知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『謎解き・伝説のミステリー「忠臣蔵に隠された7つの謎がわかるSP」で忠臣蔵の真相がかなり拡大判明』

2024-12-30 19:20:14 | 寺院・仏閣・神社・お社
『謎解き・伝説のミステリー「忠臣蔵に隠された7つの謎がわかるSP」で忠臣蔵の真相がかなり判明拡大』

『今まで知っていたのは、過去にあった、①吉良家の領地と松平家(後の徳川家)と尾張(三河国)で領地争い』

『②赤穂浪士 7~8人が桜田門(江戸城の最大重要な門・現警視庁所在地)の前に、隠れ住んだが、幕府が黙認』

1702年12月14日 赤穂事件・忠臣蔵
 
ウエブ情報から引用

謎① なぜ斬りつけた?刃傷事件の謎
1701年 江戸城で浅野内匠頭が吉良上野介に向かって刀を振り回し斬りつけた事件。 『忠臣蔵』では吉良のいじめが動機として描かれている。
幕府(5代将軍綱吉)から勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)を命ぜられました。 江戸城に来た朝廷の使者をもてなす役割で、費用は藩が負担します。
その上司は高家・吉良上野介義央
高家:朝廷との交渉や儀式・典礼を司る役職で、吉良はその筆頭。浅野は18年前にも接待役を務め、接待費用を450~460両支払いました。 近年の費用を確認すると、1200両(約1億4400万円)に増額していた。
浅野は700両に出来ないかと提案、しかし吉良は受け入れようとはしなかった。
松の廊下事件
吉良は、浅野が世間しらずの田舎者だと愚弄したようです。 古文書には浅野が短慮(気みじか)な人物とも書かれており、吉良の横柄な態度に浅野が恨みを抱いたとする説があります。
浅野は即日切腹、吉良はおとがめなしと、喧嘩両成敗ではなかった。
 赤穂藩はお家取りつぶし。 藩の城や屋敷はすべて幕府に没収されました。

謎② スパイ作戦の謎・吉良邸内部をどう探った
松の廊下事件の後、吉良は両国に引っ越し。 吉良の屋敷が広すぎる、吉良は留守が多いなど問題点がありました。
屋敷は東西に約130m、南北に約60m 約780㎡(敷地 約2550坪)と広大。
作戦1 赤穂浪士の前原・神崎が雑穀店に変装して屋敷近くに潜伏
 吉良家の人間と親しくなって、警護の様子を探っていました。
 雑穀店の屋根から吉良邸を観察していました。
 前に住んでいた大名家の図面に集めた情報を加え屋敷図を作りました。
作戦2 吉良の顔を探れ
  大石を始め、誰も吉良の顔を見たことが無かった。顔がわからないまま、
討ち入りすることになり、脱退してしまう人、討ち入りの前々日にも逃げた浪士がいたほど。
 当時約8300万円あった軍資金が江戸での滞在費等で消費され、討ち入りを
先延ばしできない状態になっていました。
作戦3
  吉良は、親戚の上杉家に泊まることが多いことが分かりましたが、お茶会が
あるという、大石三平からの情報で、討ち入りは前日に決まりました。
<吉良邸内部をどう探ったのか>
 名前や職業を変え、吉良邸の人間と接触、屋敷の構造や在宅日時を掴んだ

謎③ 装備に隠された謎・なぜ150人の敵に圧勝できた?
吉良邸には約150人がいた、幕府に見つかるため・短期決戦が必須。 午前4時の奇襲 2時間で終わりました。
赤穂浪士の怪我人は数名で、吉良を打ち取るに成功、圧勝出来たのは、討ち入り道具。
呼子鳥笛:討ち取った時の合図・47士全員が持っていた。 室内用の黒い筒(照明道具):松明だと火災の可能性があるため。 放火や失火は罪が重く、死罪となることもあったため。 さらに吉良邸の隣の大名家が高提灯で屋敷内を照らしてくれていた。
大石は吉良側の人間の士気が低いことを察知。 渡者:派遣社員のように主人を変えて仕える者。 渡者の比率が高かった。 

 
謎④ なぜ勝てた?戦術の謎
表門部隊は約5mの長屋塀を竹梯子で乗り越え、裏から表門のかんぬきを外した。
裏門部隊はかけ矢(木槌)で侵入。 さらに、庭の見張り、屋敷内の斬り込みなど、分担。 備えてあった弓や槍も破壊しました。 敵一人に付き3人態勢で戦闘し、有利に戦いを進めた。 約1時間で屋敷を制圧しましたが、なかなか吉良氏が見つかりませんでした。 炭小屋に隠れていた老人を見つけ、
肩の傷跡をで、吉良だと判別。 彼らの装束でわかるように、浅野家は祖父の代から火消し役でした。
<150人相手になぜ圧勝>
用意周到な装備と戦術の工夫と、火消しとしての統率力があったから

大石内蔵助を介錯した刀。 介錯人の子孫に伝わる介錯の刀・二尺一寸
刀を研ぐことは非礼に当たりとされ、300年以上手入れは油の塗り替えのみ。
 切腹の解釈に「備前長船」という名刀が使われました・それだけ敬意を表していました。

謎⑤ 消えた浪士は?大石の密命の謎
討ち入りの翌月には歌舞伎で演じられました。 (関係者は討ち入りを予想していた。) 赤穂浪士は討ち入りから49日後に切腹しました。
赤穂浪士・寺坂吉右衛門は切腹せずに83歳まで生き延びました。

大石は、正確に世間に伝わることを願い、真意が後世に残るよう、寺坂に密命していました。 切腹までの間の聞き込みにも、誰も口を割らなかった。 寺坂の主人の吉田忠左衛門「この男は不届きものだ」と幕府の捜索が入らないことの芝居だった。寺坂の記録が『寺坂信行筆記』に残っています。
堀部安兵衛も自分たちの手紙などを学者に渡したと言われています。
<大石内蔵助が仕掛けた狙い>
 寺坂によって、討ち入りの真意を後世に残すこと。

謎⑥ 忠臣蔵の歴史が変わる?主君の墓で行われた儀式の謎
討ち入り直前まで潜伏していた大石は、家紋を内側に隠してあります
近松家に伝わる記録『義士墓前報告一件』「主君の想いを遂げよう」
「懐から刀を出し、石塔に置き、吉良上野介の首に三度当てた」
討ち入りの後、泉岳寺で敵討ちの報告をしました。
浅野内匠頭の短刀で斬る仕草を、義士たちが代わる代わる行う儀式。
主君に吉良の首を取ってもらうというのが、彼らの本当の狙いだった
主君の浅野が成仏できず、怨霊になることを恐れたとも言えます
<赤穂浪士たちの本当の目的>
亡き主君の願いを叶えること
 切腹の日に検視から、吉良家がお家取りつぶしになったことを聞いて、大石が泣いたそうです。

謎⑦ 黒幕がいた?成功の陰に幕府の陰謀があった。
愛知県西尾市吉良町、華蔵寺(けぞうじ)吉良上野介の墓があり、墓に「高家」と記されています。
高家:戦国大名の子孫など、格式の高い家が務める役職
時には将軍の使者として朝廷の儀式に参加することもあります

吉良の死後、吉良家自体が高家の役職から解任されました。 幕府の中には、吉良を排除して、朝廷と新たな関係を築きたいとの思惑がありました。

 
『吉良家日記』が西尾市の博物館に残されています。 歴代の高家が年代別に記録されています。 出自が、武家から公家出身に変化しています。 朝廷との儀式は、莫大な費用がかかります。 儀式が盛大・厳か・伝統的になって来ると、高家の存在が際立ってきます
幕府としては合理化していきたい、そのために吉良が邪魔な存在になり、公家の次男の新高家にどんどん変えていくことを考えていきました。

 いくつか、討ち入りに際して違和感があることに気づきます。

・吉良邸の引っ越し
 警備の厳重な江戸城の近く(現在の丸の内)から警備の薄い両国へ。 周りに住んでいた大名たちから「赤穂藩が攻めてくるから嫌だ」と言われていました。

・大石内蔵助の手紙
幕府が密偵を付けてきましたが、吉良邸を打ち破ることを特段とがめることもありませんでした

幕府内の怪しい人物は、柳沢吉保(5代将軍綱吉の側近として信頼の厚かった人物)ではないかと言われています。 平和な世の中において、不要になってしまった武士の本来のスゴさを庶民に再認識させたかった、という説もあります。

<成功した理由>
幕府の陰謀か、大衆の熱狂などの空気があったと言われています。

かつて赤穂浪士は120人以上いました。
大石は裏切らない確信として、血判状を書かせ、浪士たちの覚悟を見際めました。 「親族にも一切口外しません」大石はわざと使いの者から「討ち入りは断念しました」と血判状を返却しました。 その反応を見て、やる気のある者を討ち入りのメンバーを選びました。 覚悟のない人の前で討ち入りの話をすると、周辺の藩に噂が広がってしまいます。 処分されそうな赤穂藩の実情に対して、報告・密告をするのが御奉公の一つでした。
大石は討ち入りを諦めたふりをして血判状を返却し、スパイの目を欺く狙いもあったようです。
 この用意周到さには驚くばかりです。 情報が拡散されない時代に、幕府の動向・様子をよく分析・読めたものです.
(記事投稿日2024/12/31、#975)
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『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚、 理由は天皇系図の直系であったが「新皇」の名乗りが早すぎ!』

2024-12-27 12:40:30 | 寺院・仏閣・神社・お社
『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の 歴史感覚、理由は天皇系図の直系であったが「新皇」の名乗りが早すぎ!』

『アイヴァン・モリス(著)「高貴なる敗北―日本史の悲劇の英雄たち」にもなぜか、将門の記載ないが、東日本での人気 は凄い』

『日本の古代では、西の朝廷の影響か、東の将門人気なし、名誉回復のため調査してみたが!「判官びいき」の変形か』

早すぎた新皇を名乗った武士・平将門
ウエブ情報から引用

平 将門(903年? -  940年3月25日)は、平安時代の関東の豪族ですが、その由緒・血筋が凄い。 日本の第50代桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男の鎮守府将軍平良将軍の子。 下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗漁争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称して東国の独立を標榜。朱雀天皇の朝敵となった。 しかし即位後わずか2カ月たらずで藤原秀郷・平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。 死後は怨霊になり、日本三大怨霊の一人として知られる。 後に御首神社・築土神社・神田明神・国王神社などに祀られる。
日本三大怨霊(やはり平将門の由緒・血筋が凄い)
  • 菅原道真:天満宮・菅原神社(学問の神様)
  • 平将門:神田明神など(除災厄除の神様)
  • 崇徳天皇:白峯神宮(厄除け・縁切りの神様)

評価の東西差と変遷
歴史学者の川尻秋生は中世の貴族の日記に将門の名が現れるピークが大きく二つあり、一つは12世紀後半の源平争乱期、もう一つが14世紀前半の南北朝の動乱期だとしている。 いずれも大きな戦乱が起きた際にその先例として将門の名が挙げられており、中央の貴族にはいわばトラウマの様な形で将門の乱が伝承されていたとしている。 

またこれとは別に中世以降、将門を祖先とした千葉氏を中心とした武士団により平親王や日本将軍として受け入れられ、逆臣的要素が払拭され、将門伝説が伝承されていった。 将門伝説は千葉一族の分布する場所に多く見られる。 また当時の史料から東国の民衆は疲弊していたことが窺えるが、その原因について環境史研究の成果から、異常気象などの天災ではなく欲にかられた為政者が起こした人災であったと考えられている。

ただし延喜15年(915年)に有史上日本最大の噴火とされる十和田湖の噴火が起こっており、東北一帯を火山灰が覆い京都でもまた扶桑略記に「昼間なのに太陽が月のようであり皆不思議がった」と記されており、降灰の影響で東国でも大規模な不作が発生した可能性も存在する。 そうした背景から反権力闘争を起こした将門は東国の民衆から支持を得ていたという説がある。 これらから必然的に将門の評価は東西で相反するものになる。

近世の徳川時代になると東国政権という意味から、初めて坂東を横領した将門に関心が寄せられた。 神田明神が江戸総鎮守となり、将門は歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられた。 将門伝説は文芸化と共に民衆の支持を受けたといえる。bその多くが将門を誇張し怨霊として描いており、滝夜叉姫の伝説などが生まれた。 将門を日本三大怨霊一つとするのもこの頃からと考えられる。 明治期には将門は天皇に逆らった賊とされ、政府の命により神田明神などの神社の祭神から外されたりした。 一方で民衆の信仰は厚く将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたとされる。

戦後、天皇制に関する研究が解禁され国家の発展段階が理論的に議論されると、将門の乱を中世封建社会への前段階とみなす説が現れるが、のちにこの説は勢いを失う。 一方で社会には大河ドラマ (風と雲と虹と (1976年))で取り上げられた事で好意をもって広く受け入れられ、『帝都物語 (1987年)』により将門=怨霊・祟り神のイメージが定着した。 

従前の将門研究は文献史料を中心とし歴史学と日本文学史が大きな潮流であったが、史料の少なさからこれらには限界が見られ、今後は考古学や在地社会研究との協業作業が期待される。 何故、少なかったかは、表題『「西では極悪人、東では神様」、平将門にみる日本人の歴史感覚、理由は天皇系図の直系であったが「新皇」の名乗りが早すぎ!』ではないでしょうか。
(記事投稿日:2024/12/27、#F282)
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『「目から鱗」傘寿+3になってやっと知った江戸時代の貨幣制度と一両の価値(江戸時代vs現在)』 『2024/12/15日経紙文化欄の「金(かね)」と「銭(ぜに)」の違い』

2024-12-21 08:41:51 | 寺院・仏閣・神社・お社
『「目から鱗」傘寿+3になってやっと知った江戸時代の
   貨幣制度と一両の価値(江戸時代vs現在)』

『2024/12/15日経紙文化欄の「金(かね)」と「銭(ぜに)」
   の違い』

昔から時代劇が大好きで、テレビ・映画を夢中になってみていました。 歴史の書物もよく読みました。 中央公論社の日本の歴史・全26巻中の 15巻 『大名と百姓/佐々木潤之介(著)』 などは、江戸時代の大名の禄高や貨幣制度も知らず、この一冊は退屈で文字を数えるようにやっと読み切ったしんどい記憶がありました。

この度『2024/12/15日経紙文化欄の「金(かね)」と「銭(ぜに)」の違い』で、江戸時代の貨幣制度がかなり理解できました。 これからのテレビや映画の時代劇が楽しみになりました。

江戸時代貨幣制度

 ウエブ情報から引用

仁平勝氏のエッセイ『2024/12/15日経紙文化欄の「金(かね)」と「銭(ぜに)の違い』からの抜粋引用です。

金貨には、大判、小判のほかに二分金と一分金があった。 小判一枚の一両が基準で、二分は一両の半分の額になる。 

銭貨の方は単位が文で、通貨としては、四文銭と一文銭が一般的。 四千文で一両になる。 これほど価値が大きく違うと、江戸時代の感覚では『金(かね)』と『銭(ぜに)』はいわば別物と考えていたのかもしれない。

金貨のままでは、使い勝手が悪いから、銭貨に両替するときは『銭を買う』といった、これは別物の感覚。

『江戸っ子は宵越しの銭は持たない』といったが正しく、『宵越しの金は持たない』という人もいるが、これは江戸時代の意味からすれば間違い。

『小金をためる』といえば、それなりに貯金のあることで、『小銭がない』といえば紙幣しか持ってないということ。

『日銭を稼ぐ』という場合は、その稼ぎは多い額ではない。 『宵越しの銭』も要するに『日銭』。 

『銭』の文は少ないことに使う、『一文もない』、『二束三文』、『三文文士(面白くない小説書き)』、『三文判(重要な書類には使わない)』。

明治になって両という単位が円に変わった。 物価は単純には比較できないが、通説では一両は十万円くらいといわれる。 明治時代の一円は、諸説あるが現在の一万円ぐらいといわれる(当初は金貨であった)。

『銭(ぜに)』は『銭(せん)』に変わり、百銭が一円になり、銭の下に厘。 文が銭にかわったと考えられ、『一文もない』が『一銭もない』に変わった。

日常的には、クレジットカードやコード決済を使っているので『金(かね)』や『銭(ぜに)』の違いなど意味がなくなった。 『金銭』という言葉もいつまでの残るだろうかと、このエッセイは終わっています。

時代劇によく出る千両箱の千両の現在価値・金額、
江戸時代初期~中期   1億円
江戸時代後期     8,000万円 
幕末         5,000万円

千両箱の重さ、
深夜の江戸、千両箱を、軽々と肩に乗せた盗賊が走るという場面が、時代劇ドラマでよく見られますが、よほど担ぎなれていないと無理だったのではないでしょうか。 千両箱に入っている小判は、時代によって重さや価値が違いますが、徳川家康が慶長6年(1601)に造らせた慶長小判なら、一両4.76匁(もんめ)、すなわち17.85g。 千両なら17.85㎏。千両箱そのものの重さが、5~6㎏といったところだから、千両箱1箱は約25㎏といったところ、そんなものを担いで走ったら、なんだかすぐに息切れしそうです。
 (記事投稿日:2024/12/21、#985) 
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『あしかがフラワーパーク「光の花の庭」500万球が輝く光の花園、圧巻の光景が広がる夢のイルミネーション』 『夜景のプロ「夜景観光士」が選んだ優秀技術賞第1位』

2024-12-15 09:48:52 | 寺院・仏閣・神社・お社
『あしかがフラワーパーク「光の花の庭」500万球が輝く光の花園、圧巻の  光景が広がる夢のイルミネーション』

『夜景のプロ「夜景観光士」が選んだ優秀技術賞第1位』

あしかがフラワーパークでは、2024年10月18日~2025年2月16日(日)の期間、500万球を超えるイルミネーション(人類の省エネの傑作LED照明で、電気代、1日5時間で、およそ23,000円、詳細後述)で飾られたイベント、
『光の花の庭~Flower Fantasy2024-25』
が開催。 2022年に全国ランキング第1位にて日本三大イルミネーションに再認定された。 また、2024年には全国6610人の夜景観光士によって優秀技術賞第1位に選ばれたそうです。

このイルミネーションは、もともとは花の少ないシーズンに新たなコンテンツとしてスタート。 現在、10月中旬~11月下旬は花のライトアップとともにイルミネーションが楽しめます。 12月はクリスマス、新年はニューイヤーと4カ月間のなかで3つのテーマを変え、複数回来園しても変化を感じることができます。 お子様からご年配の方まで、親子3世代での来園も多くあり、幅広い世代から親しまれている。

池にLEDを浮かべて描いたファンタジー傑作
 
2024/12/11撮影ス

LEDの造った巨大藤棚と池に浮かべた深紅観葉植物のコントラスト
 
2024/12/11撮影

本物も羨む、息をのむような見事なLED藤花の巨大棚
 
2024/12/11撮影

夢を壊すような余計なことですが、500万球のイルミネーションの電気代、
100球で6Whなので、500万球では300kWh
計算式 (LED約500万球 / 100球)× 6W = 300kW

17:00~22:00ですので、5.0時間の点灯
1時間300kWなので、5時間では1,500kWhとなり,
kWhあたり15円なので、1500kWhだと
計算式 15円 × 1500kWh = 22,500円/日
大体1日当たり23,000円くらいの電気代で済んでいるということで、『LEDの発明万歳』です。 

このイルミネーションの世界の省エネの凄さを知って、改めて、政治の世界の皆様へ『何をするにも、ヒト・モノ・カネと時間』の『数値化と、さらにはコスパ・タイパも常に念頭』に実行、事後の総括と公開をお願いします。
 (記事投稿日:2024/12/15、#984)

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『日本語のこと 2(通い詰めている地元の市立図書館で見つけた本が、金水敏氏編集のミネルヴァ書房刊「よくわかる日本語学」)』

2024-11-26 16:49:32 | 寺院・仏閣・神社・お社
『日本語のこと 2(通い詰めている地元の市立図書館で見つけた本が、金水 敏氏編集のミネルヴァ書房刊「よくわかる日本語学」)』

『この難しい言語「日本語」を難しいと言わずに、解析! 国の数では、ほぼ、表音文字が大多数の地球上で、表意文字・漢字と、表音文字の平仮名+片仮名+ローマ字の混合で発展した日本!』

 ウエブ情報から引用

地球上で一番難しい言語は『日本語』ではないでしょうか。 なぜなら『表意文字の漢字と、表音文字の平仮名+片仮名+ローマ字+略語』と、『新聞読むのに苦労する、「カタカナ英語」と「英語略語」の氾濫』があります。 

さらには、このようなウエブ情報も見つけました。
日本の書籍や雑誌、テレビ番組の字幕で中国人名の現地読み(中国語読み)がよく使われている。 ニューズウィーク日本版でも例えば、習近平にシー・チンピンとルビが振られている。 ところが、この現地読み、在日中国人にとっては悩みの種だ。 片仮名の表記を読んでも中国語の漢字を連想することが難しく、また日本人がそれを口にしても、何を指しているか分からないのである。 一般的に、片仮名のように音をそのまま表現する表音文字を持たない中国人は、日本人の名前の漢字を中国語で発音する。 逆もしかりで、母音も子音も少ない日本語で中国語の音を表現するのは至難の業だ。 実際、中国人がパッと聞いて分かる片仮名表記はほとんどないだろう。相手に伝わらないのであれば、何の意味もない。しかもこの片仮名表記、各社で統一されているわけでもない。 シー・チンピンもいれば、シー・ジンピンもいる。 これでは、ただでさえ分かりにくい中国人の人名表記がさらに分かりにくくなる。 在日中国人にはなかなか頭の痛い中国人名の表記。日本の皆さんはどう思われますか?

カタカナ中国語の「シー・チンピン」もダメだけど、習近平(しゅうきんぺい)はもっとダメです。 日本においてこのような変化が現れるようになったのは、「習近平(しゅうきんぺい)」方式が国際社会において全く機能しなかったからです。 海外留学経験者であれば、外国人と中国関係の話をすることが絶望的に困難であることを思い知らされていると思います。

中国語圏・漢字語圏とスペイン語圏の20年以上も住んで、生活した傘寿+3爺にとっては、しみじみと思う、日本語は『表意文字の漢字と、表音文字の平仮名+片仮名+ローマ字+略語』と、『新聞読むのに苦労する、「カタカナ英語」と「英語略語」の氾濫』する ”日本人にも” 難しい言語です。
そんな時、国会図書館通いから足が遠のき、通い詰めている地元の市立図書館で見つけた本が、金水敏氏編集のミネルヴァ書房の『よくわかる日本語学』でした。

本書は、日本語学・国語学を専攻する大学生、またひろく一般読者に向けて書かれた、日本語学の奥深く豊饒な世界を堪能できる入門書。 具体的な例をあげ、日常生活に潜むことばの法則を読み解く。日本語の定義から始まり、音声、形態、語彙、統語・意味、表現、言語行動、日本語史まで、第一線で活躍する執筆陣が、それぞれの項目について研究の最前線のエッセンスをやさしく、楽しく学べるように解説。

[ここがポイント]
◎ 日本語学関係の諸分野(日本語学、言語学、方言学、日本語教育他)を専攻する大学生、関心を持つ他分野の研究者や一般読者に、日本語・言語研究の面白さと言葉の不思議さを伝える
 ◎ 第一線で活躍する研究者が、それぞれの項目について研究の最前線のエッセンスをやさしく、楽しく解説。

詳しくは、『よくわかる日本語学の目次』(タフな内容ですが時間をかけて読んでみようと思っています。)

はじめに

1 日本語の定義
 1 標準語・共通語
 2 日本語が話される地域
 3 日本語の話者
 4 日本語の方言・日本系言語
 5 日本語の近隣の言語

2 音声・音韻と表記
 1 音声・音韻概説
 2 母 音
 3 子 音
 4 音節構造(シラブル・モーラ)
 5 日本語のアクセント
 6 イントネーション
 7 日本語の表記

3 形態論
 1 動 詞
 2 形容詞
 3 名詞述語・形容動詞

4 語彙論
 1 語 種
 2 和 語
 3 漢 語
 4 外来語
 5 混種語
 6 品詞と語彙
 7 オノマトペ
 8 指示詞・代名詞
 9 新語・流行語

5 統語論・文の意味論
 1 統語論概説
 2 語順とかき混ぜ・省略
 3 主節と従属節
 4 条件節
 5 連体修飾節・準体節
 6 格と格助詞
 7 主題・焦点
 8 動詞文
 9 形容詞・形容動詞文
 10 名詞述語文
 11 取り立て
 12 受身文
 13 自発・可能
 14 使役文
 15 アスペクト
 16 テンス
 17 ムード・モダリティ
 18 終助詞と文末イントネーション
 19 疑問文

6 文章・文体・表現論
 1 口語体と文語体
 2 話し言葉と書き言葉
 3 位相と位相差
 4 話し言葉・書き言葉のスタイル
 5 役割語とキャラクター
 6 ヴァーチャル方言
 7 やさしい日本語

7 言語行動・社会言語学・応用日本語学
 1 敬語とポライトネス
 2 命令と依頼
 3 さまざまなヴァリエーション
 4 言語変化
 5 方言と共通語化
 6 日本語教育
 7 国語教育

8 日本語の歴史
 1 日本語の起源・系統
 2 日本語史の時代区分
 3 古代日本語の資料
 4 中世日本語の資料(キリシタン資料)
 5 中世日本語の資料(キリシタン資料以外)
 6 近世日本語の資料
 7 近代・現代日本語の資料
 8 音声・音韻の変化
 9 表記の変化
 10 形態の変化
 11 語彙の変化
 12 指示詞・代名詞の変化
 13 ヴォイスの変化
 14 テンス・アスペクトの変化
 15 モダリティの変化
 16 統語構造,構文の変化
 17 敬語の変化
 18 文章の変化
 19 話し言葉の変化
  20 標準語の誕生

文字がなく、話し言葉であった『大和言葉(やまとことば)』は、古くは和歌や雅語(詩歌)のことを意味したが、現在ではもっぱら日本語の語種(単語の出自)の一つであり漢語や外来語に対するにほんの固有語を指す。 飛鳥時代頃まで大和国や大和飛鳥を中心に話されていたと言われています。 

日本語とアイヌ語のルーツをなども思いだしながら、冬の夜長を頑張ります。
(記事投稿日:2024/11/26、#980)
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