知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『武器の発達は、戦争(戦略論)を変えてきたか、抑止は可能か 2』 『核兵器保持も、否核兵器保持だからこそ『バランス・オブ・パワー』の時代』

2023-03-26 10:25:57 | 兵器・戦争

『武器の発達は、戦争(戦略論)を変えてきたか、抑止は可能か 2』 

『核兵器保持も、否核兵器保持だからこそ『バランス・オブ・パワー』の時代』

 

昨今、王朝時代の帝王を目指している、大国の指導者たちが居ります。 大国でなくても、世襲制の帝王が居ります。 偏見では、ありますが帝王の地位、イコール核兵器所有などと錯覚を起こしかねません。

 

只今、プロイセンの将軍、カール・フォン・クラウゼヴィッツ著『戦争論 上下』を読んでいます。 今まで遭遇した本の中では最もタフな著書の一つです。 あまりにタフなので、戦争についての本の並行読みを始めました。

 

孫子、マキアヴェリ、クラウゼヴィッツの3大家の著書:

❶ 孫武著『孫子』

❷ ニッコロ・マキャヴェリ著『戦術論』

❸ カール・フォン・クラウゼヴィッツ著『戦争論 上下』

 

さらに、

❹ ジョン・ルイス・ギャディス著『大戦略論』

❺ ピーター・ナヴァロ著『戦争の地政学 米中もし戦わば』

 

最近の『大戦略論』と『戦争の地政学 米中もし戦わば』は3大家の著書を引用しています。

 ウエブ情報から引用

『戦争の地政学 米中もし戦わば』が参考になりました。 抜粋・引用です。 

歴史上、強大な覇権国家は、突然、新興国家が表舞台に踊り出て、当時の文明をリードする存在になると、この劇的な勃興に覇権国家はショックを受け、対抗策をとろうとして、競争から対立が生まれ、それがついに衝突に発展したケース;

 

『スパルタとアテネ』のペロポネソス戦争であり、

『大英帝国とドイツ帝国』の第一世界大戦である。

 

この実例二つだけでは、証明にならない。 世界史を概観すると、1500年以降、中国のような新興勢力がアメリカのような既存の大国に対峙した15例のうち、11例において(70%以上の確率で)戦争が起きている。

 

シカゴ大学教授ジョン・ミアシャイマー氏が『大国政治の悲劇』の中で展開しています。 特に『第一の仮定・無政府状態』全く同感です。 人類は無法治状態であること、拙備忘録『人類は、二度と核兵器は使えない(好奇心は探る-戦争のこと)』で触れております

 

第一の仮定

『世界体制は無政府状態だ(つまり国家を取り締まる権威をもった組織は存在しない)』

 

第二の仮定

『すべての国家は軍事力、つまり戦争のための兵器を増強する』

 

第三の仮定

『他国の真意を知ることは不可能だ』

 

標題の『武器の発達は戦争(戦略論)を変えてきたか、抑止は可能か』をこれから調べていきたいと思っています。

(記事投稿日:2023/03/26、#641)

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『刀のこと 3(日本の太刀と、西洋の剣・ソードとの違いとは?)』『武士の「太刀」と騎士の「ロングソード」戦わば、などと妄想を』

2022-12-11 12:05:15 | 兵器・戦争

『刀のこと 3(日本の太刀と、西洋の剣・ソードとの違いとは?)』

日本刀が今の日本刀の形を成した平安時代以降の太刀と比較』

『武士の「太刀」と騎士の「ロングソード」戦わば、などと妄想を』 

日本に両刃の剣がもたらされたのは弥生時代の後期(3世紀頃)と言われ、同時に鉄を加工する技術が伝来します。日本において刀剣と言うと、両刃ではなく片刃の刀剣が主流です。 

一般的には『剣・ソード』とは、刀剣の一種として、両刃(両側に刃)の刀身を持った、反りのない直刀のことを指すと理解しています。 世界には様々な刀剣の種類があり、日本刀もそのうちのひとつで、多様化を見せる刀剣のうち、西洋においては古くから剣が主流です。 西洋の剣は、武具として発展していきましたが、日本においては武具として反りの付いた片刃の日本刀が発展してきました。  

日本刀と外国の刀では使い方や特徴が違うと言われます。 日本刀は基本的に切れ味が重視されています。 また、刃の素材は硬軟2種類以上の鋼鉄を合わせて造られています。 そのため、刺すよりも切ることに重きを置いているようです。

その一方で外国の刀は切ることよりも突く・刺すことに重きを置いています。 刃の素材も1種類の鋼材のみで造っているのです。 このように構造や使い方が異なっているのです。 また、日本刀は基本的に種類が少なくバリエーションが少ないです。 それだけ研ぎ澄まされているのです。 しかし、外国の刀は種類が豊富でバリエーションもあります。 そもそもコンセプトが全く違う刀まであるのです。

これは日本では同一民族しかいなかったが、ヨーロッパなどでは外国人同士が戦うことが多くバリエーションが増えていったのだと言われています。 さらに観賞用の刀まで海外にはあります(日本刀は戦いのための武器ですが、家宝として飾って愛でる「観賞用」の意味合いが強いものでもあります)。 やはり、考え方や価値観が違えば刀も変わってくるということなのです。 

刀の変形には、日本の『薙刀(当初は長刀・なぎなたと呼ばれた)』と中国の『偃月青龍刀(略称青龍刀』がありますが、少数派ですので今回の標題では取り上げませんでした。 

先ずはウエブ情報の抜粋・引用から、長さや形状による日本刀の種類です。

日本刀のうち博物館などで展示されもっとも目にする機会の多いのが太刀です。 そのため、日本刀とは太刀のことだと思ってしまいます。 厳密には太刀より短いものを刀、さらに脇差、短刀と分類することができます。

  • 太刀(たち)
    平安時代後期~室町時代にかけて作られた刀身の長い日本刀のことを指します。 刀身の長さは70~80㎝、反りの強いことが特徴的。
     
  • 刀(かたな)
    室町時代の中期以降、江戸時代の末期まで主流となったのが刀です。 打刀と呼ぶこともあります。 長く大きく反りかえった太刀と違い刀身が60ほどと短く反りも小さいのが特徴です。戦乱の世にあっては、すぐに鞘から抜けるように機能性を追求したということになります。
  • 脇差(わきざし)
    刀の補助として作られたのが脇差です。 長さは30~60㎝、日本刀の一種ではありますが、当時は刀ではないという認識から武士でない一般庶民も所持することが認められていました。

  • 短刀(たんとう)
    脇差より短い、刃長30未満のものは短刀と分類されます。 帯刀を許されない席などで護身用として用いられたりしました。
     

ウエブ情報の抜粋・引用から、西洋の剣・ソードの長さや形状による種類です。

西洋における剣は、斬り裂くことを目的とした物より、突く、叩き斬ることで、その性能を発揮しました。最も、槍や盾が合戦の主武器であった古代では、とどめを刺す際の武器として、斬り裂いたり刺したりしていましたが、重い鎧が主流であった中世においては、鈍器や、両刃であることを活かした刺突武器として扱われていたのです。

なお、刺突した際に、刺した相手から剣を引き抜きやすくする目的として、中央には血抜きのための溝が作られています。

西洋には多くの国があることで、古来より大規模な戦争が起こり、剣が大量生産され、武器として長い間発展を遂げていきました。しかし、近世以降の重火器の台頭により、刺突に優れた細身の刀身を持つ剣が主流となり、装飾品としての意味合いが強まります。

西洋の剣の役割としては、日本刀と同じく、近接戦用の武器として用いられることがほとんど。しかし、剣は長く、隠し持つことが難しいことから、名誉ある武器とみなされ、日本における武士の精神である「武士道」のように、高潔な精神を表す「騎士道」の象徴として剣が見られることもあります。

現在の西洋の剣とは、競技となったフェンシングや、軍人の儀礼用剣、国旗の意匠などに見ることができるのです。 

中世剣史を代表する剣『ロングソード』

ウエブ情報から引用

中世初期にノルマン人が使用していた『ブロードソード』や、その影響を受けて作られた『アーミングソード』から発展・進化して、中世後期に誕生したロングソード。 11世紀から13世紀の中世ヨーロッパで発展を遂げた騎士達の剣は、14世紀になるとロングソードとして完成され、西洋の戦場に革新をもたらし、当時の騎士達にとって欠かせない武器となりました 

騎士を象徴する剣『ロングソード』は中世初期の剣よりも少し『長い』剣身に改良され、『両手』で握りやすいようにグリップ(握り)も長い物へと変化します。 一般的に全長は80~95cmほどで、大きな物は1mを超える物も作られました。 

真っ直ぐで両刃の剣身は、鋒が非常に鋭利で、なかには針のように極端に先細のロングソードもあります。 斬撃と刺突による攻撃で『板金鎧』を貫くほどの威力を持っていたと言われており、甲冑(鎧兜)が進化した戦場でも万能に使える武器でした。 

 

ヨーロッパで広く使われた鎌形刀剣『ファルシオン』

兵士だけでなく市民も持っていた万能な刀

ウエブ情報から引用

西ヨーロッパでは、14世紀から16世紀にかけてイタリアを皮切りに、古代文化の復興が盛んとなり、ローマやギリシャの古典的な芸術や学問などが取り入れられるようになりました。 この時代はルネサンス期と呼ばれ、中世後期から近代にかけて西洋全体で大きな復興運動となったのです。 この影響を受けてルネサンス期に流行したのが、ファルシオンという刀剣。 。 

 

中世・ルネサンス期の西洋剣で最も巨大な剣・ツーハンドソード』

ドイツ生まれ『ツヴァイハンダー(刃渡り2ⅿ)』

(日本刀の斬馬刀並みの破壊力)

ウエブ情報から引用

その名の通り両手で扱うために作られた剣で、短い物で180cm、長い物では刀身だけで、2mあるような物も存在していました。形状は中世騎士の代表的な剣であるロングソードのような一般的な剣と同様で、ロングソードをそのまま巨大化した物がツーハンドソードだと言えます。 

ツーハンドソードは、もともとドイツで作られていた『ツヴァイハンダー』という巨大な剣を起源としていて、15世紀から16世紀に西洋全体に広まりました。ツヴァイハンダーが作られた背景には中世の甲冑(鎧兜)が関係しており、当時の防御力に優れた金属製の「鎧」に対抗する「武器」として考案された。 

このツヴァイハンダーの使い手であるドイツ兵士が、神聖ローマ帝国の傭兵として雇われたことで、ツーハンドソードへと発展を遂げたのではないかと考えられています。 (『必要は発明の母』ともいわれます。イスラム騎兵がいかに強かったかが想像できます。)

 

また、この傭兵達が使用していたと見られるツヴァイハンダーには、敵の剣をはね返すための突起が、剣身のガードに近い部分に取り付けられていました。 こうして西洋では甲冑(鎧兜)の進化と共に、ツーハンドソードやツヴァイハンダーなどの巨大で強力な武器が開発されたのです。 

 

兵士の必殺武器・短剣『ダガー』(日本刀の鎧通し)

最後の一撃を与えるための小さな剣

ウエブ情報から引用

西洋では「古代ローマ」の時代から兵士の予備武器や暗殺武器として「短剣」が用いられていました。 中世から近世の西洋でも、長剣や長柄武器に引けを取らないくらい短剣が戦場で活躍したのです。 

十字軍の騎士が長柄武器などと共に携えていたのがダガーでした。中でも、一般的に使われていたのは「アンテニー・ダガー」という種類の物。アンテニーとは「カタツムリの触覚」という意味で、ポンメル(柄頭)に2本の丸い角飾りが取り付けられているタイプの物です。このアンテニー・ダガーは「リング・ダガー」というポンメルにリングが付いているタイプのダガーから発展した物で、どちらも当時の戦場で活躍していました。 

 

重装騎兵の活躍、ルネサンス期に最も活躍した『ハルバード』

日本の武器『鎌槍』以上の、馬・鎧への破壊力

 ウエブ情報から引用

多くの武器が登場したルネサンス期に、接近戦で最も有効的に使われていたのが「ハルバード」というポールアームです。

全長2.5~3mと大きな物が多く、形状としては、縦に伸びた槍と横に広がる斧を合体させたようなブレードに長いシャフトを付けた物で、ハルバードという名称も、ドイツ語で「ハルム」(棒)と「バルテ」(斧)をくっ付けた造語だと言われています。 

ここまで、外国の刀・長剣・ソードと日本の太刀との比較になりましたが、標題の『武士の「太刀」と騎士の「ロングソード」戦わば』などは、当面考えないことにしました。

記事投稿日:2022/12/11、#609)

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『最終兵器の無力化狙う米軍は、南シナ海で軍事演習継続する!』 『中国の南シナ海の3ヶ所の岩礁での軍事化、近隣諸国を脅かす』

2022-10-28 10:22:03 | 兵器・戦争

『最終兵器の無力化狙う米軍は、南シナ海で軍事演習継続する!』

『中国の南シナ海の3ヶ所の岩礁での軍事化、近隣諸国を脅かす

『バランス・オブ・パワーの矛盾、軍拡競争がつくる危険な不均衡』

 

2年前、南シナ海を巡る米中対立が改めて鮮明になり、両国は、南シナ海などで大規模な軍事演習の応酬も繰り広げきた。 先日、米インド太平洋軍司令官のジョン・C・アキリーノ海軍大将が明らかにした。 中国は、南シナ海の係争地南沙諸島に建設した人工島のうち少なくとも3つを完全に軍事化し、対艦・対空ミサイルシステム、レーザー・妨害装置、戦闘機で武装していると。 

 

さらに、ミスチーフ礁、スビ礁、ファイアリー・クロス礁でのミサイル基地、航空機格納庫、レーダーシステムなどの軍事施設の建設は完了したようで、中国が他の島々に軍事インフラを建設するかどうかはまだ監察する必要があると、述べた。

 

凄い・独裁的なリーダーが大勢いる、現在の世界の状況では、いつ局地戦の勃発から大戦に拡大するか心配です。 2年前(2020/09/19)の日経新聞の総合欄にありました表題最終兵器の無力化狙う米軍(南シナ海で軍事演習の応酬)』の記事です。  

 

日米中とASEAN諸国が2020/09/09~09/12にオンライン上で開いた閣僚会議では、南シナ海を巡る米中対立が改めて鮮明になった。 両国は7月から9月にかけて、南シナ海などで大規模な軍事演習の応酬も繰り広げた。 一連の演習からからは、『米中有事』に双方からどんな軍事作戦が展開するかを予測する手掛かりが垣間見えた。

 

中国の注意分散作戦

中国南部と南シナ海地域の陸海空軍を統合運用する「南部戦区司令部」配下の部隊が西沙諸島で演習を開始した。 ほぼ同時期、黄海では中国北部や朝鮮半島を管轄する北部戦区の部隊が、東シナ海では、同東部や台湾・日本などを含む地域を担当する東部戦区の部隊が演習した。

 

中国はこの時、インドの国境地帯で緊張状態にあった。 中印国境、南シナ海、東シナ海、黄海の「4正面」で一斉に軍を動かしたことになる。 1960年代初頭、朝鮮戦争に介入した裏で、チベットを一気に併合した。

 

米国の空母2隻作戦

ウエブ情報から引用

中国の注意分散作戦には目もくれず、空母『ニミッツとレーガン』の2隻の空母打撃軍が、南シナ海で8年ぶりの大演習をした。 『空母1隻の演習と2隻のそれでは意味合いが異なる』(防衛省情報部局元幹部)。 

 

米軍が演習の場に南シナ海を選んだ理由は『中国軍にとって同海域は、米中有事の際に最後まで温存したいSLBM搭載の原潜を展開させる場所だ。 衝突が核兵器に撃ち合いにエスカレーとしても、このSLBMが残って入れば、米軍の中国国家中枢への核攻撃をためらう。

 

昨今、王朝時代の帝王を目指している、大国の指導者たちが居ります。 大国でなくても、世襲制の帝王が居ります。 偏見では、ありますが帝王の地位、イコール核兵器所有などと錯覚を起こしかねません。

 

目下、プロイセンの将軍、カール・フォン・クラウゼヴィッツ著「戦争論 上下」を読んでいます。 今までは最もタフな著書の一つです。 あまりにタフなので、戦争についての本の並行読みを始めました。

 

孫子、マキアヴェリ、クラウゼヴィッツの3大家の著書:

❶ 孫武著『孫子』

❷ ニッコロ・マキャヴェリ著『戦術論』

❸ カール・フォン・クラウゼヴィッツ著『戦争論 上下』

 

さらに、

❹ ジョン・ルイス・ギャディス著『大戦略論』

❺ ピーター・ナヴァロ著『戦争の地政学 米中もし戦わば』

 

最近の『大戦略論』と『戦争の地政学 米中もし戦わば』は3大家の著書を引用しています。 

 

『戦争の地政学 米中もし戦わば』の中にありました。 抜粋・引用です。 

 

歴史上、強大な覇権国家は、突然、新興国家が表舞台に踊り出て、当時の文明をリードする存在になると、この劇的な勃興に覇権国家はショックを受け、対抗策をとろうとして、競争から対立が生まれ、それがついに衝突に発展したケース;

 

『スパルタとアテネ』のペロポネソス戦争であり、

『大英帝国とドイツ帝国』の第一世界大戦である。

 

この実例二つだけでは、証明にならない。 世界史を概観すると、1500年以降、中国のような新興勢力がアメリカのような既存の大国に対峙した15例のうち、11例において(70%以上の確率で)戦争が起きている。

 

シカゴ大学教授ジョン・ミアシャイマー史が『大国政治の悲劇』の中で展開しています。 特に『第一の仮定・無政府状態』全く同感です。 人類は無法治状態であること、拙ブログ『人類は、二度と核兵器は使えない(好奇心は探る-戦争のこと)』で触れております

 

第一の仮定

『世界体制は無政府状態だ(つまり国家を取り締まる権威をもった組織は存在しない)』

 

第二の仮定

『すべての国家は軍事力、つまり戦争のための兵器を増強する』

 

第三の仮定

『他国の真意を知ることは不可能だ』

 

『武器の発達は戦争(戦略論)を変えてきたか、抑止は可能か』をこれから調べて、勉強していきたいと思っています。

(記事投稿日:2022/10/28、#592)

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『刀のこと 2 (戦国時代の刀狩と、明治の廃刀令について)』ー日本の歴史において武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させたー

2022-03-26 00:15:29 | 兵器・戦争

『刀のこと 2(戦国時代の刀狩と、明治の廃刀令に ついて)』

『日本の歴史において武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させた』

 

先ずはウエブ情報から、長さや形状による日本刀の種類です

 日本刀のうち博物館などで展示されもっとも目にする機会の多いのが太刀です。
そのため、日本刀とは太刀のことだと思ってしまう方も少なくありません。
厳密には太刀より短いものを刀、さらに脇差、短刀と分類することができます。
また、広い意味では薙刀や槍を含む場合もあります。

 

①        太刀(たち)
平安時代後期~室町時代にかけて作られた刀身の長い日本刀のことを指します。 刀身の長さは70~80、反りの強いことが特徴的で弓や槍を補足する武器として使われていました。

 

②        刀(かたな)
室町時代の中期以降、江戸時代の末期まで主流となったのが刀です。
打刀と呼ぶこともあります。
時代劇に登場する日本刀の多くは刀であり、長く大きく反りかえった太刀と違い刀身が60㎝ほどと短く反りも小さいのが特徴です。
戦乱の世にあっては、すぐに臨戦態勢に入れることが重要視され、すぐに鞘から抜けるように機能性を追求したということになります。

 

 脇差(わきざし)
刀の補助として作られたのが脇差です
長さは30~60、日本刀の一種ではありますが、当時は刀ではないという認識から武士でない一般庶民も所持することが認められていました。
長い順に大脇差、中脇差、小脇差と呼ぶこともあります。

 

③        短刀(たんとう)
脇差より短い、刃長30㎝未満のものは短刀と分類されます
匕首(あいくち)、懐刀(ふところがたな)と呼ばれることもあり、帯刀を許されない席などで護身用として用いられたりしました。

 

刀と脇差の二本を帯びることを『二本差し』と『帯刀』と呼ぶようになったのは戦国時代以降と言われています。 平安時代末期までは太刀や腰刀を佩用(佩く、つまり腰に吊った)した。 これでは居合はやり難かったでしょう

当然、鞘には佩用するための部品と帯取りが取り付けられており、帯刀はせず腰に巻いて装着した。 

 

 鎌倉時代末期以降は、歩兵戦が多くなり、当然集団戦・白兵戦が多く、打ち合って戦うための武器、打物・打刀が主流となった。 この打刀が現在の日本刀で、太刀に比較、反りが小さい。

 

 17世紀の半ば、反りのある太刀や刀は、反りのない『棒の様な刀』が大流行した。 そこで太刀や刀の反りを、打ち直し『棒の様な刀』に改造することが流行した。 この流行は、ファッション・流行りからとズブの素人は考えましたが、実戦のためと分かり一安心です。 それでも、『棒の様な刀』は、佩刀ではなく帯刀できるので、ファッションとしても魅力があったのでしょうか。

いつの世でも『カッコよく』は大事でした。

 

 昔の武士は、各々が自分に合わせた長さ・重さの太刀・脇差を使っていたが、江戸時代の享保期以降は、画一的な刀・脇差好まれるようになった。 平和な時代は、ファッションファーストになったのでしょうか。

 

 最近知ったことですが、ウエブ情報からです。

帯刀というのは打刀と脇差の大小二本の刀を差す事です。
これは武士や苗字帯刀を許された町人だけの権利で、一般の百姓町人がすれば処罰の対象になりました。
しかし、脇差であれ、道中差であれ、一本だけ刀を帯びてもそれは帯刀にはならないので、旅行時の護身用、儀式での装束用など、正当な理由があれば、届けでの上で、2尺2寸3分(約67cm)以下の長さの刀剣類を所持する事が出来ました。大分の百姓・町人も刀又は脇差を差していた。

 

 戦国乱世の時代、百姓たちも否応なく戦いに巻き込まれたから、武器を所持して身に着けた。 これは宣教師ルイス・フロイスが、その著書『日本史・Historia de Iapam』に記している。

 

 この状況に大きな変化をもたらしたのが、豊臣秀吉による『刀狩り』ですが、秀吉は、天下統一後の『村の武力をそぐ』でした。 

そもそも『刀狩り』とは、ウエブ情報によれば;日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などから、武器の所有を放棄させること、鎌倉時代1228安貞2年)に、第3執権北条泰時高野山の僧侶に対して行ったものです。

 江戸時代の後期の風俗画には、町人の脇差(一本差し)が見られるが、更に元禄時代は『町人の脇差だらけと言われる』が私見ですがこれが実体ではなく、傾奇ものが多く、絵師も彼らをたまたまモデルにしたのではないでしょうか。

 

 許可制でもなく、禁止もない町人の脇差であったがこれで悪事をなしたものは死罪であった。 もちろん公的場面では、脇差御免であったし、江戸時代後期には長脇差(大脇差と同じ、5460㎝)は禁止であった。 ヤクザ(この呼称は室町時代が最初)の長ドスと長脇差は同じもの、したがってヤクザの長ドス所持は違法であった。

 

 映画でよく見る、幕府の役人が凶悪な盗賊をバッサリと、切り捨てることはなく、捕り物には、実際『刃引きの刀』が使われたことがあった。 町奉行の与力・同心には犯罪者捕縛したときには褒美が出る規定があり、あくまで『召捕候もので打捨・切捨ではなかった。 幕府は御先手組の長谷川平蔵ら10名には非常事態には『打捨・切捨』を許可した。 幕末期は非常事態であった。

 

 明治政府は陸軍卿山県有朋の上申による『廃刀令』が、明治9328日に発布・実行され、特殊な職務の人以外の『佩刀・帯刀』は出来なくなった。

明治の『廃刀令の狙いは、旧武士』であり戦国時代の『刀狩りの狙いは、百姓と僧』であった。 米国の銃規制の狙いはなに、なぜ緩い、考えさせられます。

(記事投稿日:2018/10/17、最終更新日:2022/03/26#498

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『刀のこと 1 (竹刀・木刀・真剣について)』ー刀鎗で戦った「もののふ」の時代は、昔の話、今の戦いは「テロ」の時代ー

2022-02-03 08:41:00 | 兵器・戦争

『刀のこと 1 (竹刀・木刀・真剣について)』

『刀鎗で戦った「もののふ」の時代は、昔の話、今の戦いは「テロ」の時代』

 

竹刀のこと

昔、津田沼鉄道連隊の跡地に設立された男子高校時代のことです。必修科目の剣道の時間に『野試合』という変わった剣道を経験できました。 普通は『野試合』は一騎打ちですが、この時は集団戦でした。

高校のグランドは、『質実剛健』のモットーを地で行く? 砂利轢きではなく、小さな砕石轢きに雑草が生えていました。 将に『野試合』にぴったりです。

剣道防具のフル装備で、竹刀を手に、素足で戦う集団戦ですので、素足で野山を駆け回った経験のない、ひ弱な都会っ子を獲物に選んでは、次々と、田舎育ちの自分が圧倒できたのを覚えています。

この防具をつけた集団竹刀戦ですが、相手に怪我をさせる心配が殆どないので、思い切って膂力を出し切って戦えた記憶があります。 なぜか痛快でした。

江戸時代の一部の道場で始まった金儲けの道場、刀鎗の戦いが無くなった時代の実際的・合理的な訓練できる『竹刀剣法』道場の短所・長所を考え悩みます。 この道場竹刀剣法が、それまでの、必殺一段攻撃であった剣術を、二段・三段の攻撃を主流に変えたことでもありました。 『必殺第一撃』は『誘い』になりました。

余談です。桂小五郎(後の木戸孝允)は、江戸三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)の免許皆伝で、他道場への出稽古指導は有名で、竹刀剣法の達人でしたが、真剣での実力は不明です。 いつも芸妓幾松(後の松子夫人)の機転で危機一髪の回避できて、真剣勝負はせずにすみました。

 

木刀のこと

今でも大事にしており、時々素振りなどする木刀は、湘南の某市の警察署長が愛用されていたもので、義兄経由で頂いた、115㎝と長めで、900gと中くらい重さで、荒削りのものです。 

この木刀は、香港駐在中に日本に一時帰国した時のカミさんが、香港への帰路、2歳半の娘同伴で、JALの機内に持ち込み、離陸直後に『危険物』ですので『機長預かりとします』(ユーモラスに)とされた『曰く品』でした。

約半世紀も昔でも、幼女同伴の小柄のカミさんが、ハイジャックができるわけでもないのにと思う反面、木刀は竹刀と異なり、『膂力』のない小柄の女性でも武器にできるものかと感心しました。

 

真剣のこと

日本刀の区分は、1尺(30㎝)以下は短刀、1尺以上2尺未満を脇差、2尺以上を日本刀(所謂大刀)、3尺に達するものを長刀と呼ばれ、日本刀の長さは、戦術変化の必要性からは、

①  平安期から室町中期までは2尺余から3尺弱と長く、

②  室町後期から、江戸中期かけては、2尺から2尺半と短め

であったそうです。

 

さて、佐々木小次郎の物干竿ですが真相は、記録にある刀身『3尺、一般の長刀』であったようです。 昔から、刀を腰に差さず背中に背負う習慣はあったのですが、長所、短所がありました。 小次郎の絵にある、柄が右肩に出る背負い方は右利きには、間違いで、左肩に出るよう背負うのが抜刀時に『ストローク』を長くとれるからだそうです。

講談で命名されたらしい『燕返し』は、通常は二段打ちの『虎切り』と呼ばれているようです。 

余談です。ゴルフの切り返しや手首の返しにも似て興味が湧きました。

更に、小説・講談の中で言われる『燕返し』の会得は、錦帯橋の上でとか、滝壺付近でと、言われています。 燕は時速100キロ以上で飛び、急旋回・急反転で補虫をします。 燕返しは、燕を切ったことからでなく、燕の動きから習ったものであることが、話の真相ではないでしょうか。 野鳥を撮っていると解かります。 望遠レンズの反射の光で野鳥は即、逃げます。 農作物を野鳥から護る『キラキラの防鳥リボン』が好例です。

野鳥の観測・撮影の好きな自分は、このような燕の一連の動作からのヒントで『燕返し』が誕生したのではないかと思いました。

それでは、専門の先生方の『燕返し』の推測・理屈の一つです。

小次郎の時代には、攻撃は『一段打ち』という常識があり、この常識を打ち破って『二段・三段打ち』攻撃を編み出したことが画期的であった。 一段打ちによる攻撃が常識であったいうのが重要で、対戦相手の発想は第一段の上から下への攻撃が終われば、小次郎の攻撃が終わったと思い隙が生まれる。 一方、小次郎は、予定通りの二段打ち攻撃ですから、これが成功する。という無敵の必殺技『燕返し』の成り立ちです

日本刀は、切れ味がよく、西洋のロングソードのように刀身をぶつけ合うようなコンセプトでは造られてはおらず、こんな記録があります。 完全武装した暗殺部隊と戦って壮絶に憤死した、足利義輝は、刀数本を用意して、この暗殺部隊との防戦に臨んだ。

又、これとは逆に、西洋のロングソードは刃渡り120140㎝で、重さ約2㎏で、殴る・切る・突くができる。 これが江戸時代の同心が捕縛の時、必要に応じて使った『刃引き』で殴ると似ていますが、なんといっても『東西の膂力』に雲泥の差があります。

最後に、中国の『青龍刀』のコンセプトは、日本刀に似ておりますが、三国志の『美髭公関羽雲長』で有名な、薙刀の元祖『青龍偃月刀』長さ230㎝、重さ7.2㎏は、西洋のロングソードに比較しても凄いものです。

刀鎗で戦った『もののふ』の時代は、遠い大昔の話になりました。今の戦いは大きく変わり『テロ』の時代です。

 追記

竜馬の愛刀『陸奥守吉行』が現在の科学で、本物と判定、火事で焼け、伸びて反りがなくなり、その後、研いだために波紋が消えていたが今回、X線(?)で見えた。 2018511日読売新聞37ページです。

(記事投稿日:2018/10/15、最終更新日:2020/12/04、#032)

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