『尊敬する野村克也氏も読んでいた「甲子夜話(かっしやわ)」』
『江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)の随筆集』
⇒ ウエブ情報から引用
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
「ボヤき」が代名詞だった野村克也氏は、数々の印象的な言葉を残した。 心に響く名言もあれば、笑いを誘う“迷言”も。 09年には「ボヤき」が新語・流行語大賞でトップ10入りし「ボヤきが出るのは元気な証拠。 ボヤかなくなったらご臨終です」とスピーチ。 もう聞くことはできない野村語録は沢山ありますが、これがプロ野球ファンの一人『傘寿爺』にはたまらないものです。
この名言は『甲子夜話』に、ウエブ情報から抜粋・引用です。
随筆集『甲子夜話』の著者である松浦静山。江戸時代に生き、文武両道に励むなかで有名な言葉を残した。
静山のその名言は、東北楽天の野村克也前監督の座右の銘としても知られているが、その言葉の真意や彼の生い立ちはどういったものなのか。
※本稿は、『人生の決断を導く歴史人物の格言』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」松浦静山
(1760~1841:大作『甲子夜話』を著した文武両道の平戸藩第9代藩主)
随筆集『甲子夜話』の著者として知られるのが松浦静山。平戸藩世嗣・松浦政信の長男として生まれた。父の早世に伴って静山は、12歳で祖父・誠信(八代藩主)の養嗣子となり、16歳で家督を相続した。
柳生石舟斎から新陰流兵法を伝授された徳川家康など、江戸初期以前には武芸達者な将軍や大名も少なからずいたが、静山は江戸中期の泰平の世にあって「心形刀流」を究めて印可を受けた。そのほか弓・馬・槍術や柔術まで武芸全般の修行を積んだ経験を持つ。
幼い頃から記憶力に優れ学問を愛した静山だが、いつまで生きられるかと危ぶまれるほどに病弱だった。その虚弱な体質を克服するため、教育にあたった祖母が文武両道を説いたとされる。江戸の商家出身の祖母がさばけた性格で、大名家の教育方法に固執しなかったのが幸いしたようだ。
静山は藩校・維新館を設立して自ら学を講じるとともに武芸の普及を図った。また藩政の改革を進めるため、身分にとらわれない人材登用も行った。
47歳で家督を三男に譲って隠居し、以後は執筆活動に従事した。1821年の甲子の日の夜に起草した『甲子夜話』は亡くなるまで毎夜書き足され、278巻に及ぶ。
東北楽天の野村克也前監督の座右の銘として有名になったが、言葉の意味は、負け(失敗)を虚心に反省すれば必ず原因が見つかる―。予期せぬ失敗やミスをしたとき、人は往々にして「運が悪かった」「ついてない」で片づけがちだ。
しかし、失敗した場合には必ず原因がある。失敗しないためには「運」が味方するようにふだんから努力を続け、「鈍」(当たり前のことを当たり前に行う、あるいはやるべきことを行うこと)と「根」(最後まで手抜きせずやり通すこと)に全力を尽くすのみである。
文武両道で、さらに吉原で通人として知られたという静山の言葉は、ビジネスにも通じる鉄則といえるだろう。
名言や、笑いを誘う『迷言』を沢山残した野村克也氏は、それらを『ボヤき』で表現されています。 このトーク術は野球界の大伯楽です。
愛称は「ノム」(ノムやん・ノムさん)「ムース」。血液型はB型。
選手としては、史上2人目・パリーグ初の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算塁打数歴代2位、通算打席数1位(11970打席)、通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠飛)、通算併殺打1位(378併殺打)、最多記録となるベストナインを19回受賞、パリーグ最多記録となる本塁打王を9回獲得、打点王を7回獲得、パリーグ最多記録となる最優秀選手を5回受賞などの記録を持つ。
監督としては1565勝1563敗を記録。 このうち「平成」(1989年1月8日 - 2019年4月30日)期間の勝利数1053は同時代における最多記録。 1563敗は歴代最多記録。 プロ野球では南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。 元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督(2012年まで)。
日本プロ野球史でベスト3を選ぶとしたら必ず入ると信じています。
(記事投稿日:2022/03/31、#510)