『古代は、古代人は凄い 8(ペルシャ戦争の中のサラミスの海戦)』
『中国の誇大表現に、劣らぬ「ヘロドトス」の誇大表現はサラミスの海戦にも?』
『古代史の中の戦争は、なぜ、スケールアップした記録になるのか』
『情報源と、その情報内容の評価は、現代の情報過多で、かつ、フェイクニュースの 反乱する時代に、さらに、人類に驚異の『生成AI』がありますので、これからは、大変で収拾がつかなくなりますので、それも生成AIにお願い!』
古代の三大海戦(正確な定義はなく、「レパントの海戦」は入りません))については、昔から興味がりました。
○サラミスの海戦(ギリシャvsペルシャ、BC480)
○ポエニ戦争(ローマvsカルタゴ、BC264~241)
○白村江の戦い(唐vs倭、AD663)
○ポエニ戦争(ローマvsカルタゴ、BC264~241)
○白村江の戦い(唐vs倭、AD663)
サラミスの海戦
ウエブ情報から引用
この海戦を調べていて、気づいたのは、あの狭い海域にヘロドトスが歴史書に書き残した軍艦の数でした。 紀元前480年、サラミスの海戦に参加した戦力は、アテネ・ポリス連合軍が三段櫂船380隻(うち、アテネは180隻)とその他数隻、ペルシャ軍は三段櫂船684隻(ヘロドトスの「歴史」では900-1207隻)、なぜ、これほど誇大表現なるのか、今後の課題)、その他の船が数百隻だといわれている。
海軍は古代の地中海で生まれたと考えられている。 これは、中国などはあくまで陸上での戦闘が中心であったのに対し、ヨーロッパ周辺では地中海を舞台とした海上交易が早くから始まったため、その制海権を確保することが重要であったことに起因する。 紀元前15世紀からフェニキアが地中海を制し、その後古代ギリシャの海軍が地中海を制した。 古代の海戦はガレー船が中心で、船上に控えた兵士が弓や剣で敵船へ斬り込んで戦闘を行った。
紀元前1178年頃、古代エジプト王ラムセス3世がデルタの戦いで「海の民」連合軍に勝利する。 紀元前480年、サラミス海戦で三段櫂船を擁しテミストクレス率いるギリシャ艦隊が艦数で勝るペルシャ艦隊を撃破した。
海の民
海の民の背後にいた人々については多くの説がありますが、確認されているものはほとんどありません。
- 旧約聖書に登場するペリシテ人
- 火山の噴火で故郷を追われたクレタ島のミノア人
- エトルリア人、リビア人、あるいはインド・ヨーロッパ人
サラミスの海戦に参加した戦力は、アテネ・ポリス連合軍が三段櫂船380隻(うち、アテネは180隻)とその他数隻、ペルシャ軍は三段櫂船684隻(ヘロドトスの「歴史」では900-1207隻)、その他の船が数百隻だといわれている。
戦力ではアテネ側が圧倒的に不利であった。 戦闘が開始された状況には諸説あるが、その中に一人の女性指揮官がポリス連合軍の前に立って全軍を鼓舞し、戦闘が始まったという説がある。
先ずは、ペルシャ戦争の理解を、
ウエブ情報から引用
ペルシャ戦争とは、
アケメネス朝ペルシャ帝国 VSギリシャ連合の3度に渡る対決、
始まりは紀元前500年から始まり、終結は紀元前449年。 カリアスの和約という平和条約が結ばれて終結となります。
では、このペルシャ戦争のきっかけと終焉までを簡単に、
イオニア植民市の反乱(BC500年)
当時、周辺の地域を次々に征服、撃退し大帝国となっていたペルシャ。 このペルシャから支配を受け、重税などの圧力を掛けられていたのが小アジアのイオニア人植民市。 その中でも特にペルシャからいじめられていたのがイオニア人植民市のミレトスという町、ギリシャの都市国家のひとつ。 当時のペルシャとギリシャの間では、地中海や黒海での商業圏をめぐる対立がありました。
そして、ミトレスの住民を中心としてイオニア植民市はペルシャに反乱を起します。 BC500年のこと、彼らの後ろ盾となったのはアテネでした。 これが、ペルシャ戦争のきっかけとなります。
第1回ペルシャ戦争(BC492年)
反乱の介入をやめようとしないアテネに対して、ペルシャは軍を派遣、当時のペルシャ大王はダレイオス1世。 まず、ペルシャ軍はギリシャの北側トラキアを制圧。 ギリシャ本土の攻撃に、艦隊を派遣するも、途中暴風に遭い、そのまま引き返した。 まずはギリシャの不戦勝。
第二回ペルシャ戦争(BC490年)/マラトンの戦い
ペルシャも再度攻撃を仕掛けます。 ペルシャの軍はエーゲ海の島々を攻略し、アテネのすぐそば、マラトンという地域に上陸。 アテネはスパルタに援軍を頼みますが神事で派遣を断られ、一緒に戦ってくれたのは都市国家プラタイアイ。 アテネ、プラタイアイ連合はペルシャに勝利、これが、マラトンの戦い。
マラソンの語源がこのマラトンの戦い。 マラトンでの勝利を伝える為に伝令を命じられた人がマラトンからアテネまでの長距離を1人で走りきりアテネのャ城門のところで力尽きた故事。 相手がペルシャとの戦いでした。 BC486年にペルシャのダレイオス1世は死に、継いだのがクセルクセス1世でした。
第3回ペルシャ戦争(BC480~479年)
有名な戦い、スパルタの兵士300人でペルシャの大軍に突っ込んで全滅した。 この時のペルシャの国王はダレイオス1世の後を継いだクセルクセス1世。 10万のペルシャの大軍とスパルタ軍300名がテルモピレーという山と海で囲まれた場所で激突します。
始まりは紀元前500年から始まり、終結は紀元前449年。 カリアスの和約という平和条約が結ばれて終結となります。
では、このペルシャ戦争のきっかけと終焉までを簡単に、
イオニア植民市の反乱(BC500年)
当時、周辺の地域を次々に征服、撃退し大帝国となっていたペルシャ。 このペルシャから支配を受け、重税などの圧力を掛けられていたのが小アジアのイオニア人植民市。 その中でも特にペルシャからいじめられていたのがイオニア人植民市のミレトスという町、ギリシャの都市国家のひとつ。 当時のペルシャとギリシャの間では、地中海や黒海での商業圏をめぐる対立がありました。
そして、ミトレスの住民を中心としてイオニア植民市はペルシャに反乱を起します。 BC500年のこと、彼らの後ろ盾となったのはアテネでした。 これが、ペルシャ戦争のきっかけとなります。
第1回ペルシャ戦争(BC492年)
反乱の介入をやめようとしないアテネに対して、ペルシャは軍を派遣、当時のペルシャ大王はダレイオス1世。 まず、ペルシャ軍はギリシャの北側トラキアを制圧。 ギリシャ本土の攻撃に、艦隊を派遣するも、途中暴風に遭い、そのまま引き返した。 まずはギリシャの不戦勝。
第二回ペルシャ戦争(BC490年)/マラトンの戦い
ペルシャも再度攻撃を仕掛けます。 ペルシャの軍はエーゲ海の島々を攻略し、アテネのすぐそば、マラトンという地域に上陸。 アテネはスパルタに援軍を頼みますが神事で派遣を断られ、一緒に戦ってくれたのは都市国家プラタイアイ。 アテネ、プラタイアイ連合はペルシャに勝利、これが、マラトンの戦い。
マラソンの語源がこのマラトンの戦い。 マラトンでの勝利を伝える為に伝令を命じられた人がマラトンからアテネまでの長距離を1人で走りきりアテネのャ城門のところで力尽きた故事。 相手がペルシャとの戦いでした。 BC486年にペルシャのダレイオス1世は死に、継いだのがクセルクセス1世でした。
第3回ペルシャ戦争(BC480~479年)
有名な戦い、スパルタの兵士300人でペルシャの大軍に突っ込んで全滅した。 この時のペルシャの国王はダレイオス1世の後を継いだクセルクセス1世。 10万のペルシャの大軍とスパルタ軍300名がテルモピレーという山と海で囲まれた場所で激突します。
4000人くらいの兵士を連れてきていたのですけど、彼らはペルシャ軍を見た途端に逃亡。 残ったのがレオニダス王を含めたスパルタの兵士300名だけだった。 スパルタの人たちは超戦闘部族で、強いですが、さすがに、この兵士の差を埋めることはできず、スパルタは敗北します。 これが、ペルシャ戦争におけるペルシャ最初の勝利となります。
サラミス湾の海戦
サラミス湾の海戦
ウキペデイア情報から引用
スパルタの敗戦でピンチとなったギリシャの諸都市。 そこに英雄が現れます。 テミストクレスというアテネの将軍。 彼は、ラウレイオン鉱山の収益を軍艦製造にまわして三段櫂船という特別な船を造っていた。 そして、ペルシャ海軍をサラミスにおびき寄せて大海戦に臨みます。
アテネは200隻ほどの船を出し、ギリシャ連合軍も400隻ほど。 対するペルシャの海軍は700隻。 数の上では、ややギリシャ側の劣勢ですが、地の利を生かしギリシャ軍はペルシャに打ち勝ちます。 これが、サラミス湾の海戦。
アテネでは、軍役義務を果たした人に参政権が与えられました。 貴族や多くの平民も軍役を果たし参政権を獲得していたけれども、武器を買うお金もない人たちは軍役義務を果たすことができず参政権を持つことができませんでした。
しかし、サラミス湾の海戦によって武器も買えない人たちにもチャンスが巡ってきたのです。 船を漕ぐ役目です。 当時の船は帆をはって風の力で進むわけですが、戦争となれば風の吹くままに進むわけにはいきません。 敵船の逆に進んでいったら戦いになりませんから。そこで、人力で漕ぐのです。 これにより武器も買えない平民の人々も軍役を果たすことになり参政権を獲得することになります。
ギリシャの勝利
このサラミス湾の海戦で大勝利を得たギリシャは、その後の陸上のプラタイアイの戦いでも勝利。 さらに海上でもミカレ岬の戦いにも勝利しペルシャはエーゲ海から後退していくことになります。
大国ペルシャ帝国からの攻撃をギリシャ連合軍は撃退したのです。 これは、よくペルシャの専制王政に対するギリシャの民主政の勝利だといわれます。 モチベーションの違いでしょうか。 ペルシャ軍は征服した地域の民や奴隷も軍の中に多くいたのに対して、ギリシャは志願兵なども多かったようです 。
しかし、サラミス湾の海戦によって武器も買えない人たちにもチャンスが巡ってきたのです。 船を漕ぐ役目です。 当時の船は帆をはって風の力で進むわけですが、戦争となれば風の吹くままに進むわけにはいきません。 敵船の逆に進んでいったら戦いになりませんから。そこで、人力で漕ぐのです。 これにより武器も買えない平民の人々も軍役を果たすことになり参政権を獲得することになります。
ギリシャの勝利
このサラミス湾の海戦で大勝利を得たギリシャは、その後の陸上のプラタイアイの戦いでも勝利。 さらに海上でもミカレ岬の戦いにも勝利しペルシャはエーゲ海から後退していくことになります。
大国ペルシャ帝国からの攻撃をギリシャ連合軍は撃退したのです。 これは、よくペルシャの専制王政に対するギリシャの民主政の勝利だといわれます。 モチベーションの違いでしょうか。 ペルシャ軍は征服した地域の民や奴隷も軍の中に多くいたのに対して、ギリシャは志願兵なども多かったようです 。
その後の海戦
紀元前31年のアクティウムの海戦では、ローマ艦隊がアントニウス率いるカタパルトを装備したエジプ艦船に対して火矢と火壺を投擲して勝利を収めている。
1538年、プレヴェザの海戦でオスマン帝国が宿敵のアンドレア・ドーリア軍(スペイン)を撃破し地中海を制圧。スペイン勢力を地中海から締め出しイスラム教徒が覇権を確立する。 1571年に起きたレパントの海戦はガレー船同士の海戦の頂点であり、ガレアス船の投入など艦載砲も使用されたが、依然として接舷しての移乗攻撃が決定的な役割を果たした。
サラミス海戦の意義
ギリシャ・ペルシア戦争の転換点となりました。 サラミスの後、ペロポネソス半島、ひいてはギリシャ全体が征服を逃れることができた。 そしてペルシャ軍はその威信と士気(物的損失も同様に)に大打撃を受けた。 その後のプラタイアの戦いとミカレの戦いにより征服の脅威が取り除かれ、連合国は反撃を開始できるようになった。 ギリシャの勝利により、マケドニアはペルシャの支配に対して反乱を起こすことができた。 そして次の30年間で、トラキア、エーゲ海諸島、そして最終的にイオニアは、連合国かアテネが統治する後継組織であるデロス同盟によってペルシャの支配から外されることになる。 サラミスは力の均衡においてギリシャ側への決定的な動きを開始し、最終的にはギリシャの勝利につながり、エーゲ海におけるペルシャの力を大きく低下させた。
マラトン海戦やテルモピュライ海戦と同様、サラミス海戦(たとえば、より決定的なプラタイア海戦とは異なる)は、おそらく絶望的な状況と予期せぬ可能性のため、一種の「伝説」の地位を築いている。 かなり多くの歴史家がサラミス海戦を人類史上最も重要な戦いの一つとしている(マラトンについても同じことがよく言われるが)。 この議論のより極端な形式は、もしギリシャ人がサラミスで負けていたら、その後のペルシャによるギリシャ征服は、私たちが知っているような西洋文明の成長を事実上抑圧していただろうという主張である。
一部の歴史家 この見解は、哲学、科学、個人の自由、民主主義などの現代西洋社会の多くが古代ギリシャの遺産に根ざしているという前提に基づいています。 したがって、この学派は、現代史が主に西洋文明によって支配されていることを考慮すると、ペルシャによるギリシャの統治は人類の歴史全体の軌道を変えた可能性があると主張します。 非常に影響力のあったアテネ文化の輝かしい開花は、ペルシャ戦争に勝利した後に初めて起こりました。 軍事的には、実際に何が起こったのかが不確実であるため、サラミスから多くの教訓を引き出すことは困難である。 連合軍は再びペルシャ軍の数に対抗するために陣地をうまく選択したが、今回は(テルモピュライとは異なり)ペルシャ軍は陣地を強調するために不必要な攻撃を仕掛けるという手段に頼らざるを得なかった。 おそらく、この攻撃が引き起こされて以来最も重要な軍事的教訓は、テミストクレスが敵の望ましい反応を引き出すために欺瞞を利用したことにあるだろう。プルタルコスによれば、それまで目立たなかったキモンは「アテネ人の間で大きな名声を得た」という。戦いにおける彼の勇気に対して。この評判により、後に彼は政治家としてのキャリアをスタートすることができました。
古代の情報源と現代の情報源
情報源とその情報内容の評価は、現代の情報過多でフェイクニュースの反乱する時代に、さらに、人類に驚異の『生成AI』がありますので、これからは収拾がつかなくなります。
(記事投稿日:2024/01/27、#721)