知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『小次郎の燕返しの「物干し竿」の正式名称は「備前長船長光」』 ―武蔵の野戦剣法・二天一流に対して、道場剣法と言われた小次郎の巌流―

2023-08-04 22:56:12 | 歴史・日本

『小次郎の燕返しの「物干し竿」の正式名称は「備前長船長光」』

―武蔵の野戦剣法・二天一流に対して、道場剣法と言われた小次郎の巌流―

長い鞘を背負っての決闘は不利なので手持ち刀を抜刀の後、鞘は投げた―

 

巌流島の決闘で『物干し竿の鞘』を投げながら言った一言、あまりにも、有名なシーンですが『遅いぞ、武蔵、臆したか』それに対して、武蔵は『小次郎、敗れたリ、勝つ者が何ゆえに鞘を捨てるか』といった台詞が、小説やドラマなどでは、おなじみです。

『岩流』は『三尺の白刃』を手にして決闘に挑み、武蔵は『木刃の一撃』でこれを倒したとある。 このときの武蔵の必殺の一撃は『電光猶ほ遅きが如し』と表現されている。 また碑文には『両雄同時に相会し』とあり、武蔵は遅刻していない。

ここで、野次馬的な邪推『佐々木小次郎はサウスポー』であった。 下の絵のように、小次郎は、いつも、映画でも、芝居でも、右肩から30㎝もある『物干し竿』の柄を出して背負っています。

ウエブ情報から引用

当時の日本人の平均的な身長は155cm~158cmと言われていますので、小次郎の身長、五尺七寸(約173㎝)、武蔵は、さらに大きく、六尺(約182㎝)と大変な偉丈夫であった。 剣道と抜刀道の有段者である津本陽氏がこう言っています。 

身長、五尺七寸(約173㎝)の小次郎の使いやすい刀は、身長より三尺(約91㎝)引いた長さが目安で、彼の使いやすい刀の長さは、二尺七寸(約82㎝)になる。 これは、まっすぐ立ち,利き腕で刀を下げ、切っ先が地上すれすれになる程度。 これに対して小次郎の大太刀の名『物干し竿』(刃渡り三尺(約91㎝)、柄一尺の大業物)も、『二天記』の記された江戸時代中期頃に名付けられたが、しかし、いつ誰が命名したのかははっきりしていない

小次郎の身長では、『物干し竿』刃渡り91㎝、柄30㎝を背中に背負った状態で抜刀は大変で、神業であったろうと思います。 さらに疑問が右肩から柄が出ていますので、まず右手ではストローク不足で、難しいので左手での抜刀『サウスポー・左利き』だったと思います。 今後の課題は、佐々木小次郎の実戦記録探しです。 

(記事投稿日:2021/05/30纏め、#339)

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『縄文文化から邪馬台国卑弥呼・出雲王国・大和朝廷の天皇制へ 1』 『史学者と医学者と文学者の著書から縄文・弥生・古墳・飛鳥時代を調べる』

2023-02-15 17:17:22 | 歴史・日本

『縄文から邪馬台国卑弥呼・出雲王国・大和朝廷の天皇制   1』

『史学者と、医学者と、文学者の、著書から縄文・弥生・古 墳・飛鳥時代を 調べる』

『天照大御神=卑弥呼=崇神天皇説が、立証されることに期待』

 

先日、62年ぶりに松江・出雲を旅行しました。 たった二日間でしたが、『テレビで見る・本を読むと比べると、現地散策はかなり違う』を実感しました。 古代の日本を懐かしむあまりに、昨今の状況に少し愚痴を言わせていただきます。

 

なぜ今、縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良時代を調べて、コロナ禍の生き様を見直したくなるでしょうか。 地質年代では、新生代第四紀の、宇宙船地球号は『奇跡の星』、『水の惑星』と呼ばれてきましたが、今は人類が、地球に負荷をかけすぎ、地球は悲鳴をあげさせている『人新世』の時代に入っています。 

 

およそ一万余年続いた縄文時代からごく最近までは、人類は自然環境と共存をしてきましたが、現代の自然環境に及ぼす人類の影響は、具体的には、地球温暖化や海洋酸性化などの環境劣化、大量絶滅や生物多様性の喪失、生態系の危機や生態系崩壊などがあります。

 

20年も前のことですが、ドイツの大気化学者P=クルッシェンが地質時代の区分の一として提唱した時代区分に、『人新世時代』があります。 それ程、最近の地球は人類によって、時代区分を変えなければならないほど生態系を破壊しつつあります。

 

標題『史学者と医学者と文学者の著書から縄文・弥生・古墳・飛鳥時代を調べる』に戻ります・

 

國學院大學名誉教授 小林達雄著『縄文文化が日本人の未来を拓く』

千葉大学名誉教授 三浦佑之著『出雲神話論』

新潟大学脳研究所・統合脳機能センター長 中田力著『日本古代史を科学する』

作家 副島隆彦著『歴史再発掘』

 

日本古代史の『邪馬台国』と『出雲王朝』はまだまだ発掘の夢があるのではないでしょうか。 卑弥呼でおなじみ『邪馬台国』はどこにあった?古代史ミステリーは、なんでも自分の脳の中で、勝手に、自由に想像できる素人にとっても永遠のテーマです。 明治時代に、東京と京都の帝大で勃発した『距離か、それとも方角か・・・』の邪馬台国論争がいまだに決着つかずに続いています。

 

決着つきそうな発見が、畿内説と北九州説の両方にありました。

 

❶「畿内説」(奈良盆地説)が近年急激に巻き返したのは、奈良盆地の「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓(はしはか)の古墳」が卑弥呼の墓という説。

 

❷「北九州説」が根強いのは北部九州には、吉野ケ里遺跡や平塚川添遺跡などの環濠集落の遺跡があり、神武の東征神話、さらに漢から贈られた金印が出土していることから、九州説を唱える学者も多い。

 

「畿内説」❶に、ずーっと、自分も傾いていましたが、最近、副島隆彦氏の著書『歴史再発掘』のタイトルに魅かれ読み始めました。 特に圧巻は『邪馬台国はどこにあったのか、最近の話題』でした。 最近では、下記理由で「北九州説」に傾いています。

 

  • 西暦57年の邪馬台国・『倭奴国』「漢倭奴国王」の金印は、福岡県福岡市東区志賀島で発見(1784年)された。

 

  • 西暦57年の『魏志倭人伝の道程』の中に、『南至邪馬壹國女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸』と記録がある。

 

  • 邪馬台国の卑弥呼の後継者・臺與(「とよ」あるいは「いよ」、生没年不詳)は、日本の弥生時代3世紀に『三国志 (歴史書)』、魏志倭人伝中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女にして、卑弥呼の跡を13歳で継いだとされる女性である。

 

  • この邪馬台国が、熊襲(九州南部)に攻められ、西暦247年、卑弥呼は「狗奴国が攻めてくるので助けてください」と魏の皇帝に使いを出している。 当時、小国分立の中で畿内の邪馬台国が九州南部の熊襲に攻められたとは考えられない

 

  • 上記の二件のエポックからも、200余年続いた王朝が、途中で、福岡から奈良に遷都したとは考えられない。 こんな『遠距離遷都』は、遷都頻繁の奈良・平安時代にない。

 

  • 後述の弥生時代の鉄器の出土数No.1は熊本(2018年現在)、鉄器こそが権力の象徴ととらえる学者もおり、やはり『九州北部の邪馬台国』が南部の熊襲に攻められた客観的事実が重い。

 

ここから先は、今後の調査のための備忘録です 

昔の話ですが、1964/07/06~1971/04/12に7年余も、週刊文春に連載された松本清張氏の『昭和史発掘』が、装丁版・8巻で刊行されたとき、香港駐在中で、新聞の半ページ記事(パブリシティ)で知りました。 『昭和史発掘』の発掘に強い印象を受けた記憶がありました。

 

この記事の中に、まだ歴史にはなってない昭和史を書くので『昭和史発掘』としたのではということも言われていたと同時に『歴史』と『歴史小説』との違い等にも触れていたような記憶があります。 最近のテレビのドキュメンタリー番組もドラマも、自信満々で、これが史実、と言っているような面が多々あり、勉強になります。

 

副島隆彦氏はこの本の『歴史再発掘』の『まえがき』でこう言っています。 

歴史は再発掘されるべきである。 今も隠されたままなっている、大きな真実が土中に埋められている。 それらを敢えて掘り出して、白日の下にさらけ出すことを、私は常に決意してきた。 故松本清張氏の晩年の長い連載作品に「昭和史発掘」週刊文春に連載。 1964-1971年がある。 この歴史発掘という言葉に私は魅かれて、これにあやかろうと思った。 それでこの本の書名となった。

 

副島隆彦氏の著書『歴史再発掘』の抜粋引用です

邪馬台国論争の最前線、

(1)「畿内説」(内藤湖南派)京都大学の学者たちが唱えた。 邪馬台国は奈良県の南にあった。 やや奇抜だが、「畿内説」(奈良盆地説)が近年急激に巻き返したのは、奈良盆地の「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓(はしはか)の古墳」が卑弥呼の墓という説。 この古墳は日本最古の前方後円墳でもある。 箸墓古墳はヤマト王権最初の王墓と考えられている。 宮内庁は孝霊天皇の皇女の墓として管理。

 

 

(2)「九州説」(白鳥倉吉派)主に東京大学の学者たちが主張した。 大陸や朝鮮半島に 近い北九州の当たりにあった。有力であるが、問題は、邪馬台国は3世紀であることははっきりしている。 これが6世紀の畿内の大和朝廷とどのようにつながるか

弥生時代の鉄器の出土数No.1は熊本である。(2018年現在)鉄器こそが権力の象徴ととらえる学者もおり、邪馬台国に対抗していた「狗奴国」の有力候補地である。

ウエブ情報から抜粋・引用

 

ここで、陵墓の定義をウエブ情報(朝日新聞掲載「キーワード」の解説)からです。 陵墓の学術調査が、まだまだ、難しいようです

 

『天皇や皇喉皇太后を葬った「陵(みささぎ)」と、それ以外の皇族の「墓」などからなり、合計850。 他に被葬者を特定できないが陵墓の可能性がある「参考地」が46ある。皇室用財産として宮内庁が管理する。 明治憲法公布直後の1889年に古墳時代天皇陵がすべて定まり、その後の変更はない。』

 

『歴史再発掘』の抜粋引用です。

西暦57年邪馬台国・『倭奴国』『漢倭奴国王』の金印(見つかっている)『建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う。筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)、1784年4月12日発見された。

ウキペデイア情報から引用

西暦239年、邪馬台国・『倭国』「親魏倭王」の金印(見つかっていない)邪馬台国は中国の文献に出てくるコトバだ。 邪馬台国は、中国古代の「魏」という帝国の時に、邪馬台国の女王・卑弥呼が、貢物を「魏王」に、貢物を献上している。 それは西暦239年 このことが魏帝国の正史にとされる「三国志魏志」の中の第三十の「東夷伝倭伝」にある。

 

その中に、「倭の女王の卑弥呼から、朝貢使が来た」と書いてある。 それに対して、魏の皇帝が、「親魏倭王」という称号を「倭の女王」に与え、承認した。だから邪馬台国は倭国である。 この時国王としての称号と、金の印鑑「親魏倭王」の金印をもらっているが、この金印は見つかっていない。 西暦247年、卑弥呼は「狗奴国が攻めてくるので助けてください」と魏の皇帝に使いを出している。

 

狗奴国が攻めてくるというのは、おそらく「熊襲」と呼ばれていた、今の熊本や鹿児島に住んでいた人たちだと私は思う。 魏は助けには来なかったが、錦の御旗を送ってきた。 このあと「倭国は大きく乱れた」と「魏志倭人伝」に書いてある

 

この「魏志倭人伝」の情報から、邪馬台国が九州南部であった可能性が高くなります。 熊襲のウエブ情報です。

熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト政権に、抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。 古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。

 

『歴史再発掘』の抜粋引用です。

『私、副島隆彦は、どう考えてもこの邪馬台国(倭国)は、北九州の当たりだと考える。 今の福岡市そのものだ。 邪馬台国(倭国)は、紀元前100年から紀元後663年(白村江の戦いで大敗)までは存在しただろう。 

 

朝鮮半島の南の沿岸部一帯にも倭人は住んでいた。 だからこの辺りも倭国だ。 北九州一帯と同じ言葉を喋って同じ文化だったろう。 漁労民(海洋性の民族)だったろう。 だから、倭国というのは、今の釜山を含む南のほうと北九州一帯と、今の山口県のあたりまで含んでいた。

 

百済という朝鮮半島で一番大きな国があって、倭国は百済の弟分のような国だった。 両国民は言葉が自然に通じたようだ、 2600年を遡ると、日本語と朝鮮語は同一だったようだ。

 

大和とヤマト

前述したとおり、西暦200年代の「邪馬台国は大和(ヤマト)だと言って奈良盆地に無理やり決めてしまおう、という動きが文部科学者の文化審議会を牛耳る頑迷な古代史の学者たちから出ているのが今の今の動きだ。

 

中国から、この「大和」(大きな平和)という漢字を700年代にもらってきてそれを「やまと(山門)」という日本の土地の言葉に覆いかぶせた。 そして、漢字の大和と読ませた。

 

日本文明というのはない。 それはフランス文明やイギリス文明がないのと同じことだ。

 

北九州あたりにあった邪馬台国(倭国)がいつ滅んで消えてなくなり、いつの間にか奈良盆地が、日本の中心で大和朝廷・ヤマトになったのか。 西暦300年代、400年代か、500年代には『山門・ヤマト(奈良盆地)』が中心だ。

 

西暦400年代の100年間は、今の難波(大阪)や、その南の河内地方に大王(おおきみ)たちが大国をつくっている。 これが仁徳天皇や雄略天皇。 中国側の文献『正史宋書』では『倭の五王』と言われる。

西暦663年の『白村江の戦い』のとき、2万8000人の全軍を出して大敗北したとき倭国(余談;倭国連合の中心に卑弥呼の子孫の邪馬台国があったか?夢のある課題が残った。)は滅んだ。 

 

北九州北部の邪馬台国の旅は、国土地理院地図とグーグルマップで我慢して、コロナ禍終息後の奈良明日香・飛鳥路の旅が楽しみになりました。

(記事投稿日:2023/02/15、 #626)

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『古代の日本は・日本人は凄い 1(二つの酒船石 1)』―「出水の酒船石』は現在、京都の南禅寺にある「野村碧雲荘」の庭石―

2023-02-08 06:13:30 | 歴史・日本

     『古代の日本は・日本人は凄い 1(二つの酒船石 1)』

            ―「出水の酒船石』は現在、京都の南禅寺にある「野村碧雲荘」の庭石―

 

 最近は、世相の厳しさが、どんどん増大するばかりですので、夢のある古代の縄文・弥生・古墳時代を懐かしみ、古代の遺跡を調べていると、運よく、『酒船石』について、新しくて古い情報を見つけました。 特に用途・何のためには、いろいろあります。

先ずは、酒船石は、二つありましたことを浅学菲才の自分は最近知りました。 一つ目の『酒船石』は、『明日香村岡(地名)』の丘の上と、およそ『400ⅿ離れた飛鳥川畔の「亀形石造物・小判形石造物」(酒船石遺跡群のセットがありました。

❶『岡の酒船石』
一般に知られている『酒船石』です。 以前から知られている丘の上の酒船石に加えて、丘の麓で、平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物および砂岩石垣・版築などの周辺の遺構を含めて酒船石遺跡群)と呼ばれています。

ウェブ情報(ウキペディアの写真)から引用

 上記の写真とイラストのように、北と南(向かって左右)の一部が欠けている。 後世江戸時代に、高取城を築城するため石垣用の石材として利用しようとしたと思われる石割用の石鑿の跡が見られ、上面の造形が欠損している。

『亀形石造物・小判形石造物』 (酒船石遺跡群の一角)

ウェブ情報(ウキペディアの写真)から引用

『酒船石と亀形石造物・小判形石造物』の位置関係

ウエブ情報から引用

❷『出水の酒船石』
 出水の酒船石は大正時代に発見されています。 農作業中の農民が二つの石造物を掘り起こし、その形状が『岡の酒船石』と似ていたために、出土地の地名から『出水の酒船石』と名付けられた。

ウェブ情報(『ラオスと飛鳥の謎の石造物考』)から引用

 『出水の酒船石』は、現在、京都の南禅寺にある『野村碧雲荘』の庭園の庭石として使用されています。 その『新しくて古い情報』が2010年5月20日(土)のNHK『ワンダーワンダー 京都天下無双の別荘群の放送内容に関連した、ウエブ情報『ラオスと飛鳥の謎の石造物考』の抜粋です。

「ワンダー×ワンダー」の映像では、出水の酒船石は「野村碧雲荘」の庭園の樋として使用されていた。 この映像を見た瞬間、この石はヒンドゥー教の「ソーマスートラ(聖水の流れる溝)」だと直感した。 

「岡の酒船石」と同じように大きな石に凹状に彫り込んだ謎めいた石で、見学時から気になっていたラオスのワットプーにある「ワニ石」もヒンドゥー教に関係あるのでは?と、思った。

ワットプーのあるチャンパサックは5世紀頃からクメール(真臘)の揺籃の地だが、それ以前はチャンパが支配していた。 そのクメールもチャンパも同じヒンドゥー教を信仰していた。

と、ヒンドゥー教との関連の情報がありました。 

明日香村の『岡の酒船石』7世紀ごろ

ウエブ情報(『ラオスと飛鳥の謎の石造物』)からの引用

赤〇部分に原材料、黄〇部分は小判形、青〇部分に円形窪み(大半欠損)

ラオスのワットプーの『ワニ石』5世紀ごろ

ウエブ情報(ラオスと飛鳥の謎の石造物』)からの引用 赤〇部分に原材料、黄〇部分中央がすり減っている、青〇部分の溝は外まで続く。

ここで、諸説ある『酒船石の用途』で比較したい『説』が、松本清張氏の『ゾロアスター教・拝火教の儀式用』があります。 このゾロアスター教・拝火教は、世界最古の宗教の一つですが、7世紀後半以降はイスラム教の支配で衰退して、現在の五大宗教には入っていません。 

余談ですが、五大宗教の古さの順は下記の通りです。 現在は、複雑にモザイクのように入り組んだ世界で、58億人以上の信者がいます。 

 ヒンズー教: 紀元前数千年前ごろ
 ユダヤ教:  紀元前千年前ごろ
 仏教:    紀元前6世紀ごろ
 キリスト教: 1世紀ごろ
 イスラム教: 7世紀ごろ

因みに、
 ゾロアスター教・拝火教: 紀元前7世紀ごろ
 儒教:          紀元前5世紀ごろ
 神道:          紀元前数世紀(縄文時代後半から弥生時代)ごろ

ここで、このテーマに関連する事項を時系列に並べてみました。
① 『出水の酒船石』の発掘:                  1916年
② 『松本清張氏のゾロアスター教・拝火教の儀式用説』:     1973年
③ 『岡の酒船石』の関連遺跡『亀形石造物・小判形石造物』の発掘:2000年
④ 『ワンダーワンダー 京都天下無双の別荘群』のNHK放送:      2010年

 松本清張氏が、小説『火の路』に『ゾロアスター教・拝火教の儀式用説』を発表したころには、『岡の酒船石』の関連遺跡『亀形石造物・小判形石造物』の発掘はされておりませんでした。 当時は『岡の酒船石』に『亀形石造物・小判形石造物』含まれておらず、明日香村岡の遺跡は単独で遺跡の集合体ではなかった。 さらに、ラオスのワットプーの『ワニ石』との比較情報もなかった可能性があります。

 ウエブ情報にはこんなことも載っています。 

松本清張氏の;『火の路』で発表した学説の訂正を後の評論で発表
ここで注意したいのは、小説の中であっても、清張は古代史に関して自身が抱く学説を、登場人物を通して本気で語っていることである。 後に『清張古代史記』(1982年11月)で『火の路』に言及して、「あれはどこまでも小説だが、そこに述べた仮説はわたしのものである」と述べている。また、『火の路』で指摘されている「両槻宮」についての説の訂正を、後に『ペリセポリスから飛鳥へ』(1975年5月)で行っている。 普通ならば、小説中で語られている学説は訂正する必要がないはずだが、清張はそれを行っているのである。 つまり、彼は小説であっても、本気で古代史に関する自身の学説を語っていたわけである。

 酒船石は、 酒を造る道具・薬を造る道具・宗教儀式の道具、あるいは天体観測のためか等々、現時点では判断できませんが、益々、憧れの古代、縄文・弥生・古墳時代に、夢は広がり、これからの楽しみが増えました。
(記事投稿日:2020/03/07、最終更新日:2023/02/08、#148)

 

 

 

 

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『知る喜び「信長の妹・お市の方の波乱万丈」(この兄にこの妹あり』   ―お市の方と徳川家康は婚約していた事実を見つけた安部龍太郎氏は凄い―

2023-01-30 07:32:57 | 歴史・日本

『知る喜び「信長の妹・お市の方の波乱万丈」(この兄にこの妹あり』

『お市の方と徳川家康は婚約していた事実を見つけた安部龍太郎氏は凄い』

 

20210418の日経新聞の文化欄で、標題の備忘録を作成することになった、安部龍太郎氏のエッセイ『家康とお市の方』を見つけました。 この興味あることが、今後の課題となり、国会図書館通いを再開したいと思いました。

 ウキペディアから引用 

お市の方の姫子・三姉妹、淀殿(長女・茶茶)、京極高次の正室(次女・初)、徳川秀忠の正室、(三女・江)、明正天皇は『江の孫』と、彼女らがあまりにも有名ですが、今回、彼女らの母についてもよくわかりました。 『この三姉妹の母・絶世の美女のお市の方は、凄さと、波乱万丈と、数奇な運命です。』

 

赤文字はエッセイから(タフな課題ですが時系列に並べると疑問も!)

数奇な運命に翻弄された戦国一の美女・お市の方の生涯

 

生年       天文16年(1547年)

浅井長政と結婚  永禄10年9月(1567年) 20歳(当時としては晩婚)

(長政は主家の六角氏の家臣・平井定武の娘と婚約してい たが、お市の方 との婚姻により破談となった。 二男三女を、二男は実子かどうか不明。)

6年後小谷城陥落 天正元年8月(1573年) 浅井長政自害

 

徳川家康と婚約  天正10年5月(1582年) 信長が親代わりで婚約

 

本能寺の変    天正10年6月(1582年) 信長横死

柴田勝家と結婚  天正  10年8月(1582年) 

(織田家筆頭家老・勝家と秀吉の申し合わせでお市の方は  柴田勝家と再婚することになった。 婚儀は岐阜城で行われ、勝家の居城・北ノ庄城に三姉妹と共に入った。)

 

徳川家康に進上物 天正10年8月(1582年)  お市の方から家康思いの証と

信長の義弟と表現 天正10年11月(1582年)ルイス・フロイス書簡に明記

 

勝家と共に自害  天正11年3月(1583年) 享年37歳

 

信長・秀吉・家康の三英傑はそれぞれ凄いと思ってきましたが、ここに、お市の方を加えたいほど、この方は凄い、信長の言いなりに政略結婚に振り回されただけとは思えず、それとも、『強い自分』の意志で生きたのか、分からなくなりました。

 

このエッセイの冒頭にこうありました。 以下は抜粋です。

『「信長の妹のお市の方と家康は婚約し、床入りもすませていました」 そんな話をすると、多くの方が怪訝な顔をされる。 中でも歴史に詳しい方は「冗談でしょ」と取り合おうともなさらない。

 

これまで戦国時代に関する万巻の書物が上梓されているが、2人の婚約について記したものは(管見の限り)1冊もない。 だから一笑に付されるのも致し方がないが、これは紛れもない事実である。

 

私がそうではないかと思い始めたのは、家康の重臣松平家忠が残した「家忠日記」の天正10年5月21日の記事を読んだからである。 安土城からもどった者から、信長が手ずからお膳を据え、麦こがしを引いて家康主従をもてなしたと聞いた。 (天正10年6月2日早朝・本能寺の変の12~13日前)

 

その上信長は引き出物に、帷子を2つずつ与えたが、その内1つは、女性用の紅の生絹(すずし)だったという。 しばらく考えているうちに、これは三日夜の餅と三日夜の絹ではないかと思い当たった。 

 

婿取り婚が一般的だった平安時代、男は女の家に忍んでいった。 そして一夜二夜と共に過ごし、三夜目になれば婚約が成立したと見なし、女の父が三日夜の餅でもてなし、女の着物を三日夜の衣としておみやげに持たせた。

 

信長がこれと同じ形で家康をもてなしたのは、お市の父親替わりとして婚約を祝ったものではないか。 そう考え、お市と家康の関係を証明する記録はないかと資料にあたるようになった。 

 

すると同じ「家忠日記」の天正10年12月11日の条に次のように記されていた。

「古府(甲府)へ出仕候、明日帰陣候への由、仰せられ候、越前芝田(柴田)所より、しちら30巻、は綿百杷に、鱈5本なり。 家康はこの頃、本能寺の変後の豊饒と対立していたが、和議が成立、帰陣することになった。

 

そんな折に、越前の柴田勝家のところから『御音信』があったのである。 家忠の敬語の使い方を見れば、贈り物をしたのは勝家ではなくお市の方だと分かる。 贈り物の、しちら30巻、は綿百杷で、綿入れをつくって寒さをしのいでという心遣い。 鱈は正月料理に欠かせない北陸の名産品である。 勝家との政略結婚後も家康に思いを寄せ、こうした贈り物もしたらしい。』

 

(お市の方の政略結婚を決めたのは信長で、信長は、この半年前に本能寺の変で横死、今回の結婚は大嫌いな秀吉が決めているし、勝家とは一年半余の結婚生活だったが、家康への贈り物の4ヵ月後には、勝家と一緒に自刃している。)

『信長の妹のお市の方と家康は婚約し、床入りもすませていました』ということよりもお市の方と3人の姫子・三姉妹に俄然興味が湧いてきました。

(記事投稿日:2021/04/19 、最終更新日:2023/01/30、#319)

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『日本は凄い・日本人は凄い (石舞台古墳、天皇家と蘇我一族)』『蘇我入鹿は影の天皇とまで!(系図は稲目―馬子―蝦夷―入鹿)』

2022-11-20 14:49:00 | 歴史・日本

『日本は凄い・日本人は凄い (石舞台古墳、天皇家と蘇我一族)』 

『蘇我入鹿は影の天皇とまで!(系図は稲目―馬子―蝦夷―入鹿)』

『更に凄い系図、孝元天皇・・武内宿祢・・蘇我満智・・蘇我高麿―蘇我稲目』

 

今こそ『頑張らなければいけない、日本は・日本人は』ですが、やはり『古代日本は凄かった・古代日本人は凄かった』特に縄文人は、それに続く天皇家と蘇我一族についても知りたいことが沢山あります。

 

古墳時代では、古墳が権力の象徴のように見えますが、最近は、形と大きさだけで、権力の大きさ、判断はできないことが分かりました。 先ずは蘇我馬子の石舞台古墳です。 本来なら石室の上に土盛りがされていますが、今は石室の上部が出ており、石舞台などと呼ばれていますが政敵にあばかれたものです。 日本史上、最大の石室を持った蘇我馬子古墳を再現して頂きたいとものです。

 

先ずは、77トンと、60トンの石材を天井石に積み上げた、石舞台古墳・蘇我馬子古墳を、初めて見た時、特に石室内部を見上げた時には、その構造に驚いた記憶があります。

 

石舞台古墳全景

ウキペデイア情報から引用

 

石室側面

ウキペデイア情報から引用

 

石室出入口

 

ウキペデイア情報から引用

 

石室内部

 

ウキペデイア情報から引用

 

日本史には、弥生時代と飛鳥時代の間に、世界でも珍しく古墳時代と呼ばれた時代がありました。 古墳時代は、3世紀中頃 ~ 7世紀頃ですが。 およそ16万基は建設されたようですが、当時の日本の人口は500~600万人ですので、この古墳建設のエネルギーはどこから来たものか、楽しみな今後の課題です。 古墳と蘇我一族の凄さを少し調べました。

 

古墳の時期区分

時期       前期        中期       後期

        3世紀後半       4世紀末        5世紀末  

               ~4世紀後半      ~5世紀後半      ~7世紀

  

分布        近畿中央部       近畿中央部から    全国に拡大

                    各地へ

 

形態    近畿中央部は大規模な  前方後円墳巨大化    近畿中央部は大規模な

      前方後円墳       周囲に堀や陪塚       前方後円墳

 

内部   竪穴式石室       竪穴式石室      横穴式石室が

構造   粘土槨・木棺・石棺   木棺・石棺      全国に普及

 

実例   ホノケ山古墳      大仙陵古墳      石舞台古墳

     (奈良県)       (大阪府)      (奈良県)

      箸墓古墳        誉田御廟山古墳    藤ノ木古墳

             (奈良県)       (大阪府)      (奈良県)

 

主な   ヤマト政権成立       5紀の初めから       527年 磐井の乱

出来事                約1世紀の間、

                  倭の五王が中国の

                  に朝貢

    391 倭軍が百済・                  592年 推古天皇即位

    新羅を破る

 

石舞台古墳;権力者・蘇我馬子(墓説)は前方後円墳ではなく方墳

箸墓古墳(奈良県):卑弥呼の墓と推定されるが、邪馬台国北九州説?

磐井の乱;磐井の乱は、527年に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。

 

日本の古墳の形は大きく分けて前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の4つに分類されます。 古墳時代は大和政権により墓制(埋葬の風俗・風習)が敷かれていてこの中で最も高いランクに位置付けられていたのが前方後円墳です。 前方後円墳は3世紀中ごろに成立した形で大王やその一族、大和政権と密接な関係の地方の有力首長が埋葬されています。 前方後方墳は3~4世紀に流行した形でルーツは東海地方西部と言われています。

 

前方後円墳は3世紀ごろから造られ始めて5世紀には岩手県から鹿児島県までに広まっていきます。 そして前方後円墳は7世紀初め頃には造られなくなります。 大きさは墳丘長、10mのものから数百mのものまであります。
大阪府大山古墳(仁徳陵古墳)の大きさは墳丘長、486mもあって面積ではエジプトのクフ王のピラミッドよりも大きいのです。

 

 身分の差と時期によって異なる古墳の種類  ウエブ情報から引用

古墳は、時代によって築造された、その形状が異なる。 前方後円墳や前方後方墳は古墳時代の初期から見られ、後期にあたる6世紀まで築造されていた。また帆立貝(ほたてがい)式古墳は、前方後円墳の変形あるいは円墳の変形であるが、5世紀を中心に築造されたものであった。 円墳と方墳は初期から古墳時代の終末期である飛鳥時代まで続くものである。 ちなみに最も多い形は円墳であり、全国に20万基ともいわれる古墳のほとんどを占める。


その他には、数が少ない特殊なものがいくつかあげられる。双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)は前方後円墳の変形で、前方後円墳に方の段が取り付いたものであり、前期に見られたもの。一方、双円墳(そうえんふん)には後期の例がある。上円下方墳や八角形墳は時代が下った7世紀代に見られる形で、八角形墳は天皇陵と見られるものであった。

 

蘇我一族の系図

(日本史を選択せずとも知っていたこの系図、稲目―馬子―蝦夷―入鹿)

ウエブ情報から引用

 

政権争いの結果、政敵に破壊されてもこれだけ残った別名『石舞台』の巨石の方墳墓、大化の新政権は蘇我宗本家の旧政権否定から始まり、飛鳥京の上方部の馬子の巨大墳墓の破壊から開始された。

 

蘇我馬子墓、『説』、と言われるが三重中京大学のコンピュータ―画像解析で、石室内部の羨道の玄門上部に、馬と子の字の半分が読めた。大宝律令条文にも、『墳墓には碑文を立てよ』とある。

 

欽明天皇(571年2月没)の円墳が先で、蘇我馬子(626年5月没)は後で方墳。 これも馬子墓説の裏付けの一つ。 著名の考古学者曰く、『歴史に確実はないが、定説でいえば、・・・』、とあり、これは蘇我馬子の墓が確実に近い、定説と言えそうです。 蘇我一族の祖先の渡来人説調査は楽しみな課題です。             

(記事投稿日:2022/11/20、#602)

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