりだ。
980年台から1990年台にかけての遺跡調査で、出雲周辺から大量の銅剣・銅鐸が出土した。 (荒神谷遺跡、賀茂岩倉遺跡:荒神谷遺跡からは358本の銅剣、16本の銅矛、加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸)
特に荒神谷遺跡の銅剣(358本)はそれまでの日本全国の出土総数を上回るものであった。
また、出雲市大津町では弥生時代後期(2世紀末から3世紀)のものと思われる墳丘27基が確認されている。(西谷墳墓群)これは弥生時代に出雲を支配した王たちが存在したことを裏付けるといってもよいだろう。
つまり魏志倭人伝に登場する「ヤマタイコク」よりも少し前の時代から、卑弥呼が亡くなったとされる時代に『出雲にも有力な王国(もしくは有力な国)』があったことになる。
神話の流れと編纂者の意図
神話では、「天岩戸⇒スサノオのヤマタノオロチ退治⇒大国主の国造り⇒大国主の国譲り⇒天孫降臨⇒神武の東征」とすすむのだが、おおまかには追放されたスサノオ(アマテラスの弟)が出雲でヤマタノオロチ(越国のことか)を退治(三種の神器の剣を得る)して、その子孫である大国主が国造りをして、天孫に國を譲り、その天孫の孫の神武が東征(先祖は西から)をしてヤマトに入るというはなしである。
この話から見えてくる主張は、現在の政権(ヤマト王朝)は血縁の関係があった王権から平和的に政権を譲ってもらった(奪ったのではない)という事か。つまり前政権を否定する立場ではないということだろう。
『アマテラス、ヤマタイコク、ヤマト王朝』が同一もしくは連続性のあるものだとすれば、出雲の神話からヤマト王朝への流れが、簡潔に説明ができる。 もちろん古事記などには『ヤマタイコク』『ヒミコ』は登場しないが、アマテラスや神功皇后のような「女王」を連想させるような女性が登場する。 ここに編纂者の何らかの意図(創作)が感じられなくもない。
広く信仰を集める大国主の神話と伝説
大国主(オオクニヌシ)といえば、出雲大社の祭神であり、現在では縁結びの神としても知られるが、もとは国造りの神、農業神として広く信仰を集めていたようだ。
大国主は国を譲る際に、『富足る天の御巣の如き』大きな宮殿(出雲大社)を建てて祀って欲しいという条件をだしたとされる。 ちなみに、大国主を祀る主な神社は下記のようである。
出雲大社(島根県出雲市)
大前神社(栃木県真岡市)
大國魂神社(東京都府中市)
氷川神社(埼玉県さいたま市)須佐之男命、稲田姫命との三柱
大神神社(奈良県桜井市)
出雲大神宮(京都府亀岡市)
気多大社(石川県羽咋市)
気多本宮(石川県七尾市)
八桙神社(徳島県阿南市)
など、
日本で最古の神社のひとつとされる大神神社(別称:三輪神社)の祭神は大物主神(おおものぬし)であり、これは大国主の和魂とされる。 (幸魂奇魂:さきみたまくしみたま)一部に大国主と一緒に国づくりをした協力者という説もあり。
古事記には崇神天皇の時代に、「崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れて、意富多多泥古(おおたたねこ)に私の御魂を祀らせれば、収まるであろう」という記述がある。
この天皇の御代に、役病多に起こりて、人民死にて盡きむとしき。 ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床に坐しし夜、大物主神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、『こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、國安らかに平らぎなむ。』とのりたまひき。
そこで、天皇は意富多多泥古(大物主の子か?)を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。
さらに続いて、古事記では垂仁天皇の時代にも出雲の祟が起きる。 垂仁天皇の子であるホムチワケは言葉を発することができない。 困り果てた天皇は、占い師に占ってもらう。そして、それが「出雲の大神のたたり」であることを知り、「大国主を祀って大御食を奉った」。 するうとホムチワケは話すことができるようになり、それを喜んだ天皇は「神の宮」(出雲大社か?)を修繕させた、とある。 日本書紀では斉明天皇の時代にも、出雲のたたりがあったので、「神の宮」を修繕させたという記述がある。
現在に広く伝わる大国主の信仰は、菅原道真が天満宮に祀られるように「おそれ」によるものなのかもしれない。道真のように「無実の罪」であったり、非業の死を遂げた者が「たたる」と考えれていたからで、大国主の場合も平和的な「国譲り」ではなかった可能性もある。 48メートルの巨大神殿が出雲にそびえ建つ!!
口遊(くちずさみ)という平安時代中期に編纂された児童向けの書に「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という言葉があり、これは日本で最も高い建物の順番であり、1位が出雲大社、2位が奈良の東大寺大仏殿、3位が京の平安京大極殿だという。奈良大仏殿が46メートルあるので、それより高かったというのである。
出雲社の口伝では、上古(飛鳥時代)では32丈(96m)、中古(平安時代)では16丈(48m)あったと伝えられている。ちなみに平安時代のものと思われる平面図も残っている。
しかし、学者の間では「これは歌の類で、子供が口ずさみやすい、語呂がよい言葉の組み合わせだ」などと片付けられていたが、2000年に地下室を造成していた出雲大社で、径1mの柱を3本束ねた巨大な柱跡が発見された。 まさに大国主が国譲りの条件とした大宮殿そのものではないか。 都から遠い出雲に、大宮殿を長期間、維持しつづける負担を考えると、その「おそれ」は相当なものであると想像される。
それが「おそれ」でないとすれば、すでに日本全国に浸透していた大国主信仰による権威を逆に利用しようとしたのかもしれない。(あの大国主でさえヤマト王権に従ったのだと)
今も生きる出雲王朝の記憶
これらの考古学的な成果や神話の内容から「出雲こそ邪馬台国だ」とする研究者もでてきた。 仮に「出雲王朝=ヤマタイコク」だとすると、古い事記や日本書紀は「神代」のはなしだとしながらも、ヤマト朝廷の前政権の存在を暗に明示していたといえる。(出雲邪馬台国説をとる場合、女王の存在が記紀にはないのが弱点である)畿内にあった(ヤマタイコクとヤマト政権が連続する)と仮定すると、神話のあらすじとほぼ合致する。
いずれにしろ、当時の人々にとって出雲にはヤマト政権が無視、抹消できないほどの「大いなる記憶」が残っていたにちがいない。 その「大いなる記憶」の大部分は失われてしまったようだが、今日にも確かに残っている。 古代、ヤマト政権は地方の豪族などを「国造」としたが、出雲の国造には天孫の一族が派遣され、「国造(こくぞう)」となり、この家系は現代まで続き、出雲大社の宮司として「大国主」を祀り、出雲国造家として存在するのである。
朝廷(京)の都は、延暦 13年(794年)10月22日、 第50代・桓武天皇 により、 奈良県 の 平城京 から 京都府 の 長岡京 、そして 平安京 へと 都 を移されたのが始まりである。
ウエブ情報『なぜ卑弥呼は「記紀」に登場しないのか?』を抜粋・引用・備忘録にして、今後の調査の参考にさせて頂きます。
邪馬台国の女王…卑弥呼といえば、歴史が苦手な人でも知っている日本古代史上最大の知名度を誇る女性です。
しかし卑弥呼ほど、謎に包まれ、考古学者や歴史学者を悩ませている人物も少ないでしょう。
なぜなら、卑弥呼とは日本の正史である『日本書紀』や『古事記』には登場せず、中国の歴史書にしか登場しないからでしょう。
卑弥呼の記載がある中国の歴史書といえば、『魏志倭人伝』です。
『魏志倭人伝』には、「邪馬台国、ここが女王の都とするところ」とし、「その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼という。」と記載がされています。
そして卑弥呼の特徴として、「彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。」としています。
一般的に多くの人が、”卑弥呼は邪馬台国の女王”として君臨したと思っている方が多いのではないでしょうか? しかし実は、『魏志倭人伝』には”邪馬台国の女王”とは明確に書かれているわけではありません。 『魏志倭人伝』に書かれていることは、邪馬台国は”女王の都とするところ”であり、邪馬台国は倭の女王の卑弥呼が居住し統治する都という位置づけなのです。
ほかにも239年に「親魏倭王」として倭王に任命されて以来、卑弥呼は「倭の女王」であり必ずしも「邪馬台国女王」とは書かれていないのです。 倭というのが、日本の昔の呼び名であることは周知のことでしょう。 では卑弥呼が倭国の王ならば、日本の正史である『日本書紀』や『古事記』に卑弥呼が登場してもおかしくないと思いますが、なぜ卑弥呼は『記紀』に登場しないのでしょうか?
ヒミコが卑弥呼ではなかった
まず考えられるのが『魏志倭人伝』に記される”卑弥呼”が、人物名ではないのではないか?ということです。 ヒミコを人物名ではなく、日の神に仕える女性である”日の巫女”であると考える説です。 たしかに卑弥呼は「鬼道に事え」とあるようにシャーマンとしての宗教的な性格を持ち合わせていました。
”卑弥呼”というのはあくまでも中国の歴史書に記された女王の名前であり、当時の日本に漢字が普及していなかったことを考えると倭国側の使者である難升米が「我々の国の王は日の巫女である」と言ったことに対して中国:魏の側が卑しいという漢字を当てて卑弥呼とし、役職名であった”日の巫女”が人物名のように伝わった、と考えることができます。
「この国を治めているのは、日を祀る巫女職の女性であって、卑弥呼という名前の特定の人物はいない」のであれば、『記紀』に卑弥呼という名前を持つ人物が登場しないことも理解できます。
しかしこの考え方には、ひとつ大きな矛盾が存在します。
それは次に登場する、壹与の存在です。
『魏志倭人伝』には、「卑弥呼が死んだ。倭では女王の死後男王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合い、このとき千余人が殺されたという。 そこでまた卑弥呼の宗女である年十三の壹与を立てて王とし、国中がようやく治まった。」と記しています。
壹与は女性であり個人名です。
もしヒミコが役職名であり”日の巫女”とするならば、「壹与があとを継ぎ卑弥呼になった」という記載になるはずですが、そうなっていません。 中国:魏側が”日の巫女”を”ヒミコ”と個人名として勘違いし、「ヒミコという人物のあとを継いだのは壹与です。」と認識した可能性もあります。
しかしそうなると、なぜ壹与という個人名はしっかりと伝わっているにもかかわらず、ヒミコだけはちゃんと伝わらなかったのか?という疑問も生まれます。
それに『記紀』は卑弥呼だけでなく、壹与や邪馬台国すら登場させていません。
これはなぜなのでしょうか?
邪馬台国はヤマト政権と関係ない勢力だった
日本の正史である『日本書紀』や『古事記』が卑弥呼を隠す理由…それは、卑弥呼は天皇家とは全く関係のない人物だからではないでしょうか?
そもそも歴史書というものは必ずしも史実を客観的に記述するものではありません。 むしろ、「天皇」の記である古事記にしても、「天皇」が支配する国「日本」の正史である日本書紀も、その時代の為政者すなわち天皇の統治権威の正当性と、それによる統治の意思を内外に表明するため編纂されたものです。
ですから、記紀編纂者たちは、ヤマト王権の統治に関係あることは記すけど、それ以外のことは自らの正史に記す必要はないのです。
なので『記紀』に卑弥呼や邪馬台国が登場しないということは、邪馬台国がのちのヤマト政権につながっていないことを示唆しているのです。
箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない
邪馬台国が畿内にあったと主張する人たちは、奈良県の纏向遺跡にある箸墓古墳が卑弥呼の墓と比定しています。 箸墓古墳とは、日本初の巨大前方後円墳とされているお墓です。全長約280mを誇ります。 ヤマト王権は、前方後円墳という古墳祭祀を継承した王権であり、前方後円墳はヤマト王権のレガリアです。 ヤマト王権が前方後円墳をレガリアとする王権で、その最初となる箸墓古墳の被葬者はヤマト王権の初代王かそれに準ずる人物であると考えた方が自然です。
現在宮内庁は、箸墓古墳の被葬者は倭迹迹日百襲姫命としており、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼であると考える説もあります。 倭迹迹日百襲姫命は巫女的要素がある女性でありその特徴は卑弥呼と一致していますが、卑弥呼は未婚なのに対し倭迹迹日百襲姫命は大物主と結婚しています。
一応、箸墓古墳の築造時期は3世紀中葉~後葉にかけてとされているので、卑弥呼が死んだとされる248年頃ということとはある程度一致しますが、卑弥呼の墓は直径百余歩(約144m)と言われていますが、全長約280mの箸墓古墳では大きすぎます。
もし卑弥呼が箸墓古墳の被葬者ならば、ヤマト王権を成立させた重要人物と考えられ、そのような人物をヤマト王権の正統性を主張するための書物である『記紀』が記さないはずはありません。
倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼なのかどうかは、まだ研究の必要があります。
しかし倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳と記録されている卑弥呼の墓の特徴が合わないことや、未婚の卑弥呼に対して倭迹迹日百襲姫命が結婚していることなど2人の特徴も合わない点が多くあります。
そのため日本初の巨大前方後円墳である箸墓古墳は卑弥呼の墓であり、前方後円墳に祀られているから卑弥呼もヤマト王権の重要人物だ!と考えるのは、時期尚早だと思われます。
色んな女性に擬されるヒミコ
『記紀』に卑弥呼が登場しない!という話をしていると、ただ単純に記紀編纂者は『魏志倭人伝』を知らなかっただけではないか?と思う人も多いかもしれません。 しかし記紀の編纂者は、『魏志倭人伝』の存在も知っていましたし、『魏志倭人伝』を読んでいたと思われます。
したがって、もちろん3世紀の日本に、邪馬台国が存在し卑弥呼と記載される女王がいたことは知っていたでしょう。 なぜ記紀の編纂者が『魏志倭人伝』を読み、邪馬台国や卑弥呼がいたことを知っていたか?というと、神功皇后や推古天皇など女性の登場人物に卑弥呼を擬していると思われる記載があるからです。
神功皇后とは、第14代仲哀天皇の皇后であり三韓征伐をした女性として有名です。
卑弥呼も神功皇后も、神憑りして神の意志を伝えることができたという巫女的な性格があったことは一致しています。
さらに『日本書紀』にみられる神功紀には、『魏志』倭人伝が引用されており、 ”魏の皇帝である明帝の景初3年(239)6月に、倭(日本)の女王が大夫である難斗米(難升米)らを朝鮮半島の帯方郡へ遣わし、さらに、皇帝への会見を求めてきたとある。そこで、帯方郡の太守であった劉夏は、難斗米ら使節一行を魏の都へ送った”と記載されています。 景初3年(239)という年は、卑弥呼が魏へ使節を派遣した年として有名です。
このように『日本書紀』には、『魏志倭人伝』を引用し卑弥呼を神功皇后に重ね合わせるような記載が多いことから、江戸時代まで卑弥呼と神功皇后を同一視する考えが定着していました。
しかし神功皇后がしたことは三韓征伐という朝鮮半島への侵攻ですが、卑弥呼が朝鮮半島を攻めた記録はありません。 神功皇后がいつの時代の人物で実在したのか?ということは置いておいて、わざわざ卑弥呼が魏へ使節を派遣した年に合わせるように神功皇后の記載をしていることから考えると『記紀』の編纂者が魏志倭人伝を知らなかったというのは考えにくいでしょう。
天照大神=卑弥呼もオカシイ
卑弥呼の正体について、天照大神と同一とみる人も多いでしょう。
天照大神といえば、天皇家の皇祖神です。 そのため『記紀』に描かれる天照大神は、主役であり、高天原の主宰神であり、世界を照明する力を持っています。 この天照大神の子孫だから、天皇家は日本を統治する正統性があるのです。 その天照大神と卑弥呼が同一と考えられる理由は、卑弥呼が”日の巫女”であると考え、太陽の女神である天照大神と同じ属性を持っているからです。
それに天照大神の有名なエピローグである、天照大神がお隠れになられて世の中が真っ暗になったという天岩戸隠れ神話は、卑弥呼が没した前後の、247年3月24日に、中国で日食のあったことが、『三国志』と『晋書(しんしょ)』に記されていることから、卑弥呼が没したことの神話的表現が天岩戸隠れ神話であるとも考えられています。
では天照大神が卑弥呼とするならば、なぜわざわざ神功皇后に擬する必要があるのでしょうか? 記紀は、天皇家中心のヤマト王権の正統性を示すための歴史書であり、その中で天照大神は皇祖神として位置づけられています。
もし卑弥呼が天照大神と同一なら、わざわざほかの人物に擬するようなことはする必要はなく、”天照大神は卑弥呼と呼ばれていた”と書けばよかったのではないでしょうか?
なぜいろんな女性に擬したのか?
卑弥呼が『記紀』の中でその名前は登場はしないが、いろいろな記述の中に神功皇后や倭迹迹日百襲姫命や天照大神のように、卑弥呼的要素を持った人物として登場していることはわかりました。 ではなぜ、記紀編纂者はわざわざ卑弥呼に擬したような女性を登場させたのでしょうか?
ここは筆者の考察になりますが、倭王や倭国王を引き継ぎ、ヤマト王権は卑弥呼がいたころから倭国を統治しているようにアピールしたかったのではないか? 『日本書紀』というのは、海外主に中国に「倭国であった日本は大王家(のちの天皇家)が昔から治めています」ということをアピールしています。
したがって、魏によって倭王と認められた卑弥呼も、我らヤマト王権の王も同じ倭王なので、3世紀末から天皇家は倭王の家柄であり、卑弥呼の倭王も引き継いでいる家系。ということをアピールしたかったのではないでしょうか?
卑弥呼が天皇の系譜にいる風にみせたかったのです。
しかし事実は魏志倭人伝に書かれる卑弥呼は、ヤマト王権とは別の勢力体の王だったのでそのまま卑弥呼がヤマト王権の王として組み込んでしまうと矛盾が生じてしまいます。 その矛盾とは例えば、3世紀後半にヤマト王権に卑弥呼にあたる女性の王が存在しないといけませんが、3世紀末の天皇の系譜に女王は存在していなかったこと、卑弥呼の墓の記載とヤマト王権のレガリアである前方後円墳とでは合わないことなどです。
レガリア(ラテン語: regalia、英語: regalia、リゲイリア)
王権などを象徴し、それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品である。
記紀編纂者たちは、卑弥呼とは直接関係はないが3世紀末に卑弥呼が倭王であったことだけは利用したかったのではないでしょうか? ヤマト王権が3世紀末から倭王であったかのようにするため、ヤマト王権に関係のある女性に卑弥呼っぽさを与えて、中国の歴史書でもある『魏志倭人伝』にも登場する倭王卑弥呼のころから我々ヤマト王権が倭王でしたよ。とアピールしたのが『日本書紀』がもつひとつの一面なのかもしれません。
ヤマト王権が”倭王”や”倭国王”にこだわる理由は、倭の五王からもわかります。 倭の五王も卑弥呼と同じように中国に朝貢し、”倭国王”として認められましたが、自らも「倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武」として名乗っています。 日本国内の統治のためにも、中国側に倭国を統べるのは、我々大王家だ!とアピールし認めてもらうことは大切で「倭国王」や「倭王」という称号を受け継ぐことは重要なのです。
日本が独立国であることをアピールすることを編纂の目的のひとつとされた『日本書紀』において、卑弥呼や倭の五王が中国に朝貢していた事実は都合が悪い事実です。 したがって『日本書紀』は、倭の五王がどの天皇であるかは記載していません。
そして真実の天皇家の系譜との大きな矛盾や日本の独立性に問題がない程度にするため、朝貢した事実のある卑弥呼を無理やりにでも組み込むことはせず、卑弥呼エッセンスをいろんな女性に被せるだけにしたのかもしれません。
まとめ:”日の巫女”はたくさんいた。
記紀が卑弥呼を隠す理由は卑弥呼がヤマト王権と無関係の人物だったからという考察をさせていただきました。 古くからその土地を治めているというのはそれだけで権威ですし、統治の正統性をアピールする材料になります。
そうなるとより古い倭王の称号を持つ卑弥呼は、違う勢力の王だったとしても上手く天皇の系譜に埋め込みたいと記紀の編纂者は考えたのかもしれません。
私自身は、卑弥呼が”日の巫女”という役職名であったという考え方には賛成です。
そして古代日本には力のある”日の巫女”が各地に存在したのでしょう。
その中で魏志倭人伝の卑弥呼を特定するには、やはり邪馬台国の場所を確定する必要があるので、邪馬台国が見つからない限り魏志倭人伝に登場する卑弥呼が誰なのか?も特定できないでしょう。
やはり、『日本古代史に「不思議と謎」は多い、出雲王朝⇒邪馬台国⇒大和朝廷⇒朝廷(京都)と神宮(伊勢)、特に邪馬台国』、傘寿+3にも興味は尽きません!
(記事投稿日:2025/02/21、#989)