『古代は凄い・古代人は凄い 1(ストーンヘンジ 2)』
『ストーンサークル・環状列石を見ると古今東西、人間の考え方は、同じ様で』
タイトル通りでした『古代は凄い・古代人は凄い』! 英国最古のストーンサークル(環状列石)・『ストーンズ・オブ・ステネス』と『ストーンヘンジ』の凄いことを調べて再確認しました。 引き鉄になったのは、ストーンヘンジについて、20200205 NHKBSプレミアムで再放映されました『奇跡の巨石文明!ストーンヘンジ七不思議』、サブタイトルは、『奇跡の巨石文明に挑む、新発見&新知見が続々解明!驚異の建築技術絶景!世界遺産の秘密人類究極のミステリー』と、かなりセンセーショナルでした。
ストーンサークルで、最も有名なものは、英国の「ストーンヘンジ」です。 およそ4,500年前から4,000年前の間に建てられたものです。 巨大な石が馬蹄形に配列されていますが、氏族や部族のまとまりを保つために行われる儀礼・祭典のために造られたといわれています。 もう一つ、造られた理由があります。 『古代は凄い・古代人は凄い 1(ストーンヘンジ 1)』に書きました。
世界中の多くの古代遺跡が太陽や月の運行と関係を持っている。 それは間違いないが、ストーンヘンジはその初期から長期にわたって、基本的には死者の埋葬地であった。 さらに、これで『暦を作って、毎年の農業用、雨の時期を予知し役立て、且つ権力を握る手立てとした。 墓は二次的か』。
ストーンヘンジ全景
ウエブ情報から引用
ストーンヘンジ夕景
ウエブ情報から引用
ストーンヘンジ近景
ウエブ情報から引用
このトップの水平石と、それを支える垂直石は、凹凸(突起とダボ穴)で、ずれ落ちないように工夫(木工技術)されています。 新石器時代に、これだけの木工技術があったことは、英国が針葉樹林の巨木で覆われる国であった証拠です。 住宅建築と造船に伐採され、針葉樹林、今は殆ど残っていません。
ストーンヘンジに、先行して、巨石文明の原点のストーンサークルは、英国には1,000個以上あり、ストーンヘンジより遥か前に完成したストーンサークルがあります。 それが「オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地」にある『ストーンズ・オブ・ステネス』です。
この『ストーンズ・オブ・ステネス』は、12本の立石から成る遺跡です。 これは直径44mの環状列石の一部と考えられています。 石の大きさは最大で6m、およそ5,000年前に造られたそれはスコットランドの離島にあります。
この斬新なデザインですが、5,000年の時空を超えて、箱根の森の美術館に置かれても全く違和感はなさそうです。 これは100年ほどで完成していますが、これに対して、ストーンヘンジは、ウエブ情報によれば、ストーンヘンジの複合体は2,000年間に渡る数段階に分けて建設されたが、その前と後の期間にも活動があった証拠もあると。 ストーンヘンジは、そのネーミングからも、けた外れの工期からも、1,000個以上あるストーンサークルの中ではユニークな存在です。
ストーンヘンジの語源は古英語で石を意味する “sta-n” と、蝶番を意味する “hencg”(横石が縦石に蝶番のように積んであるから)もしくは絞首台または拷問具を意味する “hen(c)en” から来ているとされる。
『ストーンズ・オブ・ステネス』も、工期は100年以上をかけていますが、別格なのは、ストーンヘンジです。 補修・小改造をカウントしなくても少なくても500年以上かかっています。 昔から不思議に思っていた、欧州の大きな教会の建築に、1,000年以上かけることも、やっと解りました。
ストーンズ・オブ・ステネス
ウエブ情報から引用
ウエブ情報から引用
ところで、日本ではもっと古く、6,000年前頃から、3,000年前には頻繁に作られていたといわストーンサークルが各地に存在します。 その数178ヵ所。しかもその約4割(74ヵ所)が東北の秋田県で見つかっているのです。 なぜ、ここ秋田にこんなにたくさんあるのでしょうか? またここで何をしていたのでしょうか。 古い昔のことにはロマンがあります。
大湯環状列石
ウエブ情報から引用
これらのストーンサークル・環状列石を見ると、古今東西、人間の考え方は、同一であったようです。 これらのストーンサークルは一種の天文台のように、太陽を用いたカレンダーの機能を果たし、そこで祭祀儀礼が行われること。
日本の場合は、日時計状組石が各ストーンサークルに作られ、各サークルの日時計状組石を結んだ方向、あるいは日時計状組石からストーンサークルの中心を結ぶ方向は、ほぼ“夏至の日没方向”を指していました。この事からこの施設では、季節の移り変わりを確認していたといわれます。
イギリスの場合、ストーンズ・オブ・ステネスは、中心には何かの儀式に用いられていたセントラル・ストーンがあり、空に向かって直立する一枚岩は神々しく聳え訪れる人を魅了しています。太陽信仰の頂点にあって、新石器時代の数千年続いた古代ブリトン人が、築いた巨石文明は、ストーンヘンジを最後に、イギリスの巨石文明は終焉しています。 この終焉の引き金は、この文明を築き維持してきた古代ブリトン人の滅亡です。 約4,000年前に、古代ブリトン人は、❶大陸からの銅器(のちには青銅器)扱うビーカー人の襲来で滅びた。 又は❷大陸からの疫病説もあります。
新石器時代にブリテンに入ってきて、定住した古代ブリトン人のDNAは、現在の英国人であるケルト人(ビーカー人)に、ほとんど遺伝・混血してないと言われる。 理由は上記二つの、どちらからか、又は両方で、『根絶やし』にされたようです。 人種的には古代ブリトンは滅び、ビーカー人(ケルト人)が残ったのに、古代ブリトン人が語源のブリテン・ブリティッシュが今も使われています。
さて、日本の場合ですが、ウエブ情報です。
縄文人は1万年以上の永い年月をかけて、他の地域から移動して来た異なる人種、民族が混じって形成されていきました。 そのため東アジアのみならず、インドや東南アジア、アフリカ人の遺伝的形質がみられます。
華北は、現在の黄河流域の位置する五つの省と首都北京や天津がある地域です。ところがその後、中国の主たる漢民族の支配権力に耐えられなくなり、彼らは日本列島に逃れて来ました。彼らが「縄文人」として「縄文時代」をつくっていきます。
弥生人は『約5000年前に、北方のシベリアのバイカル湖近辺に住んでいた日本人の祖先が、東アジアの方面に下ってきました。 やがてその人々は、今の中国の華北地域に住み着きました。
やがて年月は経過して、中国の長江流域で水田をつくり、米を育てて暮らしていた日本人の祖先が、やはり漢民族からの圧政に壊滅的打撃を受けて、日本列島にやって来ました。今の九州地方から日本列島に入り込み、彼ら「弥生人」による「弥生時代」が始まります。
縄文人も弥生人もルーツは同じで、日本への渡来時期が数千年の時間差があり、
縄文人は弥生人とゆっくりと共存・混血した。 弥生人には縄文人のDNAがかなり残っているようです。 古代ブリトン人の急な滅亡とは異なるようです。 一部の縄文人は南に移住して沖縄人に、一部は北に移住してアイヌ人になったと言われています。
日本も英国も、島国です。 このDNAの違いを、興味津々の縄文時代・弥生時代・古墳時代で、もう少し調べてみようと思っています。
(記事投稿日:2020/02/18、#145)