知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『自然の不思議・樹木のこと 4(バオバブは数千年も生きる不思議な植物)』 ―マダガスカル西海岸とオーストラリア北部中央にだけに残れたー

2021-07-30 10:23:49 | 植物

『自然の不思議・樹木のこと 4(バオバブは数千年も生きる不思議な植物)』

マダガスカル西海岸とオーストラリア北部中央だけに残れた?ー

 

表題の『バオバブは、なぜマダガスカルとオーストラリアだけに残った』、理由は某局によって次のように説明されていました。

 

海流によってマダガスカル島の西海岸からオーストラリアの北中央部に種が流れつき、そこだけに生息した。

 

パンゲア大陸時代に陸続きであった。

 

バオバブの生息地はかなり広いようです。 人工的に移植されたケースも多々ありますので、 ❶と❷、どちらも、これから調査・勉強するために、ウキペディア情報から抜粋・引用、ブログに纏めました。

 

名称

『バオバブ』の名は、16世紀に北アフリカを旅したイタリア人植物学者が『バ・オバブ』と著書に記したのが始まり。 元はアラビア語のブー・フブーブ(種がたくさんあるもの)から来ているという説がある。

 

アフリカバオバブ

ウキペディア情報から引用

 

芽吹いたバオバブの群れ セネガル

ウキペディア情報から引用

 

アフリカバオバブの花

ウキペディア情報から引用

 

アフリカバオバブの実

ウキペディア情報から引用

 

特徴

サバンナ地帯に多く分布する。 幹は徳利のような形をしていて、高さは約30メートル、直径は約10メートルに及ぶ。 最大のものは南アフリカ共和国のリンポポにあり、高さ47メートル、直径15メートル。  中は空洞になることが多い。 葉は幹の上部につき、乾季に落葉する。 花は白色で大きい。 果実はヘチマのように垂れ下がり、堅い。 大木の幹には10トンもの水分を蓄えており、乾季になると葉を落として休眠する。 休眠中は、幹内の水分で生き延びる。(温暖化などと言っていられない、最近の『激甚気象下での食糧危機の救世主として』)

 

年輪がないので樹齢を知ることは難しいが、数千年に達するといわれる。 放射線年代測定は可能である。 2011年に枯死したジンバブエのバオバブは、樹齢2500年と推定された。 バオバブには、個別に名前が付けられている有名な古木・巨木もある。 ジンバブエの「パンケ」(樹齢約2500年)、ナミビアの「グルートブーム 」(樹齢約1500年)、ボツワナの「チャップマンバオバブ」(樹齢約1400年)そして南アフリカ共和国リンポポにあり大きさでは世界トップの「サンランドバオバブ」(樹齢約1100年)である。 だが南部アフリカではバオバブの枯死が相次いでおり、これらの古木・巨木も一部または全てが枯死した。(縄文杉並みの長寿) 

 

原因としては気候変動、灌漑の水分で乾燥に強いバオバブの根が腐ったことなどの可能性が指摘されている。

マダガスカル南西部のムルンダバはバオバブが林立することから「バオバブ街道」と呼ばれ、観光名所になっている。

 

利用

アフリカ諸国では食用など様々に活用され、親しまれている。  オーストラリアの先住民族アボリジニの間では、ブッシュ・タッカーとして古くから消費されていた。  果肉は食用・調味料とされ、セネガルでは『サルのパン』と呼ばれる。 ビタミンCがオレンジより多く、カルシウムも牛乳より多いといわれる。 種子からは、油が採集できる。 また、若葉を野菜として利用する。 樹脂は煎じて解熱剤に用いられるほか、細かく裂いて編めば強靭なロープを作ることができる。

 

マダガスカルの企業レナラ社は2012年以降、ビタミンCや抗酸化物質を多く含む果実を住民から買い取り、化粧品や栄養補助食品に加工して販売している。 苗木を配布している団体もある。バオバブを見学する観光客を誘致するエコツアーリズムを含めた商業利用は、バオバブの保護をも目的としている。

 

今回のことで、このユーモラスな格好で、激甚気候に強く、食糧危機にも役立ちそうなバオバブのこと今後も勉強のためにも、是非ベランダの大鉢で育ててみようと思っています。

(20210730纏め、#363)

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『縄文人は・縄文文化は凄かった 4(ムラ・ハラ・ノハラ)』 ―村・原・野原から解かる、1万余年続いた縄文人の生活の知恵―

2021-07-28 09:15:21 | 歴史・日本

『縄文人は・縄文文化は凄かった 4(ムラ・ハラ・ノハラ)』

『村・原・野原から解かる1万余年続いた縄文人の生活の知恵』

 

 オリンピック真最中の本日(20210728)の日経新聞の社会欄に載っていました。 見出しは『縄文遺跡群、世界遺産に 北海道・北東北の17件』です。ユネスコの諮問機関の報告骨子です。

『先史時代の農耕をと伴わない定住社会と複雑な精神文化、定住社会の発展段階や環境変化への適  応を示している』

 

縄文人・縄文文化の凄さは、表題の通り『ムラ(村)・ハラ(原)・ノハラ(野原)』から解かる、1万余年続いた縄文人の生活の知恵です。

 

今までに、拙作ブログに纏めてきました。

 

❶『縄文人は・縄文文化は凄かった 1(縄文石器は世界最古か)』

 (記事投稿日:2020/02/02、最終更新日:2020/10/01)

❷『縄文人は・縄文文化は凄かった 2(1万3千年も自然と共存)』

 (記事投稿日:2020/12/12、258

❸『縄文人は・縄文文化は凄かった 3(4500年前の火焔型土器)』

 (記事投稿日:2020/12/13、259

 

 縄文時代の最盛期4,500年前ごろ、この時代に、ピラミッド建造の歴史のほぼ真ん中で最も完成度の高いエジプトの大ピラミッドが建造された。 ピラミッド建造は数世紀続き、初期―中期(完成度が高かった)―後期があり、その後、神殿建造へと変化した。

 

同時代に1万余年も続いた縄文時代中期の全盛期には、三内丸山遺跡に縄文文化が存在した。 当時、地球上の文明・文化には大きな違いがあった。

  • 縄文は定住採集・狩猟・漁労で農耕(田畑)なし
  • 古代エジプトは定住で『農耕(田畑)あり』)があった。 

現在でも、地球上に竪穴式住居は現存し、人が住んでいる。 地球上の人類は不思議で興味津々です。

 

4,500年前の三内丸山遺跡(復元住居)

  

 

4,500年前の大ピラミッドコンプレックスの縄張りとピラミッドの内部構造

 

 


ギザの大ピラミッドの完成時の予想図

 

『人類は自然を克服しながら、文化を築いてきた』と言われるが、縄文人は、モンスーン気候の中で、居住区の周りにハラ・ノハラをおいて『採集・狩猟・漁労』ができるようにしていた。 これは水稲・定住がはじまる前に数千年も続いていたように思われます。 古代エジプト人は、砂漠気候の中でナイル川の氾濫を、克服するよりは利用・共存するような時代が、やはり数千年続いていた。

 

このように『人類は自然を克服』するよりも、自然と共存できた時代に、古代日本でも1万余年も続いた縄文時代の、その中期の全盛期には、三内丸山遺跡には縄文文化が存在した。

 

三内丸山遺跡

  • 大型竪穴住居が10棟以上
  • 約780軒にもおよぶ住居跡
  • 祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物

 

最近、異分野、文学者・医学者・科学者の先生方の歴史書を読む機会がありました。 それも興味のあるのは、縄文・弥生・古墳・奈良時代です。 それぞれが素人にも解りやすい解説をされていました。 歴史学の中に理論的・科学的分析が多くされており素直に納得が出来ました。

 

先ずは、感銘を受けた本『縄文文化が日本人の未来を拓く』の著者の國學院大學名誉教授 小林達雄氏のウエブ情報のプロフィールからです。

 

 1937年新潟県生まれ。文化庁文化財調査官などを経て85年、國學院大學教授。縄文人の世界観から土器文様を読み解くなど従来にない視点から問題提起を続ける縄文研究の第一人者。新潟県立歴史博物館名誉館長。著書に『日本原始美術大系I 縄文土器』(講談社)『縄文文化の研究』全10巻(編著、雄山閣)『縄文土器大観』全4巻(編著、小学館)『縄文土器の研究』(小学館)『縄文人の世界』(朝日新聞社)などがある。

 

この本の『縄文文化が日本人の未来を拓く』の冒頭に、

 

  • 日本の文化は世界的に注目されている。 それは注目される個性と、他のどこの文化にもない特殊で独自のもので、それは欧米とか大陸にはない歴史を持っているから。 その独特の歴史が『縄文時代』、1万年以上にわたる自然と共存した歴史。 

 

  • 大陸側の人々は、定住すると、自然と共生しないで、人工的な『ムラ』の外側に人工的な機能を持つ耕作地『ムラ』があった。 『ムラ』の周りの自然は開墾すべき対象であった。

 

  • 一方の縄文は、『狩猟・漁労・採集』によって定住をしていたので、『ムラ』の周りには自然の『ハラ』を温存し、自然の秩序を保ち、自然の恵みをそのまま利用、それが1万年以上も続いた。

 

  • 縄文は、1万年以上という長い時間が過ぎただけでなく、その時に文化的遺伝子(ミーム)というものが沢山生まれて、その中のいくつかが、大和言葉を介して、現代まで続いてきている。

 

  • 子供の時に習った『人類は自然を克服しながら、文化を築いてきた』というのは、農耕文化で自然を征服しようとする関係になってから、その方針に乗りだしたのは弥生時代から。

 

世界に先駆け定住を果たした縄文時代、石器時代は、自然の中で、動物と同じように食料を求めて、遊牧的な生活をしていた。

 

  • やがて大陸では、『農耕・牧畜』の開始により旧石器時代から新石器時代・定住の時代に、メソポタミアでは1~2万年前、インドやペルーでは0,9~1.1万年前、エジプトでは0.8万年前、中国では0.7万年前、メソアメリカでは0.5万年前に開始された。

 

  • 日本列島では、すでに5万年前に、農耕なしの『狩猟・漁労・採集』により旧石器時代から縄文時代・定住の時代に、土器の製作・使用が開始された。 大陸よりずっと先行した土器の製作は定住が必須条件です。 

 

  • 土器製作の手順、①粘土を見つけ、②精選・素地整え、③捏ねて、③ねかす

④底部を作って、器壁の立ち上げ、⑤全体の成型、⑥器面にデザイン(火焔土器)、⑦十分に乾燥、⑧薪を集め、焼き上げるという大変な作業工程です。

 

縄文定住革命は、農耕なしの縄文独特の『狩猟・漁労・採集』で、縄文人は、その活動拠点を自然界の中に見つけ、それなりの広さを確保し、村を定め、その周りに、食糧確保用のハラ(原っぱ)をつくった。

 

現代の日本も、日本人も、縄文時代を振り返り、精神面での豊かさを目指して、老いも若きも頑張りたいものです。

(記事投稿日:2021/03/25、最終更新日:2021/07/28、#299)

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『インドネシアの魅力 1(シンガポールに9年も住んだのに)』       ―魅力沢山のインドネシアはバタム島だけ100回余りも―

2021-07-27 22:38:45 | 地球・火山・地震・津波

『インドネシアの魅力 1(シンガポールに9年も住んだのに)』      

魅力沢山のインドネシアはバタム島だけ100回余りも―

小スンダ列島の夕景撮り・朝日撮りをしたかった―

 

アジアには、是非旅行・訪問したかった国に、中国・インド・インドインドネシアがありますが実現できたのが中国だけでした。 海と山の好きな方には、魅力いっぱいな国がインドネシアです。 このお隣のシンガポールに9年も駐在していたのにもかかわらず、インドネシアの自然や遺跡を旅行できず仕舞いでした。 しかしシンガポールに隣接のインドネシア領のバタム島には『極少ない方』ですが、100回余も通い詰めました。


シンガポール
島の南海岸から、約20キロメートルのリアウ諸島内に位置するバタム島は、シンガポール駐在のゴルフ好きな日本人にとっては、最高の環境であったと思います。 年100回プレイをターゲットにしたゴルフ好きの猛者もおりました。 仕事は週五日でこなす、文武両道ならぬ『ビジネス・ゴルフ両道』のジャパニーズビジネスマンの面々だったようです。 

 

月一度のバタム島ゴルフでも貴重な経験もできました。 幅広いコースでしたので、思いっきり打つと、たまたま、二百数十ヤード飛んで、フェアウェイなのに、ゴルフボールが視界から消えました。 その時、若い女の子のキャディが、遥か遠くのボールをティーグラウンドから『即』見つけるのに驚き、現地の方に尋ねると『視力5.0』と言われました。

 

後で分かったことは、アフリカのマサイ族の人は、目がとてもいいことで知られています。 その視力は、平均3.0ともいわれ、さらには11.0という驚異的な最高数値の視力を持つ人も存在するそうです。 これでバタム島の女の子のキャディが『視力5.0』に凄いものだと納得した記憶があります。

 

前置き余談が長くなりました。 表題に戻ります。

 

インドネシアは5,110㎞と東西に非常に長く連なる、世界最多の島嶼を抱える島国である。 同国は赤道にまたがる1万3,466もの大小の島により構成されています。

 

そのインドネシアの主要部をなす列島。 一般にスマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、スラウェ島などの大きな島からなる大スンダ列島と、バリ島からチモール島までの比較的小島からなる小スンダ列島に分かれる。

 

面積141万8000平方キロメートル。 アルプス造山帯と環太平洋造山帯が接触するため多数の火山が点在する。 現在活動中のものは112を数える。 しかし、スマトラ島の北東部の低地からボルネオ島にかけては火山は存在しない。 ジャワ島、バリ島はよく耕地化された人口稠密な地域である。

 

インドネシア

ウキペディア情報から引用

 

小スンダ列島

ウキペディア情報から引用

小スンダ列島の衛星写真、スンバ島は中央。 スンダワ島は、スンバ島の左上(北西)です。 この俯瞰写真は、海好き・山好きにはたまりません。

 

スンバ島

 

ウィキペディア情報から引用

 

スンバ島、ワラキリビーチのマングローブ林夕景

ウェブ情報から引用

 

スンバワ島

実は、このスンバ島の隣には、似た名前の巨大火山のスンバワ島が、スンバ島の北西にあります。 ここも、地球に興味のある人には一度は行ってみたい島です。

ウィキペディア情報から引用

 

スンバワ島は、環太平洋の火山帯に属し、火山が多く、北部のサンガル半島の中央部にそびえるタンボラ山 (2,850m) は、1815年に9万人以上の犠牲者を出す有史以来最大級の噴火を起こし、4,000mあった標高が沈降し現在の高さになった。 100立方キロメートルの灰が上層の大気に広がり、1816年は『夏のない年』と言われた。 また、それ以前の噴火でタンボラ王国として考古学者に言われている文明が破壊されたこともあるそうです。

 

タンボラ山クレーター

 

ウィキペディア情報から引用

 

この火山噴火の規模がいかに大きかったかを表す指数『VEI(火山爆発指数)』があります。 また脱線・余談になりますが、1815年のタンボラ山噴火は、最上位はイエローストーン火山の『VEI-8』に次ぐ、『VEI-7』になります。

ウィキペディア情報から引用

インドネシアの主要部をなす列島、 大スンダ列島のスマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、スラウェ島など、小スンダ列島のバリ島からチモール島まで、やはり大きな夢があります。 グーグルマップの地図上の旅行でさえも!  

(20210727纏め、#362)

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『世界の宮殿 1(ヴェルサイユ宮殿の大噴水が凄い)』  ―水道橋はローマ人に倣ったか、噴水のための運河掘削までもー

2021-07-25 22:53:02 | 宮殿

    『世界の宮殿 1(ヴェルサイユ宮殿の大噴水が凄い)』 

『水道橋はローマ人に倣ったか、噴水のための運河掘削までも』

 

このヴェルサイユ宮殿はフランスの歴史の象徴です。 数回行ってますが、いつもフランスの偉大さに驚かされます。 フランスの歴史は、先史時代・ケルト時代・ローマの支配・フランク王国・封建社会・英仏百年戦争・絶対王政・革命と帝政・パリコンミューン・共和制とヨーロッパ大陸の中心で、激しい政治変革の多かった国です。

 

今回はヴェルサイユ宮殿の大噴水について調べてみました。 理由はセーヌ川を、初めて見たときに、パリ市内では、河岸堤防が水面から3~4ⅿと低く、河川敷もなく、中下流地域には堤防がありません。 今までは、洪水位が低いため自然堤防に頼っているところが多かったようです。 日本は急峻な中央分水嶺からの急流の所為で、状況が異なります。

 

こんな時に、ドイツ・ベルギーを中心とした欧州北部の洪水のニュースを知り、フランスも対岸の火事ではないように思いました。 このような時期には、治水とは関係ない、『ルイ14世の贅沢な、大盤振る舞い』のセーヌ川の水をポンプ揚水し、ヴェルサイユ宮殿の大噴水へ『水』を供給するということに、俄然興味がわいてきました。

 

ヴェルサイユ宮殿Palais de Versailles

1682年にフランス王ルイ14世『1638年 – 1715年、在位1643年(5歳で即位) -1715年』が建てたフランスの宮殿(建設当初は離宮)である。ヴェルサイユ城(Château de Versailles)ともいい、フランス語ではこちらの表記がよく使用されている。

パリの南西22キロメートルに位置するイヴリーヌ県ヴェルサイユにある。 バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名。

 

1668年のヴェルサイユ宮殿

ウィキペディア情報から引用

 

庭園の配置図(1789年)。図の右下にヴェルサイユ宮殿、左上に大・小トリアノン宮殿、その下に大運河とアポロンの泉水を配置した。

 

 

ウィキペディア情報から引用

 

噴水庭園

ウィキペディア情報から引用

 

宮殿の建設よりも労力を費やされている噴水庭園には、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されている。そして、その噴水にはルイ14世の三つの意図が込められている。

 

『水なき地に水を引く』

ヴェルサイユには近くに水を引く高地が無い。 ルイ14世は10km離れたセーヌ側の川岸にマルリーの機械と呼ばれる巨大な揚水装置を設置し、堤の上に水を上げさせた。 そして古代ローマに倣って水道橋を作って、水をヴェルサイユまで運び、巨大な貯水槽に溜め込んだ。こうして水無き地で常に水を噴き上げる噴水庭園を完成させ、自然をも変える力を周囲に示した。

 

『貴族を従わせる』

ルイ14世は10歳の時にフロンドの乱で、貴族たちに命を脅かされたことがある。 ルイ14世はこの体験を一生忘れず、彼は貴族をヴェルサイユに強制移住させた。

  • 「ラトナの噴水」は、ギリシャ神話に登場するラトナが村人に泥を投げつけられながらも、息子の太陽神アポロンを守っている銅像と、その足元にある蛙やトカゲは神の怒りに触れて村人たちが変えられた像を、模った噴水である。ラトナとアポロンはフロンドの乱の時、彼を守ってくれた母と幼いルイ14世自身を示し、蛙やトカゲに変えられた村人は貴族たちをあらわしている。 王に反抗をする者は許さないという宣言を示している。
  • 「太陽神アポロンの噴水」は、アポロンは天馬に引かれて海中から姿をあらわし、天に駆け上ろうとしているものを模った噴水である。アポロンはルイ14世自身をあらわし、彼が天空から地上の全てを従わせると示している。 

「民衆の心をつかむ」

ルイ14世は民衆の誰もがヴェルサイユに入るのを許し、民衆に庭園の見方を教える「王の庭園鑑賞法」というガイドブックを発行した。 それには「ラトナの噴水の手前で一休みして、ラトナ、周りにある彫刻をみよ。 王の散歩道、アポロンの噴水、その向こうの運河を見渡そう」と書かれている。 民衆は、ガイドブックに従って庭園を鑑賞することで、貴族と自然を圧倒した王の偉大さを刷り込まれていった。 夏、ヴェルサイユでは毎晩のように祭典が催され、訪れた民衆はバレーや舞劇に酔いしれた。

噴水庭園は、遠近法を用いて修景され、宮殿からラトナの泉、タピスヴェール(Tapis Vert、緑の絨毯)に沿って、アポロの戦車の盆地へと続いている。 水面から昇る戦車は、太陽の昇りを象徴した。 鉛で鋳造された後に金メッキが施されている。 噴水の向こうには、大運河(Grand Canal)が公園の南端まで1800メートル伸びている。

 

ヴェルサイユ宮殿旧城

ウィキペディア情報から引用

 

中国の巨大な運河の方が実用的でこれは比較にならないが、秀吉の金ぴかは屋根瓦にまでメッキしたが、ルイ14世は、礼拝堂に最も金を・礼拝堂の天窓に最も費用を・離宮で狩場であった広大なヴェルサイユ宮殿の贅沢さにはかないません。 ヨーロッパ大陸の中心で、激しい政治変革の多かった国が良くわかります。

                    (20210725纏め #361)

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「古代の日本は・日本人は凄い 2(石の宝殿 1)」—国の史跡で横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2m、重さは500トンを超える—

2021-07-23 09:34:33 | 歴史・日本

 『古代の日本は・日本人は凄い 2(石の宝殿 1)』

   —国の史跡で横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2m、重さは500トンを超える—

最近、ウエブ情報で見つけました『生石(おうこし)神社』にある『石の宝殿』は、
『日本の三奇』の一つです。 
生石(おうこし)神社の石の宝殿 兵庫県高砂市
② 御釜神社の四口の神釜 宮崎県塩釜市
③ 霧島東神社の天の逆鉾 宮崎県高原町

ウエブ情報(ウキペディア『石の宝殿』)から引用

石の宝殿は、国の史跡で横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2m、重さは500トンを超える竜山石と知られる凝灰岩の岩山の中腹を削って作られ、三方を加工前の岩盤に囲まれている珍しい巨大な石造物。 残りの一方は削りとられ、そこに生石神社があります。 『石の宝殿』の下部の岩盤は大きくくぼんでおり、池になっており、『浮石』と呼ばれるゆえんは、『わずかにつながった底部中央の支柱状の部分』が巨石自体の死角になり、巨石が池の上空に浮かんでいるように見えるためであること。 この『石の宝殿』は、この構造から、完成後どこかに移動させ、設置しようとした可能性があります

さらに、もう一つ「浮石」と呼ばれるゆえんがあります。 この『浮く』は石工の用いる言葉で、岩にひびが入る即ち割れ目の出来ることを意味しています。 即ち、石宝殿と台石との間(『わずかにつながった底部中央の支柱状の部分』)にひびが入っているので『浮石』と言われる説もあります。 この割れ目と底部構造が完成後の移動を想像させます。

石の宝殿に匹敵する石の遺跡があと二つあります。 これらを将来『日本の三奇石』呼ばれることを期待しております。 
❶酒船石 奈良県明日香村 30トン 7世紀末

ウエブ情報(ウキペディア『酒船石』)から引用

生石(おうこし)神社の石の宝殿 兵庫県高砂市 500トン 8世紀初
 今回のテーマの写真とスケッチのコピー参照

❸益田岩船 奈良県橿原市 715トン 9世紀初

ウエブ情報(ウキペディア『益田岩船』)から引用

 江戸時代、本格的な建造物の『生石(おうこし)神社』がなかった時に、シーボルトがスケッチを残しています。

福岡県立図書館 郷土資料課「シーボルト『NIPPON』 図版編」より引用

福岡県立図書館 郷土資料課「シーボルト『NIPPON』 図版編」より引用

福岡県立図書館 郷土資料課「シーボルト『NIPPON』 図版編」より引用

ウエブ情報(シーボルトの石宝殿のスケッチ石宝殿の画像)より引用

 世界には、場所と年代は違っても、岩盤の地上から掘り下げて作られた、不思議な建造物があります。 

(1)『石の宝殿』、8世紀初に建造

ウエブ情報(『石宝殿の画像』)から引用

 

(2) エチオピア ラリベラの『岩窟教会』、12世紀~13世紀に建造 

イスラム教に追われ、第二のエルサレムとして建造された岩窟教会群の一つ。
高さ12mの3階建てで、外観は十字架の形をしている最も有名な岩窟教会です。

ウエブ情報(エチオピア ラリベラの岩窟教会『地面の下に築かれた”第二のエルサレム”』)から引用

 古代の石の遺跡には、夢とロマンがあります。 これからも紙上、ネット上の調査ではありますが、続けていきたいと思っています。
 (記事投稿日:2020/03/21、最終更新日:2021/07/23、#149)

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