『世界の城郭 12-2(フランスの歴史的城塞都市カルカソンヌ)』
―モン・サン=ミシェルに次ぐ年間来訪者数を誇る一
フランスには、フランスを守り抜いた、二大要塞都市・堅城があります。
西ローマ帝国軍の侵略に備えた地中海側の巨大な『歴史的城塞都市カルカソンヌ』と、イングランド軍の侵略に備えたドーバー海峡側の小さな『モンサンミッシェル』です。 『カルカソンヌ城』へは、いつか旅行したいと、思っています。
歴史的城塞都市カルカソンヌ
ウィキペディア情報から引用
標高
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平均:111m 最低:81m 最高:250 m
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面積
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65,08km2
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ウィキペディア情報から引用
ウキペデイア情報から引用
フランス カルカソンヌ~実はフランス第2位の観光地! 、実はモンサンミッシェルに次ぐ観光名所! 観光収入と言えばエジプトのだピラミッドはこう言われています。『「4,500年で満期を迎えた人類史上最大最長の財形貯蓄」であるピラミッドのおかげで、エジプトの観光収入は、年間40億ドル。 これでも、パリのエッフェル塔には及ばないとか・・・』。
更に脱線です。 今回のオリンピックに使われた国立競技場ですが、当初の建築費(設計費用含む)は、3,000~4,000億円ともいわれ、奇抜なデザインをやめても、最終的には1,570億円かかったと言われていました。 これからの総括的検証に期待してます。 今回の削減費用があれば、『これからの観光収入の増額を期待できる日本の城郭』の天主閣を3-5基くらいは、総木造で再建できるようです。 総木造城郭は、寿命も鉄筋コンクリート城郭の数倍です。
カルカソンヌ城(Carcassonne) ―陸のモンサンミッシェルと呼ばれるー
古代ローマ時代には要塞に囲まれた都市機能の基盤が形成され、中世にはさらに外側にもう一重の要塞が建設されて、この二重の防備が施された丘の上の城塞都市であるシテ(cité, またはville haute)を核として、オード川をはさんで展開した下街(ville basse)との二層の区域が合わさって発展した欧州最古の城塞都市である。
シテを覆う城塞は19世紀に修復されており、シテは「歴史的城塞都市カルソンヌ」の名で1997年にユネスコの世界遺産に登録された。約40人が暮らす。
街の名前カルカソンヌは、カール大帝がこの都市の攻略をあきらめ退散するときに、当時街を治めていたカルカス (Carcas) が勝利の鐘を鳴らした (sonner) ことに由来するという伝説がある。 またこのときに篭城した市民が家庭に残っていた食材である豆、雑穀、豚や腸詰や鴨などの鳥獣肉を持ち寄りまとめて大鍋に入れ煮込んだものがカルカソンヌの名を冠したカスールという鍋料理:カスレのルーツになったと言われている。
カルカソンヌ城が歴史的城塞都市たる所以
ガロ=ローマン期から西ゴート王国時代
カルカソンヌは、モンターニュ・ノワールとピレネー山脈の間に位置し、かつ地中海と大西洋を結ぶ要衝でもある。 725年から729年にはシテはムスリムの手に落ちたが、ピピン3世が奪還した。この時期は、歴史の語り部たちに、後述する女領主カルカスの伝説を触発することになった。
女領主カルカスの伝説
「女領主カルカス (Dame Carcas) の伝説」は、カルカソンヌの名の由来を説明しようとするものである。 サラセン人の占領下にあった頃、侵略しようとしたカール大帝は市門の前に陣を敷き攻囲戦を行った。 この攻囲は五年を超えたが、この時、夫の大公亡き後シテの騎士団を率いていたのが、公妃カルカスであった。
攻囲が六年目に入ったとき、シテの内側では兵糧も水もなくなりかけていた。カルカスは残っているものの一覧を作ろうとしたときに、市民は豚一頭と小麦の袋をもってきた。 彼女はこれを見て一計を案じ、豚に小麦を食わせて太らせた上で、塔から市外へと放り捨てた。
これを見たカール大帝とその部下たちは、太った豚を惜しげもなく捨てるのだから、市内にはまだ十分な兵糧があるに違いないと考え、撤退を決めた。 カルカスはその勝利を祝福し、町中の鐘を鳴らさせた。撤退中の大帝軍の一人はこう書き記した。「カルカスが鐘を鳴らしている(Carcas sonne ; カルカ・ソンヌ)」と。伝説では、これが市の名前の由来になったのだという。
堅城モンサンミッシェル
ウィキペディア情報から引用
標高
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平均:m 最低:5 m 最高:80 m
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面積
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0.97km2
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モンサンミッシェルには一度旅行しました。 グルーツアーでしたがガイドさんに恵まれ、ラ ビエール オーベルジュ (La Vieille Auberge)
ホテルのスウィートに家族三人で宿泊できました。 このスウィートは、離れの別館で、一旦、ロビー出て、狭い急階段を上ったところのありました。 米国の著名な歌手や映画スターが泊まった部屋でした。
ウィキペディア情報から引用
ウキペデイア情報から引用
ノルマンディー地方南部・ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られる。 潮の満ち引きの差は15メートル以上ある。 このため、湾の南東部に位置する修道院が築かれた岩でできた小島はかつては満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた『タイダル・アイランド(陸繋島)』。 島の入口には潮の干満時刻を示した表示があり、満潮時には浜に降りないようにと記されている。 最も大きい潮が押し寄せるのは満月と新月の28-36時間後といわれており、引き潮により沖合い18kmまで引いた潮が、猛烈な速度で押し寄せる。このためかつては多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたといい、「モン・サン=ミシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあった。
モンサンミッシェルが堅城たる所以
モン・サン・ミシェルを攻囲したイギリス軍
西暦1415年のアジャンクールの戦いに大勝したイギリス軍は、フランス北部ノルマンディー地方の各地を占領していった。 リチャード獅子心王が築き、フランス王フィリップ2世尊厳王(オーギュスト)が奪ったガイヤール城も攻略し、フランスの首都パリもイギリス軍の支配下に落ちてしまった。
そんな状況下、フランス北部ノルマンディー地方でイギリス軍に対して孤軍奮闘していたのがモン・サン・ミシェルだった。
フランスがタフな国家になった理由(東西南北から侵略された歴史)がやっと最近、わかってきました
(20210828纏め、#373)