知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『大ピラミッドのこと 2.2(ピラミッド群はナイル川の堤防としての構築?)』ー大ピラミッドの底面は海抜59.6m、ナイル川平均水位より約47.0m高いー 

2025-01-15 16:41:03 | 歴史・世界・古代

 『大ピラミッドのこと 2.2(ピラミッド群はナイル川の

    堤防 としての構築か、の説に疑問?)』 

大ピラミッドの底面は海抜59.6m、ナイル川平均水位

   より約47.0m高い』

 『大ピラミッドのこと 2(謎が深まり・夢が残った 2)』に書きましたピラミッドの謎の中の謎、「なぜ建設されたか・Why」について、竹村公太郎氏の「ナイル川西岸だけのピラミッド」はギザのピラミッド3基だけではなく80基、未発見を含めれば約100基。 東岸にはゼロ。 2008年に最新の1基が発見された。 これもナイル川の西岸にあった。この「西岸」への集中は、宗教的理由、西は死、東は生に、あるとも言われる。

 

ベストセラー3部作「日本史の謎は『地形』で解ける」の著者、竹村氏の新説の検証を考えた時にすぐに思ったことは;

①  ナイル川水系の狭い帯状の緑と、

②  その東西両側の高地(東)・台地(西)

③  大きな・綺麗な扇状地(デルタ)と、

④  ナイル川支流が注ぐ海抜マイナス45mのカルーン湖と周辺緑地(写真中

   中央の横向きハート形)でした。

このような地形から、何故、「このたびの新説」になったのか検証です。

ピラミッド群のナイル川西岸の配列にこだわった視覚デザイン学の高津道昭氏は、「ピラミッドはテトラポット」であったと推理し、「ピラミッドはなぜつくられたか」(新潮選書)を22年も前の19926に著した。

この二人の説は、ナイル川西岸の砂は、ナイル川によって削られ、ナイル川は西へ西へとリビア砂漠に逃げていき、エジプトの穀倉であるナイル川デルタの維持・拡大ができなくなるので、高津氏の「ピラミッドのテトラポットによる堤防構築説」と、竹村氏の新説「ピラミッドによる、からみ工法での堤防構築説」となった。

ナイル川を挟んで、ギザ高台の対面、東側のカイロ市の海抜は1560m。対して、西側のギザのピラミッド群は、海抜4963mのギザ台地に立地。

大ピラミッドの底面は海抜59.6m、底面はナイル川平均水位より約47.0m高い。

ナイル川の、平均水位は12.2m、最高水位は20.6m、平常時の川幅約1km、増水時は川幅約10km

更に、Wikipediaによれば、ナイル川の東はアフリカ大地溝帯の縁の山脈に、よって紅海と遮られており、南東にはガララアルババリーヤ山脈などが際立つ。

ナイル川の「西側」も台地であり、ナイル川が流路を変える可能性は低い

カイロ市で水の恵みを受けているのは南北に連なる1520kmの細長い地域(ナイル川水系)だけで、カイロはナイル川の西側の台地と東側の高地が終わる扇状地の扇頂に相当する位置に広がる。 

カイロ自体の海抜は1560mだが、南東の約2km先には、海抜150mのモタッカムモ丘陵がある。

現在のナイル川の本流は、以前は帯状の平野の西側にあったが、それが東側の高地寄りあった支流に移った。 帯状の平野の西側には、以前の本流が支流として残っている。 ナイル川は帯状の平野の中で移動を繰り返してきた。

以上からナイル川の流れはギザ台地のピラミッド群に届かず「なぜ建設されたか・Why」に対する説高津氏の「ピラミッドのテトラポットによる堤防構築説」と、竹村氏の「ピラミッドのからみ工法での堤防構築説」では説明できない。

ギザ台地のピラミッド群を除くその他の西岸のピラミッド群は、どんな立地条件(高度)であるか、これで「なぜ建設されたか・Why」の新説の検証が可能になる。  

対象は、ナイル川の支流が流れ込んでいる、ナイル川西方の海抜マイナス45mのカルーン湖付近まで。

このカルーン湖には、ナイル川に並行するナイル川の支流が流れ込んでおり、このナイル川沿い西側台地の切れ目が海抜2627mと低い。

ナイル川西進の心配はこの切れ目だけ 砂漠の中の海抜マイナス45mのカルーン湖がなぜ塩水湖にならないのか興味は尽きない。

関連情報として「縄文海進(海面上昇)」があるが、新説検証への影響は小さいと判断した。

ピラミッドが建設された時代、その当時の地球の気温は現在より高かった。そのため、地球の海水は温められて、体積を膨張させていた。 陸上の氷河も溶けて海に流れ出していた。 その結果、地球上の海面は現在より約5m高い程度であった。この現象は日本では「縄文海進」と呼ばれている。

ギザ台地のピラミッド群を除くその他の西岸のピラミッド群は、どんな立地条件(高度)であったか。 Google Maps 標高表示(V3 APi版)で調査結果

     Pyramid of Djoser   海抜59m

             Red Pyramid         海抜65m

     Bent Pyramid          海抜57m

             Pyramid of Saqarah  海抜56m

その他、残りの70基以上のピラミッドの立地条件調査は,、今後の課題として以上の調査結果からピラミッドは「なぜ建設されたか・Why」への自分の結論は「新説」とは異なり「宗教儀式神殿説」で、“変わらず”、でした

  (記事投稿日:2014/10/13、最終更新日2025/01/15、#074)

 

 

 

 

 

 

 

 

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『人類の傑作が、エジプトに、ローマに、ギリシャに、出雲に!』 「四大傑作中で、大ピラミッドが、古さ・理論と技術・複合施設規模で突出」

2024-11-28 09:53:08 | 歴史・世界・古代

人類の傑作が、エジプトに、ローマに、ギリシャに、出雲に

『四大傑作中、大ピラミッドが、古さ・理論と技術・複合施設規模で突出

 

  • 4500年前の大ピラミッド・石造建築の理論と技術・太陽神信仰
  • 2000年前のポン・デュ・ガールローマ水道橋・飲料水と風呂
  • 1860年前のギリシャヘロディス・アッティコス音楽堂・音楽演劇
  • 1310年前の出雲大社本殿・高さ16丈(約48ⅿ)木造建築、国譲りと交換条件

 

ピラミッドは、階段ピラミッド→屈折ピラミッド→真正ピラミッドに、発展・分類され、最も完成度の高いのは、ギザの三大ピラミッドです。

 

4500年前の大ピラミッドの重量軽減の間

ウエブ情報から引用

 大ピラミッド断面図
1.正規の入口 2.盗掘口 3.下降通路 4.下降通路 5.地下室 6.上昇通路 7.女王の間と通気孔 8.水平通路 9.大回廊 10.王の間と通気孔 11.竪孔

大ピラミッドの内部は、多くのピラミッドの中でも特異な構造をしている。 この構造は当初からの計画であったか、あるいは幾度も設計変更が加えられたのか、諸説あるが結論は出ていない。

 

このような構造は、100基以上のピラミッド群にも、先例がなく、その後でも極めて稀である。 王の間の床から重量軽減の間の最上部までの総高さは21mを超える。 最近のホテルには、特にシンガポールのホテルには巨大吹き抜けが多いが、大ピラミッドの中の空間構造に驚きます。

 

「王の間」は東西 10.5 m、南北 5.2 m、高さ 5.8 m の巨大な空間であるが、その上部にはさらに高さ 15 m 以上もある「重量軽減の間」と呼ばれる構造がある。 「重量軽減の間」は上下 5 層に別れ、「王の間」の天井と層間は 25 ton から 80 ton もあると言われている巨大な花崗岩を並べて形作られている。

 

最上段は切妻形状になっている。 この「重量軽減の間」は何の為に作られたのだろうか?一般には 「王の間」にかかる上からの石の圧力を周りに逃がすためという説明がされているが、この様な多層構造がその為に必要なのだろうか? と名は体を表しているか不明です。 大ピラミッドが崩れなかった理由は不明です。 ウエブ情報にあった解説が参考になりますので引用します。

 

『古来より人類に数々の謎を投げかけてきたピラミッド。 一見崩れやすいと思われがちなピラミッドだが、実は大地震にもビクともしない耐震技術を備えている。

同じサイズの石を積む方が簡単なのになぜわざわざ石を不規則なサイズしたのか。 その理由として、規格が同じ石を整然と積むより、不規則な石を複雑に噛み合わせて積んだ方が、耐震性が高まるからだといわれているのだ。

 

ギザの大ピラミッドは過去3度の大地震に襲われている。 13世紀に起きた大地震では、カイロは壊滅的被害を受けたが、ピラミッドはビクともしなかった。石の建造物は崩れやすいと考えられているが、ピラミッドは全くそれに当てはまらない。(この地震で、キャップストーン(ピラミディオン)、化粧石・化粧板も落下し、その後で、盗難や建築材料に転用されたのでしょうか、地震がなければ、昔の姿・風景が鑑賞できたのではと、残念です。)

 

実はギザの大ピラミッドの下には、基礎としてサッカー競技場6面分に相当する広さにわたって、1つ7トンの石灰岩がびっしりと敷き詰められており、それも高い耐震性に寄与したと考えられる。 基礎の部分に注目している研究者は少ないが、これらの巨石は800km先から切り出し、運ばれてきたとされ、途方もない難事業であったと容易に想像がつく。

 

大地震に遭っても、内部の部屋や通路は損壊せず、およそ4600年の月日を経て現代に至っても、東西南北に相対した側面が極めて正確に方向を保っている。これらのことからも、その耐震性の高さは窺い知れる。 建設者はそこまで見越して設計していたのだろう。』(ピラミッド建設の歴史は1000年ほど続きましたが、最も完成度の高い「ギザの大ピラミッド」は、前半の半ば、初期に建設されています。)

 

4500年前のカフカー王のピラミッドの頂上付近の化粧石

化粧石が貼り付け(積み上げ)られ、その頂点に載せられたのがキャップストーン(ピラミディオン)です。

ウエブ情報から引用

 

4500年前のメンカウラー王のピラミッドの下部に残る化粧石

ウエブ情報から引用

 最後の石材であるキャップストーン(ピラミディオン)を載せる作業は最も困難な作業であったと考えられる。 キャップストーンは梃子で据え付けられたと考えられるが、レーナ―はその作業スペースを頂部周囲に木製の足場を組んで作ったと推測している。 すべての石を積みおえて傾斜路を外していくと同時に、上部から化粧材の表面を勾配なりに仕上げていく。

 

4500年前のクフ王ピラミッドの俯瞰図

ウエブ情報から引用

このトップに重さ10トン以上の、磨き上げ完成した『キャップストーン(ピラミディオン)』の設置はどうやったのか全く想像もできません。 平均2.6トンのキューブ石材の傾斜路での持ち上げも中間の高さまでで、それ以上高さはついては不明です。

 

2000年前のポン・デュ・ガールローマ水道橋

ウエブ情報から引用

紀元前に始まり、地中海沿岸に広大な領土を持った古代ローマ帝国。 道路・神殿・円形闘技場・大浴場のほか、水道の発達により水洗式の公共トイレも存在した。 平和を長く保つ方法は、ローマ帝国のどの都でも変わらない快適な暮らしを提供すること。 そのために何より大切なのは、きれいな水の確保だったが、当時のローマ都市のひとつ・ネマウススでは人口増加のため、公共施設で使用する水が不足していた。 そこで、この水不足を解消する理想の泉(ユゼスの水源)を山間部で見つけ出す。 しかし街まで水を引くには50kmもの水路が必要だった

 

素晴らしい保存状態を保っているのがこの水道橋。 水不足のローマを救うために、紀元前19年、ガルドン川の谷をまたぎ、かつて約50Km離れたユゼスからニームへ水を運ぶ導水路の一部として造られた。 橋の長さは275m、高さ約48.77m。

 

  • 下層は6つのアーチから成り、長さ 142 m 、幅 6 m 、高さ 22 m である。
  • 中層は11のアーチから成り、長さ 242 m 、幅 4 m 、高さ 20 m である。
  • 導水路の上層は35のアーチから成り、長さ 275 m 、幅 3 m 、高さ 7 m である。

 

ローマ信奉者はこう言っていますが、私見ですが、エジプトとギリシャを引き合いに出すのは、考えてしまいます。

『古代の土木工学による偉業の中でも,ローマの水道は,特に際立っています。古代ローマの総督で水道管理官であったセクストゥス・ユリウス・フロンティヌス(西暦35年‐103年ごろ)は,こう書きました。 「水を非常に多くの場所に供給するのに必要不可欠な,これほど広範囲にわたる構造物を,その気があるなら,無駄なピラミッドや,有名ながらも無用なギリシャの芸術作品と比べてみよ」。』と。

 

1860年前のヘロディス・アッティコス音楽堂

ウエブ情報から引用

コンサートやギリシャ悲劇の公演会場として使用されている屋外円形音楽堂。古代ローマの統治機関である元老院の議員ヘロディス・アッティコスが建設。  160年に亡くなった妻アスパシア・アニア・レギラを偲ぶ記念碑としての想いが込められている。

 

267年にゲルマン人の放浪部族により破壊されるなど激動の時代を経て1950年に再建されました。 ペンテリコン山の大理石で作られた32列の観客席に5,000人を収容、かつては木製の屋根で覆われ、舞台裏の3階建ての建物にアーチ型の4つの出入り口を設置。正面入り口の壁面には彫刻を飾るための9つの窪みが設けられている。

 

ローマの円形闘技場(コロッセウム)の建設目的との『差』に驚きます。

 

1310年前の出雲大社本殿・高さ16丈(約48ⅿ)木造建築

ウエブ情報から引用

歴史書『古事記』にも、出雲大社の成り立ちとして巨大神殿の逸話が出てくる。出雲大社に祀られる大國主神(おおくにぬしのかみ)は、国土の開拓で活躍した〝国づくりの神〟として登場する。 だがある時、アマテラスオオミカミの命を受けたタケミカヅチ(茨城県・鹿島神宮に祀られる)から「国を譲ってほしい」と交渉されると、大國主神は了承する代わりに一つの条件を出した。 それは「天皇と同じ立派な宮殿をつくってほしい」ということ。 それができればそこに静かに鎮まると。 具体的には「宮殿の柱を太く立て、立派な千木を差し上げてほしい」と言ったという。 それこそが出雲大社である。 となると、この記述からも巨大な柱との繋がりが見えてくる。 時代を経て、出雲大社は今の大きさとなったが、かつては遥かに巨大だったのだろう。

 

「縁結び」で知られる出雲大社、その社殿は定期的に遷宮が行われるが、はるか昔は想像を絶する巨大神殿だったのかもしれない。 それを示唆するのが、平成12年から13年にかけて出雲大社の境内から発見された巨大な柱。 3本1組となったスギの大木が3箇所で発見されたのだ。それぞれの木は直径が1・4mほどで、3本括ると直径約3mにも及ぶ。 この巨木は3本を束ねて一柱とし、かつての出雲大社の棟を支えていた可能性が高い。 

 

大社には古代の巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」が伝わるが、そこに描かれた柱と類似。出雲大社の本殿は高さ16丈(約48m)という社伝があり、その一部とも考えられる。 発見された柱は「心御柱(しんのみはしら)」や「宇豆柱(うずばしら)」で、鎌倉時代のものと推定され、この時代までの出雲大社が巨大だったことの証明となっている。

邪馬台国・出雲王国・大和朝廷の関係・変遷について、益々、興味がわいてきました。

 (記事投稿日2021/11/20、 最終更新日:2024/11/28、 #425)

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『大ピラミッドのこと 1.1(石材230万個を、接着剤なしで、傾斜52度で積上げ)』

2023-08-08 07:55:25 | 歴史・世界・古代
『大ピラミッドのこと 1.1(石材230万個を、接着剤なしで、傾斜52度で積上げ)』
『「不揃いの石材積上げ」理論は経験からか、化粧石が剥落したので、見えるのは今』
『内部の複雑な傾斜通路と謎の構造と使用目的に関する疑問』
『大ピラミッドの王の間の上部の「五層の重量軽減の間」の技術で建っている』

今回(2024/04/04)のアップデートは『大ピラミッドは(石材230万個を、接着剤なしで、傾斜52度で積上げ)てあるが、地震もあるエジプトで、約4500年も崩壊していないのは、「石材230万個の寸法が不揃いであること」』も一要因であると言われています。 ピラミッド建設時代は約1000年続いて、そのあとの時代は、『神殿建設時代』から『地下墓所建設時代』と続きます。 

この約1000年間に100基余のピラミッドは建設され、約1000年間の中ごろに、国力が最も充実した時代に、最も完成度の高い大ピラミッドが建設されています。 この『不揃いの石材積上げの理論』は、長いピラミッド建設時代の経験で培われたものでしょうか。 約4500年前に不揃いの石材の階段状を、白色の石灰石の化粧石で、真っ平の面の、四角錐にした古代エジプト人にはただ驚くばかりです。 四面の中央が凹んでおり、正確には四角推ではありません。これも崩壊防止のためともいわれています。 経験から来た技術とは言え、想像を絶するレベルです。
大ピラミッドのトップビュー『不揃いの石材積上げ』が見える写真
 ウエブ情報から引用

前回(2023/08/08)のアップデートは、石材の傾斜路引き上げ方法、『3年前の情報⇒❶建設時の指揮官の日記と、❷椰子の皮製ロープで使える木製滑車代わりに、丸太柱を滑車として石材を引き上げたこと、が判明』、詳細は、別ブログ『大ピラミッドのこと 7(遂に「ピラミッドの石材運搬方法が完全解明)』 参照願います。

 

『世界の七不思議』で唯一現存するピラミッド。 『世界の七不思議』の

 ほとんどが、地震によって破壊されたが、大ピラミッドの『王の間』の上部

 『五層の重量軽減の間』の技術で大ピラミッドは、4,500年立ち続けている

 この仕組みがなければ、中央部分が地盤に沈み、崩壊したと言われている。

 

 『時はすべてのものを嘲るが、ピラミッドは時を嘲る』と言われる。

 4,500年以上も立ち続ける大ピラミッドを敬った昔のアラブ人の諺。

 

4,500年で満期を迎えた人類史上最大最長の財形貯蓄』であるピラミッドの

 おかげで、エジプトの観光収入は、年間40億ドル。   これでも、パリの

 エッフェル塔には及ばないとか・・・・・。

 

 

 

ピラミッド学上の不幸は、アレキサンドリア大図書館の関連書物がローマ時代

 のカエサル帝とテオドシウス帝の時代に焼失したこと。

ヘロドトスの著書『歴史・ヒストリアイ』、歴史の語源になったが、これは

 動詞『調査する・ヒストリオ』等の派生である。

 

このヘロドトスが、10万人の奴隷を動員、20年の歳月をかけたと言った。

 これが定説になっていたが、これが3カ月交代であれば、後述のハーバード大のレーナー博士の立証と合う

 ピラミッド研究に、最大の貢献は、ロゼッタ・ストーンの解読でした。

 これには、『ヒエログリフ』象形文字、それを簡略化した『デモティク』民衆

 文字と古代ギリシャ語の3種類の言語(トリリンガル)で布告が書かれていた。

 『ヒエログリフ』は表音文字、表意文字の混合でした。 これは最も進化したと言われるハイブリッド言語です。

 

 日本語は現在、唯一のハイブリッド言語です。 れが今では『ハンデキャップ』。 韓国も、ベトナムも、インドネシアでも、現在はハイブリッド言語ではない。

 

それでは、ピラミッドの『WhyHow』の整理を試みます。

 このトリガーは、グラハム・ハンコックのベストセラー『神々の指紋』に

 ある『ピラミッドは12000年前に超古代文明人が造った!?』という

歪められたピラミッド学でした。  12000年前オリオン座の三つ星が

 ピラミッドの配置と同様であったとの理由だけで。 12000年前は、

 地球は第6氷河期の終り頃で、旧人ネアンデルタール人が滅んだ時代でした。

 

 1)  ピラミッドは何のために

 『目的』は、一つではない。直説・間説目的の相乗効果がピークに達した、 

   時期に大ピラミッドが造られた。その後は直接目的が薄れた。

『直接目的と背景』は、王の魂の甦る・復活の場所、王を神に変えるための

   仕組みと、国民の太陽神への信仰心からくるモチベーション。

   王の間(奥行き10.5m、巾5.2m、高さ5.8)の空の石棺は、従って、

  魂の休息所では。要調査

 

『間接目的』は、ナイル氾濫期の失業対策と国威発揚

   奴隷ではない労働者は、飯場でビールとパンで生活。

 『王墓』説、ヘロドトスは、エジプトの神官から『これは王の墓だ』と聞いた

   だけで、現在まで立証されていない。

   今まで盗掘されず無傷で発見された古王国の王家の墓は、スネフェル王の

   妃の ヘテプヘルスの墓だけ、宝飾類、家具、ミイラ化処理された内蔵

  だけで、ミイラ本体は発見されていない。 

   ツタンカーメンの墓は、ピラミッドではない。

   しかし、一部のピラミッドで地下深くに、墓が発見されている。

 『ピラミッドテキスト』には、王が死して鳥となり地下より地上に飛び立つ。

   そして西の空に向かっていくとある。 地下室が墓で、上は神殿。      

   太陽の船、二艘目も発見され、太陽の船は二艘、一艘には、マストと帆と

  ロープ、この船には、

  太陽神ラーが、もう一艘には、ロープだけで、これに神になる王の遺骸が

  乗って太陽神ラーに、引っ張られて西へ・・・・。

 

『石棺』になぜ蓋がない。 石棺ではなく太陽神ラーの合体儀式の用具では。

  日の出に始まり、日没に終わる儀式。

 

2)  ピラミッドの造り方

   重い石を運ぶことに、エジプト人は熟練していた。 大ピラミッドが

  建設された2,000年後(2,500年前)には、250トンのオベリスクを

   運んで直立させている

 

 基本的な知識

『計測輪』で距離を測ったので、当然、円周率(π、パイ)は経験的に判る。

『北方角の決定』は、恒星が東から昇る方角と西に沈む方角の、2等分点。

 『コロ使用説』は非現実的『テコと橇と逆レール』で直線型傾斜路を引き揚げ。

   エジプト人が、機械や、滑車や、車輪を使った証拠はないとの説も

  あるが、滑車使用の傾斜路引き揚げでないと、大回廊と王の間は

   構築できない(要紙上調査)。 大回廊の下部にその痕跡がある

他に、『らせん状傾斜路』仮説、 『ジグザグ型傾斜路』仮説、

    『封筒型傾斜路』仮説、 『複合型傾斜路』仮説、 

    『渦巻型傾斜路』仮説、  

 もあるが非現実的。

 

『内部トンネル傾斜路』仮説は、

   最近のドイツの建築技術者のもの。

   内部傾斜路での直角方向に転換を、滑車で吊り揚げ。

   高さ3分の1までは直線傾斜路、上部は内部トンネル傾斜路説。

   目下、最有力説。 重力分布測定でトンネル空洞は観測された。

 『橇』は逆レールに、水又は油を潤滑剤として使用。

 『逆レール』は二本の溝に角材木を敷いたもの。

 『水平』は岩石大地に碁盤の目の溝を切り、水を張り、水平に削る。

 『バットレス構造』の石積みは、重力エネルギーを上下に吸収で長寿命。

 

 この大ピラミッドのバットレス構造(要調査)

 『正四角錐の真正ピラミッド』は太陽信仰の絶頂期に、太陽の光をイメージ。

 『真正ピラミッド設計』は、ヘムオン、ピラミッドの中興の祖、これ対し

 『階段ピラミッド設計』は、イムヘテプはピラミッドの開祖

  前述の『バットレス構造』も、ヘムオンが考え出した。

 『肥沃な土地』40平米で一人の人間を一年間養えたと記録もある。

       高官や支配階級は10,000平米も持っていた。

『妻』や『ミセス』と同じ意味合いの言葉や肩書あったが結婚の概念なかった。

 『住環境』は劣悪だが、床屋で石の刃で髭は剃った。

 『クフの石切り場』と言われる石材の豊富な場所は、キザの南方3km。

           230万個の殆どの石材は、ここから運ばれた。

 『労働力』大ピラミッドには平均1立米、2トン半のブロックが、およそ

   230万個使われ、『トリノ・パピリス』によれば約23年かかった。

   一日10時間労働で、約2分に一個積み上げた。

 参考情報: 江戸城の石垣の石材は数百万個と推定される

 

ハーバード大学のレーナー博士の立証では、

 直接労働

 『石の切り出し』 1,212

 『石の運搬』:  34チーム・20人・2交代=1,360人。        

 『石の積み上げ』:680人、 その他748人  小計約4,000

 補助的支援労働: 約20,000人    合計24,000

 チームには、組頭の兵隊が1名入っていた。 人足の給料はすべて食料と衣類で支払われた

 クフ王の間に使われた赤みかげ石は、40トンもありアスワンから平底船で

 運ばれた。

 

石材運搬用傾斜路

王の間の構造に使用された巨大石材(一本60トン、43)は、ナイル川

を平底船で運搬され、陸揚げ後は、橇と逆レールで引き上げられた。

 この巨大回廊(高さ8.5m、巾2.0m、長さ47.0)が巨大石材の運搬用で、もあったのでは。

   滑車とナツメヤシのロープとレバノン杉の橇で、更に吊り合い重りを使用。 

  (要調査)

 従来の『西向き直線型傾斜路』仮説には弱点、

 河岸からサイトまで、東西で長くなり、緩傾斜では、高さ147mまで

 の距離がとれず、揚げられない。

 

 最近の最有力説は、『南向き直線型傾斜路』仮説

 ナイル川西岸からキザ台地には西向き『直線型』では距離不足で傾斜が

 きつくなるので非実際的との説であったが、最近、大ピラミッドの南側に

涸れ谷が発見され、ナイル川氾濫期には船が着けられ南向き傾斜路も長く

 とれるとされる。

 朗報、最近南側で、南向き傾斜路遺跡の一部が発見された。

 

現在は階段状に積み上げられた石がむき出しだが、もともと『化粧石』(磨きこまれた石灰石)で

コーティングされていた。

 この『化粧石』はトップから貼り付けたか、下部から貼り付けたか(要紙上調査)

 大ピラミッド、キャップストーンのトップへの乗せ方は、前述のドイツの建築

 技術者の建築方法が実際的。

 

ピラミッドの工期

 今までは、雨期(夏)に造られたと言われたが。 春にも造られた、

 つまり一年中作業できた説が有力。

 何年で完成したか。 従来は27年と言われていた。

石材には切り出された年と季節の記録あり、傾斜路の取り外された後の

太陽の船の納める穴の蓋石の記録から、工期は20年以内と証明された。

 (記事投稿日:2013/03/24 、最終更新日:2023/08/08、#073)

 

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『四大文明誕生は、大河川(水位変動が大きく、河床勾配が小さい)の近くで』『例外は古代アンデス文明カラル遺跡が、大河川なしで定住農耕・文字あり』

2023-03-11 10:31:57 | 歴史・世界・古代

『四大文明誕生は、大河川(水位変動が大きく、河床勾配が小さい)の近くで』

『この立地条件に合致のブラジルのアマゾン川には、古代文明は誕生せず?』

『理由は定住と農耕が発展せず、狩猟採集生活が維持され文字の発明もなし』

『例外は古代アンデス文明カラル遺跡が、大河川なしで定住農耕・文字あり』

 

 文明      河川     長さ   水源海抜   河床勾配 
エジプト     ナイル    6853㎞   1134
    0.02%
メソポタミア   チグリス   2850㎞   1150
    0.04% 
         ユーフラテス 2800㎞   3520m    0.13%
インダス     インダス   3200㎞   4500
    0.14%
中国       黄河     5464㎞   4800
    0.09%
         長江     6300㎞   5042
    0.08%

ブラジル     アマゾン川  6516㎞   5597    0.09%

 

ヨ-ロッパ中心の歴史は、古代文明の栄えた南北アメリカを、新大陸と呼ぶ。

 

古代文明

アフリカやアジアの大河の川ぞいでは、ゆたかな水をもとに農耕や牧畜が発達し、そのため文明が発達できた。 チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河の流域の各地域で文明が発達していった。 この4地域での文明を四大文明と言う。 それぞれの文明を、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明という。

 

これらの四大文明では文字が使われていた。

世界最古の文明は、今から約5000年前のエジプトのナイル川流域におきた
エジプト文明と、西アジアのチグリス・ユーフラテス川流域におきたメソポタミ
ア文明であった。 ついで、今から約4500年前の今のパキスタンであるインダス川流域のインダス文明、今から約3500年前の中国の黄河流域の中国(黄河・長江)文明であった。
これらの4つの文明を四大文明という。

 

新大陸にもありました。 古代アンデス文明カラル遺跡です。

 

カラル遺跡(写真―1)   VS  大ピラミッド(写真―2)

紀元前: 3000~1800年頃        紀元前: 3000~1000年頃

総面積: 66ヘクタール         総面積:   180ヘクタール

推定人口:数万~十数万人        推定人口:数十万~百万余人

 

カラル遺跡(写真―1)

ウエブ情報から引用

 

比較するために、大ピラミッド(写真―2)

ウエブ情報から引用

 

カラル遺跡(パノラマ)

ウエブ情報から引用

 

カラル遺跡(中央部分)

ウエブ情報から引用

南米大陸、ペルー を中心とする 太平洋 沿岸地帯およびペルーからボリビア へつながるアンデス中央高地 に存在した古代アンデス文明。 メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明といったいわゆる世界四大文明などと異なり文字は持たない(初期の『キープ(結縄)』が数字と文字の機能を持っていた)。 今まで親しんできた、アステカ文明・マヤ文明・インカ文明(特に、古代アンデス文明)をもう少し調べてみたいと再認識しました。

(記事投稿日:2023/03/11、#636)

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『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 3』 『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

2023-01-15 18:51:44 | 歴史・世界・古代

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 3』

『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

『絶海の孤島の歴史「黎明期・隆盛期・衰退期」の変遷から現世界は学ぶべき!』

 

次の前置きは、『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 2』からの再掲です。

 

ロンゴロンゴの記された24の木片(文字板)が19世紀後半に収集されたが、風雨による損傷や、破損、焼失部分のあるものも多かった。 これらは現在、世界各地の博物館に分散しており、イースター島に残っているものはない。

 

先日、NHK BS『絶海!謎と神秘の巨石文明モアイとイースター島▽21のミステリー徹底究明』再放送(2021/08/26)を見ました。 もし『ロンゴロンゴ』の破損・焼失した過去の、残念な歴史がなければ、こんなに多くの謎が残らず、多くは解読・解明されたことだと思い、残念です。

 

イースター島には『ロンゴロンゴ』と言う不思議な絵文字がありました。 謎の『ロンゴ・ロンゴ』の解読と解明の歴史は? ウエブ情報の抜粋・引用です。

1770
年、
スペインからフェリーペ・ゴンザレスが、イースター島にやって来ました。 そのとき島民は、奇妙な文字でサインしたと言う。 それが「ロンゴ・ロンゴ」です。

しかし、1862年
ペルーの奴隷狩りによって、最後の読み手である、『タンガタ・ロンゴ・ロンゴ』たちも、さらわれ死んでしまった。

 

1864
宣教師ユージン・エイラウドは、島の民家から、いくつかの文字が彫られた木片を発見したと言うが、その後、島民のキリスト教改宗とともにほとんどの、『コハウ・ロンゴ・ロンゴ』のもの言う木は、『悪魔の文字』として焼き捨てられてしまった。 謎の文字となった『ロンゴ・ロンゴ』ですが、根気強い研究によって、文字の読み方は、解明されました。 まず、右上から左へ読み、180度回転させて板の上下を逆にして、下から2行目を右から左へと読む、これを、繰り返すという奇妙な読み方でした。

この文字のルーツは、インダス流域の『古代インド文字』、『アンデス文字』、『エジプト文字』と、諸説入り乱れています。 内容にしても、
  神への祈り
  神官への支持
  鳥に伝わる伝説
  死者の名簿、など様々です。

ロンゴ・ロンゴの文字が刻まれている木片で、現存しているのは、世界でたった28点。 世界各国の博物館などにあるが、イースター島の博物館には、本物は、1枚しかありません。 チリ本土の「サンチアゴ国立自然史博物館」にあるものの複製が、2枚展示されています。 この文字が解明されれば島に残された多くの謎が解明されるかも知れません。

 

ロンゴロンゴの『文字板B』

ウキペデイア情報から引用

数字は何行目かを表す数字。Fin de 13 は「13行目の終わり」という意味

 

バルテルが発表した絵文字の一例 [Jacques B.M. Guy / Public Domain / 出典]

ウエブ情報から引用

イースター島

モアイ1,000体以上、周囲60㎞、休火山3個の火山島、木がなく、川がない、動物もいない。 そのイースター島の21の謎。

 

1.  楕円形の遺跡、と

2.  石垣箱型がセットになっている

3.  石がゴロゴロなのに栄養満点のタロイモ、水分蒸発防いだ

4.  川がないが、5か所の地底湖

5.  黎明期、隆盛期、衰退期 島民のルーツはタヒチ

6.  島民のルーツは台湾?

7.  どうやって渡ってきた、ダブルカヌー

8.  綾取り創世神話、溶岩の中に巨木の化石

9.  未解読文字 ロンゴロンゴ

10. モアイ 面長、ほりが深い、長い爪

11. 頭蓋骨に羽根飾りの跡

12. 超能力

13. 1000体も量産

14. 運び方

15. なぜ巨大化、全長12、巨人21、人口2万人で、12世紀3座している、14世紀5、16世紀10、権威誇示

16. 星とモアイの神秘的な関係、モアイの向きとスバル?

17. 衰退原因はネズミ、海鳥の卵

18. 食料危機

19. 人骨に刃物の跡(女性・子供)森林崩壊から100年

20. 希望を託された鳥人伝説

21. ラパヌイ文明滅亡

 

ウエブ情報で備忘録にして今後の課題とします。 

『8.綾取り創世神話、溶岩の中に巨木の化石』

イースター島では、文字のない時代にコミュニケーションや伝承は、あやとり(&あやとり歌)で行われ、あやとりの様々な形に意味があり、あやとりのことを「カイカイ(kai kai)」といいます。 本当に豊かな森林に恵まれていて、その証拠に、高さ20mを超えるヤシの木の化石や、木の花粉の化石が見つかっていて推定では、1000万本の樹木が茂る森林がありました。

 

『9.未解読文字 ロンゴロンゴ』

イースター島で19世紀に発見された、文字と思われるもので、と言うのは、世界でも珍しい「未解読文字」だからです。ロンゴロンゴ文字は、イースター島の住人が使っていたとされる文字で、19世紀後半に発見され、収拾された二十数点ほどの品が全てであり、それ以外の資料は無い。 読める人もおらず、未解読文字とされている。

 

『10.モアイ 面長、ほりが深い、長い爪』

『11.頭蓋骨に羽根飾りの跡』

モアイ像は、全て男性で、面長・がっしりした顎・彫が深いと言うのが、特徴。 1978年にアナケナ・ビーチで、モアイの近くからは首長と考えられる人物絵が刻まれた頭蓋骨が発掘されており、モアイが立つ「アフ」と呼ばれる土台も、タヒチの聖域マラエにある石垣「アフ」と同じ名前で、モアイは、島内にある各地域の首長を祀るための墓標として建造されたと考えられています。
またモアイの手の爪は、異様に長くなっているのが特徴のひとつで、当時の首長が、身の回りの世話を部下にやらせ、本人は手を使わなかったことを現しています。
※モアイは、崇拝の対象であり、威厳が必要で、だからイケメンなのです。

 

『12.超能力』

首長は、超自然的な力である「マナ」を持つと信じられ、今はモアイ像にはありませんが、かつては、首長の象徴である目がはめ込まれていた事がわかっており、復元された像には、目がはめ込まれた物も存在し、目の材質はサンゴ質の石灰岩で、そこから「マナ」は発せられると考えていました。 

 

『13.1000体も量産』

殆どのモアイは島の東部にあるラノ・ララクという火山の岩場で造られたことが解っていて、火山灰が固まってできた「凝灰(ぎょうかい)岩」で、比較的柔らかく、加工がし易いのが特徴で、島の西部でとれる黒曜石や玄武岩などの硬い石を使えば、鉄がなくとも切ったり削ったりすることが出来ました。

モアイを岩から削り出すには、最初に横向きの輪郭線を描き、そして、その輪郭線に沿って「トキ」と呼ばれる玄武岩の手斧で削っていき、細部は黒曜石で仕上げ、背中側は支えられるように中央部分を残しておき、最後に切り離す。

切り出されたモアイは石切り場の山の斜面を利用して滑らせ、あらかじめ掘っておいた穴に入れて立たせ、穴の中では背中側の彫刻が行われ、この最終段階までに要する時間は、小~中規模のものが6人がかりで約1年。大きなものは約1年半かかったと推定されています。
 

 

『14.運び方』

モアイは、大きいモノだと50トンあり、コロやテコでの運搬なども実験されましたが、島民も多くなく、人手の点で、現実的ではなく、その運搬方法が、長い間、謎でした。
※木の幹の化石と花粉の調査から木材は豊富にあり、12世紀には丈夫なロープも作れるヤシの木などが約1000万本も生い茂っていました。

こうした中、近年、注目を集める方法を提唱したのがアリゾナ大学のテリー・ハント教授らのチームで、イースター島のモアイを900体以上も調査すると運搬途中に放置されたモアイにいくつかの共通する特徴がありました。

▽モアイがうつ伏せに倒れていた場合は、ラノ・ララクの反対方向(進行方向)に頭が向き、仰向けに倒れていた場合はラノ・ララクの方に頭を向けていて、モアイを立たせて運んでいた場合に当てはまる特徴でした。

▽放置されていたモアイはどれも底面に摩耗の跡があり、底面自体も斜めにカットされていることが解り、これによりモアイを立たせた場合、約9度前方に傾くことも判明。 こうしたことから、ハント教授らは、モアイは立たせて運ばれたと考え、具体的にはモアイの頭部にロープをかけ、前のめりなので、倒れないように、後ろをロープで支えながら、左右から交互に引っ張って歩かせる方法で、モアイはもともと前方に傾いているため、少ない労力で歩かせることができ、2011年にその方法を実際に試してみた時は、短時間で数百m移動に成功し、坂も上ることが出来、ハント教授によると、慣れれば15~20人ほどの人数で運べたと推定しています。
 

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった!』の、残り15~21)は、楽しみな今後の課題です。

(記事投稿日:2023/01/15、#619)

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