知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『岸恵子と力道山、高名なお二人が、お互いに認識なしで、パリの空港で遭遇』―この遭遇の後に、映画『力道山 男の魂』でお二人は共演ー

2024-12-12 10:02:05 | 映画

『岸恵子と力道山、高名な、二人が、お互いに認識なしで、パリの空港で遭遇』

『この遭遇の後に、映画『力道山 男の魂』でお二人は共演、異業界では稀』

ウエブ情報から引用

 『日経文化欄の私の履歴書 岸恵子』、大部屋女優(時代もあったが、全く知らなかった)が知らぬ間に、大抜擢されて大女優になった。 その波乱万丈の『私の履歴書(連載中)』の抜粋です。

野村芳太郎監督の『亡命記』が55年に、シンガポールで開催された東南アジア映画祭の出品作となり、令夫人から神戸の日雇い労働者に落ちぶれるまでを演じた私は、そこで最優秀女優主演賞を頂いた。

『1955年6月に来日したデビッド、リーン監督は、次回作『風は知らない』に主役に私を抜擢したことを正式に発表した。 その時の大みそかに、私は英語をマスターするためにロンドンに立った。 南周りで7つの国を回り、7つの初日の出を見た。(この記憶と感性には只々感心、疲れ知らずの心身も強靭)
 
 冬のパリの雪に煙った凱旋門を見て、横浜育ちの岸恵子さんは言います。
 
『なんと美しくて寂しい街なのだろう。こんなところに私は住めない』と思った。1年半もたたずにパリの住人になろうとは夢知らず・・・。 『風は知らない』はプロデューサーの急死により中止となってしまった。 その私に『亡命記』を見たというフランスのイブ・シャンピ監督から『長崎の台風』の出演依頼の電報が届いた。 彼の『悪の決算』を2度も見て感激していたので、急きょ、フランス語習得のため、パリに移った。 目まぐるしい変化に私の好奇心は燃えた。 

 大船撮影所からロンドン、ロンドンからパリ、英語からフランス語へ――。
驚いたことに、出演が決まった『長崎の台風』のプロデューサーから、額は忘れたが莫大な出演料の一部を頂いた。 それを3カ月滞在のパリで全部使い果たしてしまった。 帰国の日に、エールフランスのカウンターで、私は必死に抗議していた。 

 のみの市で買い集めた大量の骨董品のせいでひどい超過料金を請求された私は、すでに文無しで。 隣に英語でチェックインする大きく強そうな人がいた。 
『お隣の男性、私の体重の3倍はあると思います。 私と荷物を全部合わせても、彼の体重にもなりません』
『体重と荷物は別です』
必死の陳情の末、日本で後払いすることで決着した。 

 後に、『忘れえぬ慕情』(『長崎の台風』から改題)の撮影中だった私に『僕は朝鮮人です』という手紙が届いた。 『僕はあなたがパリの空港で「私の体重の3倍はある』と抗議なさったときの男です。 力道山と言います…。

 プロレスというものを見たことはないけれど、この頃の私には摩訶不思議な偶然や出会いが重なった。

 パリ空港のエアフランス チェックインカウンターでの岸恵子さんのユーモラスな会話、その後、力道山さんの手紙から思うに、この高名な大女優と稀代のプロレスラーで興行師のパリ空港での遭遇が映画のワンシーンのように想像できます。 連載中の『私の履歴書』ではまだふれてはいませんが、たぶんこの後も触れないでしょう、この遭遇の後に、映画『力道山 男の魂』でお二人は共演しております。 自分のブログ『史上最強の柔道家・木村政彦 vs 元関脇で稀代の興行主・力道山』と『木村政彦は力道山より強かった』では木村政彦さんに肩入れしていますが、力道山についても、もう少し調べてみようと思っています。
(記事投稿日:2020/05/15、最終更新日:2024/12/12、 #165)

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『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』 『本人は感じていたか知る由もない苦労した末っ子の少女時代』

2023-09-23 22:06:16 | 映画
『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』
『本人は感じていたか知る由もない苦労した末っ子の少女時代』

最近、読んだ本の中で、大女優 原節子さんのファンとして、感激したのは、表題『石井妙子著「原節子の真実」』です。 著者の大女優 原節子さんの『根拠のない風説によって語られてきた神秘性に満ちた生涯』をインタビューの機会が一度もなかったのに、ここまで徹底的に調査されています。
 ウエブ情報から引用
まえがきの始まりが『その女性はすでに生きる伝説と言われて久しく、世間からのあらゆる接触を半世紀以上も絶って、自分の生死すら覚られまいとしていていた。』とありました。 

戦前から戦後にかけての日本映画を代表する大女優のひとりでしたので、後半生50余年、1963年に女優業を引退し、2015年に死去するまで隠遁生活を送ったことが不思議で、なかなか理解できませんでした。

理由は、次のエピソードもありましたので。 『秋山庄太郎氏の原節子さんとの偶然のすれ違いと、その後について』のウエブ情報の抜粋・引用です。
 
大学を卒業して田辺製薬に入社しましたが、三ヶ月で応召。 その直前に見合いをし、結婚しました。 中国では通信兵として各地を転戦し、マラリアにもかかりました。

復員後は、銀座八丁目に秋山写真工房を開設しました。 スタジオがつぶれ、さてどうしたものかと考えていた時、女優の原節子と松坂屋の横ですれ違ったのです。 あまりの美しさに茫然としました。 いつの日かこういう美女を撮りたいとつくづく思いましたね。

数日後、写真家林忠彦さんから連絡があり、「いま『近代映画社』がカメラマンを探しているんだけど、庄ちゃんが行くなら紹介するよ」と言う。 「もちろん行くよ、おれ原節子に会いたいもん」と言って、即日入社しました。 それから二ヶ月もたたないうちに原節子を撮ることができました。 運がいいんですね。
  
原さんとは気が合い、自宅にまで呼ばれるようになり、よく手料理をごちそうにもなりました。 原さんに気に入られたきっかけは、大船撮影所からの帰りの電車の中で偶然一緒になり、「秋山さん、映画界好き?」と聞かれたことからですね。 ぼくが「あまり好きじゃない」と言うと「私も好きじゃないのよ」とニコリ。 「撮影中もまわりに大勢お付きの人がいて、正直気が散って困るんです」と言うと、「だったら明日うちへきて撮ってよ」とふたたびニコリ。 これには仰天した。 会社へ帰って報告しても、最初は誰も信じませんでしたからね(笑)。 

秋山氏は、鎌倉の原邸で、お酒とお馳走を頂いた後、泊まることになったそうですが『ふすま一枚隣に原節子さんがお休みと思うと、一晩中眠れませんでした』と言ったエピソードをも読んだこともあります。

表題『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』に戻ります。 先ずは、著者であるノンフィクション作家 石井妙子氏のプロフィールです。
白百合女子大学文学部国文科卒業 同大学院修士課程修了
活動期間     2006年 -
主な受賞歴   第15回新潮ドキュメント賞
第52回大宅壮一ノンフィクション賞
デビュー作   『おそめ』

著書
  • 『囲碁の力』洋泉社新書、2002年10月。
  • 『おそめ 伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生』洋泉社、2006年。
  • 『日本の血脈』文春文庫、2013年。
  • 『原節子の真実』新潮文庫、2019年
  • 『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』KADOKAWA、2019年。
  • 『女帝 小池百合子』文芸春秋、2020年。
  • 『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』文藝春秋2021年。
共著
岸富美子と『満映とわたし』文藝春秋、2015年。
岸富美子と『満映秘史 栄華、崩壊、中国映画草創』角川新書、2022年。

寡黙な少女
1920年6月17日、保土ヶ谷駅近くの会田家の父・藤之助48歳、母・ナミ38歳の7人兄弟(二男五女)の末娘・昌江として誕生。 三歳になってほどなく1923年9月1日の関東大震災(震源地は相模湾沖)で、会田家は倒壊、その時の台所での大やけどで母が重傷を負った。 その結果、母は心身を病むことになった。 一方、この震災に関して『原節子』は、ほとんど語り残していない。
戦前の映画雑誌には『家は音を立てて崩れたものの、幸いにして会田家は無事であった・・・』という逸話が載っていたそうです。 この齟齬をどうとらえたらよいかと書いています。

彼女自身は三十代の後半に、『自分の小学校時代を振り返り、活発は木登り好きで友達の女の子がいじめられると、助けたりするナイト的なとこがあったとする』と回想している。 ところが同級生たちが記憶する彼女の姿は、まったく異なっており、少女は寡黙で人と群れず、いつも教室の片隅で本を広げ孤独な空気を漂わせていたという。

実はこの頃、彼女の家庭は経済的に問題を抱えていた。 昭和4年(1929)10月末、ニューヨーク・ウォール街に端を発した株価の暴落が彼女の家庭をも直撃していた。輸出品の生糸が売れなくなり父の店も打撃を受けていた。 かって、次姉と三姉が振袖と袴を着けてフェリスに通っていたが、小学三年生の昌枝は丈の合わない傷んだ服ばかり着続けていたと友人は回想。

悲劇はそれにとどまらず、母ナミが病んでしまっていた。 それは関東大震災で熱湯をかぶったせいだと語るが、真相は定かでない。 「お母さんが、意味のわからない独り言をいうの」と友人に話していた。

「東京物語」を見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と言ったということがよくわかる大女優の少女時代も波乱万丈であったようです。 まだまだ調べて『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』に続きます。
(記事投稿日:2023/09/23、♯687)
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『スーパースター、ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優 1』ーブルース・リーは、ノラ・ミャオ、ベティ・ティン・ペイどちらも愛したー

2022-07-29 06:28:56 | 映画

『スーパースター、ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優  1』

『ブルース・リーは、ノラ・ミャオ(苗可秀)、ベティ・ティン・ペイ(丁珮)どちらも愛した』

 

『なんでも』ランキング付けをするご時世です。 武術白書どん底から世界大会優勝に至った武術家―の記事を見つけました。 今回のテーマのブルース・リーが11に、木村政彦が12とありました。 先ずは自分が木村政彦を最強と信じている理由の『記録とエピソード』です。

記録、木村政彦は、戦争を挟んで日本選手権13連勝で15年間無敗という成績で、あったが、このレジェンドを講道館は七段以上には昇段させなかった。

エピソード、『木村政彦の指導・練習稽古は、厳しく、特に、大外刈りは、失神者もよくでて、警視庁にも、講道館にも練習、相手がいなくなり脱臼者も続出するので、警視庁、講道館でもこの大外刈りは禁止された』と。  この大外刈りを使えない状況で、まともな実践的練習はできるのでしょうか、素人は考えてしまいます。 木村政彦は、身長170センチ、体重85キロと中肉中背。

ブルース・リーは、木村政彦を格闘技界から引退に追い込んだ力道山(格闘家・興行主で大成功)に似て、幅広く実績(格闘家、俳優、脚本家、映画プロデューサー)を残したスーパースターでした。

 

ブルース・リー(中国語李小龍、出生名李振藩、英語: Bruce Lee 19401127 - 1973720日)は、香港の中国武術家、武道家、俳優、脚本家、映画プロデューサーです。 截拳道(ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストとしても知られている。 ブルース・リーは身長163172cm、体重5762kg程度と諸説あり、本人も映画会社も公表を避けた感があります。(自分の若いころの、身長・体重は、ブルース・リーの両方の上限値と、同じで親近感が持てた。) ブルース・リーは、モテモテのムービースターだけではなく、格闘技家でもあったこと 華やかな話題や、痛快な話題を残して、32歳で夭逝しています。 

 

先ずは、ブルース・リーの微笑ましいエピソードです。香港で人気絶頂であったブルース・リーの豪邸は、高い塀に囲まれて、電子防犯装置が据え付けられ、さらに、ドーベルマンを二頭で護られていました。 子供たちの質問は『世界一の武術家、武道家なのになぜ、このようなガードが必要?』と質問、当時の雑誌には、ブルース・リーの回答は載っていませんでした。

 

木村政彦ですが、ブルース・リーの華やかさとは、随分違った生涯をおくった柔道家・格闘家です。 木村政彦は愛妻家で76年の生涯を終わっています。 奥様の結核治療のストレプトマイシンを、アメリカから輸入(当時は個人的に輸入)するお金のために、プロ柔道を立ち上げ、そして失敗・解散から、プロレスへ、 戦争を挟んで13連勝したにも拘らず日本柔道界からも去りました。

この二人の『強さ』比較は、今後の楽しみな課題です。

さて本題の『ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優』に入ります。 実は、今回、ブルース・リーの華やかな話題を思い出したと同時に、『ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優』について、一部の自分自身の誤解を解こうと思いついたからです。 昔、香港に駐在していた頃に、よく先輩と香港ヒルトンホテルロビーの『ドラゴンボートバー』で週23回、ハッピーアワーの『ブランデーの水割り(香港ではアメリカンと呼ばれ非常識ではなかった)』を楽しんでおりました。 そんな時、ロビーに入ってきた女優が今回の『ブルース・リーの愛した女優・ベティ・ティン・ペイ(丁珮)』でした。 先輩曰く『ブルース・リーは彼女のマンションで亡くなった・・・』と、この香港の噂スズメの話(表現はもっとタブロイド判の記事まがいであった)をまた聞きして以来、ベティ・ティン・ペイ(丁珮)の印象は、『ブルース・リーが惚れた女優・ノラ・ミャオ(苗可秀)』とは正反対の肉体派女優を想像していました。

 ここで『ブルース・リーが惚れた女優』のウエブ情報です。

ノラ・ミャオ(苗可秀、Nora Miao 、1952年28 - )は、香港出身の女優・司会者。本名は陳詠嫻。 芸名の由来は、映画会社の社長・金康が「苗が成長し、秀でる 苗可秀」と名付けたことから。 苗は所属していたゴールデンハーベス・ハーベストの「ハーベスト」を、中国語に訳した「芽」から肖っている。

ドラゴンシリーズの第一作1971年『ドラゴン危機一髪』の相手役の女優:マリア・イーだが、この映画に、ノラ・ミャオがチョイ役(道端の屋台でジュースを売る)で出た。

第二作1972年『ドラゴン怒りの鉄拳』の相手役の女優:ノラ・ミャオ(キスシーンがあったがこの作品以降はなし)

 この作品のノラ・ミャオ

 ウエブ情報(ノラ・ミャオの画像)から

第三作1972年『ドラゴンへの道』の相手役の女優:ノラ・ミャオ

第四作1973年『燃えよドラゴン』共演女優なし。 実質的には最後の映画作品。

ノラ・ミャオは、1974年にゴールデンハーベストから独立し、フリーランスの女優として香港・台湾の双方の映画・テレビドラマに出演し、1970年代後半には司会業にも進出した。

司会業当時のノラ・ミャオ

 エブ情報(ノラ・ミャオの画像)から

さて、香港の噂ツバメの噂で誤解していた、『ブルース・リーが愛した女優、ベティ・ティン・ペイ』ウエブ情報です

ベティ・ティン・ペイ(丁珮)ブルース・リーが死の直前に関わった女優。

1945年生まれ。 台湾の裕福な家庭に育ち、国立芸術専門学校を経て女優となる。 しかしスターとして成功する直前、愛人と噂されていたブルース・リー(李小龍)が彼女のマンションで倒れ、そのまま死去した事により、スキャンダル女優として世間に名前をとどろかせてしまった。 事件後、非難が集中したため一時期間身を隠していたが、『実録ブルース・リーの死』という彼女原案の作品に、ベティ本人の役で出演。 この作品が物議をかもし、その結果として香港映画界にいられなくなり、台湾に戻る。
台湾で女優として活動し、80年代前半まで女優業は続けたが、結局はスキャンダル女優のイメージは拭えず、引退して仏門に入った。

 ウエブ情報(ベティ・ティン・ペイの画像)の引用

その後の『ブルース・リーが惚れた女優・愛した女優』二人は、各々の人生を過ごしております。情報が今ほど氾濫していなかった半世紀も昔でさえ、香港の噂ツバメを過信していました。 これからはネット情報には十分吟味していきたいと思っています。

香港駐在中は、広東語の勉強は言い訳で、当時のスーパーアクションスター、ブルース・リー(李小龍)の映画は、よく見ました。 字幕スーパーは北京語・国語ですので、語学研修には最高でした。 

 (記事投稿日:2019/09/15、最終更新日2024/08/09、 #118)

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『表現の自由云々どころではない香港映画、空洞化と苦境にあえぐ』 『昔、カンフー映画で標準中国語を覚えようとしたが無理だった』

2022-07-01 23:10:17 | 映画

『表現の自由云々どころではない香港映画、空洞化と苦境にあえぐ』

『昔、カンフー映画で標準中国語を覚えようとしたが無理だった』

 

過日(20210621)の日経新聞文化欄にセンセーショナルな見出しがありました。

『日本でも広く親しまれた香港映画が苦境にあえいでいる。 巨大市場の中国本土に活動拠点を移す監督らが続き、産業として空洞化。 表現の自由も脅かされ危機的状況に陥っている。』と。

香港映画産業は空洞化し、かつて年間数百本を産出し、「東洋のハリウッド」と呼ばれた香港での作品数は激減した。 ところが、香港映画は死んでいなかった。 そんな実感を与えてくれるのが、「香港映画祭2021」で、主に、この5年ほどの間に制作され、日本未公開の香港映画4作を、大阪、京都、兵庫、愛知、東京で上映する。 そのキュレーターを務めたマレーシア出身の映画監督、『リム・カーワイ』さんは、こう言っています。

リム・カーワイ
マレーシア出身。 1993年に日本に留学し、98年に大阪大学基礎工学部電気工学科を卒業。 東京の外資系通信会社で勤務したのち、北京電影学院の監督コースに入る。 2009年、『アフター・オール・ディーズ・イヤーズ』で長編デビュー。 日本、中国、香港、東欧を漂流しながら映画を制作。

リムさんは「香港映画が死んだと考えるのは早すぎる。むしろ元気に強くなっています。きっかけは2014年の雨傘運動でした」と話す。

雨傘運動では、香港の「普通選挙」を求める学生や市民団体が、金融街セントラルを79日間にわたって占拠した。 運動そのものは民主化への譲歩を引き出せないまま終止符を打ったが、一方、そこでエネルギーを注ぎ込まれたのが香港の映画界だったと、リムさんは考える。

香港映画とは何か、香港とは何か

現在、2019年に香港で起きた大規模な民主化デモを題材にしたドキュメンタリーも話題を呼んでいる。 今年夏のカンヌ国際映画祭でサプライズ上映された『時代革命』は11月28日、台湾の映画賞「金馬奨」で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。 『理大囲城』は今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭2021で香港映画として初めて大賞を獲得した。 立法会(議会)選挙の一部始終を描いた『立法会占拠』も優れた作品として評価を受けている。

「雨傘運動で、香港の未来を考える危機感が広がり、香港という土地や香港人のアイデンティティが問われる形になり、香港社会の団結が強まりました。 映画人たちも、香港映画とは何か、香港とは何か、ということを深く考えるようになったのだと思います。 その中で、若い創作者たちが、ドキュメンタリーを撮ったり、香港の社会問題、格差問題、LGBT問題、貧困問題などを取り上げる映画を撮ったりするようになり、ヒットも飛ばしています。 中国との合作映画は香港であまり興行成績がよくありません。 香港社会と中国社会では、一般の人々の価値観になお大きな隔たりがあるからです」(リムさん

香港映画にさらなる試練

明るい兆しの見えている香港映画だが、さらなる試練は続く。この10月、「国家の安全に危害を加える恐れがある」と当局が判断した映画の上映許可を、過去にも遡って取り消すことができる映画検閲条令の改正案が可決された

映画まで「中国化」が及ぶのかどうか。 楽観はできないが、香港映画の生命力の強さを信じたい。 「香港映画祭2021」は、そのいいチャンスになるだろう。 でも前途多難です。

センチメンタルですが、昔を振り返ってみます。

あの文化大革命が始まった直後の、1968年12月に香港に赴任したことを、思い出している傘寿になった年寄りは、歴史の流れをしみじみと感じています。 当時は、香港の治安さえ気にしなければ香港への出張、赴任は全く問題ありませんでしたが、中国(香港の人々は大陸と呼ぶ)への民間日本人の出向や駐在は思いもよらない時代で、香港から中国への出張も旅行も当然ダメでした。 

この香港に丸7年間住みました。 68年の出張時には、現地のスタッフと『Tai Mo Shan(大帽山)海抜957ⅿ』や『ランタオ島(大嶼島)ランタオ山(大嶼山)海抜934ⅿ』に、ハイキングに出かけるときは、ネイザンロード(九龍彌敦道)奥の旺角の酒家で早朝飲茶食事中に、旺角界隈の歩道上で六七暴動(*)を引きずった爆弾事件に遭遇したことが、何度もありました。

(*)六七暴動とは、1967年香港左派暴動(ろくなな ぼうどう 英語: Hong Kong 1967 leftist riots)は、文化大革命の影響を受けた香港左翼が、香港政府に対して起こした暴動。

赴任当時は、広東語を覚えるために、香港映画(殆どは、カンフー映画)はよく見ました。 すぐ分かったのは、映画は音声も字幕も北京語(国語・標準語)でした。 それでも、音声も字幕を随分勉強になりました。 

折角のよい機会だから広東語より北京語をマスターしようと思い、北京語を習い始めたのは良かったのですが、少しできるようになりましたが、広東語がごちゃ混ぜになり、北京語の台湾人の美人女性の先生から見放され、北京語はギブアップしました。

昔、香港への海外出張を命ぜられ、現地のスタッフの方々と仕事を始め,やっと慣れたころに、宴会などで、現地語『広東語』の訓練のために、当時、読み始めた『三国志』の英雄たちの武勇伝を話題にしましたが、せめて現代の話題も加えようと、思い出したのが映画『香港の夜』と『慕情』でした。

この映画の名場面は、どちらも丘の上でした。 学生時代から山男であった自分は、『香港イコール海』の印象が強く、かなり失望しましたが、九十九里海岸育ちですのですぐに気持ちを入れ替え、『海も山もやろう』と気分を入れ替えました。 出張の後は、駐在になりましたので、最初の半年で香港の下記の山と丘は、踏破しました。

香港の標高ランキング(香港にも以外と高い山・丘はたくさんあります。)

( 1)Tai Mo Shan(大帽山) 海抜957ⅿ

( 2)ランタオ島(大嶼島)ランタオ山(大嶼山) 海抜934ⅿ

(18)Victoria Peak(香港島) 海抜552ⅿ

(28)ライオンロック(獅子山) 海抜495ⅿ

さて、昔の香港の『丘の印象』が残る映画です。

『香港の夜』のヒロインは、東南アジアの清純派トップ女優、ユーミン(尤敏)で相手役は、日本のトップ二枚目俳優、宝田明(パァォ・ティェン・ミン)でした。 この女優、やっぱりすごい美人です。

ウエブ情報から引用

この場面ですが、香港島中央鞍部のグリフォードガーデンあたりです。

ウエブ情報から引用

 

ウエブ情報から引用

東宝と香港のキャセイ・オーガニゼーションの1961年の合作映画。 監督は東宝のベテラン千葉泰樹、脚本井出俊郎。 主演は宝田明と香港の美人女優尤敏(ユーミン)でした。 後に、歌手ユーミンが出たとき、あの美人女優と同じ名を名乗ることになりました。

『慕情』この映画のヒーローも『戦死するエンド』でしたので、この二つの作品が長く記憶に残っています。 第二次大戦終了後のイギリスの植民地の香港で、ヒロインのハン・スーイン(ジェニファー・ジョーンズ)は勤務医をしている。 夫は中国国民党の将校が国共内戦で戦死していた。  

そこで、アメリカ人の特派員マーク・エリオット(ウィリアム・ホールデン)と知り合い、二人は恋に落ちる。  間もなく中国大陸の殆どの地域は国共内戦の末に中國共産党が支配するようになり、ハン・スーインは中国大陸へ戻るよう説得されるが、ほどなく朝鮮戦争が起こり、エリオットは派遣され、そこで戦死する。

駐在中にこの映画の有名なシーンになる『慕情の丘』を探しましたが、発見できませんでした。 候補はいろいろあります。

ガイドなどでヴィクトリアピークとされるあの丘は、スーインの勤めていた病院の裏手の設定ですから物語上は、ヴィクトリアピークなのですが、あの二人が忍び合う木の引き(広い画)の実際のロケ地は、九龍半島の南東端現在の清水湾郊野公園の中央付近の広場です。 現在もあの木が現存するかどうかは未確認です。 ふたりの寄り(UPの画)は、この近くの劭兄弟映画社('75頃解散)の敷地内のオープンセットに同じような木を植えて撮影したとのことです


海岸で泳ぐシーンは、レパレスベイ(淺水湾)は、海水浴場としてそのまま残っています。もちろん周辺の開発は進んでおり、淺水湾酒店=レパレスベイホテル(木造Hotel)は、'82に取り壊されマンションとレストランになり、その後ブランドショッピングセンターも建っています。 湾の遠景からも、その名残りが感じられます。

駐在中にお付き合いのあった、日本の某造船会社の現地代理店・源太公司のオーナー、澤民(敢えて、号だけにさせて頂きます。)は『当時の、記者クラブであったのではないか』と言っておりました。 半世紀もむかしのお話です。

(記事投稿日;2022/07/01、#548)

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『大女優 原節子さんの凄さ 4(「東京物語」のあの建物がマツダビル)』『「東京物語」の原さんを見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と!』

2022-06-26 23:40:25 | 映画

『大女優 原節子さんの凄さ 4(「東京物語」のあの建物がマツダビル)

『「東京物語」の原さんを見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と!』

 

先日(2022/02/20)の日経新聞の春秋に『東京物語』の風景『マツダビル』のことが載っていました。  このマツダビルのあった有楽町には、映画『君の名は』の数寄屋橋や、『銀恋の碑』の近くには「有楽町で逢いましょう」の歌碑もあるし、有楽町の由来となった織田有楽斎(信長の弟)の屋敷跡の碑もあります。 この一角には某新聞社(今は築地)もありました。 この新聞社の友人たちとは有楽町界隈のスナックで、飲みながら、よく読書論をやりました。

ウエブ情報から引用

先ずは、マツダビルの変遷(ウキペディア情報から抜粋・引用

1932年、東芝の前身の東京電気が数寄屋橋西側の土地を取得。 1934年に竣工して東京電気が入居した。 当時としては最先端の電気空調設備が整い、1階にはマツダランプのショールームが開設された。 太平洋戦争が始まると、英語の名称は時節柄ふさわしくないとして1943年に「東芝館」に改めた。

 

1956年には品川区の東京大井店に次ぐ阪急百貨店の東京における2号店として「数寄屋橋阪急」が開店。 1966年には増築が行われた。 地下1階とケーソンの間に地下2階を設けた。新館との接続部のコアは数寄屋橋公園側に移し、2階以上ではこの部分の柱を取り除くという大がかりなものとなった。

 

1984年には、港区芝浦に東芝の新たな本社社屋となる東芝ビルディングが完成。それまでは当ビルに東芝本社機能の一部を置いていたが、以降、オフィスフロアは賃貸物件として利用される。

 

2007年、東芝不動産は銀座東芝ビルの建物と敷地を東急不動産系の合同会社に1,610億円で売却した。 2012年9月よりビル解体工事に着手。 跡地には2016年に東急プラザ銀座が開業した。

 

表題『大女優 原節子さんの凄さ 4』に戻ります。

小津安二郎監督の「東京物語」に、上京した老夫婦が義理の娘と都心を巡る場面がある。 銀座で百貨店の屋上に立つと遠くに国会議事堂、手前に重厚感のあるマツダビル。 「モダンボーイで銀座っ子だった」(川本三郎著「銀幕の東京」)小津が選ぶ都会らしい風景といえる。

 

東京の顔のひとつだったこのマツダビルはすでに無い。 昭和初めに建てられ、当初はマツダビル、後に銀座東芝ビルと呼ばれた。 マツダは東芝の祖業であり看板商品だった電球の名称マツダランプ。

 

表題『「東京物語」の原さんを見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と!』に戻ります。 『東京物語』は、1953年に公開された、監督は小津安二郎、主演は笠智衆と原節子。 『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)で原節子が演じたヒロインはすべて「紀子」という名前であり、この3作品をまとめて「紀子三部作」と呼ぶことがある。

エブ情報から引用

上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、家族の絆、親と子、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品である。 戦前の小津作品、特に『戸田家の兄妹』などにすでに見出されるテーマだが、本作でより深化させられることになった。 

 

「ロー・ポジション」を多用し、カメラを固定して人物を撮る「小津調」と形容される独自の演出技法で、家族を丁寧に描いている。家族という共同体が年を経るとともにバラバラになっていく現実を、独特の落ち着いた雰囲気でつづっている。

 

作品は国内外で高く評価されている。 2012年に英国映画協会の映画雑誌『Sight & Sound』が発表した史上最高の映画ベストテンの映画監督が選ぶランキングでは第1位に選ばれた。 

(記事投稿日:2022/06/26、♯547)

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