知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『日経新聞コラム「私の履歴書」の登山家・今井道子氏が凄い! 1』

2024-02-17 15:40:25 | 山・山岳
『日経新聞コラム「私の履歴書」の登山家・今井道子氏が凄い! 1』
『「いつから山に」と聞かれると、「分からない。」物心ついたころには、両親に連れていかれていた。』
『「なぜ山に」これなら答えられる。「山は私の故郷であり、学びや、運動場、家や庭でもある。」』

昔、山(「岩」も「雪山」も)やったことがありましたが、今井道子氏のこのシリーズでの一言、一言が、早く知っていればよかったなと思いました。 『山の魅力は、決して登山家だけのものではない。 一連の欧州山行で目にしたのは、あたかも自宅の庭のように山中でくつろぐ老若男女の姿だった。』 自分も、半世紀も山歩きをしていましたが、最近は、そのような風景が、多少は目に付くようになりました。

先ずは、今井道子氏の凄まじい登山歴、ウエブ情報から抜粋・引用です。
  • 1960年 東京女子医大学山岳部に入部。谷川岳一ノ倉沢衝立岩・コップ状岩壁連続登攀をはじめ、谷川岳烏帽子奥壁ダイレクトルート初登攀など。
    谷川岳一ノ倉沢衝立岩
    ウエブ情報から引用
  • 1967年 東京女子医科大学欧州アルプス遠征隊長として渡欧。若山美子とザイルを組み女性同士のパーティとして世界で初めてヨーロッパアルプス・マッターホルン北壁登攀成功。
  • 1969年 ヨーロッパアルプス・アイガー北壁日本隊ルート開拓。
  • 1971年 ヨーロッパアルプス・グランドジョラス北壁登攀。(女性として世界初の欧州三大北壁完登者となる)以降都会に逃げ込んでいる日本の人々に自然と親しんでもらうため現在に至るまで、毎年ヨーロッパアルプスをはじめとし、世界各国の登山ハイキング、カヌー、カヤック、ウォーターラフティング、ホースバックトレッキング等、自然の中でのアクティビティーを体験出来る旅行講師を務めている。
  • 1975年 ネパールヒマラヤ・ダウラギリIV峰、カモシカ同人隊員及び医師として遠征。
  • 1979年 ネパールヒマラヤ・ダウラギリII・III・IV峰縦走登山隊長として、男性16人を率いてクロス縦走を成功させる。7,500m以上の三山の登頂は世界初。
  • 1983年 中国側チョモランマ(エベレスト)峰(8,848m)北壁冬季登山隊長として遠征。
  • 1984年 同隊は、8,100mにて断念。
  • 1985年 隊長として再度チョモランマ峰北壁へ向かうが、登山隊は8,450mにて断念。しかし、北壁からの冬期世界最高到達地点を記録する。(2019年冬期時点でこの記録は破られていない)
  • 1987年 厳冬季に北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国の白頭山、金剛山、妙香山に登頂。(建国以来初の外国人隊の記録)
  • 1987年 秋季に標高世界第6位のヒマラヤのチョー・オユー峰(8,201m)に中国側より登頂。(通子隊長以下全隊員登頂に成功。夫、高橋和之は山頂からベースキャンプへのパラグライダー飛行に成功)
  • 1989年 アフリカ最高峰のキリマンジャロ(5,895m)登頂後、山頂よりパラグライダー飛行に成功。アフリカ、ウガンダ最高峰のルウェンゾリ(5,109m)に登頂する。
  • 2002年 60歳を迎え、春季チョモランマ峰へ向かうが、前日、高所障害で意識不明になった人命救助に貸したシェルパが寝不足と寒さを訴えたため8,500mにて断念する。

「私の履歴書」の今井道子氏語録に戻ります。
『私はいつも、山が自分に微笑んでくれる時に登ることにしている。ただし山の微笑は、個人の力量によって違う。 より多くの微笑に会うためには、観察、洞察、考察、集中と注意、などの総合力で培った行動力が必要だ。 山はそんな力を磨いてくれる。』
『私の登山人生のテーマは、これを伝えることにつきるように思う。 人は山から多くの恵みを受け取ってきた。 今、自然環境の保護が世界的な課題になっている。 自然界を自らの大切な場所と思えば行動はおのずと決まるだろう。』

1942年生まれ 傘寿プラスの自分の半年先輩の今井道子氏の山に『対する・接する』考え方を、このコラムの初回から勉強になりました。 傘寿プラスの自分は、谷川岳一ノ倉沢衝立岩を見上げたのは20代のはじめでした。
(記事投稿日:2024/02/17、#729)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『自然の不思議・樹木のこと 13(樹木の大きさ世界ランキング)』 『「運動会」や「序列・肩書」に学んだ、日本人はランキング好き』

2024-02-16 17:14:46 | 植物・花
『自然の不思議・樹木のこと 13(樹木の大きさ世界ランキング)』
『「運動会」や「序列・肩書」に学んだ、日本人はランキング好き』

先ずは、大きさランキングでは別ジャンルの動物です。 土俵は『陸と海』で異なりますが、動物の大きさランキングは次の通りです。
地球史上最身長の陸の動物は、 パタゴティタン 37メート ル 69トン 
地球史上最重量の海の動物は、シロナガスクジラ、34メートル、199トン

昔の巨樹好き・傘寿プラスが、遅まきながら先日、日本最大の巨樹『杉の大スギ(幹囲20.0ⅿ、樹高約60.0ⅿ)』をテレビ放映で見ました。 日本の楠木の大きさランキングでは第二位の熱海市木宮神社の大クス(幹囲23.9ⅿ、樹高約26.0ⅿ)は見ましたが、第一位(日本最大の樹木)の蒲生のクス(幹囲24.2ⅿ、樹高約26.0ⅿ))まだ見ておりません。

野次馬根性丸出しで、地球上で最大の生物・植物を調べた結果は、フェアな比較は難しいですが、以下の通りでした.

世界最大の樹木
体積最大シャーマン将軍の木(米国、幹囲31.1ⅿ、樹高約83.3ⅿ、樹齢2200年)

 ウキペデイア情報から引用
シャーマン将軍の木は、米国カルフォルニア州にあるセコイア国立公園内の原生林に生えている、セコイアの巨樹。 1,487㎥に及ぶ体積を持つことから、地球上で最も大きな生命体でもあると考えられている。


幹囲最大トゥーレの木(メキシコ、幹囲46.2ⅿ、樹高約41-43ⅿ、樹齢1200~3000年)
ウキペデイア情報から引用
この幹周は巨大な板根があるための数値であり、実際の断面の内部直径よりかなり高くなるもので、それを考慮すると、板根を取り除いた直径は9.38mになる。 これはトゥーレの木に次いで太い木と知られている、ジャイアントセコイアの直径8.98mよりまだわずかに大きい。 なお、日本から来た愛好家で、巨樹の著書もある蟹江節子らが市長に許可を取り、日本の環境省が国内の巨樹の調査時に定めている地上1.3mの位置で幹周を計測したところ、45mを記録した。日本の巨樹として広く知られる縄文杉の幹周が16m程度であることからも、その大きさを察することができる。

樹高最大ハイペリオンの木(米国、幹囲15.2ⅿ、樹高約115.0ⅿ、樹齢約600年)
ウエブ情報から引用
米国・北カルフォルニアのレッドウッド海岸にあるセコイアにつけられた名前で、世界一高い木。

樹齢も樹囲も規格外を最後に備忘録に、世界最大のバオバブ(南アフリカ、幹囲141.3ⅿ、樹高約30.0ⅿ、樹齢約6000年)
ウエブ情報から引用
樹齢を調べてみると、放射性炭素年代測定法によって6000年と推測されているそう。このバオバブは、メソポタミア文明が栄えるよりも前から、この大地に根を張っているという訳です。さらに驚かされるのは、このバオバブが今でもしっかり生きているってこと。僕が行った時は若葉でしたが、時期になると実をつけるそうです
楠木もメタセコイア(落葉樹)も、日本の神社や公園で見慣れていますし、米国のセコイア(常緑樹)も、その樹高の大きさと、樹間距離の小さなことに驚きました。 
を今回は、バオバブの不思議さ再認識し、今後もさらに調べてみたいと思いました。 このス🄱らしい地球は大事にしていきたいものです。 身近な、『節電・節水・節肉食・移動はバス電車で』、頑張りましょう。 これが、CO2排出トップスリーの『発電・製造・運輸』のCO2排出削減の支援になります。
(記事投稿日:2024/02/16、#728)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『自然の不思議・樹木のこと 12(高知県の「杉の大スギ」縄文杉より大きい』 『「杉の大スギ」は名実ともに日本一、昔の巨樹ファンも形無し!』

2024-02-15 17:45:51 | 植物
『自然の不思議・樹木のこと 12(高知県の「杉の大スギ」縄文杉より大きい』
『「杉の大スギ」は名実ともに日本一、昔の巨樹ファンも形無し!』

                                      杉の大スギ      縄文杉
      北の大スギ   南の大スギ
樹高          60.0ⅿ          57.0ⅿ                        25.3m
胸高周囲    20.0ⅿ          16.5ⅿ                        16.4m
推定樹齢                推定3000年                      2000年代~4000年
標高                           410ⅿ                                 1300m

杉の大スギ(根本拡大)
 
ウエブ情報から引用

杉の大スギ(全様)

ウエブ情報から引用
杉の大スギは、高知県長岡郡大豊町の八坂神社境内に生育しているスギの巨木。 推定の樹齢は3000年以上といわれ、根元で「北大スギ」と「南大スギ」の2本の株に分かれており、神社にみられる木としては、日本最大のものとされ、古来より信仰の対象となっていた。 美空ひばりとこのスギにまつわる逸話は名高く、その縁によって遺影碑と歌碑が彼女の没後に建立された。

この木は素戔男尊が植えたという言い伝えがあり、推定樹齢の根拠とされる。木は根元で2本に分かれ、それぞれ「北大スギ:根周りが約20ⅿ」、「南大スギ:根周りが約16.5ⅿ」と呼ばれる。 このスギは「神代スギ」「天王スギ」「夫婦スギ」などと、異名を多く持つ。 受胎・安産や護身のご利益があるとしてこのスギの樹皮をひそかに剥ぎ取る者が多かったために、『樹皮が薄くなったところが盛り上がって不整形の形状』をなしていると、ウエブ情報にありました。

が、この『杉の大スギ』のテレビ放映では『樹皮が薄くなったところが盛り上がって不整形の形状』は、この巨体を支えるために、縦状に盛り上がったものと紹介されていました。 これは熱帯の高木の板状根の変形態と想像しました。 機会を見つけて、実際に見て確認したいと思いました。
(記事投稿:2024/02/15、#727)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『運河のこと 4(中国の大河川、黄河・長江は西から東の物流の歴史を)』 『黄河・長江を横切る最長京杭閘門大運河は南北の物流を可能に!)』 

2024-02-14 11:30:55 | 河川・運河
『運河のこと 4(中国の大河川、黄河・長江は西から東の物流の歴史を)』
『黄河・長江を横切る最長京杭閘門大運河は南北の物流を可能に!)』    
『閘門式京杭大運河(1800km)は1400年前、フランスの閘門式ミディ運河(360km)は340年前、パナマの閘門式運河(82km)は130年前、からわかる中国の歴史と技術と治水の凄さ』

先日NHKBSP4Kの『「世界遺産」いただきます 中国大運河』の再放送を見ました。 『いただきます』のキャッチフレーズの通り、場所々々に素晴らしい中華料理も紹介されていました。 ロケ終点・北京での『北京ダック』で北京ダックの食べ方(北京式vs広東式)を、傘寿プラスで知り、目から鱗でした。  
皮だけ食べるのは「広東式(もちろん肉も別料理で)」、「北京式」では皮に肉もつけて出されます。

中国の最近半世紀の躍進ぶりが納得できますのは『中国の閘門式京杭大運河は1400年前!』の実用には驚嘆しますと同時に、今回は、水上からの撮影はもとより、ドローン駆使での上空からの撮影が多く風景が俯瞰できますので、新たな感激でした。 特に運河が、水上輸送と、『街ごとが城(城=街)』の防衛上の『堀』をなしていることも初めて知りました。

パナマ運河のあるパナマに5年間も住んで、時には『ひねもす』時のたつのも
忘れて見入った経験から、運河には興味が尽きませんでした。

三大運河とは(閘門式はパナマ運河のみ)
  • スエズ運河(193㎞): エジプト北東部 スエズ地峡 にあり、紅海と地中海とを結ぶ運河(154年前)。
  • パナマ運河(82㎞): パナマにあり、太平洋と大西洋を結ぶ運河(130年前)。
  • キール運河(96㎞): ドイツとデンマークの国境近く、ユトランド半島の付け根にあり、北海とバルト海を結ぶ運河(128年前)。
京杭大運河(規模でも1800㎞、歴史1400年前も)は規格外!

大運河(The Grand Canal)

 ウエブ情報から引用

古代では、大量の貨物は水路を通して運送するようになりました。 しかし、中国では、自然の江河はいずれも西から東へ流れていました。 そして、黄河流域が戦乱で破壊、長江流域の開発にともない、中国の経済文化の中心は南の方に移り、政治軍事の中心は北の方にあるという局面が形成されました。 

そこで、南北の交流および税収や物資の移動のために、南北を貫通する水路が必要でかつ重要なことになりました。 3世紀には中国の主要5河川が、京杭大運河で結ばれ、国家の経済、文化交流に重要な役割を果たした。 運河の大部分は現在も利用されている。

大運河断面図
運河における水面の高低差は40~50mもある。 黄河と海河、黄河と長江との間には それぞれ30mほどの落差

ウエブ情報から引用

京杭大運河は、北にある北京から始まり、北京、天津両市及び河北、山東、江蘇、浙江四省を経由し、南にある杭州まで延びています。 そして、海河、黄河、淮河、揚子江、銭塘江という五大水系を閘門なしで通過します。 京杭大運河は、全長1794キロメートルで、スエズ運河の16倍で、パナマ運河の33倍です。 
京杭大運河の断面図を見ますと、水平式のスエズ運河とは異なり、海抜26ⅿのパナマ地峡を、3段の閘門で、船持ち上げて、下す閘門式パナマ運河とは全く異なります。 パナマ運河は、人工湖の水を流し込んで上げて、排水して下げる、ポンプ使わずの、超省エネ構造です。 この京杭大運河は『水は低きに流れる』を利用していることは、断面図で、この度、解りました。 驚くことに、スエズ運河やパナマ運河よりも、1000年以上も早く、この世界最大の運河の縄張りと長年月の建設が始まっています。

ここからは余談です。 『四大文明』とは、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明をさす、長江文明、メソアメリカ文明、アンデス文明などは基本的に含まれず、アメリカ大陸の文明を含めて六大文明と解釈することもあり、 最近は長江文明を含み中国文明とも言われることもあるます。

大河と文明発祥は、密接な関連がありますが、大きな『河床勾配』の暴れ大河『ユーフラテス川』『インダス川』よりも『ナイル川』『黄河』『長江』のように、小さいか、又は程よい『河床勾配』が、農耕民族に、ゆっくりと安定した継続的な文明の発達をさせてくれるのでないか思いました。 素人の方法ですがですが『河床勾配』を計算してみました。

 文明      河川     長さ   水源海抜   河床勾配 
エジプト     ナイル    6853㎞   1134ⅿ    0.02%
メソポタミア   チグリス   2850㎞   1150ⅿ    0.04% 
         ユーフラテス 2800㎞   3520m    0.13%
インダス     インダス   3200㎞   4500ⅿ    0.14%
中国       黄河     5464㎞   4800ⅿ    0.09%
         長江     6300㎞   5042ⅿ    0.08%)


春秋時代から掘り始めた京杭大運河は、2500年余りの歴史を持ちます。こ の間に、京杭大運河は主に三つの時期に発展しました。 第一の時期は春秋時代と戦国時代に、大溝と鴻溝の掘ったことにより、江、淮、河、済四大水系が繋がりました。 第二の時期は隋代で、運河システムが作り上げられ、黄河と淮河を繋ぎ永済渠を掘り、北の涿郡と結びました。 第三の時期は元代で、杭州から大都(北京)への運河全線が開通されました。

このほかにも、京杭大運河は当時、中国が水利工事で世界に誇れる先進的技術をもっていたことを表わしており、豊かな歴史的文化遺産としての価値をもっています。 しかしながら、近年来、深刻な環境、水汚染が進み、大運河の保全が叫ばれています。 京杭大運河に対する保護は、人類文明の伝承、調和的社会の促進においてもきわめて重要な意味を持っていると思われます。

京杭大運河の紙上調査は、残り少ない傘寿プラスの余生のライフワークになりました。 毎月、15~20万歩散歩と、毎日のラジオ・テレビ体操で頑張らなければと想いを新たにしました。
(記事投稿日:2024/02/14、#726)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『古代は、古代人は凄い 7(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 3)』

2024-02-11 21:30:15 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 7(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 3)』
『古代ローマ帝国には、淫蕩帝伝(2)・放埒帝伝(2)・残虐帝伝(2)等、悪評判の皇帝(ネロもその一人)もおりましたが、約1500年も存続』
『世界史上に有名な「ビザンチン帝国」「大英帝国」と比較のために備忘録に』

世界帝国ローマの時期区分

ウエブ情報から引用

世界史上最大最長の、ローマ帝国の歴史に『第5代ローマ皇帝ネロの光と影』の切り口から勉強に入りましたが、今後の調査のために、ローマ帝国史の抜粋を備忘録にしました。

ローマはグローバル世界の様々な文化と技術を吸収したからこそ、今日にまで伝わる伝統を残せた。 その上に政治体制が、特別に進歩していました。

ローマの国政を牛耳っていたのは3つの要素です。 
❶コンスル権限に着目すれば、完全に君主政で王政のように見える。
 コンスルとはローマの行政機関である政務官のトップ。 
 コンスルは2名おり、1年間務める。
❷元老院の権限に目をやれば、今度は貴族政のように見える。
 政務官を経験した者が集まる元老院は、実際にはローマの貴族が集まり、
 貴族の要求を取りまとめる場所。
❸民衆の権限に目を向ける者がいたなら、明らかに民主政のように見える。
 「民衆の権限」という点では、ローマにも民会があり、また財産が少ない者
  の意見を訴えるための平民会もありました。
これら3つの要素がそれぞれに形をとってローマの国政を治めてきた。

君主制・貴族政・民主制の要素を持った帝国は、建国から滅亡まで、約1,200年と言われますが、広義にとらえれば、次のように2200年余とも捉えられます、
古代ローマ帝国と言えば、東アジアの漢や唐、さらに近代の大英帝国や現代のアメリカとも比較されることが多い「世界帝国」「超大国」で、西洋古代最大の帝国です。 

伝説では紀元前753年4月21日に都市国家として建国されたというローマは、その後次第に支配地域を拡張、一部(東ローマ)は1453年まで、実に2200年以上にわたって存続した。 前8世紀ごろ、ラテン人がテベレ川下流域に建てた都市国家に始まり、王政、のち共和制(前509〜前27)を経て、前27年内乱、を収拾したオクタビアヌスの即位により帝政に移行。 

特に帝政ローマの時代は、地中海を中心に西ヨーロッパから黒海沿岸、中東、北アフリカまでを支配し、帝国の記憶・古典文化・キリスト教はその後のヨーロッパ社会の土台となった。 また、繁栄と滅亡のドラマチックな対照から、「ローマはなぜ滅んだか」は長年人々の関心を集めてきました。

最盛期の五賢帝時代(96〜180)その版図は最大となり、東は小アジア、西はイベリア半島、南はアフリカの地中海沿岸、北はブリテン島に及ぶ大帝国となった。 2世紀末から衰退し、395年東西に分裂。 東ローマ帝国は1,453年まで続くが、西ローマ帝国は476年、オドアケルに滅ぼされた。 学術・芸術ではギリシャの模倣の域を出なかったが、法制・軍事・土木面にすぐれ、後世に大きな影響を与えた。 (帝政開始から西ローマ帝国の滅亡までを古代ローマ帝国)それ以降を中世ローマ帝国とも称する。

ローマの歴史の段階     任期                 年数(概算)
ローマ王国         紀元前753年〜紀元前509年      244年
ローマ共和国      紀元前509年〜紀元前 27年       482年
古代ローマ帝国   紀元前 27 年〜西暦 1453年    1500年
(西ローマ帝国   西暦395年〜西暦 476年            81年)
(東ローマ帝国   西暦395年〜西暦1453年   1058年)  
                                                                          2226年 

世界史上の巨大帝国との比較

ビザンチン帝国の段階                任期      年数(概算)
ビザンチン初期                西暦  330〜西暦 843   513年
中期ビザンチン時代          西暦  843〜西暦1204        361年
ビザンチン時代後期    西暦 1204〜西暦1453   249年
(コンスタンティノープル陥落)                             1123年

大英帝国の段階      任期        年数(概算)
大英帝国の開始         西暦1497〜西暦1707    210年
第1大英帝国     西暦1707〜西暦1783     76年
第2大英帝国     西暦1783〜西暦1815       32年
大英帝国の崩壊          西暦1945〜西暦1997      52年  
                         370年

西ローマ帝国が滅亡した理由・原因
西ローマ帝国の滅亡の原因は国内のクーデターによるものです。 このクーデターには西ローマ帝国の政治情勢が深く関わっていました。 もとよりローマ帝国はゲルマン人による侵攻の危機にさらされていました。 ゲルマン人としても豊富な資源を有するローマ帝国は非常に魅力的でした。

そしてローマ帝国が東西に分裂した好機をゲルマン人が見逃すわけもなく、これ幸いとばかりに攻撃してきます。 東ローマ帝国は土地柄攻めにくく、また首都の防御をしっかりと固めていたため、ゲルマン人は西ローマ帝国に的を絞り、侵攻するようになりました。

ゲルマン人による侵略だけでなく、西ローマ帝国は内政にも悩まされていました。 西ローマ帝国は国教であるキリスト教の影響が非常に大きく、そのトップの座である教皇の影響力は皇帝とほぼ変わらないほどだったのです。

国の分裂によって教皇も西ローマ教皇、東ローマ教皇と分かれることとなりましたが、西ローマ教皇として任命されたレオ1世は皇帝の仕事や役職を独断で監督するようになります。 そして西暦445年にはウァレンティニアヌス3世が「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」と発表し、教皇の絶対性を主張したのです。

軍事面においても皇帝の影は薄く、重要な役割はほとんど部下である将軍たちが対応していました。そして西暦476年、軍人であったオドアケルが「もはやローマに皇帝は必要ではない」と主張し、クーデターを起こしました。

西ローマ帝国は滅亡後どうなったのか
クーデターによって西ローマ帝国の皇帝は廃位となりました。 それを知った東ローマ帝国の皇帝ゼノンはオドアケルを称え、ローマ帝国のイタリア領主という役職を与えました。 オドアケルはこの役職に恥じぬ働きをし、西ローマ帝国内の内乱を治め、帝国内は一時的に復興することとなりました。しかし西ローマ帝国の状況を知ったゼノンはオドアケルの存在がやがて自分を脅かすことになるのではと、東ゴートの王テオドリックにオドアケルの殺害を命じます。

西暦493年、テオドリックはイタリアへ侵攻し、オドアケルを打ち負かしてイタリアを占拠したのち、彼を殺害しました。オドアケル死去後はテオドリックがイタリア王を名乗るようになります。オドアケルとテオドリック、優秀な2人の統治によって西ローマ帝国の国力は回復し、繁栄の時代を迎えました。
ここまで読んでいただいた方はお分かりだと思いますが、西ローマ帝国は俗に言う「滅亡」はしていません。そのため西ローマ帝国が「滅亡」したという表現は不適切だという声が上がっています。
多くの歴史家は「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」という見解を示していますが、何代も続いてきた皇帝制度は西暦476年に廃止されていますので、この記事においては滅亡という表現を使わせていただきます。

東ローマ帝国が滅亡した理由・原因
東ローマ帝国は一度十字軍の侵攻によって滅亡していますが、その後再興し、約200年の統治の後オスマン帝国により完全に滅亡しました。 東ローマ帝国は主要な国々と接していたことから、攻められやすい国でした。 そのため東ローマ帝国の初代皇帝であるアルカディウスは首都の防御を固め、難攻不落の城壁を築きました。

西暦600年頃を境に勢力を増していたイスラム帝国により領土が縮小するものの、国家としては安定していたと言えるでしょう。 しかし西暦1204年、第4回十字軍の遠征によって首都コンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は滅亡しました。 実はこの時東ローマ帝国の政権はひそかに亡命しており、旧帝国領で新たに東ローマ帝国を再興します。しかしこの統治も長くは続きません。

西暦1352年のオスマン帝国オルハンによって攻撃されて以来、東ローマ帝国とオスマン帝国は何度も戦いを繰り返しました。西暦1453年、オスマン帝国は10万もの兵で首都コンスタンティノープルを包囲します。対して東ローマ帝国の兵は7千。戦いの結果は見えていましたが、ローマ帝国兵士は2ヶ月にもわたって抵抗を続けました。
オスマン軍の総攻撃により、とうとうコンスタンティノープルは陥落。この時の皇帝コンスタンティノス11世はオスマン軍に特攻して行方知らずとなり、そして東ローマ帝国は完全に滅亡することとなりました。

東ローマ帝国は滅亡後どうなったのか
東ローマ帝国はオスマン帝国により侵攻され、滅亡しました。 滅亡後はオスマン帝国に領土を吸収されています。
なお東ローマ帝国領土であったモレアス専制公領やトレビゾンド帝国は、オスマン帝国によってどちらも滅ぼされてしまい、第4回十字軍の時のように地方からの復興とはなりませんでした。
ちなみに陥落前後のコンスタンティノープルでは多くの有識者たちが古代ギリシャ・ローマの文献について研究していましたが、オスマン帝国の侵攻によって西欧へと亡命しました。これが後のイタリア・ルネサンスに大きな影響を与えたとされています。

古代ローマ帝国の前の『ローマ王国』『ローマ共和国』と合わせ、これからも興味津々です。
(記事投稿日:2024/02/11、#725)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする