知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『アーマードバトル、中世の騎士になりきり戦う、人は今でも競う』―剣道が正規授業科目に、身長180㎝、体重90㎏の古武士風の先生に狙われー

2022-11-05 06:56:24 | 格闘技

『アーマードバトル、中世の騎士になりきり戦う、人は今でも競う』

『剣道が正規授業科目に、身長180㎝、体重90㎏の古武士風の先生に狙われ』

 

 子供のころに、チャンバラを体験して、高校では剣道が正規科目にありましたので、この剣道の授業の先生(身長180㎝、体重90㎏の古武士を彷彿させる偉丈夫の大先輩)には、徹底的に、ご指導を頂き、授業時間50分の間に、数十回の『小手攻め』をされ、そのあとの製図の時間に『カラス口で墨入れ』ができないほど手が震えていた経験があります。 さらに、この凄い先生から、いつも、ご指名頂いて、面を外して『組打ち』や、時にはフル装備で、砕石(玉砂利ではない)敷きのグラウンドで、もちろん素足で『野試合』それも集団戦までやるという。 貴重な体験をさせて頂きました。

 先日(20200219)の日経の文化欄の載っていました『アーマードバトル』に興味を惹かれました。 この記事を書いた方は現在、東京・目白で中世ヨーロッパ武術を学べるスクール『キャッスル・ティンタジェル』の代表を務めているジェイ・ノイズ氏です。 以下はその抜粋です。 

 『アーマードバトル』で使う武器は主に5種類。❶片手剣と楯、➋両手剣(ロングソード)、❸槍、❹ポールアーム(長柄・棹状武器)❺ダガー(短剣)。

 武器を思いきり振れるのが、アーマードバトルの大きな魅力。 頑丈な鎧をまとっているからこそで、他の多くの武術ではこうはいかない。 ゲーム用の鎧でさえ、標準的なもので、一式25㎏以上。


 ウエブ情報(甲冑格闘技アーマードバトル世界大会の画像)から引用

 

 アーマードバトル (Armored Battle) とは、かつて14〜15世紀に実在した鎧を、デザインや材質など、可能な限り史実に忠実に再現し、ギャンベゾンの上にこれを装備して戦う新しいスポーツである。

 ギャンベゾン(gambeson、aketon、padded jack、arming doublet)とは、パッド入り防御ジャケットである。プレートアーマーや鎧と共に着て擦れや衝撃を吸収したり、分けて着用したりする。キルティング(英語版)と呼ばれる縫製技術で製造される。

 しかし、騎士たちが戦闘の練習としておこなった試合形式のゲームは その当時から 突きの禁止 刃のついていない武器などを使っており まさしく今のスポーツであった。 すでに当時においてでさえ、その試合ゲーム専用の甲冑やヘルムも使用されていた 
アーマードバトルはこの中世の戦闘練習試合スポーツを 現代に再現しているともいえる。 ただし、中世当時と異なるのは、安全基準を満たせば日本や中国などの甲冑、武器も認められる 

 日本国内で行われるバトルには、ポールウェポン、ロングソード、ソードといった競技用のツールを使用するが、これらには、日本の法律とリーグの安全規格にのっとり、素材や重量、エッジの丸みなど、厳格な規準が課せられている。 IMCF主催で国際大会も開催されている。 試合は個人戦(Duel:デュエル)と団体戦(Melee:メーレー)に分けて行われる。 

 この鎧一式、25㎏以上は、アングロサクソン系男子の平均身長178㎝、体重84㎏(女子164㎝、70㎏)の、馬上の騎士には、それほどの負担ではなかったでしょうが、マットの上では大変です。 実戦での鎧一式はもっと、ずっと重かったことでしょう。 さらに大きいのは北欧人で、平均身長182㎝、体重88㎏(女子、168㎝、72㎏)です。 
 実戦での西洋の鎧一式の重さは、30㎏から50㎏とあり、馬上から落ちたら戦えなかったようです。 モンゴルの軽騎兵に欧州の馬上の騎士たちが、コテンパンにされたのは、想像できます。 

 さて、日本の戦国時代の男子の平均身長155㎝、体重52㎏(女子143㎝、44㎏)、当時の甲冑一式(大刀、小刀、槍、兜、面具、袖、籠手、胴、草摺、佩楯、脛当)の重さは、およそ30㎏です。 本能寺で、弟と一緒に討ち死にした森蘭丸成利の甲冑一式(刀槍除く)が、実物、実測で、およそ24㎏です。

 因みに、当時の足軽の甲冑・武具一式で、7kg-10kg程だったでしょうから、日本の多くの城、平城・平山城・山城の空堀でも、結構タフであったと思われます。 特に、『障子堀』などは有効であったと思われます。 

『障子堀』の著名なものは;
 山中城,三島市、 
 小田原城、小田原市、
 河村城、足柄上郡山北町
 下田城、下田市等、
 大阪城(豊臣時代の三の丸)等、日本には、十数ヶ所も存在する。

 どこにも、チャンバラが好きなままに、育って今にいたっている方がいたので安心しました。 ジェイ・ノイズ氏は、 1996年に来日し、日本の基地に同じ仲間がいたし、スポーツ経験のない方が、初めて鎧一式25㎏を着て、ファンタジーへの興味で入ったが、その時はとにかく疲れたそうです。 この頃から、中世の剣術書が出版されるようになり、それを参考に基地の中で『チャンバラ遊び』をするようになり、そうしている内に、実際に使われた技術追い求めた。

 英国、イタリア、ドイツ、様々な国や時代の剣術書を買いあさった。 そこで日常的に練習・研究のできる場所が欲しくなり、さらに日本人にも「アーマードバトル』広めたく、2008年、メジロに道場『ティンタジェル』立ち上げた。

 『ティンタジェル』立ち上げ後、間もなくは、テクニックばかり指導していたが、その後の世界戦へ日本チームで参加して、技術に加え身体能力が重要な要素とわかり、今はフィジカルトレーニングに重きを置いているとのことです。 
中世を舞台にしたアニメやゲームにも関わっているが、リアルな戦いとドラマチックな戦いは別モノと承知していると。 

『アーマードバトル』も『剣術から剣道』、『柔術から柔道』のように『○○〇騎士道』になるよう期待しています。

 この方、最後に纏めていました。 『スクール創設』以来12年になるが、まだ分からないことだらけ。 日々発見の連続である。 いつかは馬に乗っての戦いもやってみたいものだ』と。 
馬が大好きな自分も『馬上チャンバラ』万歳と言いたいのですが『英国王立動物虐待防止協会(RSPCA)から、大反対されそうです。
                         (20200427纏め #159)

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『史上最強の柔道家・木村政彦 vs 元関脇で稀代の興行主・力道山』―昭和の巌流島で、木村には、「当て身」と「腕がらみ」を禁じ手に!何故か―

2022-06-26 11:08:26 | 格闘技

『史上最強の柔道家木村政彦 vs力道山元関脇で稀代の興行主』

 『昭和の巌流島で、木村には、「当て身」と「腕がらみ」を禁じ手に!何故か』

 木村政彦も力道山も、レジェンド・伝説的な格闘技家です。 

 木村政彦はプロレスの前の柔道が光り輝いています。 後述しますが、神永がオランダのヘーシンクに日本のお家芸『寝技』で敗れました。 『神永の代わりに47歳の木村を当てようとした』話があったほど、木村は強かったようです。 

 力道山は、関脇で相撲界から引退ですが、現役時代は幕内勝率:0.581、優勝なし、三賞は一回だけ等から、やはり凄かったのは、第二の人生ともいうべき、プロレス界での活躍と大成功と、政界・財界との広いつき合いと、実績です。

 

エリオ・グレイシーとの死闘、

『木村は2Rで得意の大外刈りから腕緘(わんかん)に極め、エリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく「骨折」である)』

         ウキペデイアより引用

 

昭和の巌流試合と呼ばれた試合

『木村は素足、力道山は真鍮板を貼ったシューズのつま先で、どこかを蹴った後、不意打ちの張り手連打で腰から崩れ落ちた木村政彦の前に立つ力道山』

          ウキペデイアより引用

 

アマスポーツとプロスポーツ

 柔道界のレジェンド・木村政彦は、奥様の結核治療のストレプトマイシンを、アメリカから輸入するお金のために、プロ柔道を立ち上げ、そして失敗・解散から、プロレスへと進み、力道山は相撲界からプロレスへと進み、稀代の興行主兼プロレスラーとして成功した。

  木村政彦は、戦争を挟んで日本選手権13連勝で15年間無敗という成績で、あったが、このレジェンドを講道館は七段以上には昇段させなかった。

 アマポーツとプロスポーツの違い、それぞれの運営と興行、ローマ時代の格闘技の目的などとも、いろいろと比較・想像が広がります。

  『昭和の巌流島の戦い木村政彦vs力道山』には何が起こったのか、その結果は、周知のごとく多く人々(特に還暦・古稀世代)の記憶に鮮明にあります。

  講道館と全柔連の関係と方針・動きの中に思いを馳せながら、柔道の変革、打撃技(当て身)なしで、寝技にも制限、立ち技中心の現在の柔道になった。  これは嘉納治五郎館長の方針とは異なる、三船十段の意志貫徹の結果か『何故』と、考えさせられる。

  東京五輪の無差別級、で神永五段がオランダのヘーシンク四段にナント寝技『袈裟固め』で敗れ、銀メダルになった結果はあまりに有名。 ヘーシンクは講道館・天理大学で柔道を学び、寝技も得意であった。

 ヘーシンク198㎝・120㎏ vs 神永179㎝・102㎏、この身長・体重差(特に足の長さは『袈裟固め』有利。 この東京五輪でヘーシンクに対して、すでに47歳の木村を当てようという話も出たほどに、講道館滞在研鑽時のヘーシンク四段を木村五段は相手にしてなかった。

  嘉納治五郎は、この時代にすでに現在の総合格闘技で使われている、オープンフィンガーグローブの製作・採用実現を考えていた。この慧眼、柔道を「総合格闘技」と見た加納館長に感心し、「理論の加納、実践の三船」と言われていたが、これが皮肉に聞こえる。

  『プロスポーツならでは・・・』ですが、昔、タイソンのプロボクシングの15ラウンドの、ファイトに54億円のファイトマネーが支払われた記録も米国、にある。 メディア(テレビ)の所為でしょうか。

  力道山はメディアや政財界の大物を後援会にプロレス興行を大成功させた。これもメディアの所為が大きいのでしょう。 その間木村政彦はずっとヒ―ル役でした。

  ヒ―ル役から二強共存でヒーローの交替制興業実現を狙い、柔道出身の、木村政彦と相撲出身の力道山は、『昭和の巌流島』といわれる『世紀の一戦』をブック、(筋書き)ありで戦うことになり、木村政彦はいつもの『素足」』で、19541222日に戦われた。 

  ブックには「木村の当て身」だけは禁止とあったが、『腕がらみ技』さえも禁止、であった。 全盛期の相撲出身者がここまで恐れた、全盛期を過ぎた木村柔道、の凄さを想います。 ブックには、第一戦は各一本取り合い引分けとあったが、木村の反則(と云われている)の素足での急所蹴りを引き金に、ブックなしの、ガチンコ・セメント勝負になり、力道山の拳打ち(空手チョップではない)と、金具のカバー付きのつま先蹴りで木村が敗れ、意識不明になり、山王病院、に担ぎ込まれた。 その後、木村政彦は格闘技の世界から消えた。

  プロレスは、益々、大盛況が続いた。9年後、この同じ病院に、やくざに、刺された力道山が救急搬送され、そこで亡くなった。

  こんな、柔道家の覚悟を持っていた柔道家師匠と弟子、木村政彦の恩師、牛島辰熊は、過去2回の天覧試合(不定期)、第一回(昭和4年)と、第二回(昭和8年)に決勝で敗れ、優勝を逸している。 自分の、分身として、木村政彦をスカウトして鍛えた。 木村政彦の指導・練習稽古は、厳しく、特に、大外刈りは、失神者もよくでて、警視庁にも、講道館にも練習、相手がいなくなり脱臼者も続出するので、警視庁、講道館でもこの大外刈りは禁止された。さらに、『腕がらみ技』も、禁止されるほどであった。 この『腕がらみ技』も『昭和の巌流島』では禁じとブックに書かれた。

  第三回(昭和15年)の天覧試合を全試合一本勝ちで優勝、恩師の雪辱を果した。この記念品の短刀を子供の鉛筆削りに使っていたという、逸話もあるが、大事な試合の決勝戦の前夜には、この短刀を持って瞑想し、切腹の作法を、繰り返すほどの覚悟であった。

ところで、余談です。

 切腹について、作法道理の介錯なしで切腹した乃木大将と、立会人に最後まで介錯させず切腹した柔道家・猪熊功(柔道三冠王)の二人が記憶に鮮明です。

 元禄時代には、赤穂義士・四十七士も、自分では腹は切らず、もろ肌脱ぎか、小脇差の取りあげを合図で介錯された。 これが今では定説です。 元禄武士の覚悟の問題ではなく、『四家中に分散預けの46人の大人数の切腹で、短時間に』あったようです。

                   (記事投稿日:2018/12/23、最終更新日:2022/06/26、#041)

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『「角土俵、ノコッタノコッタ」vs丸土俵vs格闘技のリング』丸土俵は横に回り込んで攻めを回避ができます。 さらに徳俵もあります。  丸土俵には『知恵と思慮』があります。

2021-01-29 16:58:36 | 格闘技

   『「角土俵、ノコッタノコッタ」vs丸土俵vs格闘技のリング』

―丸土俵は横に回り込んで攻めを回避、さらに徳俵もあり、「知恵と思慮」が―

 昨年の夏のこと、日経の文化欄に四角い土俵、『角土俵ノコッタノコッタ』が載っていました。 それ以来、角土俵と、丸土俵と『リングと呼ばれているのに四角』の格闘技のリングのこと気になっていました。 格闘技には、稀に、メキシコのプロレスや、アメリカのTNA(インパクト・レスリング)に変形(六角)リングはありますが、丸いリングは聞いたことはありません。

 

その日経記事の抜粋です。 

 室町後期に設けられ、500年以上受け継がれる四角い土俵がある。 中国山地を間近に望む岡山県勝央町(しょうおうちょう)の植月地区で、全国で唯一現存する角土俵での相撲競技が続く。

 

 大相撲でおなじみの土俵は今では円形が当たり前だが、かつては四角だったという。 例えば「角力」と書いて「すもう」と読み、業界のことを今でも「角界」と呼んだりする。 「角」は「力比べ」の意味だが、古い土俵の四角い形も関係しているのではないだろうか。 理由は不明だが、江戸期になって丸土俵が現れ,しばらく各地で角と丸が混在していたが、元禄年間にはほとんどが、丸土俵に統一されたという。 角土俵は東北や中部地方に存在したようだが、今そこで相撲をとっているのは、植月だけとみられる。

 

 大相撲で『丸土俵の回り込みと、徳俵で残して勝った』名シーンを思い出しますが、今まで、角土俵には、自分はお目にかかったことはありませんでしたし、先ず、土俵(どひょう)とは、土を盛って作る相撲の競技場である。 に土を詰めた袋(土俵)を使っているため特に土俵場(どひょうば)と呼んでいたが、これを縮めた呼称であると、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)にあります。 この土俵場の上に作られたのが、当初の角土俵でした。

 

さらに、ウエブ情報です。

 相撲において古来、相撲節会に土俵なるものはなかった。『相撲伝書』によると鎌倉時代に見物人が直径7 - 9メートル(4 - 5間)の輪を作り、これを「人方屋」と称したという。これが土俵の起源である。江戸時代に大相撲興行が始まり、「人方屋」では特定の力士の贔屓が手を出して勝負を妨害するなど喧嘩が絶えなかった。このため、まず寛文年間(1661 - 1673年)にリングのように4本の柱の下に紐などで囲ったものになった。それを俵で囲んだものとなり、四角い土俵になった。なお四角い土俵は各地の神社や南部相撲などに現存し使用されている。次に大相撲では延宝年間(1673 - 1681年)に、東屋作りの屋根の下に四神を表す4色の布を巻いていた柱の方屋の下に、五斗俵による3.94メートル(13尺)の丸い土俵が設けられた。享保年間(1716 - 1736年)、俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」ともいう)となった。これは内円に16俵、外円に20俵いることから「36俵」と呼ばれた。

 

 余談ですが、自分の経験です。 昔、男子高校時代の放課後の部活・ロードワークでよく会う、ジュニアボクシング選手(相手がなく不戦勝ち)で県チャンプになった後輩との『3ラウンドのスパーリング(模擬戦)』の相手を先輩から頼まれたことがありました。 自分の体重はライト級で相手はミニマム級(当時はモスキート級と呼ばれていた)で、当然ヘッドギア装着のスパーリングとは言え酷い体重さの組み合わせでした。

 

 1ラウンド目に、四角いリングのコーナーに追い込まれた時の『自分の恐怖』と、3ラウンド目に小柄な相手を、怒りに任せてコーナーに追い込んだ時の『不安(この体重さで体重を乗せて打って大丈夫か)』がありました。 四角いリングは、理由あっての四角を理解した瞬間でした。 丸土俵は横に回り込んで攻めを回避ができます。 さらに徳俵もあります。 丸土俵には『知恵と思慮』があります。           

           (20190622纏め、20210129追補、 #104)

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『木村政彦は力道山より強かった!』 ―「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」の読後に分かった―

2019-02-22 07:54:31 | 格闘技

                          『木村政彦は力道山より強かった!』

     ―「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」の読後に分かった―

ウキペデイアから引用

 柔道界のレジェンド・木村政彦は、奥様の結核治療のストレプトマイシンを、アメリカから輸入(当時は個人的に輸入)するお金のために、プロ柔道を立ち上げ、そして失敗・解散から、プロレスへと進んだ。 力道山は相撲界からプロレスへと進み、稀代の興行主兼プロレスラーとして成功した。

 

 全盛期の木村政彦は、戦争を挟んで日本選手権13連勝で15年間無敗の成績であったが、このレジェンドを講道館は七段以上には昇段させなかった。

(何故か、戦前の連勝記録のリストがウェブ情報でも見られません)

 

 力道山、全盛期に引退、幕内の勝率は、0.581、75勝54敗15休、 フェアーに比較するには、現時点での現役、129戦以上の幕内力士の勝率トップ5は;

❶白鵬0.851 ➋日馬富士0.648 ❸照ノ富士0.624 ❹稀勢の里0.605 

❺琴奨菊0.562           力道山の成績は際立ってはいない。

 

 講道館と全柔連の方針・動向に思いを馳せながら、柔道の変革、打撃技(当て身)なしで寝技も制限、立ち技中心の現在の柔道になった。これも当時の嘉納治五郎館長とは異なる方針の三船十段の意志貫徹の結果かと考えさせられる。

 東京五輪の無差別級で神永五段がオランダのヘーシンク四段に、ナント日本のお家芸、寝技『袈裟固め』(ヘーシンクは講道館・天理大学で柔道を学び寝技も得意)で敗れ、銀メダルになった結果はあまりに有名。 ヘーシンク198㎝・120㎏ vs 神永179㎝・102㎏、この身長・体重差(特に足の長さは『袈裟固め』に有利。 この東京五輪で、ヘーシンクに対して、すでに47歳の木村を当てようという話も出たほどに、講道館滞在研鑽時のヘーシンク四段(当時)を木村五段(当時)は、全く相手にしてなかった。

 

 力道山はメディアや政財界の大物を後援会にプロレス興行を大成功させた。 その間 木村政彦はずっと『ヒ―ル役』でした。 これも奥様への新薬ストレプトマイシン新薬購入のため。 ヒ―ル役から二強共存でヒーローの交替制興業実現を狙い、柔道出身の、木村政彦は、相撲出身の力道山に挑戦、『昭和の巌流島』といわれる『世紀の一戦』をブック(筋書き)ありで、戦うことになり木村政彦は、いつもの『素足』で1954年12月22日に戦われた。 

 ブックには、『木村の当て身』だけは禁止とあったが直前に『腕がらみ技』さえも禁止になった。 全盛期の相撲出身者力道山(30歳)が、ここまで恐れた、全盛期を過ぎた木村柔道(37歳)の凄さを想います。 ブックには、第一戦は各一本取り合い引分けとあったが、木村の反則(と云われている)の素足での急所蹴りを引き金に、ブックなしの、ガチンコ・セメント勝負になり力道山の拳打ち空手チョップではない)と、金具のカバー付きのつま先蹴りで木村が敗れ、意識不明になり、山王病院、に担ぎ込まれた。 その後、木村政彦は格闘技の世界から消えた。

 

 プロレスは、益々、大盛況が続いた。 9年後、この同じ病院に、やくざに、刺された力道山が救急搬送され、そこで亡くなった。

 

 木村政彦の恩師、牛島辰熊は、過去2回の天覧試合(不定期)、第一回(昭和4年)と、第二回(昭和8年)に決勝で敗れ、優勝を逸している。 自分の分身として木村政彦をスカウトして、自宅に下宿させて鍛えた。 木村政彦の指導・練習稽古は厳しく、特に、大外刈りは、失神者もよくでて、警視庁にも講道館にも練習相手がいなくなり、脱臼者も、続出するので、この大外刈りは禁止された。 さらに、『腕がらみ技』も、禁止されるほどであった。

この『腕がらみ技』も『昭和の巌流島』では当然、禁じとブックに書かれた。

                                      

下記はウェブ情報からです。

ブラジリアン柔術の最強のレジェンド・エリオ・グレイシーとの死闘

 木村は2Rで得意の大外刈から腕がらみに極め、エリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく「骨折」である)。しかしエリオはカーロスとの約束を無視して強靭な精神力でギブアップせず、木村も骨折したエリオの腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。会場が騒然とする中ついに試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングに駆け上がり木村の一本勝ちとなった(カーロスがリングに上がり、ギブアップをしないエリオの代わりに木村の体をタップ。 代理のタップのため審判と揉めるも、既に決着は付いていると双方が認めたため決着。 詳細は「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」に詳しい)。 後年に木村はエリオの事を「何という闘魂の持ち主であろう。腕が折れ、骨が砕けても闘う。 試合には勝ったが、勝負への執念は…私の完敗であった」とその精神力と、武道家としての態度を絶賛している。 この「腕がらみ」がブラジルやアメリカで「キムラロック」あるいは単に「キムラ」と呼ばれるのは、この試合が由来である。エリオが木村の強さに敬意を払い名付けたとされる。     

 柔道でも格闘技の世界でも弱者でなかった故に判官贔屓にもされず、それらの世界から消えたが、やはり、木村政彦は力道山より強かった。 では何故、こうなったのか、ウェブ情報からです。

 

 戦後。食えない時代にプロ柔道に参戦したこと、さらにプロレスラーに転向して力道山と不可解な謎の試合を行い、これに敗れたため、講道館をはじめ戦後の柔道界は木村の存在そのものを柔道史から抹殺し、柔道・プロレスマニア以外にその名を知る者はいなくなっていった。

(2016,12.25 纏め、20190222改、20201004追補、2020117追補

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