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知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』―狩野派が室町~江戸約400年の作品が国宝4点・重文37点に比べ凄い雪舟―

2025-04-11 06:30:59 | 絵画

『水墨画で著名な絵師・雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』

『不器用・遅咲きの画聖雪舟の作品総数は36点と少ない』

 『狩野派は室町~江戸時代の400年の国宝4点・重文37点

 

狩野派の内訳は、

    狩野正信 国宝1点、重文 7点

    狩野元信      重文16点

    狩野永徳 国宝3点、重文 3点

    狩野山楽      重文11点

 

とにかく孤高の雪舟、狩野派集団、どちらも凄い。 日本は、日本人は凄い中で雪舟は群を抜く。 雪舟は『万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチに比肩される画聖雪舟等楊、日本美術史の草創期に唐絵からやまと絵へという画期を形成した時代を見直し、近世への幕開けを準備した』と言われています。

 

雪舟は相国寺で画僧を目指す

相国寺は京都五山の第二位に列せられている。 相国寺は五山文学の中心地であり、雪舟は、室町時代に京都の相国寺で修行した禅僧で水墨画を学び画僧となる。 大名の大内氏について周防国(現在の山口県)に移り明へ2年間の留学をする。 帰国後は現在の中国地方~九州で活躍し、絵のほかに築庭なども手掛けた。 水墨画作品も比較的多く残っており、6点が国宝に指定され、これは画家の中では点数が一番多い。

 

『絹本著色雪舟自画像(模本)』

ウキペディア情報から引用

雪舟は、教科書にも載っているので、日本人ならその名前を一度は聞いたことがあると思いますが、元祖国際派映画スター、早川雪舟の方が、ずっと馴染み深い。 そんな画僧・雪舟ですが、その人生は意外と知られていません。

 

「雪舟」は号で、諱(いみな・本名)は「等楊(とうよう)」は15-16世紀の日本画家ですが、『遣明使』で中国に2年留学、中国画家・李在より中国の画法を学んだ。 中国絵画にも遠近表現はあり、北宋の画家・郭煕(かくき)はそれを「三遠の法」といった。 「三遠」とは高遠(仰角視)、平遠(水平視)、深遠(俯瞰視)の3つをいうが、中国の山水画では、近景の岩は俯瞰視、遠景の山は仰角視で描くなど同じ1枚の絵の中に複数の異なった視点が共存することが珍しくない。 

 

余談ですが、蜀の軍師・諸葛亮孔明は『天を仰げば、天文を』、『水平に見れば人文を』、『俯瞰すれば地理が』がわかると言ったそうです。

 

雪舟の神格化

雪舟の神格化は江戸時代から始まった。 当時画壇を支配していた狩野派が雪舟を師と仰ぎ、ゆえに諸大名が雪舟の作品を求めたからであるとされる。 そのために以後「雪舟作」と号する作品が急激に増えたと言われる。 雪舟の人気を反映して、『祇園祭礼信仰記』のような作品が上演された。 日本文化の一つを生んだ雪舟は、今や日本を代表する歴史人物の一人となっている。

 

『遣明使』、留学僧・雪舟はなぜか2年で帰国

遣隋使や遣唐使の留学僧の十数年と違って、船は大型化され勘合貿易も頻繁になり渡航しやすくなったせいか、『遣明使』の留学僧も明国滞在期間は比較的短かったようです。遣唐使・最澄と留学僧・空海は、最澄が2年程度の短期留学、空海が20年の長期留学を朝廷から命じられていたが、最澄は実質6カ月ほど、空海は二年余の唐滞在でした。 特に、この二人は、朝廷の『引き?・コネ』があったようです。

 

ここにある『遣明使』ですが、不勉強で、遣隋使と遣唐使しか、今まで知らず、お恥ずかしき次第です。 『室町時代の幕府が明に派遣した。 応永11年(1404年)から天文16年(1547年)まで約1世紀半で17次(のべ84隻)。 のち、倭寇(わこう)が盛んになるに及んで廃止。』

 

雪舟の師・李在(りざい)

生没年未詳。中国、明代前期の画家。字は以政。 莆田(ほでん)(福建省)の人。 雪舟に影響を与えた画家として有名。 宣徳(1426~1435)のとき、戴進、謝環、石鋭、周文靖とともに仁智殿で画院画家として活躍した。 郭煕、馬遠、夏珪を学んだといわれるが、その筆触荒々しく墨面も重い画風は、同時期の戴進から強い影響を受けているものと思われる。 代表作は『山水画』(東京国立博物館)、『雪景山水図』(京都、個人蔵)。

 

雪舟の築庭

オールラウンダー雪舟は、「常栄寺」の「雪舟庭」他、国内で複数箇所の築庭に携わっており、中でも常栄寺、医光寺(島根県益田市)、萬福寺(同)、旧亀石坊庭園(福岡県添田町英彦山)の庭園は「雪舟四大庭園」と言われています。

ウキペディア情報から引用

禅昌寺のだるま(有名な雪舟の筆とされる達磨の図)

ウキペデイア情報から引用

暫くは、雪舟等楊と『遣明使』を調べるため・知るために国会図書館通いが、続きそうです。

(記事投稿日:2021/04/16、最終更新日:2025/04/11、#317)

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『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 2』 —北斎は身長が180㎝ほどもあったらしい、弟子も200人以上―

2025-01-30 17:14:07 | 絵画

『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 2』

 —北斎は身長が180㎝ほどもあったらしい、弟子も200人以上―

ウキペデイアから引用(晩年の宮本武蔵を彷彿)

 

(葛飾北斎の有名な作品『神奈川沖裏浪』は、芸術華やかなヨーロッパに、いろいろな影響を与えています。ただ、 冒頭から余談になりますが、自分の故郷の九十九里海岸で見ることができた大きなうねりが起こす『土用波』がこのように見えましたが少し様子が違っていました。 遠浅海岸のかなり砂浜に近いところで、これほどの沖合ではなかったようでした。 

 

北斎の多数の作品とその人生を紹介する『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』は、島根県に寄贈された『永田コレクション』の1,000点の内の多くを東京で見られる最後のチャンスでしたので、行ってきました。 北斎については『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 1』で纏めましたが、今回の『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』で、北斎を知れば知るほど『凄い絵師・画家』でした。

 

先ずは、画号を変える(改号)すること30回、そのウェブ情報です。 

彼は生涯に30回と頻繁に改号していた。使用したは「春朗」「群馬亭」「北斎」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」などと、それらの組み合わせである。北斎研究家の安田剛蔵は、北斎の号を主・副に分け、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」が主たる号であり、それ以外の「画狂人」などは副次的な号で、数は多いが改名には当たらないとしている[5]。仮にこの説が正しいとしても、主な号を5度も変えているのはやはり多いと言えるだろう。

 

なお、彼の改号の多さについては、弟子に号を譲ることを収入の一手段としていたため、とする説や、北斎の自己韜晦(とうかい)癖が影響しているとする説もある。ちなみに、「北斎」の号さえ弟子の鈴木某、あるいは橋本庄兵衛に譲っている。

 

今回の『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』の中では、葛飾北斎の絵師人生を作風の変遷と、主に用いた画号によって6期に分けていました。 展示替えありで、当日見られたのは、展示予定の約6割でした。

Chapter 1 
春朗期(2035歳頃) 勝川派の絵師として活動した、

                   展示替えありで  展示予定作品66点中の29点 

 

Chapter 2 宗理期( 3645歳頃) 勝川派を離れて肉筆画や狂歌絵本の挿絵と

                    いっ た新たな分野に意欲的に取り組んだ、展示替えありで展示予定

      作品92点中の43

 

Chapter 3 葛飾北斎期(4650歳頃) 読本の挿絵に傾注した、

                  展示予定作品83点中の50

 

Chapter 4 戴斗期(5160歳頃) 多彩な絵手本を、

                 展示予定作品57点中の29

 

Chapter 5 為一期(6174歳頃) 錦絵の揃物を多く制作した、

                 展示予定作品127点中の61

 

Chapter 6 画狂老人卍期(7590歳頃) 自由な発想と表現による肉筆画に専念

     した、

                  展示予定作品54点中の29

     合計、展示予定作品479点中の271

 

改めて北斎の作品の多さには驚きます。 この北斎は身長が180㎝ほどもあったらしい、弟子も200人以上、生涯の作品数は3万点余ともいわれ、毎日1枚ずつ画いても82年かかる計算になります。  今までは、北斎は『小柄・細身の絵師・画家』をイメージしていましたが、『画家でもあった武蔵』を思い出させる、『偉丈夫・怪物』でした。

転居すること93回、これもウェブ情報です。

北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたらしい。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保713年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人である。

 

最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことである。

 

確かに、江戸の文化・芸術盛んで、江戸時代から続いている習慣や娯楽が今でもあります。 『潮干狩り』、『土用の鰻』などです。 大湿地帯にも関わらず、急増され、いっきに当時の人口百万都市ロンドンに次ぐ世界で二番目の大都市に急拡大しました。 やはり驚かされるのは、江戸には上水道が整備されていました。 赤坂には、そのため『溜池』と呼ばれる外濠兼用の上水源がありました。 玉川上水系と神田上水系を合計すると総延長は152㎞にも達していた。 当時の、徳川家康とその幕閣、やはり凄かったのです。 現代の保身のために『ハコモノ』など造ってしまう、昨今の『政治屋』とは違います。

 

ながい余談でした。 『新・北斎展 HOKUSAI UPDATED』関連は、ほんとに奥が深いので、この後は、次回の『北斎インパクトと国宝、浮世絵に国宝なし 3』に先送りです。       

 

北斎の広範囲の活躍は、

浮世絵(役者絵・美人画・錦絵など浮世絵木版画の最終形態)、

黄表紙(草双紙・絵入り娯楽本)、

洒落本・狂歌本・読み本の挿絵、摺り物の下絵、

北斎漫画(絵手本として発行したスケッチ集)

に及びます。 心技体充実北斎だからできた、江戸時代の絵師・画家はだれもがこのようではなかったと思っています。

 

『富岳百景』初編には自ら『九十歳にして猶其奥意を極め一百歳にして正に神妙ならん歟百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん』云々と記している。

北斎のこと、若冲と合わせて、今後も調べていきます。

 (記事投稿日:2020/03/23、最終更新日:2025/01/30 #094)

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『天才絵師 雪舟の天橋立図と、北斎の富嶽三十六景の鳥瞰図の謎)』ー雪舟の国宝『天橋立図』と北斎『富嶽三十六景』の鳥瞰図をなぜ描けたー

2024-09-05 07:22:14 | 絵画

『天才絵師 雪舟の天橋立図と、北斎の富嶽三十六景の鳥瞰図の謎)』 

雪舟の国宝『天橋立図』と北斎『富嶽三十六景』の鳥瞰図をなぜ描けた」

 

この国宝『天橋立図』ですが、描くときに雪舟が立っただろうと言われる場所、現在の『天橋立雪舟観 展望休憩所』から見ると、天橋立の後ろの『阿蘇海』は天橋立で遮られ見えません。 

 

『天橋立雪舟観 展望休憩所』から天橋立を、阿蘇海はよく見えません。

 

 

国宝『天橋立図』

まさに、雪舟の傑作の鳥瞰図、阿蘇海がはっきりと見えます。      

 

 

ウエブ情報です。

日本三景の1つ、丹後天の橋立を東側から鳥瞰的にとらえた図で、図中の智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍が同時に描かれることから、制作期が一応明応10年(1501)から永正3年(1506)の間とされる。雪舟(14201506)が80歳を越してなお現地に歩を運んで、実景を写したことは驚異である。 水々しい墨色と確実に形をとらえる筆致、雄大に組立てる構図は雪舟の優れた画技の極点を示している。 中国大陸に渡って大自然を写生し、宋元画を学び、禅画一致を求めて一生描きつづけた雪舟の傑作である。

 

北斎の『富嶽三十六景』の鳥瞰図、

稲妻が下に見え、後方の周辺の山並みが描かれている。

 

北斎の『富嶽三十六景』

稲妻も、後方の周辺の山並みが描かれていない。

 

 

北斎の稲妻を下に見下ろした『富嶽三十六景』の鳥瞰図と合わせ、雪舟の国宝『天橋立図』は、なぜ鳥瞰図を二人は描けたのでしょうか。

 

鳥瞰図を雪舟(14201506)と北斎(17601849)はどこで学んだか。 

ここでもウエブ情報です。

 

雪舟は15-16世紀の日本画家ですが、『遣明使』で中国に2年留学、中国画家・『実在』より中国の画法を学んだ。 中国絵画にも遠近表現はあり、北宋の画家・郭(かくき)はそれを「三遠の法」といった。 「三遠」とは高遠(仰角視)、平遠(水平視)、深遠(俯瞰視)の3をいうが、中国の山水画では、近景の岩は俯瞰視、遠景の山は仰角視で描くなど、同じ1枚の絵の中に複数の異なった視点が共存することが珍しくない。

 

ここにある『遣明使』ですが、不勉強で、遣隋使と遣唐使しか、今まで知らず、お恥ずかしき次第です。

 

『室町時代の幕府か明に派遣した。 応永11年(1404年)から天文16年(1547年)まで約1世紀半で17次(のべ84隻)。 のち、倭寇(わこう)が盛んになるに及んで廃止。』

 

北斎は18-19世紀の日本画家ですので、すでに鳥瞰図は見ていたと思われます。 

安永7年(1778年 浮世絵師・勝川春章の門下となる。 狩野派や唐絵西洋画などあらゆる画法を学び名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。 

文化9年(1812年 秋頃、名古屋の牧邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。

 

鳥瞰図のウエブ情報です。

海外の歴史的な鳥瞰図としては、レオナルド・ダ・ヴィンチの「トスカーナ鳥瞰図」ヤコポ・デ・バルパリの「ヴェネツィア鳥瞰図」(1500年)アルトドルファーの「アレクサンドロス大王の戦い」(1529年)などがある。 

 

日本の歴史的な名所や神社仏閣を描いた鳥瞰図としては、古くは春日大社を描いた奈良時代の「春日曼荼羅」などがある。名所案内図としては、秋里籬島著、竹原春潮斎画「都名所図会」、斎藤月、長谷川雪丹「江戸名所図会、葛飾北斎「東海道名所一覧などがある。浮世絵にも鳥瞰図が描かれ、広重「江戸名所百景」の「深川洲崎十万坪」などがある。 現存最古の鳥瞰図としては『東大寺領荘園図』がある。 

 

日本の江戸時代までの広域の景観を描いた鳥瞰図としては、室町時代の加納永徳の「洛中洛外図屏風」に代表される京都の景観、風俗を描いた各種の「洛中洛外図屏風、江戸初期の建設途上の江戸の名所、風俗を描いた「江戸図屏風」、江戸全景を描いた鍬形蕙斎の「江戸一目図屏風」などがある。 

 

数年前、どこかのテレビで放送していました。 北斎の『神奈川沖浪裏』の解説の中で北斎には『空間認識能力』が特別優れていたと。 北斎よりおよそ300年も早く、雪舟は、高い崖、高い山、高い石柱の多い中国の「三遠の法」の「高遠(仰角視)、平遠(水平視)、深遠(俯瞰視)を理解していたように『ズブの素人』には見えました。 同時代1516世紀には、高い塔や高い山の多いヨーロッパには鳥瞰図や俯瞰図が現れても不思議はないと思います。

 

鳥観図と鳥瞰図(俯瞰図)、虫観図と虫瞰図(仰瞰図)、日本語は難しくて、奥が深いです。 漢字・ひらがな・カタカナ混在の言語・日本語はある意味でハンデでした。 自動翻訳機(双方向)のチップが体内に組み込まれる時代はまだずっと先でしょうか。

(記事投稿日:2019/10/19、最終更新日:2024/09/05、#126)

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『凄い画家・藤田嗣治、絵画で「白」の表現は素晴らしいと称賛を』

2024-04-22 11:15:43 | 絵画
『凄い画家・藤田嗣治、絵画で「白」の表現は素晴らしいと称賛を』
『日本生まれのフランスの画家・彫刻家 フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタLéonard Tsugouharu Foujita』
『絵の具では三原色塗り重ねると「黒」に、光では「白」になぜ?』

日本人の画家で最初に世界的な成功を収めたのが藤田嗣治でした。 日本近代で最大の画家とも言ってもよいと言われます。 それまで、浮世絵などで日本美術が海外で高く評価されたことはあったが、画家本人が海外に渡りそこで評価をえたのは藤田が最初であったと。

藤田の絵画は細い輪郭線で裸婦を描き、エコール・ド・パリの画家としてもてはやされた。 手先の器用な日本人にしか描けない細い線、そして『乳白色の肌』が藤田の絵のトレードマークとなった。
エコール・ド・パリ
エコール・ド・パリ ( フランス語: École de Paris, 英語・School of Paris)は、「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン(ジプシーの異称) 的な生活をしていた画家たちを指す。

また藤田は『猫の画家』でもあった。 数匹の猫を飼い、猫を描き、人気を得た。 そんな猫も、この自画像には一緒に絵は描かれている。


 ウェブ情報から引用


ウェブ情報から引用

白い肌に魅せられて、裸婦像を描いた画家が居ります。 竹久夢二。

ウェブ情報から引用

以下、ウェブ情報ですが、今後の勉強のために備忘録にしました。 
特に、絵画において白色の表現は、実際には意外にも難しいようです。 その理由を調べてみました。 まず、光と陰影が絵画でどのように扱われているかですが、絵画には平面的なものと立体的なものがあります。 浮世絵やアニメ・イラストは平面的な表現が多く、日本人はこのスタイルを好む傾向がるそうです。 一方、西洋絵画は古典的にはリアルで立体的な表現が基本です。 立体的な絵画を描く際には、光と陰影の成り立ちを理解することが重要です。

  • 光と陰影とは、物体を見る際に生じる光と影の部分。 具体的には以下の要素に分解できます:
    • 光・光源: 光が当たっている部分と光自体。 太陽や月明かり、室内灯などが光源。
    • 陰: 光が当たらず暗くなっている部分。
    • 影: 物体が光源を遮って、背後の地面などが暗くなっている部分。

主光源と副光源は、絵画制作において重要な要素です:
  • 主光源: モティーフに当たる最も強い光。 外では太陽の光や月明かり、室内では蛍光灯などの光が該当。 主光源の色は、モティーフの固有色に光源の色を帯びた色味に。
  • 副光源: 主光源以外の光源で、陰影の部分を明るく照らす役割を。 副光源の色は、反射光によって影響される。

白色の表現にですが、絵画で白色を表現する際、以下の方法が:
  1. 塗らない: 白色の部分を塗らずに紙の色を活かす方法。 ただし、これは難しく、高度な技量を必要。
  2. 削る: 色鉛筆画などで、白色の部分を削って表現する方法。

絵画においては、白色を適切に表現するためには、光と陰影の理解と色の扱いが重要。

色の三原色は重ねると真っ黒になりますので、絵画については上記の情報を頭の隅っこにおいて、しっかり見ていこうと思いました。 写真は、光の三原色を重ねると白くなりますので『白飛び』させないように、これからも頑張って『下手の横好き』をやっていきます。
(記事投稿日:2024/04/22、#742)
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『特別展「画聖(カリスマ)の誕生」京都で開催、ぜひ東京開催も』 『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』

2024-04-05 10:58:32 | 絵画
『特別展「画聖(カリスマ)の誕生」京都で開催、ぜひ東京開催も』
『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』
『それでも、不器用・遅咲きの画聖雪舟の作品総数は36点と少ない』

15世紀後半に活躍した水墨画家・禅僧で、画聖ともたたえられる雪舟。 江戸時代に神格化され、日本の水墨画を一変させ、後世の画家に多大な影響をおよぼしたと言われるのが雪舟です。

冒頭から余談です。
一方、葛飾北斎は日本の画家、浮世絵画家、江戸時代の版画家。 雪舟をはじめ中国絵画の影響を受けたスタイルで、シュルレアリスティックに日本の風景や春画を描く、葛飾北斎ですが、実はその名前は本名ではありません。  45歳から5年ほど使っていた号(ペンネームみたいなもの)であり、しかも北斎はこの号を生涯で30回以上変えているのです。

この二人、『画聖』と、『幽霊から漫画まで描く「鬼才」』の世界での評価と影響度は、水墨画と浮世絵版画・漫画の異なる世界ですが、二人のその凄さには、ただ驚くばかりです。

京都国立博物館のウエブ情報です。 今後の調査に備え備忘録に!

 ウエブ情報から引用

展覧会の見どころ
日本美術史上もっとも重要な画家の一人である雪舟(1420~1506?)。 6件もの作品が国宝に指定されていることが象徴的に示しているように、雪舟に対する現在の評価は突出したものがあります。 しかし、それは単純に作品が優れているという理由だけによるのではありません。 雪舟とその作品に対し、歴史的に積み重ねられてきた評価の上に、今日の高い評価があるのです。
本展では、主に近世における雪舟受容の様相を辿ることで、「画聖」と仰がれる雪舟への評価がいかにして形成されてきたのかを検証します。 桃山時代に雪舟の後継者を自称した雲谷派と長谷川派、雪舟画風を流派様式の礎とした江戸時代の狩野派はもとより、これら漢画系の画家とは異なる実にさまざまな画家たちが雪舟を慕い、その作品に学びながら、新しい絵画世界を切り開いていきました。
 一口に雪舟受容といってもそれ自体複雑な性質を孕み、多角的に把握すべきものです。その多様な雪舟受容を通して、
「画聖」雪舟誕生の過程を明らかにすることを目指します。

第1章 雪舟精髄
雪舟筆と伝わる作品は数多く残っていますが、誰もが間違いないと認める作品は多くはありません。 まずは、雪舟の代表作と呼び得る作品を通して、「画聖」の原点を確認します。 雪舟の名声は決してそれだけが独り歩きしたわけではなく、その源には優れた作品の存在がありました。 ことごとく国宝や重要文化財に指定されるこれらの作品は、雪舟に対する現在の高い評価をも示しています。

第2章 学ばれた雪舟
雪舟の代表作を一覧できるのは、現代であればこそ。 江戸時代には秘蔵され、容易に見ることのできなかったものもあります。 ここでは、近世においてよく知られ、それゆえに大きな影響力をもった作品をご紹介します。 現在では雪舟その人の作ではないと見なされるものも含まれますが、こうした作品を通して、近世の雪舟理解は深まり、その主題や様式が継承されてゆくのです。

第3章 雪舟流の継承―雲谷派と長谷川派―
雪舟は、秋月や宗淵、等春など多くの弟子を育てましたが、その画系は必ずしも長くは続かなかったようです。 そんな雪舟の画風を継承、再生させたのは、桃山時代に活躍した雲谷等顔(1547~1618)や長谷川等伯(1539~1610)でした。 彼らは雪舟に師事したわけではありませんが、その後継者を名乗り、雪舟画風を規範とする作品を数多く制作しました。 江戸時代には、この二人が雪舟正系を争ったという逸話も流布しました。

第4章 雪舟伝説の始まり―狩野派の果たした役割―
近世における雪舟神格化の動きに最も大きな役割を果たしたのは、狩野探幽(1602~1674)です。 探幽の画風は、狩野派のみならず江戸時代絵画全般の一つの共通基盤となりましたが、その探幽が自らの画風を形成するにあたり拠り所としたのが雪舟だったのです。 探幽をはじめとする江戸時代の狩野派作品を通して、雪舟作品の主題・様式が継承されてゆく様相を確認します。

第5章 江戸時代が見た雪舟
江戸時代には、現在知られているよりもずっと多くの「雪舟画」が流通していました。 もちろん、それらのすべてが雪舟の真筆であったわけではないでしょう。 しかし、現在では雪舟筆と認められていない作品や、所在が知られない作品 も、当時は雪舟画として受容され、画家像の形成に一役買っていたのです。 狩野派画家が残した縮図や模本を通して、江戸時代の人々にとっての雪舟画を探ります。

第6章 雪舟を語る言葉
雪舟は、作品そのものがもつ力だけでなく、さまざまな人々が雪舟について語る言葉、言説によって、いっそうその存在感を高めていきます。 特に作品の図様を含めた情報の伝播という点で、出版物の果たした役割はきわめて重要です。江戸時代、雪舟はどのように語られてきたのでしょうか。 ここでは、版本や手紙をはじめとする文字資料を中心に、その一端をご紹介します。

第7章 雪舟受容の拡大と多様化
雪舟の神格化に寄与したのは狩野派ばかりではありません。 雲谷派や長谷川派、狩野派のように、漢画(主に宋・元の中国絵画に学んだ絵画)をもっぱらとした画家だけでなく、江戸時代の多くの画家がさまざまな観点から雪舟を規範として仰ぎ、新たな絵画世界を切り開いていきました。 特に、江戸時代中期以降に拡大、多様化してゆく雪舟受容が、「画聖」雪舟という現在の評価へと確かに繋がっているのです。

『水墨画で著名な絵師といえば雪舟、脅威の国宝6点・重文18点』
『狩野派が室町~江戸約400年の作品が国宝4点・重文37点に比べ凄い雪舟』
狩野派の内訳は、
狩野正信 国宝1点、重文 7点
    狩野元信      重文16点
    狩野永徳 国宝3点、重文 3点
    狩野山楽      重文11点

とにかく孤高の雪舟、狩野派集団、どちらも凄い。 日本は、日本人は凄い中で雪舟は群を抜く。 雪舟は『万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチに比肩される画聖雪舟等楊、日本美術史の草創期に唐絵からやまと絵へという画期を形成した時代を見直し、近世への幕開けを準備した』と言われています。

雪舟等楊(水墨画家、禅僧、1420年 - 1502年または1506年)と桂庵玄樹(臨済宗の僧侶、薩南学派、1427年 - 1508年)・らが随行した、『遣明使(遣隋使と遣唐使は知っていましたが)』についても、調べるため・知るために国会図書館通いが続きそうです。
(記事投稿日:2024/04/05、#736)
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