知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『ツバメのこと(平城宮跡 岩井明子氏のエッセイ、ツバメねぐらを見守る)』 『夏の夕空に飛来する6万羽の観察を続けて10年、企画展も開く』

2023-09-28 23:08:49 | 野鳥・鳥
『ツバメのこと(平城宮跡 岩井明子氏のエッセイ、ツバメねぐらを見守る)』
『夏の夕空に飛来する6万羽の観察を続けて10年、企画展も開く』

平城宮跡に飛来するツバメ
ウエブ情報から引用
二年前(20210831)の日経新聞文化欄に、岩井明子氏の表題のエッセイが載ってました。 『遮るもの何ひとつない平城京跡(奈良市)の空に、夏の日没直前になると一面を黒く塗りつぶすツバメの集団がやってくる。 その数、最大6万羽。 渦を巻くような群れを作って旋回し、眠りにつく場所に飛び込んでいく光景にいつも目を奪われる。 ツバメが夜に集まって眠る場所を『集団ねぐら』といい、その場所にやってくることを『ねぐら入り』という。 ねぐらを作る場所は、湿地で育つ植物のヨシが群生するヨシ原。

奈良市平城宮跡のヨシ原では毎年ツバメの集団ねぐらが形成されます。 最盛期の7月下旬から8月には最大6万羽のツバメのねぐら入りが観察され、日本野鳥の会発行の改訂版『ツバメのねぐらマップ』によるとその数は日本最大級です。 

2012年以降、春の渡りの途中に立ち寄るツバメが‘春ねぐら’を形成する時期から子育てを終えすべてのツバメが南下するまでの間にほぼ毎日観察し、ねぐら入り総数などを記録しています。 その結果、この9年間で平城宮跡のねぐらに集まるツバメの総数が増加傾向にあることがわかりました。 その原因のひとつとして、県内にあった他のねぐらが開発によって消失した影響があるのではないかと考えています。  

夏の夕焼け空を層になり飛び交うツバメは一体どこから平城宮跡に集まって来ているのか、ねぐらを失ったツバメが本当に平城宮跡に来るのか、ねぐら入りを観察していると様々な疑問が湧いてきます。

2020 年の夏はコロナ禍でたくさんの人が集まる観察会ができなくなりました。 そこで、この機会に従来の観察会の代わりに家や近所で平城宮跡に向かうツバメを観察して移動のルートを探ろうと考え、STAY HOME企画として、奈良つばめねぐら子ども研究部、日本野鳥の会奈良支部会員などに調査への協力を呼び掛け、延べ 118 人・47 地点の記録が集まりました。 しかし、まだまだ6万羽のツバメのルート解明には及びません。 そこで、来季もねぐらへの移動ルートを明らかにするための調査を継続した いと考えています。

表題のエッセイを見て思い出しました。 十数年も昔のことですが、茨城県南の田圃の中の戸建ての団地に住んだことがありました。 我が家の玄関のひさしには、ツバメが巣をつくってくれないので、不思議に思っておりましたが、暫くして気が付きました、ツバメが毎年来て巣をつくってくれる家には、犬が飼われておりました。 『ツバメの賢さ』に驚いたことがありました。 先ずは、ツバメのこと調べてみました。

ツバメと日本人の関係
ツバメ(燕)は、スズメ目ツバメ科ツバメ属に分類される鳥類で、古くはツバクラメやツバクロと呼ばれていました。 ツバメは北半球に広く分布し、日本は沖縄にも存在しています。 スズメと同じく稲栽培で益鳥と認識されていますが、ツバメは害虫を食べても穀物は食べることはありません。 そのため、ツバメの巣や雛に悪戯することは禁じられ、古くから人々に大切にされていました。

さらに、文化的な側面でも「竹取物語」「幸福な王子」のような物語に登場し、ことわざでも『燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや』(小人物には大人物の考えや大きな志などがわからないことのたとえ)、『燕が低く飛ぶと雨が降る』が有名です。

ツバメが減少している!絶滅の危険性
そんな私たちに馴染み深いツバメですが、このままでは絶滅してしまうのではないか、と言われています。  2021年10月25日、環境省が20年ぶりに行った鳥類の分布調査結果を公表しました。

それにより、ツバメの個体数が大きく減少していることがわかり、将来的には絶滅危惧種に指定する恐れもある、という話も出ています。 調査は1974~78年、1997~2002年に続き3回目で、今回は2016~2021年にかけて、日本野鳥の会や山階鳥類研究所などと共同で行われました。 その結果、ツバメは1万4978羽から8,987羽に減少したことがわかっています。  ツバメは何が原因で個体数を減少させてしまったのでしょうか。

ツバメの減少原因は?分布広げる外来種
ツバメが減少してしまった原因は、彼らを育んでいた穀物を作る農地が、野菜を栽培する畑地に変わったことではないか、と考えられています。  環境省はこの今回の調査結果を今後の生物多様性を守る施策に生かす方針です。

また、この調査で分かったもう1つのことは、ツバメが個体数を減少させる一方で、ガビチョウのような外来種が分布を拡大させていることでした。  ガビチョウは、スズメ目チメドリ科に分類される鳥類で、鳴き声が非常に大きいことから、騒音の原因と捉えられ、害鳥に指定され、日本の侵略的外来種ワースト100にも選ばれています。  

ツバメが警戒するものは、カラス、蛇、猫など捕食者と、 スズメやムクドリ など、 巣を壊す鳥です。 やはり、ツバメの減少は、天敵である『カラス・ヘビ人・間』であるようです。

ツバメの無着陸飛行距離(300㎞以上)を他の留鳥と比較
『野鳥の無着陸飛行距離』
  • キジ;高度5mも行けば良い方で、飛行距離は最大で70m
  • スズメ;大体10m~15mくらいの高さ、一日に飛行できる距離は5㎞程度
  • カラス春だと、農家の近くにねぐらを作り、一日に数キロ程度しか飛ばない。しかし、夏から秋にかけては、広い範囲で食料を探すために30~60㎞程飛びます。 冬になるにつれ、食料を安定的に確保できる農家の近くで生活します。

鳥類は、 地上を這いずり回る鳥から、アホウドリの様に数千キロも飛び続ける鳥もいます。  他にもツバメのような渡り鳥は小型ですが、300㎞以上航続可能なようです。  スズメの様に定住しているような鳥であれば長くても4~50㎞位だと思います。  カラスに至っては一度に飛べる距離が数キロといわれています。  よって、鳥と端的に言っても種類によって航続距離が大きく違うようです。 ツバメが安心して『ねぐら入り』できる日本を維持できるよう自然を大事にして頑張りたいと思っています。
(記事投稿日:2023/09/28、#688)
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『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』 『本人は感じていたか知る由もない苦労した末っ子の少女時代』

2023-09-23 22:06:16 | 映画
『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』
『本人は感じていたか知る由もない苦労した末っ子の少女時代』

最近、読んだ本の中で、大女優 原節子さんのファンとして、感激したのは、表題『石井妙子著「原節子の真実」』です。 著者の大女優 原節子さんの『根拠のない風説によって語られてきた神秘性に満ちた生涯』をインタビューの機会が一度もなかったのに、ここまで徹底的に調査されています。
 ウエブ情報から引用
まえがきの始まりが『その女性はすでに生きる伝説と言われて久しく、世間からのあらゆる接触を半世紀以上も絶って、自分の生死すら覚られまいとしていていた。』とありました。 

戦前から戦後にかけての日本映画を代表する大女優のひとりでしたので、後半生50余年、1963年に女優業を引退し、2015年に死去するまで隠遁生活を送ったことが不思議で、なかなか理解できませんでした。

理由は、次のエピソードもありましたので。 『秋山庄太郎氏の原節子さんとの偶然のすれ違いと、その後について』のウエブ情報の抜粋・引用です。
 
大学を卒業して田辺製薬に入社しましたが、三ヶ月で応召。 その直前に見合いをし、結婚しました。 中国では通信兵として各地を転戦し、マラリアにもかかりました。

復員後は、銀座八丁目に秋山写真工房を開設しました。 スタジオがつぶれ、さてどうしたものかと考えていた時、女優の原節子と松坂屋の横ですれ違ったのです。 あまりの美しさに茫然としました。 いつの日かこういう美女を撮りたいとつくづく思いましたね。

数日後、写真家林忠彦さんから連絡があり、「いま『近代映画社』がカメラマンを探しているんだけど、庄ちゃんが行くなら紹介するよ」と言う。 「もちろん行くよ、おれ原節子に会いたいもん」と言って、即日入社しました。 それから二ヶ月もたたないうちに原節子を撮ることができました。 運がいいんですね。
  
原さんとは気が合い、自宅にまで呼ばれるようになり、よく手料理をごちそうにもなりました。 原さんに気に入られたきっかけは、大船撮影所からの帰りの電車の中で偶然一緒になり、「秋山さん、映画界好き?」と聞かれたことからですね。 ぼくが「あまり好きじゃない」と言うと「私も好きじゃないのよ」とニコリ。 「撮影中もまわりに大勢お付きの人がいて、正直気が散って困るんです」と言うと、「だったら明日うちへきて撮ってよ」とふたたびニコリ。 これには仰天した。 会社へ帰って報告しても、最初は誰も信じませんでしたからね(笑)。 

秋山氏は、鎌倉の原邸で、お酒とお馳走を頂いた後、泊まることになったそうですが『ふすま一枚隣に原節子さんがお休みと思うと、一晩中眠れませんでした』と言ったエピソードをも読んだこともあります。

表題『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』に戻ります。 先ずは、著者であるノンフィクション作家 石井妙子氏のプロフィールです。
白百合女子大学文学部国文科卒業 同大学院修士課程修了
活動期間     2006年 -
主な受賞歴   第15回新潮ドキュメント賞
第52回大宅壮一ノンフィクション賞
デビュー作   『おそめ』

著書
  • 『囲碁の力』洋泉社新書、2002年10月。
  • 『おそめ 伝説の銀座マダムの数奇にして華麗な半生』洋泉社、2006年。
  • 『日本の血脈』文春文庫、2013年。
  • 『原節子の真実』新潮文庫、2019年
  • 『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』KADOKAWA、2019年。
  • 『女帝 小池百合子』文芸春秋、2020年。
  • 『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』文藝春秋2021年。
共著
岸富美子と『満映とわたし』文藝春秋、2015年。
岸富美子と『満映秘史 栄華、崩壊、中国映画草創』角川新書、2022年。

寡黙な少女
1920年6月17日、保土ヶ谷駅近くの会田家の父・藤之助48歳、母・ナミ38歳の7人兄弟(二男五女)の末娘・昌江として誕生。 三歳になってほどなく1923年9月1日の関東大震災(震源地は相模湾沖)で、会田家は倒壊、その時の台所での大やけどで母が重傷を負った。 その結果、母は心身を病むことになった。 一方、この震災に関して『原節子』は、ほとんど語り残していない。
戦前の映画雑誌には『家は音を立てて崩れたものの、幸いにして会田家は無事であった・・・』という逸話が載っていたそうです。 この齟齬をどうとらえたらよいかと書いています。

彼女自身は三十代の後半に、『自分の小学校時代を振り返り、活発は木登り好きで友達の女の子がいじめられると、助けたりするナイト的なとこがあったとする』と回想している。 ところが同級生たちが記憶する彼女の姿は、まったく異なっており、少女は寡黙で人と群れず、いつも教室の片隅で本を広げ孤独な空気を漂わせていたという。

実はこの頃、彼女の家庭は経済的に問題を抱えていた。 昭和4年(1929)10月末、ニューヨーク・ウォール街に端を発した株価の暴落が彼女の家庭をも直撃していた。輸出品の生糸が売れなくなり父の店も打撃を受けていた。 かって、次姉と三姉が振袖と袴を着けてフェリスに通っていたが、小学三年生の昌枝は丈の合わない傷んだ服ばかり着続けていたと友人は回想。

悲劇はそれにとどまらず、母ナミが病んでしまっていた。 それは関東大震災で熱湯をかぶったせいだと語るが、真相は定かでない。 「お母さんが、意味のわからない独り言をいうの」と友人に話していた。

「東京物語」を見た、イタリアの若者たちが「聖母のような」と言ったということがよくわかる大女優の少女時代も波乱万丈であったようです。 まだまだ調べて『大女優 原節子さんの凄さ 5(石井妙子著「原節子の真実」から)』に続きます。
(記事投稿日:2023/09/23、♯687)
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『美しい地球! 旅行のススメ 001(タッシリ・ナジェールの洞窟岩絵と奇岩』 『砂漠「サハラ」の真ん中にタッシリ・ナジェール国立公園、アルジェリア』

2023-09-18 11:46:06 | 地球・グレートネ-チャー
『美しい地球! 旅行のススメ 001(タッシリ・ナジェールの洞窟 岩絵と奇岩』
『砂漠「サハラ」の真ん中にタッシリ・ナジェール国立公園、アルジェリア』

島国日本で砂漠と言えば『鳥取砂丘』や『御宿海岸の「月の砂漠記念像」と砂浜』を、連想する『砂漠のこと知らず』に生きてきました。
 ウエブ情報から引用
御宿町は、千葉県の南部に位置し、夷隅郡に属する町。 同様「月の沙漠」発祥の地としても知られる。

まずは砂漠の種類です。
砂漠は多い順と石の状態から、
礫砂漠: 石がごろごろと転がる砂漠、
岩石砂漠:大きな岩がごつごつ出ている砂漠、
砂砂漠: 砂の砂漠 
土砂漠: 土や粘土の砂漠、となります。
などに分類されます。

世界の巨大面積の『砂漠』と言えば、氷雪気候の南極(1,420万㎢)を除くと、(1)サハラ砂漠(910万㎢)、
(2)オーストラリア砂漠(337万㎢)、
(3)ゴビ砂漠(130万㎢)、

鉱物資源の豊かさでも、
  1. サハラ砂漠、
  2. オーストラリア砂漠
となります。 

異常気象の中、これから、これらの巨大砂漠を含む沙漠(世界には33の主要な砂漠があり、山脈に似た小さな砂漠に細分化すると、71に)がどう化けるか、目が離せません。 表題の『タッシリ・ナジェール国立公園』のある、アルジェリア・サハラ砂漠です。

サハラ砂漠の衛星写真
ウキペデイア情報から引用
サハラ砂漠または単にサハラは、アフリカ大陸北部にある砂漠で、氷雪気候の南極を除くと世界最大級の砂漠。 南北1,700キロメートルにわたる。面積は約1,000万平方キロメートルであり、アフリカ大陸の3分の1近くを占め、アメリカ合衆国とほぼ同じ面積です。

サハラ砂漠主要地形区(地図の中央部分がタッシリ・ナジェール国立公園)
ウキペデイア情報から引用

タッシリ・ナジェール国立公園(地図上の↓)、アルジェリア
アルジェリアの面積は、238万㎢。 その内、砂漠地帯は約200万㎢あります。 面積はアフリカ1大きい。ちなみに、日本の約6倍もの面積があります。このサハラ砂漠 では岩石砂漠のことをハマダといいます。 礫(れき)砂漠を含む岩石砂漠は地球上の砂漠の80-90%を占めます。

アルジェリア
ウエブ情報から引用

タッシリ・ナジェールは、アルジェリア南東部、サハラ砂漠にある台地状の山脈。 およそ500kmにわたり拡がっており、最高点は標高2158m。 最も近い町は山脈の南西約10kmにあるジャーネットである。 台地を侵食した渓谷にはイトスギが点在し、考古学的な景観も含んでいることから、「タッシリ・ナジェール国立公園」として国立公園、生物圏保護区、ラムサール条約登録地に指定されており、ユネスコの世界遺産にも登録されている。
ラムサール条約
湿地の保存に関する国際条約。 水鳥を食物連鎖 の頂点とする湿地の生態系 を守る目的で、 1971/02/02制定され、1975/12/21に発効した。

山脈はほとんどが砂岩で形成されている。 この地域の浸食作用が、他の目を惹く景観ともども形成されている300の自然石のアーチを生み出した。 また、淡水の湧水、湿地や地下のカルスト水系も分布している。

生態系
水を含む砂岩の性質や標高のおかげで、周囲の砂漠に比べると植物が生育しやすい。 山脈の東半分の高地には、絶滅危惧種のサハラ特有の糸杉類などの群生地も点在する。 動物はバーバリーシープ、ドルカスガゼル、トカゲ、ヘビおよび4種類の魚類が生息している。 タッシリ・ナジェールの生態系は、 この地域が含まれるエコリージョンである「タッシリ・ナジェール」は、トゥアレグ語で「河川の台地」「水流の多い大地」を意味しており、かつてはもっと湿潤な気候だった時期(新石器時代多雨期)があったことを示している。

先史的な芸術 山脈はまた、先史的な 岩絵 群や他の考古学的景観で知られている。 それらは、一帯が砂漠でなく サバンナ に恵まれ湿潤だった 新石器時代 に遡るものである。 岩絵には、牛の群れ、ワニなどの大型生物、狩猟や舞踏といった人々の活動などを活写している。

先史的な芸術
山脈はまた、先史的な岩絵群や他の考古学的景観で知られている。 それらは、一帯が砂漠でなくサバンナに恵まれ湿潤だった新石器時代に遡るものである。岩絵には、牛の群れ、ワニなどの大型生物、狩猟や舞踏といった人々の活動などを活写している。

その様式は『ングニ族以前の南アフリカ美術』(pre-Nguni art) や、西暦1200年以前にサン族によって描かれた洞窟壁画などとも類似性を持つものがある。

タッシリ・ナジェールの洞窟壁画
ウキペディア情報から引用
昔、『砂漠は生きている』(原題: The Living Desert)は、ウォルト・ディズニーによって1953年に製作されたドキュメンタリー映画。 アメリカ合衆国南西部の砂漠に生きる動物たちの日常を記録した作品がありました。 

温暖化による異常気象の中で、これから、これらの巨大砂漠を含む、細分化すると、71になる砂漠がどう化けるか、目が離せません。

砂漠さえも、温暖化による異常気象の影響を受け始めています。 さらには、地球上の広範囲の砂漠化拡大です。 温暖化対策は、みんなでやれる『節電・節水・節食、移動には自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂く、CO2排出削減は次のビッグ3『発電業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 みんなでやる『節電・節水・節食、移動には自転車・バス・電車』も、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小と大きく影響し深刻です。
 (記事投稿日2023/09/18、#686)
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『古代は凄い、古代人は凄い 4(古代文明「マヤ・ティカル」)』 『漆喰コンクリートで、山を象徴、急峻で、天に近づく、4号神殿は高さ70ⅿ』

2023-09-17 16:56:07 | 歴史・世界・古代
『古代は凄い、古代人は凄い 4(古代文明「マヤ・ティカル」)』
『漆喰コンクリートで、山を象徴、急峻で、天に近づく、4号神殿は高さ70ⅿ』
『17世紀末、スペイン人修道士が密林に迷い込み、巨大ピラミッド群を発見』

マヤ文明のティカル遺跡は、石材運搬のしやすい草原に建造され、その後の気候変動による熱帯雨林気候でジャングルに覆われたと思っていました。
ウキペデイア情報から引用
現在の鬱蒼とした森が広がるグアテマラ北部のペテン県は、ティカルをはじめとする中央アメリカでも最も重要なマヤの遺跡が残されている。 マヤ文明は7~9世紀にかけて最盛期を迎え、10世紀に差し掛かる頃に滅亡した。

 文明が滅亡した理由をさらに詳しく知るために、NASAの考古学者であるトム・セーバー博士は、人工衛星プログラムで収集された画像を解析している。 博士が検証しているのは、マヤの滅亡は自ら、もたらした生態系の破壊が原因であるとする説だ。 マヤ人が行なった焼畑農業によって森林の伐採が進んでいたことが示唆されている。 またバホ(bajo)という湿地を枯渇させ、干ばつや気温の上昇を招いたことも判明した。 マヤが辿った運命は、森林伐採と気候変動のリスクを明確に物語っている。

ティカル(Tikal)は、 グアテマラのバホ(bajo)・ペテン低地にあった古典期マヤの大都市で、マヤ文明の政治、経済中心都市として紀元4世紀から9世紀ごろ(日本の古墳-飛鳥-奈良時代)にかけて繁栄を極めた。 ティカルの遺跡は1979年に世界遺産の複合遺産に登録された。

1525年、スペインの征服者エルナン・コルテスがティカルを通り過ぎたが、本国への手紙には書きこんだりしなかった。 1696年、スペイン人修道士アンドレス・デ・アベンダーニョ(Andrés de Avendaño)が密林の中に迷い込み、ジャングルにそびえる巨大ピラミッドを発見した。これがおそらくティカルだったといわれている。

複合神殿群(コンプレッホ)
複合神殿群は、ピラミッドと石碑、祭壇などからなる複合体で、4つの建物が一組になっている様式です。 ティカル独特の建物群で、マヤ歴のカトゥンを祝ったといわれています。 極彩色の都、珍しく大河無き古代文明、6万人の人口は雨水頼り、石灰岩は水を通しやすいが、建物も貯水も漆喰で対応、高台、丘陵に選んで、神殿を建造した。 今のジャングルが文明を謎にしている
カトゥン
古代メソアメリカ文明で用いられた長期歴で、20トゥン、乃ち7200キン(日)にあたる単位である。 グレゴリオ暦で約19.7年に相当する。 カトゥンの終了にあたる日には、その日を祝って、石碑が建てられたり、戦争捕虜を生贄に捧げたり、新しい神殿を建築したり、古い神殿を改築したりした。

密林に隠れていたティカル遺跡、17世紀末に発見、密林の中のネットワーク王国、1号神殿、高さ47ⅿの神殿。 山を象徴、天に近く、4号神殿は高さ70ⅿ、漆喰コンクリートで、白と赤で鮮やかに塗られた。
漆喰コンクリート
マヤ文明はコンクリートジャングル・舗装道路まであった! マヤの建造物の多くは、石灰岩や凝灰岩が使われている。 石材として使われた石灰岩は雨に弱いという性質を持ち、その弱点を克服するために、固まると水をはじく漆喰が使用された。 漆喰は石灰岩を砕いた粉を焼き、水を混ぜたもので、建物の壁や地面に塗ることにより建物の劣化や地下への浸水を防いでいた。 事実、ティカル遺跡では公共広場で約7cmの厚さの漆喰層が発掘されている。
この広場は全体がわずかに傾いていて、漆喰にはじかれた雨水を貯水池へ導く工夫がされている。(日本の漆喰使用は飛鳥時代(AD593~712)の高松塚古墳やキトラ古墳などの建造物に漆喰が用いられていることから、日本には約1,300年前に漆喰の加工技術が渡ったと考えられています。)

マヤ文明では本もあった! この漆喰を利用して、木の皮から作った紙のようなものに漆喰の粉で下塗りして、文字や絵を色彩豊かに書き込んだ絵文書がある。 多くはスペイン侵攻の折に焼き尽くされたといわれ、現存するのは4冊だけとなっている。(スペイン・マドリードの考古学博物館所蔵)
ウエブ情報から引用
(日本の最古の本は712年「古事記」)

今では、グアテマラ北部のペテン県は、ティカルは、鬱蒼とした森が広がっていますが、9世紀末から10世紀初には複合神殿群(コンプレッホ)の建造のための無計画な森林皆伐と気候変動の複合原因で滅亡しました。 森林が世界各地で自然発火の山火事を起こしている地球温暖化対策が待ったなしの課題です。

掛け替えのない地球に人間がいつまでも住めるように毎度の祈りですが、温暖化対策は、みんなでやれる『できるだけの節電・節水・節食、移動には自転車・バス・電車』と、政界・産業界のリーダーの皆様に頑張って頂く、CO2排出削減は次のビッグ3『発電業・製造業・運輸業』での喫緊対策です。 みんなでやる『節電・節水・節食、移動には自転車・バス・電車』も、『発電業・製造業・運輸業』の規模縮小につながります。 限界のある狭い地球ですので、皆で頑張りましょう。
(記事投稿日2023/09/17、#685)
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『新大陸のメキシコ古代文明「オルメカ」は、四大文明に敵う』 『古大陸の4大文明(紀元前14000年~紀元前5000年)は大河のほとりに』

2023-09-16 17:30:58 | 歴史・世界・古代
『新大陸のメキシコ古代文明「オルメカ」は、四大文明に敵う』
『古大陸の4大文明(紀元前14000年~紀元前5000年)は大河のほとりに』
『オルメカ文明(紀元前1200年~紀元前後)、メキシコ湾岸の密林に誕生』

古大陸の大河の畔の四大文明
『四大文明』は『四大河文明』とも表現しているが、国際的な用語では『文明のゆりかご』(Cradle of civilization)。 温暖な気候で大河川が流れる地域において定住生活を始めた人類は、農業の発展によって食糧生産を安定させたことで爆発的に人口を増やしました。 大河川は定期的に氾濫を繰り返すために、それに備えて天文学が発達して、治水のための技術も発展、さらに人口とその組織化が必要であった。 その結果、都市や国家が形成されて、四大文明が誕生することになりました。 

アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸の『四大文明』
特徴は、大河(定期的氾濫)の近く、暖かい、文字の開発、青銅器の利用
  • 中国文明(紀元前14000年から紀元前12000年頃)
  • インダス文明(紀元前7000年頃)
  • メソポタミア文明 (紀元前5500年頃)
  • エジプト文明(紀元前5000年頃)

繰り返しになりますが、文明発祥・発展には、
  • 年間に河川の水位が数メートルから十数メートルと大きく変化するが、
  • 河床勾配は、小さい『大河の近く』で、
『治水と農業』のために、『数学・天文学ベースの文明』が発祥・発展したと考えられています。

新大陸最古のメキシコ湾岸の密林に発祥した『オルメカ文明』
新大陸でも大河川の畔で『農耕定住』であったら、もっと早く文明が発祥したかもしれません! アマゾン流域熱帯林というのは樹木に栄養源を徹底的に吸い上げられており、実は相当やせた土地であり農業に向かない地域です。 遅れてきたオルメカ文明ですが、アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明です。

最近見つけました『メキシコ古代文明年表』 タイトルの通り『とても分かりやすい』、特にオルメカの位置付けです。
ウエブ情報から引用

アメリカ大陸最古のオルメカ文明
  • マヤ文明よりも1000年も前の(紀元前1500年頃)

オルメカ文化が栄えた領域(洪水・氾濫を繰り返す大河はなかった様)
ウキペデイア情報から引用


メソアメリカ(Mesoamerica)は、メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域を指し、地理的には、北はメキシコのパヌコ川からシナロア川あたりまで、南はホンジュラスのモタグァ河口あたりからコスタリカのニコヤ湾あたりまでで、この境界線は歴史的に一定していたわけではない。

壮麗な神殿ピラミッドなどを現在も残すメソアメリカ文明が繁栄した地域であるメソアメリカでは、
  • 定住農村村落の成立(紀元前2000年以後[)
  • オルメカ文明(メキシコ湾岸;紀元前1250頃-紀元前後)
  • テオティワカン文明(メキシコ中央高原;紀元前後-7世紀頃)
  • マヤ文明(メキシコ南東部、ユタ韓半島グアテマラ、など;紀元前3世紀-16世紀)
  • トルテカ文明(メキシコ中央高原;7世紀頃-12世紀頃)
  • サポテカ文明(メキシコ・オアハカ地方;紀元前10世紀-16世紀)
  • ミシュテカ文明(メキシコ・オアハカ地方;)
  • タラスカ王国(メキシコ西部地域、ミチョアアカン州など;)
  • アステカ帝国(メキシコ中央高原;15世紀前半-1521年)
などが興亡した。

これらは、オルメカ文明に続いて、メキシコに繁栄した古代文明は、ピラミッド型神殿や都市を築き、独自の宗教観に裏付けられた天文学によって正確な暦を発明していたこと、特に数学の分野では、人類史上初めて『ゼロ』の概念を発明したといわれる。

これらの文化は、古大陸(アジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸)の文明との交流を経験せず、地理的に孤立した環境で発展した。 そのため、製鉄技術を知らず、宗教においても独自な体系を成立させるなど、他大陸の文明とは際立った特徴を有していた。  神殿文化は紀元前二千年紀の末に起こり、それから約2500年の間、外部世界の影響や干渉を受けることなく自力で発展し続けた。 ところが15世紀の末、コロンブスに率いられたスペイン人が突然侵入してきた。 その後のメソアメリカの歴史は、よく知られています。

表題『新大陸のメキシコ古代文明「オルメカ」は、四大文明に敵う』に戻ります。

オルメカ(Olmeca)は、紀元前1200年頃から紀元前後にかけ、先古典期メソアメリカで栄えた文化・文明で、アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明であり、その後のメソアメリカ文明の母体となったことから、「母なる文明」と呼ばれる。

「オルメカ」とは、ナワトルで「ゴムの人」を意味し、スペイン植民地時代にメキシコ湾岸の住民を指した言葉である。 巨石や宝石を加工する技術を持ち、ジャガー信仰などの宗教性も有していた。 その美術様式や宗教体系は、マヤ文明などの古典期メソアメリカ文明と共通するものがある。

オルメカの影響は中央アメリカの中部から南部に広がっていたが、支配下にあったのは中心地であるメキシコ湾岸地域に限られた[。 その領域はベラクルス州南部からタバスコ州北部にかけての低地で、雨の多い熱帯気候のため、度々洪水が起こった。しかし、河川によって肥沃な土地が形成され、神殿を中心とした都市が築かれた。

オルメカの文化は、出土する様々な石像に現れている。 人間とジャガーを融合させた神像は、彼らにジャガーを信仰する風習があったことを物語っている。
祭祀場では儀式としての球技が行われ、その際には人間が生贄として捧げられた。 また、絵文字や数字を用い、ゼロの概念を持つなど、数学や暦が発達していた。

特徴的な美術としては、巨石人頭像やベビーフェイスと呼ばれる石像が挙げられる。 大きな石彫だけでなく、ヒスイのような宝石を使った小さなものもあった。 巨石人頭像は、大きいもので3メートルもの高さがある巨大な石像である。 胴体は存在せず、頭部だけが作られたものと考えられている。 左右に広がった低い鼻や厚い唇といった顔立ちは、ネグロイド的ともモンゴロイド的ともいわれる。

巨石人頭像(Colossal Head)とは、メキシコ湾岸のオルメカ文化の遺跡に見られるネグロイド的風貌の人物の頭部を表現した巨大な石像のことをいう。 集落の境から出土している。

材質は玄武岩や安山岩で、最小のもので高さ147cm、最大のものでは340cmに達するが、大きさは概ね2mから3mである。 ベラクルス州で12個体、タバスコ州で4個体確認されているほか、ベラクルス州で1個体確認されている。 
巨石人頭像
ウキペデイア情報から引用

美術
特徴的な美術としては、巨石人頭像やベビーフェイスと呼ばれる石像が挙げられる。 大きな石彫だけでなく、ヒスイのような宝石を使った小さなものもあった。 

ヒスイの仮面
ウキペデイア情報から引用

長頸壺

ウキペデイア情報から引用
オルメカ独特の文様が施される。(年代は異なりますが、縄文火焔型土器とは随分異なる。)

四大文明は、いずれも気候が温暖な大きな川の流域に、紀元前3000〜前1500年の間におこった。 対して気候のハンデを負ったメソアメリカのこと、特にオルメカのこと興味は尽きません。
(記事投稿日:2023/09/16、#684)


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