『昔の日本は・日本人は凄かった(木曽三川の宝暦治水)』
『江戸中期の宝暦4年(1754年)三川の分流を目的とする治水工事』
『木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)』
ウエブ情報から引用
『木曽三川』、いい響きです。 昔、お世話になった会社の保養所が『木曽三川』の木曽川と長良川で形成された輪中(集落を水害から守るため周囲を囲んだ堤防)の最も下流にある長島町に在っときは、中国地方へのドライブ旅行の中途の一泊地でした。
隅田川・荒川・旧江戸川
ウエブ情報から引用
この頃から思っていました。 東京東部の主要河川、西から隅田川・荒川・旧江戸川を東京三川(又は江戸三川)とも呼べたらと。 この『三川』には、『江戸時代から近代まで』の大治水事業(特に、誰もが知っている利根川の東遷)が続けられてきました。 この大治水事業を始めた、徳川家康とその参謀たちの先見の明には驚くばかりです。
江戸と江戸周辺の治水は数百年もかけて進められたが、その途中に江戸幕府の幕命で薩摩藩が請け負わされた『木曽三川の宝暦治水』の難事業は、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)の短期間で、幕命により薩摩藩が行った治水工事です。 濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事で、三川分流治水とも言われます
ここで、『木曽三川の宝暦治水』に関するウエブ情報です。 この徳川江戸幕府の御三家・尾張家のおひざ元で、薩摩藩が請け負わされた御手伝普請の凄まじい記録です。
御囲堤(おかこいづつみ)
江戸時代初期の1609年には、木曽川の左岸に尾張の国を取り囲む形で約50kmにもわたる大堤防「御囲堤」が築かれた。
ウエブ情報から引用
宝暦治水
江戸中期の宝暦4年(1754年)三川の分流を目的とする治水工事(いわゆる宝歴治水、油島の締め切り工事など)が行われた。
ウエブ情報から引用
『宝暦治水事件』は、江戸時代中期に起きた事件。 幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業(宝暦治水)の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した
薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)で、大坂の商人からは22万298両を借入していた。 返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行った。 現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。
当時すでに66万両(現在の金額にして570億円以上と推定)もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。 財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日に幕府へ送った。
同年1月29日に総奉行・平田靱負、1月30日に副奉行・伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。
明治改修、宝暦治水から133年ぶり
明治20年~45年(1887~1912年)にかけて、木曽三川の完全分流を目指して、明治政府は当時の国家予算の約12%という巨額な予算を投じた河川改修工事を行いました。
ウエブ情報から引用
岐阜県と旧薩摩藩の大部分を継承する鹿児島県は、これが縁で1971年(昭和46年)7月27日に姉妹県盟約を締結しています。 木曽三川の治水事業の関連で、『「伊勢湾台風と木曽三川下流域」~忘れられた輪中の知恵~』と言う講演が2019年末ありました。 機会を見つけてこの資料を読んでみたいと思いました。
(記事投稿日:2020/01/23、#143)