『空海の凄さ様々 3(「如空」「教海」両方を止揚して気宇壮大な名前に)』
ー空海が修行中の四国の断崖の洞窟で見たであろう風景は室戸岬の御厨人窟とー
昔、パナマ駐在時代、サンパウロへの商用出張時に司馬遼太郎著『空海の風景 上・下』をサンパウロの日本人街(リベルタージ)古書店で見付けました。 『ビニ本』ならぬ、『麻ひもくくり本』でしたが当時、司馬遼太郎氏の大ファンでしたので、中身の痛み具合も確認もせずに早速購入しました。
空海についての、ウエブ情報です。
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した。 この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多い。 しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。 『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。 さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。
この本の中に、写真はありませんでしたが、空海が最も厳しい修行中の四国の断崖の洞窟で見たであろう『空海』の風景は、高知県室戸市室戸岬町のこの御厨人窟(みくろど)と言われています。
空海を名乗った真相は、ウエブ情報にありました。 この辺で納得しても空海はさらに謎が深まりました。
延暦12年(793)、空海は和泉の槇尾山寺で勤操に従って剃髪受戒し、大安寺所属の沙弥となり「教海」と名乗ったのです。 そして、その後に名を「如空」と改めます。
「教海」とは教えの広大なる海に遊舞せんとする決意が込められており、「如空」とは悟りの世界をわがものとせんとする願いが込められているようである。
そして、やがてそれらの両方を止揚して「空海」と、名乗るようになったのである。 空海とは、まことに気宇壮大な名前である。
一般に信じられやすい『空海』の風景は、江ノ島にもありました。 江ノ島に残る『岩屋洞窟の伝説』の謎の洞窟です。 見た瞬間に、素人には納得でした。
前置きが長くなりました。 先日、東京国立美術館 平成館で『特別展 国宝 東寺 空海と仏像曼荼羅』を見てきました。 最近は点数多数展示が多く、全部、しっかり鑑賞するには、大変な体力が必要であることが解りました。
展示点数は全110点、その内、国宝30点、重要文化財60点と、てんこ盛りでした。
その中で、驚いたのは、国宝『帝釈天騎象像』の撮影が自由でした。 係りの人に、すぐに聞きました。 『今までの展示会で、国宝の仏像は撮影ができませんでしたが今回は何故ですか』と。 お答えは『前回、どこかの展示会で、一番人気だったから』と。 この像、本当にイケメンで、納得です。
もちろんフラッシュは使えませんが、スマホのフラッシュのオンオフができない年配の方も多く、会場の係りの方もてんてこ舞で大変な、昨今の『国宝展風景』でした。 この特別展のキャッチフレーズは 『弘法大師こと空海は、平面である曼荼羅を立体化し、よりリアルに表現することを構想しました。 東寺内の講堂を巨大な「立体曼荼羅」としてレイアウトしたのです』 これで、ほんの少し分かりかけてきました。
(20190524纏め、2020601追補・改訂 #100)