- スエズ運河(193㎞): エジプト北東部 スエズ地峡 にあり、紅海と地中海とを結ぶ運河(154年前)。
- パナマ運河(82㎞): パナマにあり、太平洋と大西洋を結ぶ運河(130年前)。
- キール運河(96㎞): ドイツとデンマークの国境近く、ユトランド半島の付け根にあり、北海とバルト海を結ぶ運河(128年前)。
- 水平式(海面式)スエズ運河(193㎞、 高低差なし、 工期1859-1869)
- 閘門式パナマ運河 ( 82㎞、 高低差26m、 工期1905-1914)
- 閘門式大運河・京杭大運河(1794㎞、高低差40-50m、工期 BC5-AD6世紀)
- パナマ運河完成までに出た犠牲者の数は 合計 27,600人で、運河1㎞当たり死者 345 人 の割合でした。
- 1887年、売れない画家だったポール・ゴーギャン(1848~1903年)は資金援助をあてにして親戚が暮らすパナマに渡る。 が、期待は見事に裏切られ、パナマ運河の切削作業員としてアルバイトせざるを得なくなりました。
- 20世紀最大の土木工事であった、フランスによる運河建設と挫折。 理由は黄熱病やマラリア等、沢山あるが、パナマ地峡の山地は標高195mのゴールドヒルを最高点とする運河掘削地域。 平均標高で70m程度(クレブラの丘、標高103m)であり、ここに水平運河が無理であったのが一因。(表題『1970年代、第2運河・水平式を、建設費削減のために原爆での掘削案まで?』参照)
- フランスは挫折の後、難工事とマラリアの蔓延により放棄。 その後、その後、パナマ運河地帯としてアメリカ合衆国によって建設が進められ、10年の歳月をかけて1814年に開通した。 長らくアメリカによる管理が続いてきたが、1999年12月31日正午をもってパナマに完全返還された。 米国が引き継いだ背景は、
■水資源めぐり地元住民との対立も当局が懸念するのは、航路を変更する海運会社が出てくることだ。 運河庁のホルヘ・キハノ元長官はAFPに、「(運河に)水を供給する新たな貯水池がなければ、運河の発展が危ぶまれる」「新たな水源確保が急務だ」と述べた。』
『中国がASEANへの水上輸送強化へ、プロジェクト「平陸運河」着工が凄い』
『1400年前に完成した「京杭大運河(北京-杭州間、総延長2500㎞)」を、この「平陸運河によって、北部湾(旧トンキン湾)に繋がり、中国の「陸・河・海」輸送ネットワークで、一帯一路の完成へ』
中国は、人口14億人、標準語としての普通話 以外に、大きく分けて7つの方言、『広東語、北方語、呉語(上海語)、閩語(福建語)、湘語、贛語、客家語』がある。国土は、約960万平方キロメートル、日本の約26倍で、世界では、ロシア、カナダ、アメリカに次いで4番目。都市区分は、4つの直轄都市と、22の省、5つの自治区、2つの特別行政区から構成されている。
民族構成、漢族と55の少数民族からなる。昔(1930年代)は400種類以上あったとされる少数民族は、政府の政策(民族識別工作)により55種に迄絞られた。宗教は、主だった国教としての宗教は無いが、国内に『仏教、キリスト教、道教、イスラム教』の信者がいる。食文化は、八大菜系として、地域ごとに8つに分けて呼ばれることが多い。『山東料理、江蘇料理、浙江料理、安徽料理、福建料理、広東料理、湖南料理、四川料理』
半世紀前に、香港に駐在していたころは、将来は数ブロックに分裂するものと思っていましたが、この巨大な多民族・多宗教の大陸国家を、いろいろありましたが、強力なリーダーたちが、治めてきており、世界一の経済大国になろうとしていることは、驚嘆に値します。それは大河川を巨大な運河で結んだことも大きな要因かと思います。
中国の大河川(黄河・長江・珠江が三大河川)
ウエブ情報から引用
唐時代の京杭大運河
ウエブ情報から引用
現代の中国の河川と平陸運河
ウエブ情報から引用
平陸運河
運河は中国南部の広西チワン族自治区の南寧市から欽州市を経て、北部湾(旧トンキン湾)に注ぐ。全長135キロ、総投資額は727億元(約1兆4,540億円、1元=約20円)を予定。給水や灌漑、洪水防止、生態環境改善などの機能を組み合わせた航路を整備し、5,000トン級船舶の通航が可能。開通すれば、中国の南西部や西北部から最短で海に出られる航路となる。これまでの長江と珠江に加えた新たな水上輸送ルートを整備することで、長江と珠江を利用したルートの混雑緩和が期待されている。
同プロジェクトは、中国国家発展改革委員会が2019年8月に発表した「西部陸海新ルート全体規画」実施の一環として建設されるもの。運河が長江、珠江、北部湾を縦方向に貫通することによって、中国とASEAN間の貨物輸送の増加をもたらし、中国とASEANのさらなる連携促進につながると期待されている。
西部陸海新ルート全体規画
中国西部の省・自治区・直轄市から陸路・海路を利用してASEANなどとの貿易を直接行う新しいルートのこと。重慶市や四川省成都市を起点として、北部湾までの鉄道輸送と、北部湾を経てASEANなどにつながる海上輸送を組み合わせた輸送ルートを整備する計画。
大河川と歴史、中国の場合は、将に歴史大絵巻で、興味は尽きません。日本の国土開発の歴史も、中国のケースと比較し、じっくりと調べてみたいと思いました。
(記事投稿日:2020/06/16、#663)
『黄河は、「中国の母」(大河の架橋は難しい、できたのは最近!)』
『中国の河川名、黄河・長江・渭水等いろいろ、日本は画一的に「川」』
不思議なことで、大河川を大河とは言いますが、世の中に大きな川は多くありますが、それらを、大川(おおかわ・だいせん)とは呼びません。 大川(おおかわ)は、江戸の大川(隅田川の吾妻橋から河口まで)や、難波の大川(淀川の毛馬水門・毛馬閘門から河口までの一部)です。
四大文明とは、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明をさす、長江文明、メソアメリカ文明、アンデス文明などは基本的に含まれません。 アメリカ大陸の文明を含めて六大文明と解釈することもあります。 最近は長江文明を含み中国文明とも言われることもあるます。
大河と文明の発祥は、密接な関連がありますが、大きな『河床勾配』の暴れ大河『ユーフラテス川』『インダス川』よりも『ナイル川』『黄河』『長江』のように、『河床勾配』が小さいか、又は、程よい方が、農耕民族に、ゆっくりと安定した継続的繰り返しで、文明の発達をさせてくれるのでないか思いました。
『河床勾配』は水源海抜のとり方や、源流付近の傾斜の大きさの違いで算出がむずかしいのか、その情報があまり見つけられないですが、素人なりに、粗っぽい計算をしてみました。
文明 河川 長さ 水源海抜 河床勾配
エジプト ナイル川 6853㎞ 1134ⅿ 0.02%
メソポタミア チグリス川 2850㎞ 1150ⅿ 0.04%
メソポタミア ユーフラテス川 2800㎞ 3520m 0.13%
インダス インダス川 3200㎞ 4500ⅿ 0.14%
中国 黄河 5464㎞ 4800ⅿ 0.09%
長江 6300㎞ 5042ⅿ 0.08%)
黄河と長江
二つの大河は、どちらも曲折が多いですが、黄河の曲がり方は極端です。
ウエブ情報から引用
黄河とは、長さ5464キロメートル、南の長江の長さ6300キロメートルに次いで中国第2の大河(世界では6位)です。 黄河流域では古代から豊かな中国文明が繰り広げられ『母なる川』もと呼ばれています。 中国人にとって母なる川は長江ではなく黄河なのです。 水源はチベット自治区のバヤンカラ山脈、そこから東に流れ『蘭州で北に曲がり「几」に似た形』を作ってさらに東、やがて北東に向かい渤海湾にそそぎます。
余談ですが、徳川家康は、江戸の内海に流入していた利根川の流れを変えて房総台地の北側沿いに銚子・波崎川口に向きを変えました。
北京と杭州を結んだ京杭大運河を作った中国が、黄河の『蘭州で北に曲がり「几」に似た形』をショートカットさせる計画がないはずはありません。 「几」字型屈曲部はオルドス・ループとも呼ばれますが、これは明代後期にオルドスというモンゴル系の部族集団がこのあたりを占拠していたためです。
北京から杭州までを結ぶ、閘門式も取り込んだ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河を作った中国人も、『「几」字型屈曲部はオルドス・ループ』を最短距離で直結させる運河はつくれなかったようです。 『なぜ?』の調査は今後の課題です。
黄河の最古の橋・鎮遠橋
このあばれ大河に明代(17世紀)に「鎮遠橋」が、架かっていたようです。 これが黄河に架かった最初の橋でした。
ウエブ情報から引用
明代に、黄河に橋をかけ、交通の障害となっているこの黄河に打ち勝とうと考えていました。 明洪武5年(1372年)、朱元璋は、蘭州から西へ360町離れている場所に、初めて浮き橋である鎮遠橋を建設するため鄧愈公を派遣しました。明洪武18年(1385年)、蘭州の楊廉将は、その浮き橋を今日の場所に移しました。今でもこの地には、長さ5.8メートル、10トンの将軍柱と呼ばれる鋳鉄の橋脚の跡が残されています。
清光緒33年(1907年)、清政府は蘭州の彭英甲の提案と甘粛総督昇允の援助のもと、ドイツ企業に依頼して、浮き橋に基づいて黄河にかかるこの大型鉄橋を建てました。 鉄橋は長さ233.33メートル、幅7.5メートルで、下には4つの橋脚と5つのアーチがあります。表面には厚い鉄板が使われており、建設に使用された鉄板や砂利はすべて海外から輸入されたもので、30万両もの大金が投入されました。当初は蘭州黄河鉄橋と名づけられていましたが、1942年に中山橋と改めて命名されました。
大河『黄河』では、流れの比較的緩いところを見つけては、羊皮袋筏や竹筏で長い間、渡河していたようです。 大河川と歴史、中国の場合は、将に歴史大絵巻で、興味は尽きません。
(記事投稿日:2022/04/27、#527)