知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『昔の日本は・日本人は凄かった(木曽三川の宝暦治水)』—江戸中期の宝暦4年(1754年)三川の分流を目的とする治水工事―

2020-01-23 11:22:47 | 歴史・日本

『昔の日本は・日本人は凄かった(木曽三川の宝暦治水)』

『江戸中期の宝暦4年(1754年)三川の分流を目的とする治水工事』


木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)

ウエブ情報から引用

 

木曽三川』、いい響きです。 昔、お世話になった会社の保養所が『木曽三川』の木曽川と長良川で形成された輪中(集落を水害から守るため周囲を囲んだ堤防)の最も下流にある長島町に在っときは、中国地方へのドライブ旅行の中途の一泊地でした。 

 

隅田川・荒川・旧江戸川


ウエブ情報から引用


この頃から思っていました。 東京東部の主要河川、西から隅田川・荒川・旧江戸川を東京三川(又は江戸三川)とも呼べたらと。 この『三川』には、『江戸時代から近代まで』の大治水事業(特に、誰もが知っている利根川の東遷)が続けられてきました。 この大治水事業を始めた、徳川家康とその参謀たちの先見の明には驚くばかりです。

 江戸と江戸周辺の治水は数百年もかけて進められたが、その途中に江戸幕府の幕命で薩摩藩が請け負わされた『木曽三川の宝暦治水』の難事業は、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)の短期間で、幕命により薩摩藩が行った治水工事です。 濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事で、三川分流治水とも言われます

 ここで、『木曽三川の宝暦治水』に関するウエブ情報です。 この徳川江戸幕府の御三家・尾張家のおひざ元で、薩摩藩が請け負わされた御手伝普請の凄まじい記録です。

 

御囲堤(おかこいづつみ)
江戸時代初期の1609年には、木曽川の左岸に尾張の国を取り囲む形で約50kmにもわたる大堤防「御囲堤」が築かれた。
 ウエブ情報から引用

 

宝暦治水
江戸中期の宝暦4年(1754年)三川の分流を目的とする治水工事(いわゆる宝歴治水、油島の締め切り工事など)が行われた。
 ウエブ情報から引用

 

『宝暦治水事件』は、江戸時代中期に起きた事件。 幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した

薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)で、大坂の商人からは22万298両を借入していた。 返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行った。 現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。

当時すでに66万両(現在の金額にして570億円以上と推定)もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。 財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日に幕府へ送った。 
同年1月29日に総奉行・平田靱負、1月30日に副奉行・伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

 

明治改修、宝暦治水から133年ぶり

明治20年~45年(1887~1912年)にかけて、木曽三川の完全分流を目指して、明治政府は当時の国家予算の約12%という巨額な予算を投じた河川改修工事を行いました。
ウエブ情報から引用

 

岐阜県と旧薩摩藩の大部分を継承する鹿児島県は、これが縁で1971年(昭和46年)7月27日に姉妹県盟約を締結しています。 木曽三川の治水事業の関連で、『「伊勢湾台風と木曽三川下流域」~忘れられた輪中の知恵~』と言う講演が2019年末ありました。 機会を見つけてこの資料を読んでみたいと思いました。
                                                                   (記事投稿日:2020/01/23、#143)

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『ミミズク と フクロウ  1(コミミズクが来なくなると怒られて)』—攻撃武器は嘴ではなく『足』、それでもフクロウ・ミミズクは愛らしい―

2020-01-14 22:15:18 | 野鳥

『ミミズク と フクロウ 1(コミミズクが来なくなると怒られて)』 

—攻撃武器は嘴ではなく『足』、それでもフクロウ・ミミズクは愛らしい―

     

 昔、住んでいた茨城県利根町のニュータウン住宅街の東側の田んぼに冬季に越冬のため飛来する『コミミズク』の撮影に、よく行きました。 一眼レフに超望遠大口径のReflex Nikkor 1000mm F11着けて『コミミズク』を狙っていました。

 

ウキペデイアから引用



 その時、近所にお住いの老婦人から『皆さんが、大勢で「コミミズク」に近づきすぎて、脅かすから、最近は飛来しない年がある』と注意されました。 自分は、『コミミズク』に気づかれないほどの距離を『超望遠大口径のReflex Nikkor 1000mm F11』で、とってましたが、やはりレンズの反射光を『コミミズク』が怖がるのを知ってましたので、この時以来『コミミズク撮り』は断念しました。

 フクロウとミミズクの違いも知らずに、ボーっと『コミミズク』撮りをやっていましたことを今でも反省しています。 ここで、フクロウとミミズクの違いのウエブ情報です。

 一般的には羽角(または耳羽)という頭に耳のような羽がある種を「ミミズク」とすることが多いです。 しかし、羽角があるのに「フクロウ」に種別されているシマフクロウ(下の写真)や、

ウキペデイアから引用


  羽角がないのに「ミミズク」に分別されるアオバズク(下の写真)の例もあるため、実際には明確な違いはありません。

ウキペデイアから引用

 

 さらに、フクロウ(ミミズクを含む)は夜に強い野鳥で、南極以外の全大陸に棲息しています。 『森の賢者』はゴリラとフクロウで、たしか、『森の人』はオランウータンです。 フクロウは2科27属220種類が現生するそうです。

フクロウの特徴は、
❶ 夜目がきく、夜行性の鳥、目の感度は人間の10-100倍。 他の鳥類と異なり、両目が正面にあるため立体視が可能で、静止していても対象までの正確な距離を把握できる。

❷ 耳穴が左右でずれた位置に存在し、奥行きも違っている。 左右非対称であることにより、音源の方向を立体的に認識することが可能になっている。 

❸ フクロウの武器は足、フクロウの最大の武器は足で、嘴ではありません。


 かなり昔のことですが、山梨県都留市出身の先輩に、狩猟に連れていって頂きました。 獲物はヤマドリ・キジ、時には猪でした。 狩猟から帰ってきた、そのときに、フクロウが『母屋の離れの風呂場』に飛び込みました。 このフクロウを見つけた猟犬・ポインターが咆哮しました。 この時のフクロウは『下の写真』のようでした。 当時、登山が趣味でした自分に、大切なのは『三点確保』でした。 フクロウのこの姿勢は、将に、凄い『三点防御」でした。
 

ウエブ情報から引用


 最大の攻撃武器は嘴ではなく『足』だそうです。 それでもフクロウ・ミミズクは愛らしくて、可愛い野鳥です。
                          (20200114纏め #141)

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