知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『藤原道長は巨人か妖怪か(天皇制と帝王制の共存を創った怪物か』 『宮廷のしきたりを、巧くかわし、前代未聞の一家三后を実現!』

2024-11-30 14:45:43 | 歴史・日本
『藤原道長は巨人か妖怪か(天皇制と帝王制(貴族と武士)の共存・鼎立を創った怪物か、十数人もいる光源氏のモデルの一人でも!』

こちらの「モデル」というのは、実在の人物を創作の「ヒント」にした、というのが真相でしょうか。 そこに、藤原道長がトップで絡むと、なおさら「源氏物語」が凄さを帯びる。 この物語は、平安時代中期、11世紀初めに成立した、世界最古の長編小説です。 今後の調査の楽しみのために十数人のモデルを列挙しました。

藤原道長、在原業平、在原行平、源融、源高明、光孝天皇、宇多天皇、藤原伊周、
藤原実方。源光、敦慶親王、惟喬親王、敦康親王、敦明親王、大物主神

『宮廷のしきたりを、巧くかわし、前代未聞の一家三后を実現!』
一家三后:自分の3人の娘が、三代天皇の皇后

『「この世をば わが世とぞ思ふ・・・」と、酒宴で酩酊時に詠んだ』
よくぞ、詠みました! 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」は藤原道長が祝宴で詠んだ句です。 この句の意味は「この世は自分のためにあるようなものだ。 望月(満月)のように足りないものは何もないと思えるから」という意味です。この句からは、ごう慢で偉そうな態度をとる性格がうかがえます。

さて、表題に戻ります。 千年以上継続可能な『天皇制と帝王制』共存・鼎立のしくみを、最初に創った巨人・怪物・妖怪が藤原道長ではないでしょうか。


 ウキペデイア情報から引用

生涯

966年 ( 1歳)藤原兼家の五男として誕生

995年 (30歳)道長の長兄関白・道隆と三兄である道兼が次々と死去。道長、右大     臣、藤原氏長者となる

996年 (31歳)長徳の変で藤原伊周とその弟・隆家が失脚。左大臣に昇進。

1000年(35歳)長女・彰子が一条天皇の中宮(皇后)となる。

1008年(43歳)彰子が敦成親王を出産。

1012年(47歳)三条天皇に入内していた次女・妍子が中宮(皇后)となる

1016年(51歳)三条天皇が譲位し、敦成親王が即位(後一条天皇)、道長摂政となる。

1017年(52歳)摂政と氏長者を嫡男・頼通に譲る。太政大臣となる。

1018年 (53歳)三女・威子を後一条天皇に入内させる。威子の立后のときに「この世をば」を詠う。

1019年(54歳)病になり、剃髪して出家する。

1028年(62歳)死去

 

人物と逸話

  • 花山天皇が深夜の宮殿をめぐる肝試しを命じた際には、道長一人大極殿まで行き、証拠として柱を削り取ってきたという(『大鏡』)。
  • 父・兼家の葬儀の際、道長の堂々たる態度を見た源頼光は将帥の器であると感嘆して、自ら従うようになったという。
  • 弓射に練達。 兄道隆は、弓比べを止めさせたという(『大鏡』)。
  • 紫式部・和泉式部などの女流文学者を庇護し、自邸でも作文会や歌合を催したりした。 『源氏物語』の第一読者であり、紫式部にいつも原稿の催促をしていたといわれている。 また、主人公光源氏のモデルのひとりとも考えられている。
  • 歌集『御堂関白集』を残し、自ら拾遺以下の勅撰歌人でもある。 もっとも道長本人は和歌より漢詩の方を得手としていたようである
  • 政治家としては、新制(長保元年令)を発令し、過差(贅沢)の禁止による社会秩序の引締估価法の整備などの物価対策などにも取り組んだ(道長や実資が死ぬと公卿が社会政策に取り組む事はなくなり、院政や武家政権に政治の実権を奪われる遠因となる

さらなる、道長の凄さですが、『道長の33歳から56歳にかけての日記は「御堂関白記」(「法成寺摂政記」)と呼ばれ、自筆本14巻、書写本12巻が京都の陽明文庫に保存されている。 誤字・当て字が随所に散らばり、罵言も喜悦の言葉も素直に記してある。 当時の政治や貴族の生活に関する超一級の史料として、1951年に国宝に指定された。 また、2011年5月、ユネスコの「世界の記憶」へ推薦され、2013年に登録された。』

『世界の記憶』(「世界記憶遺産」から名称変更)は、2011年筑豊の炭鉱記録画(山本作兵衛)の作品群が日本で初めてユネスコ「世界記憶遺産」に登録され大きな話題をあつめました。 国内では現在まで6件(ユネスコのホームページにリンク)が登録されています。

表題『藤原道長は巨人か妖怪か(天皇制と帝王制の共存・鼎立を創った怪物か)』の通り、藤原兼家の五男として誕生した傑出の人物でした。

(記事投稿日:2021/11/21、最終更新日:2024/11/30、#427)

 

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『島国日本にも世界三大墳墓の一つ、仁徳天皇陵古墳があった』

2024-11-11 08:01:33 | 歴史・日本

『島国日本に世界三大墳墓の一つ、大山陵古墳があった』 

世界の三大墳墓の敷地面積比較;
 始皇帝陵コンプレックス:     約52万平方
 ギザの大ピラミッドコンプレックス:約48万平方
 大山陵古墳:           約47万平方』 

大きさの比較には、いつでも、引用させていただきますのが、本川達雄著の『ゾウの時間・ネズミの時間』には、『動物は大陸では大型化が進み、島では小型化が進む』とあります。 超大型建造物にも言えます。 超大型建造物の構築には大きな労働力の動員が出来る人口と、それを養う十分な食料調達が出来る広大な領土が必要になります。 

 

日本は島国で、大陸の『縁・ヘリ』に位置するが、『大陸では大型化するという原則からは、外れ、『世界三大古墳の一つ』がありました。 大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町にある古墳・天皇陵。 形状は前方後円墳。 百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つで、日本最大の古墳である。この古墳の三重の堀は、日本に5ヵ所のみと言う珍しいもので、外堀は、江戸時代に開墾されていたが痕跡があり、明治時代に掘り直された記録があります。

外国人がよく言う『日本は凄い、日本人は凄い』は、世辞か実力かどうか、の調査が、今後の課題です。 昨今は、ロマンのない世情ですので余計に調べたくなります。 この超格差社会の中で、超大国のリーダー達が『弱肉強食、強いものだけが生き延びればよい、石器時代』に逆戻りさせていますので。

 

先ずは、ウエブ情報です

百舌鳥古墳群にある仁徳天皇陵古墳は、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と、ともに世界三大墳墓の一つに数えられます。 三大墳墓の大きさを比べると、仁徳天皇陵古墳の巨大さがわかります。

            全長(m)  高さ(m) 体積(万立米)

仁徳天皇陵古墳     486     36    140

始皇帝陵        350     76    300

クフ王ピラミッド    230    146    260

 

最近の宮内庁の発表では、5世紀の築造当時は、全長525m。

周濠に水がある古墳の全長を、どこで測るかは学術的な定義がなく公式の全長を変更する予定はないという。

 

始皇帝陵は兵馬俑坑(副葬坑)を含めたら、世界最大級規模になる。 兵馬俑坑はこの陵を取り巻くように配置されており、面積は25万m2余りに及ぶ、きわめて大きなもので、3つの俑坑には、戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で、8,000体ちかくあり、兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはないことが『ネオフェイス』と言う世界で高い評価を受けている顔認識のソフトで立証されている。 

不思議で且つ驚異の技術です。

 

大ピラミッドには、自重で潰れないように『重量軽減の間』採用その技術と長期間の建設作業『期間二十数年余、2分強間隔で、重量2トン超の石材230万個余りを』を分業・流れ作業で積み上げた

 

『クフ王の大ピラミッドについて1978年に大林組が「現代の技術を用いるなら、どのように建設するか」を研究する企画を実行した。それによれば総工費 1,250億円、工期5年、最盛期の従業者人数3500人という数字が弾き出された。』 当時のあらゆる建設重機と、この建設のための新規設計の専用重機使用です。

 

 さて、仁徳天皇陵古墳ですが、埋葬されている埴輪の調査や議論の結果、そこに眠るのは仁徳天皇とは断定できない。ということで教科書での呼び名も「仁徳天皇陵」から『大山古墳』へと変更されたので、今では『大山古墳』と呼ばれています。 世界最大級の墳墓で、5世紀中頃に築造されたと考えられており、

全長486mの前方後円墳で、周囲の三重の濠を含めると面積は46万m2余りで、

世界最大です。 島国日本に名実ともに世界最大の墳墓がありました。

 

大山古墳について、ここに侵入したことがあるという、昔の少年達の冒険談を、聞いたことがあります。 少年時代に見た、有名なアメリカの冒険ホラー映画『スタンド・バイ・ミイ』を地で行く如く冒険で、この大山古墳に入って探検遊びが出来たと、そこでは魚釣りさえもできたと。 自分達の少年時代の冒険と言えば、かなりローカルな話題で恐縮ですが、千葉県旭市飯岡の屏風ヶ浦『東洋のドーバー』の崖下を、干潮時(満潮時には、狭い砂浜は、荒波に水没し危険に、命懸けで、通蓮洞(陰陽師・安倍晴明の伝説の場所)までの約3㎞を突っ走ったことがあります。 夢があり、少年達が生き生きとしていた時代です。   (記事投稿日:2018/05/19、 最終更新日:2024/11/11、♯017)

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『奈良のこと 3.1(日本にもあったオーパーツ 益田岩船)』―哲学者・梅原猛は著書「飛鳥とは何か」で飛鳥で一番奇怪なのは益田岩船と—

2024-09-14 10:58:25 | 歴史・日本

『奈良のこと 3.1(日本にもあったオーパーツ 益田岩船)』

『哲学者・梅原猛は著書「飛鳥とは何か」で飛鳥で一番奇怪なのは益田岩船と』

 

毎度のことですが、古代の石造物や、山城を訪ねるのはアプローチが大変です。 なぜか、行くときは決まって高温・多湿時期です。 気温32C以上、湿度は80%以上。 その上いつでも、やぶ蚊の顔・首・腕への凄まじい攻撃に会います。 過去の経験は生かされず防虫スプレーも防虫ネット帽子も準備せずに。

 

岩船山登山口に『益田岩船』の看板

 

 

やっと見えてきました『益田岩船』

 

現在の益田岩船の表面(用途が『横口式石槨』であれば本来ここが上部なる。 現在の上部の角穴の水が割れ目から漏れ出しており、当時仕上げ途中で放棄説)

 

 

丘の中腹の高いところから見た『益田岩船』の上部

 

7世紀頃の建造と推定される、奈良県橿原市の南端の岩船山(130m)の頂上近くにある古代の巨大石造物のひとつが益田岩船(ますだのいわふね)。 東西11m、南北8m、高さ4.7mの花崗岩の巨岩で、重量は推定800トンとも。 哲学者・梅原猛は、著書『飛鳥とは何か』で「(飛鳥で)いちばん奇怪なのは益田岩船である」と断言しています。

 

ここで、余談です。 世界では;

ギザの大ピラミッドに使われている最大の石材が、女王の間と王の間の屋根の梁には、巨大な花崗岩と石灰岩が使われていて、一個の重さが60トンを超える石もあります。 石を切り出して積み上げるのが得意な古代のヒトも、これが限界でしょうか。 石の切り出し・運搬(滑車と傾斜上の逆レール状の橇使用)・構築方法に関しては推測されている。

 

15世紀構築のインカオリャンタイタンボの6枚屏風岩6枚中最大のものは、高さ4m、幅2.5m、厚さ平均1m、重さ約80トン。 80トンもの重量のある巨石を330mの高さの山上で切り出し、一度山の麓まで降ろし15キロもの距離を運ぶ途中で、川を渡らせ、再び、150mもの丘の上に上げたことになる。 具体的な、石の切り出し・運搬・構築方法に関して分かっていません。 特に運搬方法は。

 

日本にもありました。

石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。 国の特別史跡に指定されている。  元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。

この石舞台には、77トンと60トンの天井石が載せられていますが、全く加工はされておらず、無垢の自然石です。 具体的な運搬・構築方法に関して分かっていません。 特に運搬方法は。

 

さて、益田岩船に戻ります。 

余談の巨石と比較、推測できますが、『かつては、益田岩船は、他から運ばれて来たという説もあったが、現在では最初から今の場所にあった』と考えられている。

 

さて諸説ある用途(ウエブ情報から);

  1. 石碑の台石説 
  2. 占星術用の観測台説 
  3. 火葬墳墓説 
  4. 物見台説
  5. 横口式石槨

現在有力視されている説。南東500mほどの場所にある牽牛子塚古墳は横口式石槨であるが、岩船の穴の形状もこれと似ているため、同じように古墳として造られ、完成時には現在の北壁面を下に横転させ古墳石室とする予定だった。また東側の穴と違い、西側の穴には水が溜まらないことから、後者にはひびが入っていることが分かっている。 このため、建造途中で破損が判明し、放棄したのではないかとの説がある。 下部にのみ格子状の溝があるのも整形途中で放棄されたと見ることができる。 猪熊兼勝は、益田岩船は大阪府寝屋川市の石室の露出した石宝殿古墳に酷似し、この2つの石造物と同様な構造をもつ完成品は、牽牛子塚古墳石室しかないので、牽牛子塚古墳石室の完成までに益田岩船、石宝殿古墳で二度の失敗を繰り返した後、軟質の凝灰岩の石室で完成させたものが、牽牛子塚古墳であるという説を提唱している

 

実物を見て感じたことですが、岩船山の『天辺に近い傾斜地』にある800トンの巨石を四分の一半回転させて横置きにする困難さ(モアイ像・20~90トンは、前に穴を掘って、そこに滑り込ませて立てたが)を考えると、『益田岩船』は、このままの状態で使う『2.占星術用の観測台説』が最有力の説かと思いました。 ここにも『日本は凄い』、『日本人は凄い』がありました。

(記事投稿日:2019/07/29、最終更新日:2024/10/17、#112)

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『悲劇の二代目(秀頼は秀吉の実子か? などとは詮索しない時代があった)』―戦国大名が子孫繁栄を継続するには、正室と、大勢の側室に大勢の子供を―

2024-09-06 17:05:58 | 歴史・日本

『悲劇の二代目(秀頼は秀吉の実子か?などとは詮索しない時代があった)』

『戦国大名が子孫繁栄を継続するには、正室と、大勢の側室に大勢の子供を』

  豊臣秀吉の子宝に恵まれなかったことは記録残っています。 愛した女性と言えば、北政所や淀殿が有名ですが、全員を合わせると20人ほどの側室がいたそうです。 公家や大名等の名門出だけでも13人もおりました。 手を付けた女性や、妻たちのお世話をする女性を含めるとかなりの数になり、『日本史』を著したルイス・フロイスの目には300人もの愛人がいるように映っていました。

 

天下統一を成し遂げた男は、どんな女性を愛したのでしょうか。 正室、北政所には実子はありませんでした。 又、秀吉の側室になる前には子をなした例や、側室では子に恵まれず、秀吉の側室の後で嫁いだ先では、子をなした例は多々ありますので、秀吉本人は子宝にはあまり恵まれなかったようです。

 

茶々が秀吉の側室になったと言われるのは1587年ころ。 この時1537年生まれの秀吉は50歳。 1569年生まれ(説)の茶々は18歳。 32歳の年齢差の二人には、親子以上の年齢差があります。 しかし、側室を幾人も置いた当時としては、珍しいことではありません。 たとえば1543年生まれの徳川家康の側室の一人である「お六」は、1597年生まれであり、その年齢差は54年でした。

 

側室淀殿は、天正17年(1589年)、捨(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになった。 鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入して大蔵卿局・響庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った。

 

16113月、徳川家康は61歳、身長160㎝弱(当時小柄ではない)」は、成人した豊臣秀頼を、京都二条城に、呼び会見し臣下の礼をとらせた。 秀頼18歳、身長190㎝前後鎧・具足や衣類から推量、それにしても大きい、宮本武蔵より大きい)の、美丈夫・偉丈夫であった。

この秀頼18歳、身長190㎝前後の美丈夫・偉丈夫の血筋は;

    織田信長       大伯父 身長170㎝前後(鎧・具足から推量)

    信長の妹お市の方   祖母  身長165㎝前後(衣類から推量)

    浅井長政       祖父  身長180㎝前後(鎧・具足から推量)

豊臣秀吉       父   身長150㎝前後(鎧・具足から推量)

淀君         母   身長168㎝前後(衣類から推量)

 

大野治長 淀君の乳母の息子  身長170㎝前後(鎧・具足から推量)

 

秀頼の祖父母、母も偉丈夫です。 更に、噂というか、本命とも思える大野治長も、当時としては大きい方です。

 

さて、二条城での家康と秀頼の会見ですが、関白の子だから、帝王(公家)教育を受けており、家康に堂々と臣下の礼をとった。 家康の驚きは、いかばかりであったか。 これを引き金に、家康の『鳴くまで待とうホトトギス』が実践され、75歳まで、15年かけて、外様大名を手なずけ、豊臣家を滅ぼした。 『外堀を埋める』の意味が二つ、❶豊臣側大名の離反、➋天下の堅城、大阪城の外堀どころか内堀まで埋めた。 

 

徳川家康               豊臣秀頼

1542誕生              1593年誕生、秀吉57歳のとき

1603征夷大将軍 61

1605征夷大将軍退位 63

1611二条城で秀頼と会見 69歳    18

 

「秀吉を父とする子」を産んだのは、晩年に側室になった淀殿ただ一人。

 歴史学者の服部英雄九大名誉教授は2012年刊行した『河原ノ者・非人・秀吉』で、長男の鶴松はもちろんのこと、次男の秀頼の父親が秀吉ではないと断言しています。

 こんな歴史の秘密がつい最近まで封印されていたのです。 最初に確認しておきたいが、秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロなのである。 この二人の組み合わせのみに、それほど都合よく子どもができるものなのか。 秘密があるとみるべきだろう。 秀吉との間では子ができなかったが、別の男性との間ならば子を産めた女性が少なくとも三人は確認できる。

 

 また、又一説には、秀頼の誕生日から、逆算すると、秀吉が朝鮮出兵で九州の名護屋城にいた時に、淀殿が名護屋城に同行していなければ、秀頼を身籠ったことは計算が合わないと言われており、その同行していた記録が現在まで見つかっていない。 

 

 戦国大名が、二代、三代・・・と繁栄を継続するには、正室には勿論のこと、大勢の側室に大勢の子供を授かることができる『精力絶倫』であることが必要な・重要な条件になるようです。 実子かどうかなど悩むこともないようです。

              (20200622纏め、20210131追補、#207

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『小次郎の燕返しの「物干し竿」の正式名称は「備前長船長光」』 ―武蔵の野戦剣法・二天一流に対して、道場剣法と言われた小次郎の巌流―

2023-08-04 22:56:12 | 歴史・日本

『小次郎の燕返しの「物干し竿」の正式名称は「備前長船長光」』

―武蔵の野戦剣法・二天一流に対して、道場剣法と言われた小次郎の巌流―

長い鞘を背負っての決闘は不利なので手持ち刀を抜刀の後、鞘は投げた―

 

巌流島の決闘で『物干し竿の鞘』を投げながら言った一言、あまりにも、有名なシーンですが『遅いぞ、武蔵、臆したか』それに対して、武蔵は『小次郎、敗れたリ、勝つ者が何ゆえに鞘を捨てるか』といった台詞が、小説やドラマなどでは、おなじみです。

『岩流』は『三尺の白刃』を手にして決闘に挑み、武蔵は『木刃の一撃』でこれを倒したとある。 このときの武蔵の必殺の一撃は『電光猶ほ遅きが如し』と表現されている。 また碑文には『両雄同時に相会し』とあり、武蔵は遅刻していない。

ここで、野次馬的な邪推『佐々木小次郎はサウスポー』であった。 下の絵のように、小次郎は、いつも、映画でも、芝居でも、右肩から30㎝もある『物干し竿』の柄を出して背負っています。

ウエブ情報から引用

当時の日本人の平均的な身長は155cm~158cmと言われていますので、小次郎の身長、五尺七寸(約173㎝)、武蔵は、さらに大きく、六尺(約182㎝)と大変な偉丈夫であった。 剣道と抜刀道の有段者である津本陽氏がこう言っています。 

身長、五尺七寸(約173㎝)の小次郎の使いやすい刀は、身長より三尺(約91㎝)引いた長さが目安で、彼の使いやすい刀の長さは、二尺七寸(約82㎝)になる。 これは、まっすぐ立ち,利き腕で刀を下げ、切っ先が地上すれすれになる程度。 これに対して小次郎の大太刀の名『物干し竿』(刃渡り三尺(約91㎝)、柄一尺の大業物)も、『二天記』の記された江戸時代中期頃に名付けられたが、しかし、いつ誰が命名したのかははっきりしていない

小次郎の身長では、『物干し竿』刃渡り91㎝、柄30㎝を背中に背負った状態で抜刀は大変で、神業であったろうと思います。 さらに疑問が右肩から柄が出ていますので、まず右手ではストローク不足で、難しいので左手での抜刀『サウスポー・左利き』だったと思います。 今後の課題は、佐々木小次郎の実戦記録探しです。 

(記事投稿日:2021/05/30纏め、#339)

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