知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『謎解き・伝説のミステリー「忠臣蔵に隠された7つの謎がわかるSP」で忠臣蔵の真相がかなり拡大判明』

2024-12-30 19:20:14 | 寺院・仏閣・神社・お社
『謎解き・伝説のミステリー「忠臣蔵に隠された7つの謎がわかるSP」で忠臣蔵の真相がかなり判明拡大』

『今まで知っていたのは、過去にあった、①吉良家の領地と松平家(後の徳川家)と尾張(三河国)で領地争い』

『②赤穂浪士 7~8人が桜田門(江戸城の最大重要な門・現警視庁所在地)の前に、隠れ住んだが、幕府が黙認』

1702年12月14日 赤穂事件・忠臣蔵
 
ウエブ情報から引用

謎① なぜ斬りつけた?刃傷事件の謎
1701年 江戸城で浅野内匠頭が吉良上野介に向かって刀を振り回し斬りつけた事件。 『忠臣蔵』では吉良のいじめが動機として描かれている。
幕府(5代将軍綱吉)から勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)を命ぜられました。 江戸城に来た朝廷の使者をもてなす役割で、費用は藩が負担します。
その上司は高家・吉良上野介義央
高家:朝廷との交渉や儀式・典礼を司る役職で、吉良はその筆頭。浅野は18年前にも接待役を務め、接待費用を450~460両支払いました。 近年の費用を確認すると、1200両(約1億4400万円)に増額していた。
浅野は700両に出来ないかと提案、しかし吉良は受け入れようとはしなかった。
松の廊下事件
吉良は、浅野が世間しらずの田舎者だと愚弄したようです。 古文書には浅野が短慮(気みじか)な人物とも書かれており、吉良の横柄な態度に浅野が恨みを抱いたとする説があります。
浅野は即日切腹、吉良はおとがめなしと、喧嘩両成敗ではなかった。
 赤穂藩はお家取りつぶし。 藩の城や屋敷はすべて幕府に没収されました。

謎② スパイ作戦の謎・吉良邸内部をどう探った
松の廊下事件の後、吉良は両国に引っ越し。 吉良の屋敷が広すぎる、吉良は留守が多いなど問題点がありました。
屋敷は東西に約130m、南北に約60m 約780㎡(敷地 約2550坪)と広大。
作戦1 赤穂浪士の前原・神崎が雑穀店に変装して屋敷近くに潜伏
 吉良家の人間と親しくなって、警護の様子を探っていました。
 雑穀店の屋根から吉良邸を観察していました。
 前に住んでいた大名家の図面に集めた情報を加え屋敷図を作りました。
作戦2 吉良の顔を探れ
  大石を始め、誰も吉良の顔を見たことが無かった。顔がわからないまま、
討ち入りすることになり、脱退してしまう人、討ち入りの前々日にも逃げた浪士がいたほど。
 当時約8300万円あった軍資金が江戸での滞在費等で消費され、討ち入りを
先延ばしできない状態になっていました。
作戦3
  吉良は、親戚の上杉家に泊まることが多いことが分かりましたが、お茶会が
あるという、大石三平からの情報で、討ち入りは前日に決まりました。
<吉良邸内部をどう探ったのか>
 名前や職業を変え、吉良邸の人間と接触、屋敷の構造や在宅日時を掴んだ

謎③ 装備に隠された謎・なぜ150人の敵に圧勝できた?
吉良邸には約150人がいた、幕府に見つかるため・短期決戦が必須。 午前4時の奇襲 2時間で終わりました。
赤穂浪士の怪我人は数名で、吉良を打ち取るに成功、圧勝出来たのは、討ち入り道具。
呼子鳥笛:討ち取った時の合図・47士全員が持っていた。 室内用の黒い筒(照明道具):松明だと火災の可能性があるため。 放火や失火は罪が重く、死罪となることもあったため。 さらに吉良邸の隣の大名家が高提灯で屋敷内を照らしてくれていた。
大石は吉良側の人間の士気が低いことを察知。 渡者:派遣社員のように主人を変えて仕える者。 渡者の比率が高かった。 

 
謎④ なぜ勝てた?戦術の謎
表門部隊は約5mの長屋塀を竹梯子で乗り越え、裏から表門のかんぬきを外した。
裏門部隊はかけ矢(木槌)で侵入。 さらに、庭の見張り、屋敷内の斬り込みなど、分担。 備えてあった弓や槍も破壊しました。 敵一人に付き3人態勢で戦闘し、有利に戦いを進めた。 約1時間で屋敷を制圧しましたが、なかなか吉良氏が見つかりませんでした。 炭小屋に隠れていた老人を見つけ、
肩の傷跡をで、吉良だと判別。 彼らの装束でわかるように、浅野家は祖父の代から火消し役でした。
<150人相手になぜ圧勝>
用意周到な装備と戦術の工夫と、火消しとしての統率力があったから

大石内蔵助を介錯した刀。 介錯人の子孫に伝わる介錯の刀・二尺一寸
刀を研ぐことは非礼に当たりとされ、300年以上手入れは油の塗り替えのみ。
 切腹の解釈に「備前長船」という名刀が使われました・それだけ敬意を表していました。

謎⑤ 消えた浪士は?大石の密命の謎
討ち入りの翌月には歌舞伎で演じられました。 (関係者は討ち入りを予想していた。) 赤穂浪士は討ち入りから49日後に切腹しました。
赤穂浪士・寺坂吉右衛門は切腹せずに83歳まで生き延びました。

大石は、正確に世間に伝わることを願い、真意が後世に残るよう、寺坂に密命していました。 切腹までの間の聞き込みにも、誰も口を割らなかった。 寺坂の主人の吉田忠左衛門「この男は不届きものだ」と幕府の捜索が入らないことの芝居だった。寺坂の記録が『寺坂信行筆記』に残っています。
堀部安兵衛も自分たちの手紙などを学者に渡したと言われています。
<大石内蔵助が仕掛けた狙い>
 寺坂によって、討ち入りの真意を後世に残すこと。

謎⑥ 忠臣蔵の歴史が変わる?主君の墓で行われた儀式の謎
討ち入り直前まで潜伏していた大石は、家紋を内側に隠してあります
近松家に伝わる記録『義士墓前報告一件』「主君の想いを遂げよう」
「懐から刀を出し、石塔に置き、吉良上野介の首に三度当てた」
討ち入りの後、泉岳寺で敵討ちの報告をしました。
浅野内匠頭の短刀で斬る仕草を、義士たちが代わる代わる行う儀式。
主君に吉良の首を取ってもらうというのが、彼らの本当の狙いだった
主君の浅野が成仏できず、怨霊になることを恐れたとも言えます
<赤穂浪士たちの本当の目的>
亡き主君の願いを叶えること
 切腹の日に検視から、吉良家がお家取りつぶしになったことを聞いて、大石が泣いたそうです。

謎⑦ 黒幕がいた?成功の陰に幕府の陰謀があった。
愛知県西尾市吉良町、華蔵寺(けぞうじ)吉良上野介の墓があり、墓に「高家」と記されています。
高家:戦国大名の子孫など、格式の高い家が務める役職
時には将軍の使者として朝廷の儀式に参加することもあります

吉良の死後、吉良家自体が高家の役職から解任されました。 幕府の中には、吉良を排除して、朝廷と新たな関係を築きたいとの思惑がありました。

 
『吉良家日記』が西尾市の博物館に残されています。 歴代の高家が年代別に記録されています。 出自が、武家から公家出身に変化しています。 朝廷との儀式は、莫大な費用がかかります。 儀式が盛大・厳か・伝統的になって来ると、高家の存在が際立ってきます
幕府としては合理化していきたい、そのために吉良が邪魔な存在になり、公家の次男の新高家にどんどん変えていくことを考えていきました。

 いくつか、討ち入りに際して違和感があることに気づきます。

・吉良邸の引っ越し
 警備の厳重な江戸城の近く(現在の丸の内)から警備の薄い両国へ。 周りに住んでいた大名たちから「赤穂藩が攻めてくるから嫌だ」と言われていました。

・大石内蔵助の手紙
幕府が密偵を付けてきましたが、吉良邸を打ち破ることを特段とがめることもありませんでした

幕府内の怪しい人物は、柳沢吉保(5代将軍綱吉の側近として信頼の厚かった人物)ではないかと言われています。 平和な世の中において、不要になってしまった武士の本来のスゴさを庶民に再認識させたかった、という説もあります。

<成功した理由>
幕府の陰謀か、大衆の熱狂などの空気があったと言われています。

かつて赤穂浪士は120人以上いました。
大石は裏切らない確信として、血判状を書かせ、浪士たちの覚悟を見際めました。 「親族にも一切口外しません」大石はわざと使いの者から「討ち入りは断念しました」と血判状を返却しました。 その反応を見て、やる気のある者を討ち入りのメンバーを選びました。 覚悟のない人の前で討ち入りの話をすると、周辺の藩に噂が広がってしまいます。 処分されそうな赤穂藩の実情に対して、報告・密告をするのが御奉公の一つでした。
大石は討ち入りを諦めたふりをして血判状を返却し、スパイの目を欺く狙いもあったようです。
 この用意周到さには驚くばかりです。 情報が拡散されない時代に、幕府の動向・様子をよく分析・読めたものです.
(記事投稿日2024/12/31、#975)
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『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚、 理由は天皇系図の直系であったが「新皇」の名乗りが早すぎ!』

2024-12-27 12:40:30 | 寺院・仏閣・神社・お社
『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の 歴史感覚、理由は天皇系図の直系であったが「新皇」の名乗りが早すぎ!』

『アイヴァン・モリス(著)「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」にもなぜか、将門の記載ないが、東日本での人気 は凄い』

『日本の古代では、西の朝廷の影響か、東の将門人気なし、名誉回復のため調査してみたが!「判官びいき」の変形か』

早すぎた新皇を名乗った武士・平将門
ウエブ情報から引用

平 将門(903年? -  940年3月25日)は、平安時代の関東の豪族ですが、その由緒・血筋が凄い。 日本の第50代桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男の鎮守府将軍平良将軍の子。 下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗漁争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称して東国の独立を標榜。朱雀天皇の朝敵となった。 しかし即位後わずか2カ月たらずで藤原秀郷・平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。 死後は怨霊になり、日本三大怨霊の一人として知られる。 後に御首神社・築土神社・神田明神・国王神社などに祀られる。
日本三大怨霊(やはり平将門の由緒・血筋が凄い)
  • 菅原道真:天満宮・菅原神社(学問の神様)
  • 平将門:神田明神など(除災厄除の神様)
  • 崇徳天皇:白峯神宮(厄除け・縁切りの神様)

評価の東西差と変遷
歴史学者の川尻秋生は中世の貴族の日記に将門の名が現れるピークが大きく二つあり、一つは12世紀後半の源平争乱期、もう一つが14世紀前半の南北朝の動乱期だとしている。 いずれも大きな戦乱が起きた際にその先例として将門の名が挙げられており、中央の貴族にはいわばトラウマの様な形で将門の乱が伝承されていたとしている。 

またこれとは別に中世以降、将門を祖先とした千葉氏を中心とした武士団により平親王や日本将軍として受け入れられ、逆臣的要素が払拭され、将門伝説が伝承されていった。 将門伝説は千葉一族の分布する場所に多く見られる。 また当時の史料から東国の民衆は疲弊していたことが窺えるが、その原因について環境史研究の成果から、異常気象などの天災ではなく欲にかられた為政者が起こした人災であったと考えられている。

ただし延喜15年(915年)に有史上日本最大の噴火とされる十和田湖の噴火が起こっており、東北一帯を火山灰が覆い京都でもまた扶桑略記に「昼間なのに太陽が月のようであり皆不思議がった」と記されており、降灰の影響で東国でも大規模な不作が発生した可能性も存在する。 そうした背景から反権力闘争を起こした将門は東国の民衆から支持を得ていたという説がある。 これらから必然的に将門の評価は東西で相反するものになる。

近世の徳川時代になると東国政権という意味から、初めて坂東を横領した将門に関心が寄せられた。 神田明神が江戸総鎮守となり、将門は歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられた。 将門伝説は文芸化と共に民衆の支持を受けたといえる。bその多くが将門を誇張し怨霊として描いており、滝夜叉姫の伝説などが生まれた。 将門を日本三大怨霊一つとするのもこの頃からと考えられる。 明治期には将門は天皇に逆らった賊とされ、政府の命により神田明神などの神社の祭神から外されたりした。 一方で民衆の信仰は厚く将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたとされる。

戦後、天皇制に関する研究が解禁され国家の発展段階が理論的に議論されると、将門の乱を中世封建社会への前段階とみなす説が現れるが、のちにこの説は勢いを失う。 一方で社会には大河ドラマ (風と雲と虹と (1976年))で取り上げられた事で好意をもって広く受け入れられ、『帝都物語 (1987年)』により将門=怨霊・祟り神のイメージが定着した。 

従前の将門研究は文献史料を中心とし歴史学と日本文学史が大きな潮流であったが、史料の少なさからこれらには限界が見られ、今後は考古学や在地社会研究との協業作業が期待される。 何故、少なかったかは、表題『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚、理由は天皇系図の直系であったが「新皇」の名乗りが早すぎ!』ではないでしょうか。
(記事投稿日:2024/12/27、#F282)
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『凄い、鳴き声は文章「鳥語』を発見、鳥は2億年以上も生存!』『シジュウカラを観察、単語や文法を、世界で始めて証明』

2024-12-26 09:36:46 | 野鳥・鳥

『凄い、鳴き声は文章「鳥語』を発見、鳥は2億年以上も生存!

『シジュウカラを観察、単語や文法を、世界で始めて証明』 

 

先日(2022/06/30)、日経新聞文化蘭で見つけました。 暗いニュースばかりの昨今ですが、明るいニュース、鈴木俊貴氏の『鳴き声は文章「鳥語』を発見』、『シジュウカラを観察、単語や文法を始めて証明』がありました。 

先ずは、鈴木俊貴氏のプロフィールです。
生誕
1983年10月(41歳)
研究分野
動物言語学
 動物行動学
研究機関
東京大学先端科学技術研究センター
出身校
立教大学(理学博士)
 東邦大学(理学修士・理学士)
主な受賞歴
World OMOSIROI Award(2024年)
日本動物行動学会賞(2013年、2021年)
文部科学大臣表彰若手科学者賞(2021年)
 日本生態学会宮地賞(2018年

最近は、タイミングよく、シジュウカラは、市街地の住宅地や公園の植栽、山地の林に至るまでいろいろな場所でその姿を見ることができます。 シジュウカラは日本全土に分布する小鳥。 これからは、古希・喜寿・傘寿のお年寄りも、シジュウカラの観察がどこでもできそうです。

 

記事『鳴き声は文章「鳥語』を発見』の抜粋・引用です。

『シジュウカラという小型の鳥に言葉があることを、世界で初めて証明した。 実はこれまで猿などの霊長類も含めて、人間以外に言葉の存在が証明された例はない。 軽井沢の森で1年の半分以上を過ごし粘り強く観察を続けた僕の論文は、たちまち世界の注目を集めた

きっかけは生物学を専攻していた大学時代。 シジュウカラが明らかに他の鳥より鳴き声の種類が多いと気づいた。 しかも状況に応じて使い分けている。 動物学や言語学で人間以外は「怖い」「好き」などの感情のみ伝えていて、単語や文法は持たないと考えられてきた。 興味をそそられ「鳥語」を研究すると決めた。

ウエブ情報から引用

先ず取り組んだのが単語の証明だ。 『ジャージャー』。 ヘビが巣に襲いかかると、親鳥が聞いたことのない鳴き声を上げて警戒していた。 『ヘビ』という単語になっているにでは? 証明方法は確立されておらず、手探りで進めるしかなかった。 100個近い巣箱を取り付け、ヘビのはく製を使って実験すると思った通りだった。 

 

とはいえ、『怖い』などの感情を表しているだけの可能性もある。 そこで別の天敵のはく製を見せると、タカなら『ヒヒヒ』と鳴くなど使い分けていることが分かった。 果たしてこの観察だけで言葉を持つといえるだろうか、 用意したのは木の枝だ。 紐を使ってヘビのように動かした。 同時にスピーカ-から『ジャージャー』と聞かせると鳥たちはまるでヘビを見つけたかのように近づいた。

 

次に証明したのは文章だ。 語順を入れ替える実験で、文法があることまで明らかにした。 天敵のモズがらわれると、『ピーツピ』(警戒しろ)・『ヂヂヂヂ』(集まれ)声を出し、集まってモズを警戒する。

シジュウカラ語の文法

ウエブ情報から引用

「ピーツピ・ヂヂヂヂ」には反応を示したが、

「ヂヂヂヂ・ピーツピ」には無反応だった。

 

よくここまで、観察・証明できたものです。 ただただ頭が下がります。

(記事投稿日:2022/08/22、最終更新日:2024/12/26、#564)

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『山の正倉院・高野山が焼き討ちを避けられたのは、明智光秀の本能寺の変』 『高野山の宝物を拡充させ、後世に残せたのは、豊臣秀吉の功績』

2024-12-16 08:00:38 | 歴史。日本・中世

『山の正倉院・高野山が焼き討ちを避けられたのは、明智光秀の本能寺の変

『高野山の宝物を拡充させ、後世に残せたのは、豊臣秀吉の功績』

 

歴史には『タラ・レバ』はありませんが、正倉院の宝物の管理・維持の歴史の凄さには驚いていました。 さらに最近分かったことですが、『山の正倉院・高野山』の歴史には、信長・光秀・秀吉等の歴史上の千両役者が絡んでいることに驚きました。 もともと、歴史上の大巨人と尊敬してやまない『空海』との関連で記憶してきました。

 

高野山霊宝館(こうやさんれいほうかん)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある博物館相当施設。 財団法人高野山文化財保存会が運営している。 国宝21件(4,686点)、重要文化財142件(13,884点)、和歌山県指定文化財13件(2,850点)を含む約50,000点が収蔵されている。

 

ウキペデイア情報から引用

国宝 阿弥陀聖衆来迎図 有志八幡講 

ウエブ情報から引用

沿革

1910/01/20、宿老会で宝物館の建設が決定された。高野山霊宝館の建物は1920/09/30に竣工し、翌1921/05/15開館。 初代館長には金剛峯寺座主の土宣法竜が就任した。

  • 1967/09/16 – 財団法人高野山文化財保存会が設立され、高野山霊宝館がその管轄下に置かれる。
  • 1961/05 - 当時日本最大とされた「高野山大宝蔵」が完成。
  • 1984/04/02 - 新収蔵庫完成。
  • 1998/09/02 - 高野山霊宝館紫雲殿、玄関・北廊・中廊、放光閣、南廊及西廊、宝蔵が登録有形文化財に登録される。
  • 2003/06/30 - 平成大宝蔵完成。

 

収蔵品 国宝

  • 絹本著色仏涅槃図 1幅(金剛峯寺)
  • 絹本著色善女竜王像 1幅(金剛峯寺)
  • 絹本著色五大力菩薩像(金剛吼、竜王吼、無畏十力吼)3幅(有志八幡講)
  • 絹本著色阿弥陀聖衆来迎図 3幅(有志八幡講)
  • 絹本著色阿弥陀三尊像 1幅(蓮華三昧院)
  • 絹本著色勤操僧正像 1幅(普門院)
  • 絹本著色伝船中湧現観音像 1幅(龍光院)
  • 紙本著色山水人物図 10面 池大雅筆(遍照光院)

彫刻

  • 木造諸尊仏龕 1基(金剛峯寺)
  • 木造八大童子立像 6躯(附指定2躯)(金剛峯寺)

書跡典籍・古文書

  • 聾瞽指帰(ろうこしいき)(金剛峯寺)
  • 金銀字一切経 4,296巻(金剛峯寺)
  • 法華経 巻第六 1巻(金剛峯寺)
  • 宝簡集・続宝簡集・又続宝簡集 全298巻15冊(金剛峯寺)
  • 紫紙金字金光明最勝王経 10巻(龍光院)
  • 大字法華経 7巻(龍光院)
  • 細字金光明最勝王経 2巻(龍光院)
  • 不空羂索神変真言経1巻(三宝院)
  • 文館詞林残巻 12巻(正智院)
  • 文館詞林残巻 1巻(宝寿院)

工芸品

  • 沢千鳥蒔絵小唐櫃(さわちどりまきえこからびつ) 1合(金剛峯寺)

 

比叡山と高野山に対する信長の対応はウエブ情報が参考になります。

高野山という「山」はない! 高野山といえば、名前に「山」がついているので、山のイメージを持っている人も多いかも知れませんが、実際は「高野山」という山があるわけではありません。 一般的に「高野山」とは、和歌山県の紀伊山地の一部で、およそ1,200年前に弘法大師「空海」が高野山を切り開いた、日本に広めた真言密教発祥の地として有名です。

 

織田信長の残虐な比叡山延暦寺の焼き討ちですが、宗教に対する否定ではなく、宗教を隠れ蓑にした権力の悪利用と堕落した世俗まみれとなった僧侶に対する嫌悪、信長に対する敵対行為に対する行為だったと解釈できます。

織田信長が侵攻していた高野山では?

織田信長が高野山を攻めたのも、前述の比叡山延暦寺と同様、武将同士の戦さの落武者を高野山が庇い、信長の要求に対して応じなかったことが原因です。

高野山を攻めるきっかけとなったのは、信長の家臣であった荒木村重が、交戦中であった石山本願寺に内通し、居城の有岡城に篭ってしまい、信長の説得を拒否したうえ、逃走した荒木と側近の数名を高野山が匿います。

比叡山延暦寺の焼き討ちが起きた状況と酷似していますが織田信長の使者を高野山が殺害したために、出兵して捉えた高野聖や僧侶たちを処刑しています

しかしながら、高野山は人質をあっさりと引き渡し、織田信長との対話を継続したために、延暦寺のような焼き討ちという結末にはならなかったようです。

とはいえ、本能寺の変で織田信長が自害に追い込まれていなければ、高野山の運命も変わったかもしれません。

織田信長が対立した寺社勢力とは?

織田信長による延暦寺の焼き討ちは、その残虐な結果から魔王的な戦国武将のイメージが信長に残っていますが、実のところは、敵となった相手に対する戦国武将の攻撃だったといえます。

天下統一に向けて、織田信長は既得権益を排除しようとしていたと考えられ、政治や軍事力を備えていた寺社勢力を毛嫌いしていたこともあり、自身への敵対行為に対する処罰を与えた結果が延暦寺の焼き討ちであり、高野山への攻撃もキッカケは延暦寺と酷似していますが、その経過が異なります。

高野山への攻撃の本当の結末は、織田信長の本能寺の変での自害によって、焼き討ちとはなっておらず、信長の墓が高野山奥の院にあることも因縁を感じさせます

 

京都に行くときは、よく比叡山にお参りしました。 今までに、高野山のお参りは一度だけだった思います。 今回は高野山霊宝館(山の正倉院・高野山が新たな発見でした。 目下のターゲット『出雲』の行きかえりにはお参りをさせて頂きます。

(記事投稿日:2022/02/15、#477)

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『あしかがフラワーパーク「光の花の庭」500万球が輝く光の花園、圧巻の光景が広がる夢のイルミネーション』 『夜景のプロ「夜景観光士」が選んだ優秀技術賞第1位』

2024-12-15 09:48:52 | 寺院・仏閣・神社・お社
『あしかがフラワーパーク「光の花の庭」500万球が輝く光の花園、圧巻の  光景が広がる夢のイルミネーション』

『夜景のプロ「夜景観光士」が選んだ優秀技術賞第1位』

あしかがフラワーパークでは、2024年10月18日~2025年2月16日(日)の期間、500万球を超えるイルミネーション(人類の省エネの傑作LED照明で、電気代、1日5時間で、およそ23,000円、詳細後述)で飾られたイベント、
『光の花の庭~Flower Fantasy2024-25』
が開催。 2022年に全国ランキング第1位にて日本三大イルミネーションに再認定された。 また、2024年には全国6610人の夜景観光士によって優秀技術賞第1位に選ばれたそうです。

このイルミネーションは、もともとは花の少ないシーズンに新たなコンテンツとしてスタート。 現在、10月中旬~11月下旬は花のライトアップとともにイルミネーションが楽しめます。 12月はクリスマス、新年はニューイヤーと4カ月間のなかで3つのテーマを変え、複数回来園しても変化を感じることができます。 お子様からご年配の方まで、親子3世代での来園も多くあり、幅広い世代から親しまれている。

池にLEDを浮かべて描いたファンタジー傑作
 
2024/12/11撮影ス

LEDの造った巨大藤棚と池に浮かべた深紅観葉植物のコントラスト
 
2024/12/11撮影

本物も羨む、息をのむような見事なLED藤花の巨大棚
 
2024/12/11撮影

夢を壊すような余計なことですが、500万球のイルミネーションの電気代、
100球で6Whなので、500万球では300kWh
計算式 (LED約500万球 / 100球)× 6W = 300kW

17:00~22:00ですので、5.0時間の点灯
1時間300kWなので、5時間では1,500kWhとなり,
kWhあたり15円なので、1500kWhだと
計算式 15円 × 1500kWh = 22,500円/日
大体1日当たり23,000円くらいの電気代で済んでいるということで、『LEDの発明万歳』です。 

このイルミネーションの世界の省エネの凄さを知って、改めて、政治の世界の皆様へ『何をするにも、ヒト・モノ・カネと時間』の『数値化と、さらにはコスパ・タイパも常に念頭』に実行、事後の総括と公開をお願いします。
 (記事投稿日:2024/12/15、#984)

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