知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『野球界の怪物探しは続く 4(この記事では敬称略)愛称「平成の怪物」松坂大輔』

2024-12-08 09:38:29 | スポーツ
『野球界の怪物探しは続く 4(この記事では敬称略)愛称「平成の怪物」松坂大輔』

高卒一年目で、一番印象に残ったシーン「二塁走者の大打者片岡篤史を一切気にせず、振り向きもせず、次の二人の打者を三振できりとったこと

『高卒一年目から3年連続最多勝、西武入団後の8年間で108勝、最多勝3度、最優秀防御率2度、最多奪三振4度、「やはり怪物」』

『甲子園時代の成績
  • 3年生時の春は5勝0敗、奪三振43、防御率0.80
  • 3年生時の夏は6勝0敗、奪三振54、防御率1.17
  • 3年生時の夏決勝戦は史上2人目のノーヒットノーランを達成
  • 新チーム発足以降の公式戦は44連勝無敗、自身は33勝0敗で27完投
とまさに「平成の怪物」!』
野球界の怪物探しで再確認できたこと、

❶時代・年齢を問わず、野球界にはオールラウンダー(複数の競技で能力を発揮する選手。 一つの競技でポジションを問わない選手。)が多いことです。 

野球が『投げる・打つ・走る、且つ団体競技でありながら、投手対打者という一騎打ち的個人競技要素も入ります。 因って、昔の陸上競技経験者がしみじみと野球は凄いと感心している傘寿+3です。 『のっけ』から脱線で恐縮です。 自分は中学時代には、ハイジャンパーでした。 少しは中距離400m走も得意(記録は60秒フラット)でしたが、200ⅿは30秒、100ⅿは15秒と酷いもので、陸上部員としては、短距離失格で顧問の先生には、いつも怒られていました。 
野球部員は凄い実感するのは! 中学校時代の運動部対抗リレー(200ⅿX4)では野球部はバトン代わりにバット、テニス部はラケット、卓球部もラケット等でした。 2又は3走の自分の所為でいつも、走るのが本職の陸上競技部が野球部に負けました。 野球部員にはオールラウンダーが多かったのです。

❷米国の『MLBの殿堂入り』と『日本のプロ野球の名球会入り』の条件が微妙に異なりますが、どちらでも怪物というだけではなかなか、それぞれの殿堂にも、名球会にも入れないようです。 
『野球界の怪物探し』との関連もありますが、この詳細比較は次回にします。 

先ずは、ウエブ情報の松坂大輔の抜粋のエピソードから、
5歳から小学3年生までは、地元東京都江東区の福住剣友会で剣道を、当時暴れん坊だった松坂を家族は強制的に入会させた。(後の野球教室では、「球を速くするにはどうすればいいですか?」という質問には「剣道をすると背筋と手首が鍛えられて良いよ」と答えている。)

横浜高校時代は、「サボリのマツ」と言われるほどの練習嫌いであったが、2年生時の夏の神奈川大会準決勝の対横浜商業高校戦において自身の暴投によるサヨナラ負けを喫して以降奮起して猛練習、3年生時に球速150km/h超を記録し、切れ味鋭いスライダーを武器に超高校級の投手として「平成の怪物」として注目を集めた。 甲子園で春夏通じて球速150 km/hを超えたのは松坂が初めてである。

高校時代の最後の夏となった第80回全国高校野球大会では、
  • PL学園高校に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利
  • 翌日の準決勝、明徳義塾戦でも1イニングに登板し、逆転劇を呼び込む。
  • 勝の京都成章戦で史上2人目となる決勝戦でノーヒットノーランを達成
圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。 この決勝戦は後に所属するボストン・レッドソックスのスカウトが観戦していた。 

甲子園での11勝を含む公式戦では44連勝、松坂投手自身は37試合に登板し、33勝0敗の恐るべき成績を残しました。 278回を投げて防御率1.13、11完封を含む27完投、奪三振324はまさに「平成の怪物」のなせる業ですね。

同年のドラフト会議で西武ライオンズから1位指名を受けて入団。 プロ入り後は西武やボストン・レッドソックスなどで活躍した。 

入団時の一年目の凄いエピソードを一つ、日本ハム・阪神時代に活躍した片岡篤史の松坂との初対決です。

 ウエブ情報から引用
1999年4月7日、西武のルーキー松坂との初対決で空振り三振を喫した日本ハムの片岡。 片岡は、当時を次のように振り返る。 「甲子園を春夏連覇した松坂のデビュー戦ということで、お客さん、報道陣の数も多かったですね。球場(東京ドーム)全体が異様な空気に包まれていました」 対戦前は「どんな投手なのか」という興味はあったものの、それでも相手は高校を卒業したばかりの投手。片岡自身も含め、日本ハムのベンチには「負けるわけがないという雰囲気だった」という。
 しかし、初回の松坂の投球を見て、その意識が変わった。 「立ち上がりの投球を見て、『これは、ただの高卒ルーキーの投手ではない』と感じました。スライダーは、近鉄で長くクローザーを務めていた赤堀(元之)と同じくらいすごかったですし、西口(文也)や石井(貴)ら当時の西武にいたエース級の投手たちと遜色がないほどの完成度でした。あと、デビュー当時はまだ線が細かったですけど、体の強さも感じましたね」
片岡と松坂の初対戦は、初回二死、走者なしの場面。カウント2-2から松坂が投じたインハイへの155kmの直球を片岡が豪快にフルスイングするも、走るバットは空を切った。

 
『この三振尻もちの、次の打席で片岡は二塁打で二塁に進出も、この後の二人の打者を三振できり取る間、二塁走者の片岡を一切気にせず、振り向きもしなかったそうです。』 この片岡のコメント『凄い投手だと思った。』
を何かの機会に知りました。

「当時、自分は調子がよくて、伊良部(秀輝)の球でも空振りしない自信がありましたし、四球を取ることにも自信がありました(1998年・2000年の四球数はリーグ最多)。普段であれば、あのコースは見逃していると思うんですが、直球が来た時にストライクと思って振りにいきました。あんなふうに足から崩れるような空振りは、現役時代を通じてあまりしたことがないんですけどね。

当時の東京ドームはスピードガンで球速が出にくくて、伊良部でも150kmが計測されることは稀でした。そんな中での155kmですから。『可愛い顔をした兄ちゃんが、こんなにエグい球を投げるのか』と(笑)。松坂はメジャー時代もすごい球を投げていましたが、日本のマウンドで投げた球の中では、最高の球だったんじゃないかと思いますね」

勢いづいた松坂は、デビュー戦で8回2失点と好投し、プロ初登板・初勝利を挙げた。以降もイチローをはじめとした球界を代表する打者たちと名勝負を演じるなど、長らく西武、日本球界のエースとして君臨し続けた。片岡は言う。

「イチローと松坂の対戦は野球界を盛り上げましたし、僕らも松坂と対戦する時は気持ちの入り方が違いました。特に自分は、あのように豪快な空振り三振を喫していたので、余計に気持ちが入っていましたよ」

衝撃のデビュー戦から積み上げた白星は、日米通算170勝。その過程には、2011年のトミー・ジョン手術をはじめ、度重なるケガがあった。「170勝が多いのか少ないのかはわかりませんが、ケガがなければ200勝以上勝てたと思います。近年は佐々木(朗希)にしても、奥川(恭伸)にしても、"高卒投手の1年目は体作り"という傾向があります。仮に松坂がそのようなステップを踏んでいたら、もっとすごい成績を残していたでしょうね」

 最後に、引退を決断した松坂に対しての思いを聞くと、片岡はこう答えた。「苦しかっただろうな......と思いますね。高校時代もプロ入り後も、あれだけの多くの球数を投げ、加えてメジャーや国際大会の舞台でも投げ続けてきました。そうとう肩や肘を酷使してきた投手ですから。引退後はゆっくり休んで、体をいたわってほしいです」

日本代表ではWBCで2度優勝している。 アテネオリンピックの銅メダリスト。 21世紀初の沢村栄治賞受賞者。 ゴールデングラブ賞をパ・リーグ投手最多記録となる7回受賞。
投手として西鉄ライオンズでは2度のリーグ優勝、1度の日本シリーズ優勝に貢献。 ボストン・レッドソックスでは1度の地区優勝、1度のリーグ優勝、1度のワールドシリーズ優勝に貢献した。

MLBメディアでは「Dice-K」と呼ばれた、

ウエブ情報から引用
日本代表では第1回WBCと第2回WBCでエースとして貢献している。
(記事投稿日:2024/11/29、最終更新日:2024/12/08、#973)

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『リングを降りたボクサーたち(次のステージを戦う120人の姿撮る)』—兄弟げんかや取っ組み合い(スキンシップ)の機会がない今こそ工夫して—

2024-09-14 10:51:28 | スポーツ

『リングを降りたボクサーたち(次のステージを戦う120人の姿撮る)』

『兄弟げんかや取っ組み合い(スキンシップ)の機会がない今こそ工夫して』

 

 20191230の日経新聞の文化欄に載ったタイトルが、『リングを降りたボクサーたち(音楽・経営・・・次のステージを戦う120人の姿撮る)』でした。 この記事の筆者は、高尾啓介氏です。 この方は、アマチュアボクシングの経験者の写真家ですので、120人ものボクサーたちの『リングを降りたその後』を撮り続けられたのでしょうか、凄いです。

ウエブ情報から引用

 ギリシャの古代オリンピックの種目であったボクシングです。 少し不謹慎ですが『ボクシングは、ルールありの喧嘩』と思った時代がありました。 その昔の喧嘩は、昨今の喧嘩と異なり、ルールに近いものがあったような記憶があります。
   
 時には想定外の『突然切れる』ケースも多々ありますが、最近の大人しい子供たちや、若者を見ていると、格闘技(打撃系;ボクシング・空手、組技系;相撲・柔道・レスリング等)を小さいころから経験した方がいいと、自分は思っています。 なぜなら少子化の世の中では、最も身近で加減のできる兄弟げんかや取っ組み合いの機会(スキンシップの変形)が無くなってきています。 いっその事、『成人したら、自衛隊の体験入隊義務化も「是」としたいと思うこの頃ですが・・・。 自分が住んだことのあるシンガポールには、少し異なりますが、似たような制度があります。

 自分は全く、この世で『格闘技』には縁がなかった『男子高校の山岳部』時代に、貴重な経験ができました。 学校では、隣の部室がボクシング部でしたので、時々、ロードワークが一緒になりました。 ロードワークはボクシング部の専売特許と思っていましたが、他の運動部もクラブもやっていました。 当然、山岳部でも必須のアイテムでした。 山岳部員であった自分が、『表題の記事から一部、抜粋』させていただき、自分の経験を備忘録としました。

 当時、このボクシング部に、『県チャンプ』が居りました。 当時のジュニアのモスキート級ですので、対戦相手が、県には居りませんでしたから『不戦・県チャンプ』です。 この『不戦・県チャンプ』がなぜか、自分をスパーリングパートナーにしたい旨、ボクシング部と山岳部の両部のキャプテンを通じ申し入れてきました。 当時、自分の体重はライト・ウエルター級で、『不戦・県チャンプ』とは、体重差15㎏でした。 自惚れですが、自分は、黒のタイツで、ロードワーク中は、まあまあの『カッコ』でした。  

 このスパーリングは厳しいものでした。 1ラウンド3分の3回戦(間に1分間の2回休み、合計11分)が長かったこと。 確かアマチュアジュニアルールの1ラウンドは2分ではなかったと記憶しています。

アマチュアボクシングには、1ラウンドの時間のルールがあります。

小学生              1分30秒  3ラウンド
中学生                 2分     3ラウンド
ジュニア(15歳以上18歳未満)     2分     3ラウンド
シニア「(18歳以上34歳)     3分     3ラウンド

 このルールから見ると、自分はズブの素人・アマチュアでありましたが。シニアの待遇をしていただいたようでした。 当然ヘッドギアは付けていましたが、クリーンに打たれると、汗と涙までが飛び散りました。 結局3ラウンド目には、『これはガキの頃のケンカだ』を思い出して、自分(薩摩芋ほりで鍛えた握力は50㎏以上でした)も滅茶苦茶な攻撃になり、相手を膝から座りこませました。 

 体重差15㎏が決定的でした。 体重制の必要がよく判りました。 この体重差でスパーリングとは言え、無謀なことをさせた両部の三年生キャプテンの責任重大かつ大問題でした。 この後、県チャンプとは、ロードワークは、いつも一緒でした。

 この時、思ったことは、ボクサーが、相手と試合終了後、普通は当然のように握手し、抱き合いますが、自分は、そんなことできたら『人間じゃ-ねー』と思いました。やはり未熟者でしたと同時に、普通の人間でした。 だんだん慣れるのでしょうか。
  
 表題の記事抜粋と感想です。
ゴングが響くと殴り合いが終わる。 リングで勝者は高々と腕を上げられ、敗者は喪失感を漂わせる。 やはり敗者に当然ながら爽快感など微塵も無い。

私もアマボクサーだった。 『あしたのジョー』の世界王者の大場政夫に憬れた。 スポコン漫画の主人公は、やはり格闘技(打撃系;ボクシング・空手、組技系;相撲・柔道・レスリング等)系に多かったようです。

 育ち盛りなのに、弁当はリンゴ1個という減量に耐え・・・。 半世紀も前ですが、アマチュアジュニアは、当日の計量結果で階級アップして参加できた時代もあったそうです。

④ あるミュージシャンは、今でもライブ前には無意識にシャドーボクシングをしてしまう・・・。 試合開始直前の緊張を紛らわした経験がミュージシャンになっても、抜けない、マジナイ・儀式になっているのでしょうか。

 私が訪ねた約120人は、口をそろえてボクシングに感謝していた。 殴り合いの格闘技は、なかなか経験できないものです。

 ボクシングに、多くの方々が、いろいろ思い入れがあるのは、やはり残酷な面があるからでしょう、ローマ時代の闘技場では、女性の観客も多く、最後に『止めを刺せ』と叫んだのも女性が多かったようです ローマ時代と同じように、現代人も格闘技が好きですが、やはりボクシングの系統の、フランスのサバット、タイのムエタイその派生で、キックボクシングやシュートボクシングがあります。 それでも、ボクシングの世界には、『ボクシング存廃論』が根強くあります。 

 当然です。 大きく、厚いグローブを使えば、ノックアウトまでに、沢山打たれ、何試合も重ねれば、ドランカー(モハメド・アリでもなった)なりますし、小さい、薄いグローブを使えば、相手は顔のどこかの部分を骨折又は、自分は拳(多いは、中手骨)の骨折になります。

 最近では、オリンピックの金メダリスト・村田諒太や、稀代のボクサー・井上尚弥がいます。 さらに、井上尚弥を超えるか、といわれる期待のフライ級の新人・中谷潤人、20戦全勝(15KO)がいます。 村田諒太の強さは、十分知られていますが、井上尚弥の強さの秘密ですが、今までの情報を、素人ながらまとめて見ると;

体力測定結果『成人の一般男性と同程度』と言う驚きの結果がでました。
●握力(左手)47.8kg(一般人平均46kg)
●反復横飛び54回(一般人平均値48回)
体幹のみは突出して優れていましたが、動体視力、反射神経、筋力は一般人と変わらず、柔軟性にいたっては一般人の平均値を下回っていたとのこと。

 この体幹ですが、ウエブ情報にはこうありました
脊椎動物の体のうち,体肢を除いた部分。躯幹ともいう。体幹はさらに頭部、頸部、胸、腹部、骨盤部、尾部に区分される。 体肢は体幹から出る手足で、前肢(上肢) 、後肢 (下肢) に分ける。 ヒトは他の霊長類と比較して下肢に対する体幹の割合が小さいのが特徴である。 さらに、井上選手は右利きだが、腕相撲は左のほうが強いという。 まさに両利きの二刀流!

 パンチの威力は規格外、オマール・ナルバエスにKO勝ちした試合直後のリング上で敵陣営が王者『ナルバエススがこんな簡単にダウンするはずがない。 グローブに鉛か何かを入れているのだろう。 今すぐに確認させろ!』とクレームをつけてきました。 というのは、ナルバエススは相当打たれ強く、過去159戦で一度もダウンしたことがなかったのです! その直後に、敵陣営は納得して、井上尚弥の強さ、特にパンチの強さを認め、絶賛しました。

 表題から 脱線しましたが、今後の楽しみな課題ができました。 『井上尚弥のパンチの衝撃力と、体幹がどう凄いのか』を調べて見ます。

(記事投稿日:20200415、最終更新日:2024/09/14、#154)

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『インパクト時の呼吸 2(世界のメジャーリーグ、ベーブvs イチロー vs 大谷)『武道には、「心・技・体」、野球には「走・攻・守」この「走」が大谷の強み』

2024-07-01 09:24:13 | スポーツ

『インパクト時の呼吸 2(野球界、ベーブvs イチロー vs 大谷)』

『武道には、「心・技・体」、野球には「走・攻・守」この「走」が大谷の強み』

『この記事を最初に作ったのは20190609付、その後もやはり凄い・大谷二刀流』

とにかく、野球の国(1903年に発足したナショナルリーグとアメリカンリーグの2つのリーグの共同事業機構で、両リーグの統一的運営『メジャーリーグ』)『大リーグ』とも呼ばれる)で、ピッチャーの大谷投手兼打者の二刀流がホームラン王争いをする相手チームのホームラン打者に対戦するという風景だけで、「大リーグ」ファンだけでなく、だれもが『わけの分からない混乱』の衝撃を受けたと思います。

チームのエースが、ホームラン王争いをする。 それも『メジャーリーグ』においてです。 今回のMVP満票獲得は『メジャーリーグ』110年と長い歴史の中で6人目です。

陸上競技を経験した人にはよくわかります。 高身長・重量級のアスリートは、中距離向きで、短距離、長距離は不向きと言われました。 大谷選手の凄さは、  『投げる・打つ」の優れた選手は、結構います。 ピッチャーでホーメランを沢山打てる選手です。 DH制度がなかった時代の記録ですので、比較はできませんが、例えば、日本では、

順位

本塁打数

選手

球団

1

7

藤本英雄

巨人

1950

2

6

金田正一
別所毅彦
服部受弘

国鉄
巨人
中日

1962
1951
1949

3

5

松岡弘
平松政次
成田文男
米田哲也
米田哲也
金田正一
別所毅彦
江田貢一

ヤクルト
大洋
ロッテ
阪急、
阪急
国鉄
巨人
松竹

1977
1971
1969
1968
1960
1955
1952
1950

ベーブ・ルースが本格的に投打の両方でプレーしたのは、レッドソックスに所属していた1918年と19年。 既に投打の分業が進んでいた時代に、投手から打者に転向する過渡期で二刀流に挑んだ。 

第1次世界大戦の影響でシーズンが短縮された18年。 ルースはチームが消化した126試合のうち、95試合に出場。当時は全体の本塁打数が少なく、11本で初の打撃タイトルを獲得した。 投手としては20試合の登板で13勝(7敗)。大リーグでは、この年のルースを最後に2桁勝利と2桁本塁打を同一シーズンに記録した選手は出ていない。

 

メジャーでは、

まず前提条件として ”その選手が投手として出場して” というくくりが必要と思います。 60~70年代ほど前までは投手も代打として打席に立つことが珍しくなかったからです。 また1973年からア・リーグではDH制度が導入されたので、この年からア・リーグの投手がシーズンで何度も打席に立つことはほぼ皆無になりました。 この条件で MLB投手によるシーズン最多本塁打記録を持つのは1931年 クリーブランド・インディアンスのウエス・ファーレル)投手の「9本」です。 (すべて9番打者=投手として記録しています)。 2位は8人の投手が「7本」でタイ記録になっています。 一番最近だと、2001年 コロラド・ロッキーズのマイク・ハンプトン投手が記録しています。 なおウエス・ファーレルは「投手として打った本塁打の通算記録」も保持しています(37本+代打で1本 。1927~1941年)。

陸上の世界のスーパースター、ボルト選手(体重94㎏・身長196㎝)と大谷選手(体重97㎏・身長193㎝)の二刀流・三刀流です。 この体格の比較も『もしボルト選手が野球をやっていたらのどと夢がひろがりました。 『メジャーを高校野球に・・・』などと、野暮も愚痴もやめましょう。 なぜなら大谷選手は、100年に一人、100万人に一人の逸材と、すでに言われています。

 

ここからは,『インパクト時の呼吸  1(野球の世界、ベーブvs イチロー vs 大谷)』の再掲載です。

ベーブルース(初代二刀流、ピッチャー&ホームランバッター)

ウエブ情報から引用

 

イチロー(世界のイチローはオリックス時代でも;7年連続首位打者)

ウキペデイアから引用 

大谷(元祖二刀流のベーブルースの記録に一番近いスラッガー)

ウキペデイアから引用

何かやりそうだ思っていた、矢先ですが、米大リーグ、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手が613日、タンパベイ・レイズ戦で、一試合で本塁打、三塁打、二塁打、単打を放つサイクルヒットを達成し、MLBの歴史に名を刻みました。 メジャーリーグの日本人選手としては初めての記録でした。 

 

元祖『二刀流』のベーブルース(ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア)選手も、走力不足で達成できなったサイクルヒット記録を大谷選手は達成しました。

 

 3人の体躯の比較です。

           身長     体重     走力(~一塁)

 ベーブ       188cm    99kg  推定4.6秒(17/100m)

 イチロー      180cm    80kg    3.8

 大谷        193cm    97kg    3.8

 

この大谷選手ですが、打つ瞬間に、イチロー選手と同じように口元を膨らませています。 ベーブルース選手とイチロー選手の打撃フォームですが、似ている点があると言われています。

 

『二人とも、スタンスが狭く、それから体を前に投げ出す点が似ているという表現でした。 これは1本足打法の王選手にも言えます。王選手とベーブルースの打撃フォームは非常に良く似ています。 前足を上げるか上げないかが違うぐらいです』

 

また、インパクト時の呼吸方法についてのウエブ情報です。

 

最近のプロ野球選手は口にマウスピースなどを咥えて顎を固定させる事で力を出しています。 これはウェイトリフティングなどで力を均一に且つバランス良く出すための工夫です。 これはこれで力を出すことに役立つことに間違いはないでしょう。

ところがイチロー選手は打撃の瞬間、息を”吐いている”のだそうです。 普通は考えられない。 力を出す呼吸法には大別して二種類あるかと思います。

一つは呼吸を止める=腹圧をかけてお腹の内圧を一定にして高める事で力を出す方法。 こちらは空気がはいることで下腹部が安定し力が出せます。

もう一つは、イチロー選手がやっている呼吸を出し続ける方法。 これは武道関係ではやっている人が結構いますが、”瞬間的な”力とスピードが出し易いようです。 ですから、一瞬で相手を倒す必要の中で発達してきた方法なのかもしれません。
武道の場合では、吐くと同時にお腹を膨らませる丹田呼吸で下腹部を瞬間的に安定させますが、イチロー選手もそうなのかはわかりません。

さらに、イチロー選手のインパクト時の呼吸方法を完成させるエピソード・貴重なウエブ情報がありました。

 

2,016719日と20日、米・フィラデルフィアのシチズンズ・バンク・パーク球場の観客席にサングラス姿で大きく手を振り、応援する日本人女性がいた。 歌手の石川さゆり(58)だ。メジャー通算3千本安打の偉業達成間近のイチロー(42)の応援に日本から駆けつけ、2日連続で生の声援を送ったのだ。

 

「彼女は毎年イチローの応援に渡米しています。今年は埼玉県大宮でのリサイタルが終わるのを待って、レコーディングもかねて渡米したようです」(芸能関係者)

 

石川は試合後にイチローと一緒に食事をした様子を、ホームページの日記にこう綴っている。

 

《お食事も一緒しましたが、やはり日本でシーズンオフにお会いするよりシュッと一段と引き締まって、大リーグで闘っているんだなーと感じます。いつもの大きな声と笑顔がステキでしたよ》

 

演歌歌手と大リーグ選手の意外な交友関係。 アプローチしたのはイチローのほうだった。0812月にNHKBSで放送された『私のうたの道~石川さゆり~』のなかでイチローはこう語っている。

 

「石川さんに興味を持ったのが、07年の紅白ですよね。ン!って思って。この力の抜け方と入れ方は何なんだと思ったんですよ。こりゃすごいぞと」

 

すぐに彼はチケットを買い、石川の呼吸法と体の使い方を直に見るために、コンサートに行った。

 

「『天城越え』の(歌詞にあわせてひらひらする)手の動きがたまんないですよ。で、08年のぼくのシーズンはいろんなものを越えていかなくてはいけない。 で、自分のなかでそういうものも生まれていかなければいけない。 そういう思いも込めて、これは『天城越え』だと石川さんにお願いしたんです」

 

順天堂大学医学部の小林弘幸教授は、イチローが石川に教えてもらった力の入れ方と抜き方を、こう絶賛する。

 

「バッターボックスに入るまでの動き、屈伸や深呼吸を取り入れながら、メリハリのある動きをしています。演歌歌手の呼吸法もまさにメリハリのあるもの。 こぶしを回すときに思いきり吐いて、そのあと感情を込めてふっと脱力する。 緊張と脱力が自律神経を整えることにつながるんです。日常に取り入れるとしたら、爪先立ちをしてふっと力を抜いてストンとかかとを落とす。そんな動きが効果的です」

 

イチローは石川の呼吸法から取り入れた体の強弱リズムを実践したおかげで、08年には日米通算3千本安打、107年ぶりの記録更新となる8年連続200本安打の大記録を達成。 実際にイチローが試合でメリハリのある動きを取り入れている姿を目撃したスポーツ紙記者は、こう語る。

 

「守備位置につく彼のすぐ後ろで試合を見たことがあるのですが、いつ球がどっちに飛んできてもすぐにダッシュができるように、爪先立ちなんです。そしてプレーの合間にはふっと力を抜く。 そのメリハリが絶妙でした」

 

小林先生は、代打中心のいまこそ、体の強弱リズムが効果的だと語る。

 

「そのリズムは緊張をほぐしますから、ルーティンにすることで心の迷いが消えるんです。血流もアップし、末梢まで神経の伝達がよくなり筋肉の反応も良くなります。1人でいるときと6万人の観客がいるときで心の変化がなく、突然試合に出てきても平常心でプレーできる」

 

交流8年。石川の呼吸法がイチローを支え、今年は08年以上の偉業を手にする。

 

大谷選手は、オープン戦の途中で、スランプになったときに、イチロー選手を訪ねています。 『凄い選手は凄い選手を知る』、米大リーグでも二刀流志望選手が出てきています。

 

米大リーグでも二刀流で活躍し、その記録を残した選手は、極少なく、これから大谷選手がどこまで進化するか楽しみです。

 

ベーブ・ルース(Babe Ruth)選手

野球の神様と言われており、アメリカの国民的ヒーロー。

本塁打50本以上のシーズン記録を初めて達成した選手。

レッドソックス、ヤンキース、ブレーブスで活躍。

1918年は20試合に投げ、137敗・防御率2.22。メジャー唯一、同一年度での10勝かつ10本塁打を記録。

 

マイケル・ブルックス・キーシュニック(Michael Brooks Kieschnick)選手

2002シカゴ・ホワイトソックス傘下のAAAシャーロット・ナイツで投手挑戦。同年は外野手と投手の二刀流選手としてプレーし、打撃では打率.27513本塁打、40打点をマーク。投手としては25試合に登板し、防御率2.59の成績を残した。 

 

米大リーグのテレビ観戦が楽しくなりました。 ベーブルース・イチローはバッティングフォームで似ており,イチロー・大谷はインパクト時の呼吸方法でつながり、この呼吸方法が石川さゆりの大ヒット曲『天城越え』につながる不思議を考えます。『一流は、一流を知る』ボンズコーチとイチロー選手の関係です。

 (記事投稿日:2021/11/20、最終更新日:2024/07/01、#424)



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『インパクト時の呼吸 6(野球界、大谷 vs 野茂・イチロー・松井)』 『大谷翔平選手は、野球と野球関連以外でも、知れば知るほど、広い分野とその知識で新発見があり、「凄い」の一語!』

2023-12-15 11:00:48 | スポーツ
『インパクト時の呼吸 6(野球界、大谷 vs 野茂・イチロー・松井)』
『大谷翔平選手は、野球と野球関連以外でも、知れば知るほど、広い分野とその知識で新発見があり、「凄い」の一語!』

朝からテレビにかじり付いて、大リーグ、ドジャースと10年契約を結んだ大谷翔平選手のドジャースタジアムでの入団記者会見で、背番号「17」の真新しいユニフォーム姿披露見ました。 会見で大谷選手は「勝つことが今の僕にとっていちばん大事なこと」と話し、悲願のワールドシリーズ優勝に向けた強い決意を示しました。 これからこれ以上のMLBの選手が出現すだろうか、との思いを新たにしました。

 ウエブ情報から引用

昨日、見つけました。 記事を、多くの人々に読んでいただくためなら、このような記事も書くのかと思いました。 『Chat GPT』を超え、人類を超えた世界最強『AI(Gemini)』に書かせればこうはならないと思いました。

ウエブ情報からの抜粋・引用です。
野茂もイチローも叩かれた米国で…大谷翔平だけは批判されない理由、粗探しも許さぬ“本質的能力”

北米プロスポーツ最高額の契約で脚光
米大リーグ・ドジャースに加入が決まった大谷翔平選手。 メジャー史上最高&北米プロスポーツ最高となる10年総額7億ドル(約1014億円)の契約は米国中で話題となったが、米ニューヨーク州地元紙「ニューヨーク・タイムズ」は大谷が手厳しい米国の批評家たちすらお手上げにさせている理由に注目。イチロー氏らとの違いを説明している。

「オオタニの契約は金銭や感覚を超える」との見出しで、同紙のケン・ベルソン記者が執筆。記事では「日本人選手のヒデオ・ノモからイチロー・スズキ、そしてヒデキ・マツイの契約は利益をもたらすものであった。 しかし、オオタニの記録的な大金は完全に違うものだ」とし、野茂英雄、イチロー、松井秀喜というかつての日本人スターを引き合いに、大谷の価値を指摘した。  

ベルソン記者は「日本人プレーヤー(大谷)が単に優れているというだけでなく、国際的なゲームの中で最高で、そして最も人気があることの証拠である」と金額面での記録もさることながら、大谷が世界に与える影響に注目。 しかし、これまでは「日本人選手がメジャーリーグで成功するにつれて、懐疑的な人は批判の理由を探してきた」と過去の事例をこのように挙げた。 

ヒデオ・ノモは1995年にドジャースに入団し、その年の新人王に選出された。しかし、ひねくれ者たちは、彼が成功したのは型破りなストップモーションの投げ方をしていたからだと主張した。 イチロー・スズキが2004年に262安打でメジャー記録を作った時、評論家たちは、彼は主にゴロやライナーを打つから達成できたと批判した。ヒデキ・マツイは日本ではトップスラッガーだったが、ヤンキースでは普通のパワーヒッターだった」  

記事では、こうした批判的な意見が飛び交う米国の地でも大谷が称賛を浴びていることを強調。 その理由について「米国人たちを彼らの得意な分野で圧倒している」と分析する。  

日本野球について著書を複数出版しているロバート・ホワイティング氏の話として「彼は500フィート(約152.4メートル)のホームランを打って、時速100マイル(約161キロ)の球を投げることができ、ほとんどの米国人よりも大きくて力強いのだ」と説明。 誰よりも遠くに飛ばし、誰よりも速く投げるという本質的な身体能力で、粗探しも許さないパフォーマンスを特筆した。

とありましたが、ネガティブな比較は避けて、素直にフェアーをして頂きたいものです。 比較相手は異なりますが、昔のブログの一部を再掲します。
先ずは興味ある、ベーブvs イチロー vs 大谷各選手の体躯・走力比較です。
         身長   体重   走力(ホーム~一塁:90ft=27.431m)
 ベーブ     188㎝  99㎏      4.6秒
 イチロー    180㎝  80㎏      3.8秒
 大谷      193㎝  97㎏      3.8秒

冒頭から余談で恐縮です。 大谷選手のスプリント能力は次のように、米国では紹介されています。 計時機器と映像機器の発達はいろいろな解析・比較ができます。

大谷のトップスピードは400M世界記録保持者とほぼ同じ
まずは走りの本職である陸上競技と比較してみる。 陸上選手と野球選手のトップスピードを比べれば、陸上選手が圧勝するのは明らかなので、ここでは大谷のトップスピードと陸上選手の平均スピードを比較する。
人類最速の男、ウサイン・ボルトが持つ100メートルの世界記録は9秒58。時速だと平均37.6キロで、トップスピードは時速44.7キロに達する。 ボルトの異次元の走りは、大谷の比較対象として相応しくないが、400メートル走の世界記録保持者になると、大谷といい勝負になる。
400メートルで世界記録を持つ、ウェイド・バンニーキルクのタイムは43秒03なので、平均時速33.5キロ。 バンニーキルクは100メートルを9秒94で走るが、本職の400メートルを走ったときの平均スピードは、大谷がホームから一塁へ走るときに出すトップスピードとほぼ同じ。』

大谷選手は打撃の瞬間、口を膨らませて呼吸を止める
(イチロー選手は口を膨らませて呼吸を吐く派)

ウエブ情報から引用

大谷選手は投球の瞬間は、口を膨らませずに呼吸を止める

ウエブ情報から引用

以前に、このシリーズのブログをご覧いただいているご年配の婦人方から『今までは、日本のプロ野球も米国のプロ野球の実況放送は見たことがありませんでしたが、最近はMLBを観るようになりました』と、ご連絡を頂きました。 とにかく想像を絶する幅ひろいファン層です。

2022年には、大谷翔平選手を米メディアが宇宙人扱い 「太陽系の外から来た」「人間なのかどうかも定かじゃない」と報じました。 プロ野球の好きな米国人ですが、今までこんな表現は見たことも聞いたこともありません。 東洋的なベイビーフェイスで、体は米国人アスリートよりも大きいです。

一部のネガティブな記事を書くメディアの皆さんへ、野茂英雄選手、イチロー選手も、松井秀喜選手も、記録と記憶に残る活躍で夢を与えてくれました。
(記事投稿日:2023/12/15、#709)
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『登場が早すぎた清原和博氏、「打」の才能が凄すぎ「二刀流は」は実現せず』

2023-08-26 09:34:31 | スポーツ

『登場が早すぎた清原和博氏、「打」の才能が凄すぎ「二刀流は」は実現せず』

『リトルリーグ入団テスト(小学三年)で遠投70ⅿを記録、以来投手で4番』

『PL学園一年生の時、清原選手は桑田選手の投球を見て投手をあきらめた!』

『落合博満氏は「清原だよ、自分の後の3冠王はあいつしかいない」といった』

リトルリーグの清原選手は30校近い高校のスカウトがあったが、奈良県の天理高校とPL学園高校でどちらに行くかで悩んでいたが、両校の練習を見学した際に、毎年100人前後の部員を抱える天理高では3年生が練習をしている際に1年生が球拾いをしているのに対し、少数精鋭をとるPL学園では学年に関係なく同じメニューの練習ができることが決め手となったそうです。

PL学園で新入部員が最初に集まった際に、桑田(身長174㎝、体重80㎏)部員を探しその姿を発見すると『なんだ、こんな小さい奴か』と思ったが、実際の投球を見て驚嘆し、PL学園で投手になることを断念したと。
 
ウエブ情報から引用

PL学園を選びKKコンビを組めたからこその、3年間で5大会に出場と、その実績があります。

清原選手(身長186㎝、体重90㎏)の高校時代・甲子園での当時記録;
  • 甲子園での通算ホームラン数は13本
  • 通算打率は4割4分
  • 1大会で5本のホームラン

KKコンビのPL学園での成績
1年夏:優勝
2年春:準優勝 - 岩倉(東京)に敗れる。
2年夏:準優勝 - 取手二高(茨城)に敗れる。
3年春:ベスト4 - 渡辺智男を擁する伊野商(高知)に敗れる。
3年夏:優勝
やまびこ打線の池田高校(1982年夏・1983年春)、松坂大輔を擁した横浜高校(1998年春・夏)、北海道勢初の甲子園制覇、さらには田中将大を擁しての夏の甲子園連覇(2004年夏・2005年夏)をした駒大苫小牧を含め、春夏連覇や夏春連覇を達成したチームは多数あるが、5季連続でここまでの成績を残したチームは学制改革後KKコンビ時のPL学園だけ。

米国のメジャーリーグで大活躍した松井秀喜(身長188㎝、体重99.8㎏)氏、さらには大活躍中の大谷翔平(身長190㎝、体重95.3㎏)選手が居りますが、もっと凄い『清原和博(身長186㎝、体重90㎏)』氏が居りました。 三人の入団一年目の実績です。

  • 清原(1986):打率(.304)・本塁打(31本)・打点(78点)・塁打(236)
  • 松井(1993):打率(.223)・本塁打(11本)・打点(27点)・塁打( 83)
  • 大谷(2013):打率(.238)・本塁打( 3本)・打点(20点)・塁打( 71)

高校野球でも,プロ野球でも、野球界の二刀流元祖になれた凄い逸材が居りましたが、甲子園大会での通算本塁打数の最多記録保持者(13本。春に4本、夏に9本)は清原和博氏です。

小学3年生の時点で、すでに身長が155cmあり、入団テストの遠投では70mを記録したとのこと。 1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得。

野手への転向
清原は早くから1年生では田口権一と共にレギュラー組に選ばれていたが、6月頃に(入学当初から希望していた)投手の練習はもうしなくていいと言われた。その後、同期の桑田真澄の傑出した実力を知り、「桑田には絶対勝てない」と野手を選んだ。
新入部員が最初に集まった際に、桑田を探しその姿を発見すると「なんだ、こんな小さい奴か」と思ったが、実際の投球を見て驚嘆し、PL学園で投手になることを断念したと、後にコメントしている。

落合博満氏(日本の元プロ野球選手・監督、野球解説者、タレント、YouTuber)の今まで見た高校球児で一番凄かった選手明かす 『清原だよ。自分の後の3冠王はあいつしかいないと思っていた』とコメントしていました.

ウエブ情報から引用

今後も続けます。 『野球界の歴史的なスーパースター・清原和博氏のエピソード探し』を。
(記事投稿日:2023/08/26、#682)
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