知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『旧大陸・ユーラシアの四大文明(BC14c~BC5c)は大河の畔に、新大陸の二大文明はメソアメリカ文明(BC12c~AD16c)大河の畔ではないがスペインの征服まで繁栄』

2024-10-28 07:11:01 | 寺院・仏閣・神社・お社
『旧大陸・ユーラシアの四大文明(BC14c~BC5c)は大河の畔に、新大陸の二大文明はメソアメリカ文明(BC12c~AD16c)とアンデス文明(BC10c~AD16c)は、大河の畔ではないスペインの征服まで繁栄

『スペインは、ポルトガルとの間で結んだ、トルデシリャス条約1946年6月7日調印、の植民地政策で地球を2分割で南北アメリカ(ブラジルの一分を除く)のほとんどをスペインが植民地化・征服!』

 ウエブ情報から引用
トルデシリャス条約(紫)とサラゴサ条約(緑)の境界線

『1500年代の大航海時代、中南米を制服したスペインは大量の金銀をスペインに持ち帰り、世界に価格革命が起こったほど!』

旧大陸の大河の畔の四大文明
アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸の『四大文明』
特徴は、大河(定期的に氾濫する)の近く、暖かい、文字の開発、青銅器の利用
  • 中国文明(BC140c~BC120c頃)
  • インダス文明(BC70c頃)
  • メソポタミア文明 (BC55c頃)
  • エジプト文明(BC50c頃)

繰り返しになりますが、文明発祥・発展には、
  • 年間に河川の水位が数メートルから十数メートルと大きく変化するが、
  • 河床勾配は、小さい『大河の近く』で、
『治水と農業』のために、『数学・天文学ベースの文明』が発祥・発展したと考えられています。

世界『六大』文明とも言われますが、旧大陸・ユーラシアの『四大』文明(BC14c~BC5c)に対して、新大陸の『二大』文明はメソアメリカ文明(BC12c~AD16c)とアンデス文明(BC10c~AD16c)は、『四大』文明との比較では発祥の背景もその終焉もあまりにも異なっていることにあらためて驚きました。

ウエブ情報から引用

メソアメリカ文明は、
オルメカ文明(BC12c~AD1c)
マヤ文明  (BC20c~AD16c)、
アステカ文明(AD15c~AD16c)、
オルメカ文明を除き、マヤ文明もアステカ文明もスペインの征服まで繁栄継続

オルメカ文明
「オルメカ」とは、ナワトル語で「ゴムの人」を意味し、スペイン植民地時代にメキシコ湾岸の住民を指した言葉。 巨石や宝石を加工する技術を持ち、ジャガー信仰などの宗教性も有し、その美術様式や宗教体系は、マヤ文明などの古典期メソアメリカ文明と共通するものがある。
オルメカの影響は中央アメリカの中部から南部に広がっていたが、支配下にあったのは中心地であるメキシコ湾岸地域に限られ、その領域はベラクルス南部からタバスコ州北部にかけての低地で、雨の多い熱帯気候のため、度々洪水が起こった。 しかし、河川によって肥沃な土地が形成され、神殿を中心とした都市が築かれた。
オルメカの文化は、出土する様々な石像に現れている。人間とジャガーを融合させた神像は、彼らにジャガーを信仰する風習があったことを物語っている。
祭祀場では儀式としての球技が行われ、その際には人間が生贄として捧げられた。 また、絵文字や数字を用い、ゼロの概念を持つなど、数学や暦が発達していた。

巨石人頭像

ウエブ情報から引用

巨石人頭像は、大きいもので3メートルもの高さがある巨大な石像である。 胴体は存在せず、頭部だけが作られたものと考えられている。 左右に広がった低い鼻や厚い唇といった顔立ちは、ネグロイド的ともモンゴロイド的ともいわれる。

アンデス文明は、
チャビン文化  (BC9c~AD2c)、
モチカ文化   (BC1c~AD7c)、
ナスカ文化   (BC1c~AD8c)、
ティアワナコ文化(BC10c~AD15c)と続いたが、文字がないので文明と呼べず「文化」と及ばれたが、スペインの征服まで繁栄継続

アンデス文明の大きな特徴としては次の7点
  • 文字を持たない
これは、旧大陸の四大文明や新大陸のメソアメリカ文明とは異なる最も大きな特徴である。 代わりに縄の結び目で情報を記録するキープというものがあった。
  • 青銅器段階。
鉄を製造しなかった。また、利器として青銅はほとんど利用されることはなく、実際には新石器段階に近かった。
  • 金や銀の鋳造が発達していた。
これらの製品は、そのほとんどがスペイン人によって溶かされインゴットになってスペイン本国へ運ばれていった。
  • 家畜飼育が行われていた。
リャマが荷運び用として、アルパカが毛を利用するために、また食用としてテンジクネズミ(クイ)が飼育されていた。 
  • 車輪の原理を知らなかった
  • 塊茎類を主な食料基盤とする。
アンデス文明では、塊茎類(ジャガイモやオカ、サツマイモなど)を食用資源として主に栽培していた。

世界の四大文明やメソアメリカ文明が穀物を主要食料基盤として発展したのに対し、アンデス文明では、穀物の主要食料源としての価値は低く、穀物資源を主な食基盤とした文明ではなかった。 トウモロコシが、一部は食用されてはいた可能性はあるが、スペイン人の記録文書などから、主に、チチャと呼ばれる「酒の原料」として利用されていたことが確認されており、食用ではなかったと言われている。
ただ、海岸地帯では、古い時期から魚介類も多く利用されていた。そのため、一部の研究者は、海岸のアンデス文明の曙には、魚介類を主要食糧基盤とする説もある。 だが、最近では、漁労が生業として他から独立していたというモデルへは、反論が多く、実際に、現段階でもっとも古い遺跡であるペルーの首都リマ北方にあるカラル遺跡(BC30c-BC18c)では、農耕と組み合わせが主張されている。
  • アンデス特有の生態学的環境と文化・文明の発展に深い関係が見られる。
生態学的環境とのかかわりが非常に強く、また複雑に結びついている。他の旧大陸の文明がすべて大河沿いに発展してきたのに対して、アンデスでは、山間部や高原地帯の果たした役割が非常に大きい。ただし、実際には、海岸の河川沿い、山間盆地、高原地帯といったまったく異なる生態学的環境で、互いに交流を持ちながらも、それぞれが独自の文化を発展させ、総体としてアンデス文明を発展させてきた。山間盆地や高原地帯で見られる独特の環境利用法については、国家規模の社会の成立過程に大きく寄与したのではないかという説(垂直統御説)もある。

このほか、ペルー南部には硝石が豊富にあるが火薬の製造も行われなかった。鉄鉱石が豊富な地域が多いが鉄の鍛造は行われることはなく、武具もあまり発達せず、石製の棍棒や弓矢程度であった。 一方で、棍棒の武器によるものであろうか、陥没した頭蓋に対して、脳外科的手術を行い血腫などを取り除く技術が存在していた。 形成期といわれる紀元前の社会の遺跡から見つかった頭骨の中には、陥没した痕が治癒していることを示すものがある。 これは、頭蓋が陥没したあとも生き延びたことを示している。これらの外科的手術は、儀礼的な面から発達した可能性も否定できない。 アンデスに自生するコカが麻酔として利用されていたという。

文字を持たなかった文化は『文明』ではないと言われますが、上記の通りアンデスの文化は、文字はなかったようですが『「キープ」で情報伝達もできたし、「脳外科的手術を行い血腫などを取り除く技術が存在」してたこともあり、十分『アンデス文明』でありました。
(記事投稿日:2024/10/28、#972)
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『世界の寺院・神殿 3(インドの遺跡 エローラ石窟群)』

2024-10-24 10:39:19 | 寺院・仏閣・神社・お社
『世界の寺院・神殿 3(インドの遺跡 エローラ石窟群)』

『ヒンドゥー教「第16窟カイラーサナータ寺院」は圧巻、「デカン高原の断崖を掘って作られた石窟寺院で、高さ30m・奥行き80mの大寺院、ノミとハンマーで築かれ、完成するまで150年」図面とサンプル(模型)も存在せず、築き方と工事監督などと謎がいっぱい』

 ウェブ情報から引用
世界遺産「1000年以上前の傑作!エローラ石窟群」がTBSで放映されました。

インド・デカン高原の北西側に位置するエローラ石窟群。 南北2kmの固い玄武岩の崖を掘って作った石窟寺院が全部で34もあり、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の3つの宗教エリアに分かれている(*)。 特にヒンドゥー教の第16窟は一枚岩から巨大な寺院を彫り出したという特異な存在である。 間近で見ると「彫って」作ったとはにわかには信じられない。 50年かけて築かれた、時間もスケールも桁違いの傑作である。』と紹介されていました。

(*)このように、異なる宗教のお寺が壊されることなく残っていることから、エローラ地域では宗教間での争いは無く、異なる宗教であっても平和に共存していたと推測されています。 エローラ石窟群からも分かりますように、元々、世の中には、神を崇める人間が宗教で争う戦いはなかったのです。

余談になりますが
『ざっと2000年以上前、イスラエルにはユダヤ教を信仰するユダヤ人がもともと住んでおり、エルサレムという場所はユダヤ教の聖地でした。 しかし、ユダヤ人は、大昔ローマ帝国によって滅ぼされてしまい、イスラエルから世界中へと逃げるように移り住んでいったのです。 そして、その後、住み着いたのがアラブ人。 イスラム教を信仰するアラブ人はこの地に2000年以上も住み続け、そのうちユダヤ教のユダヤ人と同じようにエルサレムを聖地とみなすようになりました。 しかし第二次世界大戦以降、イギリスの戦略により急遽この地にユダヤ人の国家が建てられることとなり現在に至っております。』

表題にも戻ります。
エローラで最も古い時代の石窟ですが、建造は5〜7世紀とインドの仏教石窟としては最後に造られたもの。 特に第10〜12窟が有名で、チャイティヤ窟(仏像を置いて礼拝する祠堂のこと)の仏龕がある第10窟がシンボル的な存在。  仏龕は仏教石窟の中でも最も新しいもので、ストゥーパの前に仏倚座像が配置されています。 第12〜29窟(ヒンドゥー教石窟) 画像素材:shutterstock 7世紀頃から作られ始め、第16窟のカイラーサ寺院はエローラを代表する石窟。 幅46m、高さ34m、奥行き80mと、石窟内最大の建造物で一つの玄武石から削り取った巨大な寺院です。

仏教石窟(第1窟~第12窟)
第10窟はヴィシュヴァカルマ窟(Visvakarma)といい、一般的には大工の石窟と言われ仏教石窟の中でもっとも有名な石窟である。

ウェブ情報から引用

ヒンドゥー教石窟(第12窟~第29窟)
第15窟ダシャ・アヴァターラ窟(Dasa Avatara)も印象的なヒンドゥー石窟である。 
第16窟はカイラーサナータ寺院(Kailasanatha Temple)、あるいはカイラーサ寺院(Kailasa Temple)と呼ばれ、エローラで最も重要な石窟寺院である。
第21窟ラメーシュワラ窟(Ramesvara)には入り口に女神の川が掘り込まれている。

ウェブ情報から引用
第29窟デゥマル・レーナ(Dhumar Lena)も印象的な石窟である。ヒンドゥー石窟としては最も西にある石窟である。

ジャイナ教石窟(第30窟~第34窟)

第32窟はジャイナ教の石窟でチョーター・カイラーサナータ(小カイラーサナータの意)と言われ、石窟の正面の中庭に第16窟と同様に外部に出現した神殿がある。

ウェブ情報から引用

また第34窟(第32窟、第33窟と繋がっている)には美しい女神が、豊かに実ったマンゴーの木の下で、ライオンの上に座り壮麗な姿態を見せている。

こんな凄いものを造って、守り残せる人類です。

この掛替えのない『宇宙船地球号』『水の惑星』『緑の地球』を守っていかなければなりませんので、何とか間に合ってくれと、祈りながら、みんなでやれる『節電・節水・節肉食、移動には歩行・自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂きたい、CO2排出削減は、次のビッグ3『発電・精油業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 

みんなでやる『「節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車」「プラチック使用減らす(土に還るプラスチックでも製造時はCO2を!)」は、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小にはなりますが、これ以外に80億人の個人で、何かできるでしょうか。 限界のある狭い地球で80億人が暮らすには、皆で摂生し、質素な生活が必須です。
(記事投稿日2024/10/24、#971)
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『解明できない古代の謎、非常に硬い数十トン巨石の切り出しと数十キロの山坂道を運搬]』、  アメリカ大陸のペルーの「オリャンタイタンボ城塞遺跡」』

2024-10-20 14:55:01 | 寺院・仏閣・神社・お社
『解明できない古代の謎、非常に硬い数十トン巨石の切り出しと数十キロの山坂道を運搬、
  • アメリカ大陸のボリビアの「ティワナクのプマプク遺跡」、
  • アメリカ大陸のペルーの「オリャンタイタンボ城塞遺跡」』と、

『こちらは、想像を絶する古さ、有史以前の
  • ユーラシア大陸のトルコの「ギョクベリ・テベ遺跡」』

ティワナクのプマプンク遺跡(建造BC17世紀~AD1000年頃?の
いつか判断できず) 標高3700m以上の樹木のない高原に建造!

 ウエブ情報から引用

永遠の謎:ボリビアの古代遺跡『プマプンク
サッカー場が20面もの広さに、散らばっている遺跡は、大きなものは、縦7ⅿ、横5ⅿ、高さ1ⅿで約130トン、最も多くみられるHブロックは小さいものでも10トンはあります。

ウエブ情報から引用

これらは花崗岩ですので、その加工は、電気ドリルでは出来ず、ダイヤモンドカッター、又はレーザーカッターなどで切削・加工が可能だそうです。  
古代人は、100トン以上の石をどのように持ち上げたのでしょうか。 しかも、プマプンク遺跡の石は表面がきれいに磨かれていたのです。 花崗岩は一番固いのです。 花崗岩は、石英、長石、雲母で構成され、それぞれのモース硬度は7、6、2.5であるが、雲母の割合が少ないので極めて硬く、モース硬度6・5といわれる。
花崗岩(御影石とも呼ばれる)というのは、鉄器では切れません。 それが鉄器も無い時代に、表面がピカピカで、石垣をピッタリ積んでいる間は綺麗に真っ直ぐに切れています。 これらの石材の切り出しと運搬(水平の平野でない標高3700ⅿ以上の山岳の傾斜面を)は、解明できていません。

太陽の門

ウエブ情報から引用

一年を12か月とするカレンダーのような図案が描かれている。 カラササヤ神殿の石の柱は太陽の位置を示し、春分・秋分の2回、神殿東門の真ん中に太陽が落ちるよう計算されている。 ティワナク神殿の中央に『太陽の門』と呼ばれる西の門の遺跡が残されている。 重さは10トン、安山岩の1枚岩からできていて高さは3m、幅4mでプマプンクに通じる入口だったと考えられている。

オリャンタイタンボ神殿・城塞遺跡のほぼ全容(写真)
建設されたのは、紀元前2600年ほど前の第四王朝の時代とされており、現代からすれば約4600年前ということになる。
表面から見ると、凸状の急傾斜地に信じられないような巨大石造神殿・城塞であり、ほぼ全容が俯瞰された写真をウエブで見つけました。

ウエブ情報から引用

『オリャンタイタンボ神殿・城塞遺跡』と『6枚岩』の位置関係、
が分る写真をやっと見つけました。 左下隅に側面が映っています。 6枚岩に側面の上部に運搬用に使われた『突起』が写っています。 

ウエブ情報から引用

オリャンタイタンボ神殿・城塞遺跡の6枚岩
15世紀構築のインカオリャンタイタンボの6枚屏風岩、6枚中最大のものは、高さ4m、幅2.5m、厚さ平均1m、重さ約80トン、この6枚の間には、5枚このつなぎ用の石材が入っています。 見た目は『サネハギ(実矧ぎ)式』に見えるが、『ホゾサシ(枘差)式』です。

ウキペデイア情報から引用

ユーラシアとその諸島、英国・日本等の巨大な石を使った遺跡は、ある程度、切り出し・運搬・構築方法は、推測できるし、一部には痕跡もある。  このオリャンタイタンボの6枚屏風岩遺跡を含む、精緻に加工されたインカの遺跡には、殆どその痕跡がない。  先ずはウエブ情報です。

一番近くの花崗岩の石切り場は、直線距離で10キロ、実際の運搬距離では少なくとも15キロ離れた川(ウルバンバ川支流のパタカンチャ川の流れ込む谷間)向こうにある。

6枚屛風岩のある地点は150mほどの高さ。 花崗岩の石切り場のある地点は330mほどの高さ。 つまり、6枚屏風岩の建造者は80トンもの重量のある巨石を330mの高さの山上で切り出し、一度山の麓まで降ろし15キロ
もの距離を運ぶ途中で、川を渡らせ、再び、150mもの丘の上に上げたこと
になる。

50トン以上の石6枚を切り出し・運び・並べて建てるのは不可能に近く、機械を使わずに、どのようにしてこれを作ったのかは解明されていない。 インカ帝国には、巨大な石を使った遺跡が数多く残されており、その石材切り出し方法も、加工技術も謎のままで、石の表面が非常になめらかに加工されているものが多いのです。

トルコの『ギョクベリ・テベ遺跡』
ギョベクリ・テペとは、ギョベクリ=太鼓腹、テペ=日本語のてっぺん(天辺が当て字か)で、「太鼓腹の丘」という意味で、トルコ南東部シャンルウルファ市にある遺跡です。

ウエブ情報から引用

12000年前と想定される遺跡は、「世界最古の文明発見か」と世界中で話題になり、2018年にユネスコ世界遺産リストに登録されました。 歴史認識を覆す大発見とされているものの、まだ数パーセントしか発掘が進んでおらず、これからに期待されている遺跡のひとつです。

ライオン、ウシ、キツネ、ツルなどのレリーフ(これが12000年前!)

ウエブ情報から引用

この地球上で、表題の、
『解明できない古代の謎、固い数十トン巨石の切り出しと数十キロの山坂道を運搬、
  • アメリカ大陸のボリビアの「ティワナクのプマプク遺跡」、
  • アメリカ大陸のペルーの「オリャンタイタンボ城塞遺跡」』と、

『こちらは、想像を絶する古さ、
  • ユーラシア大陸のトルコの「ギョクベリ・テベ遺跡」』、

地球上には、以上のように、不思議な、素晴らしい遺産・遺跡が残っています。

この掛替えのない『宇宙船地球号』『水の惑星』『緑の地球』を守っていかなければなりませんので、何とか間に合ってくれと、祈りながら、みんなでやれる『節電・節水・節肉食、移動には歩行・自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂きたい、CO2排出削減は、次のビッグ3『発電・精油業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 

みんなでやる『「節電・節水・節肉食、移動には自転車・バス・電車」「プラチック使用減らす(土に還るプラスチックでも製造時はCO2を!)」は、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小にはなりますが、これ以外に80億人の個人で、何かできるでしょうか。 限界のある狭い地球で80億人が暮らすには、皆で摂生し、質素な生活が必須です。
(記事投稿日:2024/10/20、#970)
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『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ、 掛け替えのない地球上には、永久に残したい、似た風景が! 1』『「日本の富士山と河口湖」と「中米のグアテマラのトリマン山とアティトラン湖」』

2024-10-17 10:02:15 | 地球・火山・地震・津波
『宇宙船地球号・奇跡の星・水の惑星が「人新世」時代へ、 掛け替えのない地球上には、永久に残したい、似た風景が! 1』

『「日本の富士山と河口湖」と「中米のグアテマラのトリマン山とアティトラン湖」』

 

宣教師 マテオ・リッチが『地球』と言った。 Earth、terra、gaia/gaeaの『地』と、grobeの『球』を合体させて『地球』と。

 

マテオ・リッチはイタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭。中国名は利瑪竇(拼音: Lì Mǎdòu )。 フランシスコ・ザビエルの夢見た中国宣教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷において活躍した。中国にヨーロッパの最新技術を伝えると共に、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となった。

 

アポロ17号にて撮影された写真『ザ・ブルー・マーブル

ウキペデイア情報から引用

ザ・ブルー・マーブルThe Blue Marble)は、1972/12/07にアポロ17号の乗組員によって、地球からおよそ45,000㎞(28,000mileの距離から撮影された、著名な地球の写真である。 英語で「青いビー玉」を意味する。 宇宙飛行士からは、地球がまるで子供が遊ぶガラスのビー玉のように見えたため、これが写真の題名となった。 「ザ・ブルー・マーブル」は、現存する写真の中で世の中に最も広まった写真の一つである。また、宇宙飛行士が太陽を背に撮影した、完全に輝く地球を捉えた数少ない写真の一つでもある。

 

掛け替えのない地球上には似たような風景があります。

日本の富士山と河口湖

ウエブ情報から引用

富士山と湖以外はなにもない、『THE 富士山』。 富士山の稜線はこの辺りでは最も長く左右への広がりを見せています。

 

中米のグアテマラのトリマン山とアティトラン湖

ウエブ情報から引用

アティトランは約8万4千年前に、火山の噴火によって出来た湖、そのため周囲には断崖絶壁や、富士山のような姿の美しい火山が立ち並んでおり、とても風光明媚な環境。

 

グアテマラの首都かつ最大の都市『ラ・ヌエバ・グアテマラ・デ・ラ・アスンシオン(La Nueva Guatemala de la Asunción)』は、都市名はスペイン語で「聖母被昇天の新グアテマラ」を意味するが、通例は単にグアテマラと呼ばれ、国名と区別する場合は「市」に相当する単語を付けてシウダ・デ・グアテマラ とも呼ばれる。 

 

何度か商用で訪問しましたが、富士山のようなコニーデ型の山は、沢山見られましたが、『トリマン山』ではなかったようです。 ましてやアティトラン湖には、お目に罹れませんでした。 

 

山間の盆地にあるシティですが、ホテルのレストランのディナーには、アペタイザーに、強い蒸留酒とケチャップ少量のなかにウミガメの生卵の黄身入りが出ました。 気弱な自分は、即刻、ギブアップで同行の親友に飲んで頂きました。 ところ変われば品変わることを、実感しました。

(記事投稿日:2021/10/21、#410) 

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『外国・スペインのミカンの街路樹、収穫する機械化が凄い!』      『大量のミカンの収穫が短期間に集中するので対応に苦慮するも、年中の剪定と根本の手入が十分で、雑草は生えていない』

2024-10-16 18:59:05 | 寺院・仏閣・神社・お社
『外国・スペインのミカンの街路樹、収穫する機械化が凄い!』
    
『大量のミカンの収穫が短期間に集中するので対応に苦慮するも、定期的な剪定と根本の手入が十分で、雑草は生えていない』

『日本の街路樹の多くは、剪定も不十分で根本にドクダミやスギナ、クローバーなどが地下茎で増える雑草の繁茂ケースが多い、この根絶やしは大変』

マヤ文明、アステカ文明、インカ文明といったアメリカの文明を征服が、莫大な金や銀の富をスペインにもたらし、豊かなスペイン帝国となりました。 その豊かなスペインが街路樹に植えたミカンの果実が多用途利用されています。

  • 輸出先英国でグランマニエ、コアントロー、マーマレードに加工され、皮はビターズに。
  • 果汁は下水処理場の消化槽に送られ、消化槽内に存在するバクテリアによって有機物が分解される。
  • オレンジから排出されるメタンガス、そして、バイオマスから気体燃料となり発生したメタンガスは、電力発電の燃料として活用。
それでも、セビリア市は大量に残ったオレンジを処理する方法を、いくつも模索している。

さて、日本ですが、休耕田まであります。 カロリーカロリーベースの食料国産率は、およそ50%です。さらには、余談ですが、日本人1人あたりで計算するとおよそ50万リットルの仮想水輸入量は世界一と考えられるという。 一般的に、穀物と畜産物では、仮想水の量は畜産物のほうが多くなる。 脊梁山脈と急流の河川ですが、何とか畜産業を育成ができないものかと祈念してます。

日本の一般の街路樹は、大半が手入れ不十分で悲惨な状況です。 日本の街路樹果実事情は、まだまだのようです。

「街路樹にフルーツが成る樹を植えたらいいのに」という着想は時々実行されるようで、例えば、青森市にはリンゴ並木が何カ所かあるようです。 しかも、結実すると袋掛けして育て、熟せば市民が自由に獲って食べられるらしいです。

リンゴの街路樹として有名なのは、長野県飯田市。 1947年に大火が発生した後、中学校の生徒が防火帯としてリンゴ並木を提案し、1953年に植樹したのが始まり。 現在、約400mのリンゴ並木があり、飯田市のシンボルになっています。

 
表題『外国・スペインのミカンの街路樹、収穫する機械化が凄い!』に戻ります。 この機械はバイブレーション・振動で、ミカンを落とす。

 ウエブ情報から引用

歴史を遡れれば、オレンジは遠くの原産地アジアからヨーロッパに入り、今度はスペインの宣教師たちが新大陸に持ち込んだオレンジを19世紀半ばに交配して作り上げた新種、当時甘いオレンジの産地として有名だった名前を冠しバレンシア・オレンジとしました。 いまでは里帰りしてスペインのバレンシアでアメリカ産バレンシア・オレンジが栽培されています。 オレンジの伝播は『アジア ⇒ スペイン ⇒ アメリカ ⇒ スペインに』と数奇な歴史がありました。

ここで、オレンジの伝播の歴史を振り返り、日本の街路樹の保全と今後の対策を想像してみたいと思います。

オレンジはその昔、アラブ人がイベリア半島へ持ち込んだものです。 もともとは、ハーレムに植えて香りを楽しんだり、鑑賞用とされていました。

原産は、インド・ヒマラヤ山麓の高原地帯、野生の柑橘からスイートオレンジが誕生し、それが中国南部まで伝わります。 15世紀の大航海時代、東洋にやってきたポルトガル人により、ヨーロッパへ伝えられました。 その後、地中海品種として「バレンシアオレンジ」が生まれたのです。

19世紀、地中海品種のオレンジが、新大陸アメリカへ渡りました。 カリフォルニアとフロリダに伝わったものから、突然変異で生まれたのが「バレンシアオレンジ」です。

ポルトガルとスペインを含むイベリア半島は三方をそれぞれ大西洋、ビスケー湾、地中海と海に囲まれていて、カリブ海やメキシコ湾から大西洋を渡って流れてくる暖流と閉ざされていて暖かい海である地中海のおかげで温暖な気候に恵まれているのです。
(記事投稿日:2024/10/16、#969)
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