知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『地球温暖化・気候変動・異常気象から、一気に気候激変へ?』ー過去の高温ピーク(BC2000-AD1000間)に近づき・超え「気候激変」へー

2019-02-27 11:24:41 | 地球・火山・地震・津波

『地球温暖化・気候変動・異常気象から、一気に気候激変へ

ー過去の高温ピーク(BC2000-AD1000間)に近づき・超え「気候激変」へー

 

最近の気候を体験していますと、気候激変(Climate upheaval)へと一気に進むのかと心配になってきています。 今まで想像していたのは、異常気象の原因は、人類の所為かと思っていましたが、どうも人知の及ばぬところ、太陽系で繰り返される大きな変動サイクルの中で起こっているようにも言われます。 更にこの古くて・新しい説、気候激変(Climate upheaval)さえも、前倒しされてきそうです。 

 

最も、相応しい、最近の気象の表現は『気温異常上昇』と思えるほどです。これから即、恐怖を感じるのは『地表に露出した、メタンハイドレード・シェ-ルオイル・泥炭等の高温による自然発火』などが起こったらと思うとゾッとします。

 

気候激変(Climate upheaval)ですが、ネイチャー発表の抜粋です。

【2013年10月18日 AFP】地球が気候の激変を経験する時期はすでに34年後に迫っており、私たちが見知っている環境は永遠に変わってしまうとする気候変動予測が前週、英科学誌ネイチャー(Nature)に発表された。

 

論文によると、現在の温室効果ガスの排出傾向でいけば、地球上の多くの場所が、過去に記録されている異常気象を超える気候に移行するのは2047年。仮に化石燃料の使用による排出量が安定化するシナリオであれば、2069年まで先延ばしされるという。
 
今回の論文の主著者でハワイ大学(University of Hawaii)地理学部のカミーロ・モラ(Camilo Mora)氏は声明で「この結果にがく然とした。私たちの生きているうちに、私たちが慣れ親しんでいる気候は過去のものになってしまうということだ」と驚きを語った。

 

さて、目下の異常気象のことに戻ります。  先日(20180815)日経社会欄に載っていました。 『気候変動監視レポート』によると『昨年2017年の世界平均気温は、過去3位 』と。このような広大な地球の『世界平均気温記録』の統計データが、1891年以降あることに驚きです。 

    第1位  1981‐2010の平均に対して、2016年プラス0.45℃

  第2位  1981‐2010の平均に対して、2015年プラス0.42℃、

  第3位  1981‐2010の平均に対して、2017年プラス0.38℃

このレポートからも、異常気象は、CO2の増加が主要因の温暖化(気温上昇と海水温の上昇)による、又は太陽系規模での太陽光の変動(太陽光主要因説)で起こっているのかが簡単には判断ができないようです。 このような状況下で『ホッケースティック曲線』論争はまだ続いています。

 

先ずウエブ情報です。 

『ホッケースティック曲線』

 

「この急カーブは19世紀以降の地球温暖化を物語っており、このままでは地球は悲劇的な事態に陥る。ただちに化石燃料の使用を減らして二酸化炭素の排出を抑えるべきである」

衝撃的な主張と、「ホッケースティック曲線」というユニークな命名が功を奏して、このグラフはIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書で何回も引用されるようになりました。そして、さらにマン自身が2001年からIPCC報告書の執筆者に選ばれるようになったのです。

 

これに対して過去170年、千年、4千年のスパンで気温変化を見てみると、特に、過去4千年の推移をみると、最近より高温な時代が、過去に頻発しています。 この高温の時代に、CO2が急増した事実は確認できてないようです。

『グリーンランド過去4千年の温度復元(2015年1月記)』

グリーンランドでの過去4千年の温度復元結果。 [上段] 過去170年間の結果。[中段] 過去千年間の結果。[下段] 過去4年間年の結果。「気象観測データ(赤)」と「観測と気候モデルから導出したデータ(黒)」を、「氷床コアを使った温度復元データ(青)」と比較して示す。上段の点と細線は年データ、中段と下段の赤線と黒線は十年平均を表す。緑の丸と黒線は、最近十年間の氷床頂上部の平均温度(-29.9℃;2000-2010)。

 

最近は、世界中で異常気象が頻発しています。 この変化する気候を日本語では、いろいろ表現していると思っていましたが、英語でも、 Global warming、 Climate change、 Abnormal weather、 Severe weatherといろいろあります。 海外のニュースでは、Severe weatherが多くなっています。

 

気候・気象を考えるとき、その判断の為のデータは長期スパンでは、氷床コア・年輪・サンゴ・等からの推定と、最近データの推移は温度計の測定データからですが、肝心の長期スパンでの気温の正確な推移が捉え難い面がありますが、最近の、①都市のコンクリートジャングル化の拡大や、②地域によっては森林の減少等の環境の変化が大きく、最近の短いスパンでの気温データの把握も、難しいようです。 『ホッケースティック曲線』の温度上昇が継続し、過去の高温ピーク(BC2000-AD1000間の)に近づき・超える様であれば、『気候激変(Climate upheaval)』時代へ突入の恐れがあります。 (20180915 纏め)

 

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『日本の城郭 8(小田原城の支城・三島山中城の障子堀と畝堀は実戦的か』—山中城俯瞰(小田原城への進軍を止めるために東海道を総構えの中を)― 

2019-02-26 10:06:47 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 8(小田原城の支城・三島山中城の障子堀と畝堀は実戦的か』

—山中城俯瞰(小田原城への進軍を止めるために東海道を総構えの中を)― 

  

 

 

『障子堀』

 

 

『畝堀』

 

障子堀と畝堀、またはそのどちらでも、があった城跡は、今まで発掘されたのは14ヶ所。 古代・中世・近世に、日本の城は、3-4万構築された。       この3-4万の 99 山城の説もある。 障子堀と畝堀は地形上やむを得ない場合の縄張りであった。 

 

今回の『梅雨の高温多湿』の中での海抜580mの山城散策で気づいたことは、山城は、急峻な独立峰または急峻な尾根に石垣無して、本来構築された。 最初の石垣の山城は信長の安土城、関東での最初の石垣の山城は、 信長を真似た秀吉の石垣山一夜城であった。 千葉県の久留里城は、『Yの字』の急峻な尾根に『堀切、8ヶ所の防御』で構築され、守りに強かった。

 

山中城には、急峻な尾根が少なく、『堀切』に代えて『障子堀・畝堀』が空堀の変形として構築された。 

 

山中城はブーメランのような「Uの字」の形の惣構えの縄張りで、それ程急峻ではない尾根に構築されている。 惣構えの総延長は約6kmに伸びきっており、且つ東海道を挟んだ反対側・南側の『すりばち曲輪と岱崎出丸』は秀吉軍を迎えた時は未完成であった。 東海道を山中城内、を通し、小田原城に進軍する秀吉軍を本丸側と曲輪側で挟撃できるユニークな縄張りの築城も間に合わなかった。 4千の守備では城攻めの天才秀吉の軍7万の攻撃で半日で落城した。 

 

防御に効率のよい、縄張りは山城での比較ではないが、平城・平山城と、ある程度の比較はでき。 ベストは円形・楕円形、続いて正方形の順(五稜郭は大砲時代のもので、且つ西洋式で別カテゴリ)。  久留里城は『点と線(に堀切)』の防御、山中城は『面』の防御であった。 信長の山城は、独立峰に築城。

 

江戸城は、ほぼ円形、惣構えの総延長は約18km、大坂城は、ほぼ正方形、惣構えの総延長は、約8km、夫々、江戸城は、約40万で守る規模の縄張りで、大阪城は約20万で守った縄張りであった。 

 

山中城の惣構えは、防御ラインの兵士配置の密度を考えると『中世最末期の山城としては・・・』と縄張りが気になった。 素晴らしい、後北条氏の支城制ネットワーク(37拠点)構想から、インカの未発掘の山城拠点のネットワークへと好奇心と夢が広がる。

              (20170708纏め)                   

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『真田丸は、真田出丸か、、真田出城か?(調べて・解かったこと)』ー江戸時代初期の絵図には真田出丸・丸馬出とあり、その後真田丸も混在―

2019-02-26 07:27:33 | 城・城郭・城塞

『真田丸は、真田出丸か、、真田出城か?(調べて・解かったこと)』

ー江戸時代初期の絵図には真田出丸・丸馬出とあり、その後真田丸も混在―

 

『真田丸』の『丸』は船名につく『丸』ではなく、城の中枢の魔(災難・戦乱・火災)除けを願って、区画する、曲がりくねった防御構造物、郭・曲輪『輪=囲う』に、魔を忌避すると言われる『・・丸』と名付けられた。 

 

大河ドラマ『真田丸』のスタート直前に、なぜか真田丸出帆!と、威勢をつけていました。 

 

以前『NHKの歴史秘話ヒストリア 幻の要塞真田丸の謎に科学のメス迫る。 驚きの規模』を見ました。 タイトル・内容ともに、ここにも力みを感じました。 それ以来、また『真田丸』に思いを巡らせていました。

 

そんなところに、先日917日の日経文化欄で見つけました『真田丸のナゾ、次々に新見解』(二つとも出丸・出城の見解)を抜粋しますと; 

 

❶広島浅野文庫諸国古城之図摂津 真田丸からの国交省国土地理院、坂井尚登技官の新見解は;

 

日本陸軍が制作した地図と、その後の米軍の空撮写真で、広島の浅野藩に伝わる江戸時代初めに描かれた『摂津 真田丸』と照らし合わせた結果;

 

真田丸の規模は、東西280m、南北270mの正方形の左上を斜めに切り取った、ほぼ五角形で、大坂城と真田丸は、幅100m200mの自然の谷で分断されていた。 真田丸は真田出丸(出城)であった。

 

この出丸は冬の陣終了後、まもなく破却された。しかし信繁の活躍が江戸時代以降、軍記物・時代劇・まんが・アニメ等を通して脚色され、真田幸村としてのヒーロー像を語る上で、真田丸は欠かせない要素になっている。

 

通例によると所在地は、大阪市天王寺区にある三光神社(現・宰相山)だった事が多い。 実際に周囲には『真田山』を冠する地名や学校名が多く見られる。

 

しかし近年の研究では、神社より西側 の大阪明星学院付近である事が指摘されている。

 

『真田丸』の『丸』は船名につく『丸』ではなく、城の中枢の魔(災難・戦乱・明星学院の位置は、真田山よりかなり大坂城寄りであるが、それでも大坂城『真田出丸』は惣構え(外堀)からは、200m以上はあり、従って『出丸』です。

 

絵図は下記の極秘諸国城図の『大坂 真田丸』と、ほぼ同じです。

 

❷松江歴史館の極秘諸国城図の『大坂 真田丸』からの奈良大学の千田嘉博学長の見解は;

 

『摂津 真田丸』以上に詳しい真田丸の上記の絵図(松江市歴史館所蔵)が、今年発見された。 1,690年頃、大阪の陣から70数年後に描かれたもの。

 

『摂津 真田丸』との最大の相違は、真田丸の南側の堀を『惣構堀』と記載しており、これで真田丸の全体像を断定できた。 真田丸は本来、大阪城の防御の薄い南側を守る出丸であった。

 

大坂の陣の直後の江戸時代初期の絵図には真田出丸・丸馬出とあり、その後、江戸時代中期以降の絵図には、真田丸・真田出丸・丸馬出が混在した。

 

『真田丸』は、江戸時代の軍記物で、一般に親しまれてきた。 最近の城ブームと日本城郭研究が進み、城郭の分類・機能等の再確認の動きの中での、『丸』と『出丸』機能の比較検証ではないでしょうか、私見です。

                        (20160920纏め、20190226改 #078)

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『山下清画伯の常識と世間の常識 其の一』(読んで・解かったこと)』ー「日本ぶらりぶらり」に、記録の残し方「事後に思い出したら文章に」と―

2019-02-23 23:26:14 | 絵画

『山下清画伯の常識と世間の常識 其の一』(読んで・解かったこと)

ー「日本ぶらりぶらり」に、記録の残し方「事後に思い出したら文章に」と―

 

以前、日経新聞の読書欄の、エッセイスト・平松洋子氏の『半歩遅れの読書術』の中に山下清画伯を次の様に紹介していました。 

 

 長岡の花火を見た時の感動は忘れがたい。

  

 また、その絵と文章には、常に心振るわせられてきた。 山下清は『よくわからないな、へんだなあ』とつぶやきながら49年間生きた。 最後の言葉は『今年の花火見物はどこへ行こうかな』。 

 

『日本ぶらりぶらり』を再読すると目が覚めるような言葉に何度も揺さぶられるがこんなくだりにもにやりとさせられた。 『ぼくは新聞はめったにみないが、ときどきよむと、みんな本当のことばかりではない気がするので、嘘と本当はどのくらいのわりあいに世のなかにあるものだか、わからなくなる。大ぜいが本当だといえば、嘘でも本当になるかもわからないので、世のなかのことは、ぼくにはよくわからないのです。』

 

『日本ぶらりぶらり』を読んでみると、画伯が印象深く経験したことを詳しく書かれておりました。 この記録の残し方『事後に思い出したら文章にする』、 これからの余生の作文に参考・ヒントになりました。

  

画伯の日記を見ると、いわゆる『日記』、毎日あったことを、その日付のもとに書き記すというのとはまるで違うことが解ります。 第一、画伯は日記なんぞ別に書きたくもないのに、入園していた八幡学園で命令されて、これが嫌で、飛び出した。 日本中あちこち歩いていた時のことを『思い出し・書き記し』その日付で日記と言われた。 ノートを見開き二ページを書いたら、その日の仕事はおしまい。 

 

 文体の面白さは、先ず、二ページが終わるまで、切れないで続き、普通なら句読点『句点“。”と読点“、”』で終わる文が決して『。と、』を打たれない。 接続助詞としての『ので』・・・『ので』と、二ページの終わりまで『ので』でつないでゆく。

 

 ノートの終わりに10日間わたって、難しい、現代の若者には読めない漢字がぎっしりと並んでいる。 例えば、『薬罐(ヤカン)』、『俎(マナイタ』、『炬燵(コタツ)』、『慈姑(クワイ)』『狼狽て(アワテテ)』等。 いわゆる知能指数の問題だけでは処理・解決できない面が多々あります。 記憶がテキストデータではなくイメージデータなのでしょうか

 

 それでは、画伯の常識vs世間の常識

❶暑い季節の桜島へ渡った。 大勢の子供たちがパンツも履かないでいた。

自分もそうしたいが、式場先生が『子供だからよいと・・・』、ではいくつまでOK?と聞いた。

➋僕が泣いたことがないというと、皆が不思議がる。 笑うことが下手なので笑わないというと、皆が笑う。 

❸生き物はじっとしてないので、描くのは難しい。 犬や猫も描きたいが、動くので、描けない。 これから縛って描いたらおかしいか。(花火は別物か)

❹僕は、なんでも持っているものは着るたちで、寒いときはシャツ5枚に、着物を3枚着たことがある、合計8枚着ると、きゅうくつだったが、あったかで、放浪にはよかった。

 

政治家を筆頭に、私欲で小利口な人間が多い、今の世相を想うと『純粋さ・人間らしさ』が乏しくなっていることを、山下画伯の『独り言風』記録を読んで、痛烈に気づかされます。       

(20170717纏め、其の二に続く、20190223改)

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『木村政彦は力道山より強かった!』 ―「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」の読後に分かった―

2019-02-22 07:54:31 | 格闘技

                          『木村政彦は力道山より強かった!』

     ―「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」の読後に分かった―

ウキペデイアから引用

 柔道界のレジェンド・木村政彦は、奥様の結核治療のストレプトマイシンを、アメリカから輸入(当時は個人的に輸入)するお金のために、プロ柔道を立ち上げ、そして失敗・解散から、プロレスへと進んだ。 力道山は相撲界からプロレスへと進み、稀代の興行主兼プロレスラーとして成功した。

 

 全盛期の木村政彦は、戦争を挟んで日本選手権13連勝で15年間無敗の成績であったが、このレジェンドを講道館は七段以上には昇段させなかった。

(何故か、戦前の連勝記録のリストがウェブ情報でも見られません)

 

 力道山、全盛期に引退、幕内の勝率は、0.581、75勝54敗15休、 フェアーに比較するには、現時点での現役、129戦以上の幕内力士の勝率トップ5は;

❶白鵬0.851 ➋日馬富士0.648 ❸照ノ富士0.624 ❹稀勢の里0.605 

❺琴奨菊0.562           力道山の成績は際立ってはいない。

 

 講道館と全柔連の方針・動向に思いを馳せながら、柔道の変革、打撃技(当て身)なしで寝技も制限、立ち技中心の現在の柔道になった。これも当時の嘉納治五郎館長とは異なる方針の三船十段の意志貫徹の結果かと考えさせられる。

 東京五輪の無差別級で神永五段がオランダのヘーシンク四段に、ナント日本のお家芸、寝技『袈裟固め』(ヘーシンクは講道館・天理大学で柔道を学び寝技も得意)で敗れ、銀メダルになった結果はあまりに有名。 ヘーシンク198㎝・120㎏ vs 神永179㎝・102㎏、この身長・体重差(特に足の長さは『袈裟固め』に有利。 この東京五輪で、ヘーシンクに対して、すでに47歳の木村を当てようという話も出たほどに、講道館滞在研鑽時のヘーシンク四段(当時)を木村五段(当時)は、全く相手にしてなかった。

 

 力道山はメディアや政財界の大物を後援会にプロレス興行を大成功させた。 その間 木村政彦はずっと『ヒ―ル役』でした。 これも奥様への新薬ストレプトマイシン新薬購入のため。 ヒ―ル役から二強共存でヒーローの交替制興業実現を狙い、柔道出身の、木村政彦は、相撲出身の力道山に挑戦、『昭和の巌流島』といわれる『世紀の一戦』をブック(筋書き)ありで、戦うことになり木村政彦は、いつもの『素足』で1954年12月22日に戦われた。 

 ブックには、『木村の当て身』だけは禁止とあったが直前に『腕がらみ技』さえも禁止になった。 全盛期の相撲出身者力道山(30歳)が、ここまで恐れた、全盛期を過ぎた木村柔道(37歳)の凄さを想います。 ブックには、第一戦は各一本取り合い引分けとあったが、木村の反則(と云われている)の素足での急所蹴りを引き金に、ブックなしの、ガチンコ・セメント勝負になり力道山の拳打ち空手チョップではない)と、金具のカバー付きのつま先蹴りで木村が敗れ、意識不明になり、山王病院、に担ぎ込まれた。 その後、木村政彦は格闘技の世界から消えた。

 

 プロレスは、益々、大盛況が続いた。 9年後、この同じ病院に、やくざに、刺された力道山が救急搬送され、そこで亡くなった。

 

 木村政彦の恩師、牛島辰熊は、過去2回の天覧試合(不定期)、第一回(昭和4年)と、第二回(昭和8年)に決勝で敗れ、優勝を逸している。 自分の分身として木村政彦をスカウトして、自宅に下宿させて鍛えた。 木村政彦の指導・練習稽古は厳しく、特に、大外刈りは、失神者もよくでて、警視庁にも講道館にも練習相手がいなくなり、脱臼者も、続出するので、この大外刈りは禁止された。 さらに、『腕がらみ技』も、禁止されるほどであった。

この『腕がらみ技』も『昭和の巌流島』では当然、禁じとブックに書かれた。

                                      

下記はウェブ情報からです。

ブラジリアン柔術の最強のレジェンド・エリオ・グレイシーとの死闘

 木村は2Rで得意の大外刈から腕がらみに極め、エリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく「骨折」である)。しかしエリオはカーロスとの約束を無視して強靭な精神力でギブアップせず、木村も骨折したエリオの腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。会場が騒然とする中ついに試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングに駆け上がり木村の一本勝ちとなった(カーロスがリングに上がり、ギブアップをしないエリオの代わりに木村の体をタップ。 代理のタップのため審判と揉めるも、既に決着は付いていると双方が認めたため決着。 詳細は「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」に詳しい)。 後年に木村はエリオの事を「何という闘魂の持ち主であろう。腕が折れ、骨が砕けても闘う。 試合には勝ったが、勝負への執念は…私の完敗であった」とその精神力と、武道家としての態度を絶賛している。 この「腕がらみ」がブラジルやアメリカで「キムラロック」あるいは単に「キムラ」と呼ばれるのは、この試合が由来である。エリオが木村の強さに敬意を払い名付けたとされる。     

 柔道でも格闘技の世界でも弱者でなかった故に判官贔屓にもされず、それらの世界から消えたが、やはり、木村政彦は力道山より強かった。 では何故、こうなったのか、ウェブ情報からです。

 

 戦後。食えない時代にプロ柔道に参戦したこと、さらにプロレスラーに転向して力道山と不可解な謎の試合を行い、これに敗れたため、講道館をはじめ戦後の柔道界は木村の存在そのものを柔道史から抹殺し、柔道・プロレスマニア以外にその名を知る者はいなくなっていった。

(2016,12.25 纏め、20190222改、20201004追補、2020117追補

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