知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『大ピラミッドのこと 13-2(2013/12/30テレ東の「古代エジプト”新世界七不思議”」見て、増々その凄さと不思議が残った!) 2』

2024-01-02 23:06:03 | 歴史・世界・古代
『大ピラミッドのこと 13-2(2013/12/30テレ東の「古代エジプト”新世界七不思議”」見て、増々その凄さと不思議が残った!) 』

『玄室「王の間」、「女王の間」やそれらに至る通路にも壁画などの装飾は全く見当たらない。 花崗岩の壁が続くだけ。 何故!』

『縄文時代の三内丸山遺跡の大人の墓(土坑墓)と比較、驚き!』

日本の縄文時代に、エジプトでは230万個のキューブ石を、傾斜52度で接着剤なしで、202段、高さ146.6m(現在の高さ138.8m)積上げ、その上に、磨き上げて碑文を彫った高さ4~8ⅿの数トンの四角推のキャップストーン(ベンベン石)を載せて、さらには、歴史上100基以上のピラミッドの中で一基『クフ王のピラミッド』だけに、物凄い、複雑な内部構造の設計・建造をしています

古代エジプト王国の墓所・神殿建造物の形式推移は再掲載、

  • BC2600-BC1800ピラミッド複合体(墓所と神殿)
(約千年続き、真ん中が全盛期の三大ピラミッド、以後は衰退)
          ↓
  • BC1600-BC1100カルナック神殿複合体(神々のすむ場所)
          ↓
  • BC1500-BC1000王家の谷(岩窟地下墓所群)、とありますが、

それでも、やはり、凄いのは、ピラミッド建造の歴史約800年の、ほぼ真ん中が最盛期で、その構造・技術・規模が最高であったクフ王の大ピラミッドです。 

エジプトのクフ王のピラミッドは、約4,500年前に建造された世界最大規模の石造建築物です。 クフ王のピラミッドは、同時期に建造された他のピラミッドと比べて、非常に複雑な内部構造を有しています。 ピラミッドの内部構造は、王の間、女王の間、地下の間が1m程度の通路でつながれており、中心部には王の間へ通じる大回廊と呼ばれる巨大な空間があります。 さらに、ピラミッドの北側には、クフ王のピラミッドにしか見られない『シェブロン』と呼ばれる特徴的な切妻構造の石組みが見られます。 『シェブロン』は、建造当時は、ピラミッドを覆う化粧石に覆われていて外見からは確認できない構造であったと考えられています。 シェブロンの下には、建造当時のピラミッドの入り口が確認されており、その通路は地下の間へ向かうことから下降通路と呼ばれています。 現在、観光客は、この通路からピラミッドの内部へ入ることは出来ず、アルマムーンの通路と呼ばれる、後世にアルマムーンにより空けられた別の水平通路から入り、上部へと続く上昇通路を通り、大回廊を抜けて王の間を見学することができます。

ピラミッドの歴史上100基以上のピラミッドの中でクフ王の大ピラミッドだけの画期的内部構造
『縄文時代の三内丸山遺跡の大人の墓(土坑墓)と比較、驚き!』

 ウエブ情報から引用

大ピラミッドの内部は、多くのピラミッドの中でも特異な構造をしている。 この構造は当初からの計画であったか、あるいは、いくたびかの設計変更が加えられたのか、諸説あるが結論は出ていない。 ボルヒャルト・ルートヴィヒは最初に玄室に計画されたのが地下室で、次に女王の間、最後に王の間と3段階に計画が変更されたとしている。 これに反対し単一の計画で作られたとする研究者にはヴィート・マラジョッリョやライナー・シュターデルマンらが居るそうです。 この論争の決着はいつになるのでしょうか。

シェプロン(切妻構造で構成された空間)は、キューブ石と、その上に化粧石で蓋、シェプロンは重力軽減の間の上や、通路入り口に!

ウエブ情報から引用

ピラミッドに取り付かれて10数年になりますが、結局、沢山の謎と不思議が残りました。 残り短い余生ですが、まったく退屈せずに過ごせそうです。
ピラミッドには未だに謎が多い。というよりも、ほとんどが謎と言って良いだろうと思います。 ウエブ情報にこうありました。 素直に納得です。
『「ピラミッドは古代エジプト王の墓である」と思っている方が多いのではないであろうか。 しかし、実際に内部を見てみるとこの説は俄かには信じ難く成ってくる。 全く装飾性というものが見当たらないのである。 玄室と言われる「王の間」、「女王の間」やそれらに至る通路にも壁画などの装飾は全く見当たらない。 花崗岩の壁が続くだけである。実際にミイラが見つかっているルクソールの王墓とは全く対照的である。では、ピラミッドとは何なのだろう?

元々、ピラミッドは白い石灰岩の化粧石で覆われていたそうである。 化粧石のほとんどは後の世に持ち去られてしまったそうだが、大ピラミッドの底部に一部残存している。 建造当時、ピラミッドは白く光り輝いていたのであろう。その光景を想像してもらいたい。 古代の人々はそれを見て何を感じただろうか。 目の前にある巨大なピラミッドから放たれるパワーを感ずるのではないだろうか。
(これが4500年前の日本の縄文時代と同じ時代の建造物です)

ウエブ情報から引用
では、そのパワーの源は?「王の墓」であればそれは先代の王かもしれないが、ちょっとパワー不足だろう。 当時の太陽信仰から考えると、それは「太陽」と考えるのが妥当ではないか。 太陽のパワーを内部に蓄え、それをエジプト全土、あるいは世界中に放射する装置としてピラミッドを建造したのではないだろうか。 この様なパワーを内部に蓄える (と主張する) ためには何らかの相応な宗教儀式が必要になる。 その儀式を執り行うのは王であろう。 儀式を通して、結局、ピラミッドは「王の威光」を象徴する存在と成ったのではないだろうか。

 以上の様に考えると装飾性の欠如は自然に理解できる。 重要だったのは外観で、内部はどうでも良かったのである。 ともかく高くて巨大な建造物を作りたいと考えた古代人のたどり着いた解答がピラミッドなのではないだろうか。』

まさに大ピラミッドの謎よ『永久』です。
(記事投稿日:2024/01/02、#713)
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『大ピラミッドのこと 13-1(2013/12/30テレ東の「古代エジプト”新世界七不思議”」見て、増々その凄さと不思議が残った!) 1』

2024-01-01 23:31:55 | 歴史・世界・古代
『大ピラミッドのこと 13-1(2013/12/30テレ東の「古代エジプト”新世界七不思議”」見て、増々その凄さと不思議が残った!) 』

『大ピラミッドに大空間、縦横2m、奥行き9m、186年ぶりに発見、上部切妻構造であり、その下には重量軽減の間があると推定!』

古代エジプト王国の墓所・神殿建造物の形式推移は、

  • BC2600-BC1800ピラミッド複合体(墓所と神殿)
(約千年続き、真ん中が全盛期の三大ピラミッド、以後は衰退)
          ↓
  • BC1600-BC1100カルナック神殿複合体(神々のすむ場所)
          ↓
  • BC1500-BC1000王家の谷(岩窟地下墓所群)、とありますが、

それでも、やはり、凄いのは、ピラミッド建造の歴史約800年の、ほぼ真ん中が最盛期で、その構造・技術・規模が最高であったクフ王の大ピラミッドです。 最近、宇宙線ミューオンで発見され、確認され、映像で紹介された『航空機が格納できそうな空間』が『王の間の重量軽減の間』の斜め上方にあると、その内部(上部と推定される切妻構造のある部屋)を内視鏡スコープで撮影に成功した。

大ピラミッドは、下から見上げても、驚きますが、その上空から撮った写真で、更なる驚きです。 クフ王の大ピラミッドの凄さは、接着剤なしで、約230万個の不揃いのキューブ石材を傾斜度『51度50分40』で、完成時の高さは146.94m(現在の高さで138.74m)で建造され、崩れも、崩壊もしなかったことです。

ピラミッド表面の部分は石灰岩、内部の墓室 は 花崗岩
このトップの202段目には7個のキューブのみ、201段目は11.9ⅿx11.7ⅿ、広さで、ここに載せたキャップストーン(ベンベン石)は高さ4-8mと推定されていますが、重さは全く分かっておりません。 大ピラミッドの石材は平均2.5トン、重いものは10トン以上です。 

 ウエブ情報から引用

石灰岩の不揃いのキューブ形状だから崩れないのか
ピラミッドが今でも完璧な形を残している理由は、表面に塗られたモルタルのおかげ。 内部の石よりも固い物質なのだが、私達は未だにこの物質がなんなのか解明できていないそうです。 ここに10トン以上のキャップスト―ンをどうやって積上げたのでしょうか。

ウエブ情報から引用

一見崩れやすいと思われがちなピラミッドだが、実は大地震にもビクともしない耐震技術を備えている。  同じサイズの石を積む方が簡単なのに、なぜわざわざ石を不規則なサイズにしたのか。  その理由として、規格が同じ石を整然と積むより、不規則な石を複雑に噛み合わせて積んだ方が、耐震性が高まるからだといわれているのだ。  ギザの大ピラミッドは過去3度の大地震に襲われている。 この驚異の技術は、理論からか経験からか、まだまだ勉強は続きます。
(記事投稿日:2024/01/01、#712)
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『世界の城郭・宮殿 18-2(世界最強の城ランキング 第1位~3位)改訂版』

2023-12-03 23:18:04 | 歴史・世界・古代
『世界の城郭・宮殿 18-2(世界最強の城ランキング 第1位~3位)改訂版』 
『城の強さを日本流区分、①縄張り、②普請、③作事、から判断』

何でもランキングするこの頃ですが、城郭の強さについては、時代・年代のよっては、比較が、難しいですが、 『①縄張り、②普請、③作事』、に①縄張りに実際の攻城戦の記録を引用し、今後の引き続きの調査課題としました。

1位 コンスタンティノープル(築城4世紀・トルコ)
『コンスタンティノープルの縄張り』
この城の広さは、オランダ運河防塞線内に囲まれたアムステルダムや、中国の南京城、北京城、長安城、フランスのフランス・ベルサイユ宮殿、日本の江戸城に次いで、世界の歴代第8位になります。 330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落であった。 コンスタンティノープルの陥落・東ローマ帝国の滅亡。

東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル 
 
ウキペデイアから引用 

コンスタンティノープルの陥落
世界の歴史の中で、中世と近代の分岐点になったといわれる「コンスタンティノープルの陥落」。 西洋と東洋の間に位置するコンスタンティノープルは、難攻不落の街として西ローマの滅亡から1000年に渡り東ローマを様々な侵略者から守ってきました。
オスマン軍は、『空前絶後の、艦隊の山越え』を敢行し、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落した事件。 この事件により東ローマ帝国は滅亡。 また、「ローマ帝国の滅亡」は476年の西ローマ皇帝の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。

コンスタンティノープルの包囲戦後半で「オスマン艦隊の山越え」が行われた後の両軍の配置

ウキペデイアから引用

『コンスタンティノープルの普請』内壁の高さは12ⅿ、幅は6ⅿ
  
ウキペデイアから引用

『コンスタンティノープルの作事』
初期ビザンチン建築の最高傑作

ウキペデイアから引用

2位 クラック・デ・シュバリエ(築城12世紀・シリア)
『クラック・デ・シュバリの縄張り』
シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城で、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されている。 1163年にイスラムのザンギー朝のヌールッディーンの包囲を受けたが、これを退ける。 1188年にイスラムのアイユーブ朝のサラディンによる包囲にも耐え、1207年にはサラディンの弟アル=アーディルの攻撃を凌いだ。 1273年の第9回十字軍時にイングランドのエドワード1世がこの城を訪れており、これを参考にしたエドワード式コンセントリック型の城をイングランドやウェールズに多く築いた。 アラビアのローレンスは、この城を世界で最も素晴しい城だと述べた。

ウキペデイアから引用

『クラック・デ・シュバリの普請』 城壁高:20m

ウキペデイアから引用

『クラック・デ・シュバリの作事』 

ウエブ情報から引用

3位 ドーバー城(築城11世紀・英国)
『ドーバー城の縄張り』
ドーヴァー城はイギリスのケント港湾都市ドーバーにある城。 11世紀に建設され、歴史を通じてその戦略的な重要性から「イングランドへの鍵」と呼ばれた。 ウィンザー城と並んで、イングランド最大の城砦とされる。

ウキペデイアから引用

ドーヴァー城包囲戦(1216年7月19日~10月16日)
ヘンリ2世、リチャード1世を継いだジョン王はフランス王フィリップ2世によって1206年までにフランス側領土の大半を喪失、起死回生を狙って神聖ローマ帝国や反フランス王諸侯と同盟を結んで臨んだ1214年のブーヴィーヌの戦いでも大敗し、1215年、諸侯の反乱を招いた。反乱諸侯はジョン王に替わってフランスの王太子ルイ(のちのルイ8世)にイングランド王即位を求め、フランス王もこれを承認、1216年6月、王太子ルイ率いるフランス軍がイングランドに上陸した。ジョン王は劣勢の中ロンドンから逃亡、ルイはロンドンに入城したあと、自ら軍を率いて1216年7月19日、要衝ドーヴァー城の攻略に取り掛かる。
ルイはブーヴィーヌの戦いの前哨戦で別動隊を率いてイングランド軍を敗走させるなど父王フィリップ2世の覇業を助けて数々の軍功を挙げた戦上手で知られた人物である。即位後には南フランスを一気に征服するなど、後に「獅子王(le Lion)」の異名で知られることになる知勇兼備の勇将であった。
ドーヴァー城は城将ヒューバード・ド・バークが守りを固め、三か月に渡ってルイの猛攻をしのぎ続け、あわや落城かというところまで追い込まれながらも、結局ルイは落城させることができなかった。そのドーヴァー城の奮戦に応えて10月に入りケント一帯で反乱が勃発、ルイはついに攻略を断念して10月16日、和睦を申し入れる。さらにその3日後10月19日、まさかのジョン王病死によって、ルイはイングランド攻略の大義名分を失い、幼い王太子ヘンリがウィリアム・マーシャルらに擁立されてヘンリ3世として即位するとルイ派は劣勢に追い込まれ、1217年、リンカンの戦いで敗北、撤退を余儀なくされた。
これが、ドーヴァー城が亡国の危機を救った”最初の”戦いだった。

その後、イングランド内戦中、ドーヴァー城は国王派の支配下にあったが、1642年に議会派によって奪取された。 ドーバー城の攻防は内戦の記録だけで落城したことはない。

『ドーバー城の普請』 城壁高:24m

ウキペデイアから引用

『ドーバー城の作事』
改装されたゲストホール

ウエブ情報から引用

騎士たちが居並んだ風景が偲ばれます。

城は守るものですが、歴史上、城で国民を守れた時代は短かった。
(初版記事投稿日:2021/01/02、改訂版投稿日:2023/12/03、#704)
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『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 4』 『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

2023-01-15 21:24:33 | 歴史・世界・古代

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 4』

『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

『絶海の孤島の歴史「黎明期・隆盛期・衰退期」の変遷から現世界は学ぶべき!』

 

次の前置きは、『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 3』からの再掲です。

 

ロンゴロンゴの記された24の木片(文字板)が19世紀後半に収集されたが、風雨による損傷や、破損、焼失部分のあるものも多かった。 これらは現在、世界各地の博物館に分散しており、イースター島に残っているものはない。

 

先日、NHK BS『絶海!謎と神秘の巨石文明モアイとイースター島▽21のミステリー徹底究明』再放送(2021/08/26)を見ました。 もし『ロンゴロンゴ』の破損・焼失した過去の、残念な歴史がなければ、こんなに多くの謎が残らず、多くは解読・解明されたことだと思い、残念です。

 

イースター島には『ロンゴロンゴ』と言う不思議な絵文字がありました。 謎の『ロンゴ・ロンゴ』の解読と解明の歴史は? ウエブ情報の抜粋・引用です。

1770
年、
スペインからフェリーペ・ゴンザレスが、イースター島にやって来ました。 そのとき島民は、奇妙な文字でサインしたと言う。 それが「ロンゴ・ロンゴ」です。

しかし、1862年
ペルーの奴隷狩りによって、最後の読み手である、『タンガタ・ロンゴ・ロンゴ』たちも、さらわれ死んでしまった。

 

1864
宣教師ユージン・エイラウドは、島の民家から、いくつかの文字が彫られた木片を発見したと言うが、その後、島民のキリスト教改宗とともにほとんどの、『コハウ・ロンゴ・ロンゴ』のもの言う木は、『悪魔の文字』として焼き捨てられてしまった。 謎の文字となった『ロンゴ・ロンゴ』ですが、根気強い研究によって、文字の読み方は、解明されました。 まず、右上から左へ読み、180度回転させて板の上下を逆にして、下から2行目を右から左へと読む、これを、繰り返すという奇妙な読み方でした。

この文字のルーツは、インダス流域の『古代インド文字』、『アンデス文字』、『エジプト文字』と、諸説入り乱れています。 内容にしても、
  神への祈り
  神官への支持
  鳥に伝わる伝説
  死者の名簿、など様々です。

ロンゴ・ロンゴの文字が刻まれている木片で、現存しているのは、世界でたった28点。 世界各国の博物館などにあるが、イースター島の博物館には、本物は、1枚しかありません。 チリ本土の「サンチアゴ国立自然史博物館」にあるものの複製が、2枚展示されています。 この文字が解明されれば島に残された多くの謎が解明されるかも知れません。

 

ロンゴロンゴの『文字板B』

ウキペデイア情報から引用

数字は何行目かを表す数字。Fin de 13 は「13行目の終わり」という意味

 

バルテルが発表した絵文字の一例 [Jacques B.M. Guy / Public Domain / 出典]

ウエブ情報から引用

イースター島

モアイ1,000体以上、周囲60㎞、休火山3個の火山島、木がなく、川がない、動物もいない。 そのイースター島の21の謎。

 

1.  楕円形の遺跡、と

2.  石垣箱型がセットになっている

3.  石がゴロゴロなのに栄養満点のタロイモ、水分蒸発防いだ

4.  川がないが、5か所の地底湖

5.  黎明期、隆盛期、衰退期 島民のルーツはタヒチ

6.  島民のルーツは台湾?

7.  どうやって渡ってきた、ダブルカヌー

8.  綾取り創世神話、溶岩の中に巨木の化石

9.  未解読文字 ロンゴロンゴ

10. モアイ 面長、ほりが深い、長い爪

11. 頭蓋骨に羽根飾りの跡

12. 超能力             

13. 1000体も量産

14. 運び方

15. なぜ巨大化、全長12ⅿ、巨人21ⅿ、人口2万人で、12世紀3ⅿ座している、14世紀5ⅿ、16世紀10ⅿ、権威誇示

16. 星とモアイの神秘的な関係、モアイの向きとスバル?

17. 衰退原因はネズミ、海鳥の卵

18. 食料危機

19. 人骨に刃物の跡(女性・子供)森林崩壊から100年

20. 希望を託された鳥人伝説

21. ラパヌイ文明滅亡

 

ウエブ情報で備忘録にして今後の課題とします。

 

『15.なぜ巨大化、全長12ⅿ、巨人21ⅿ、人口2万人で、12世紀3ⅿ座している、14世紀5ⅿ、16世紀10ⅿ、権威誇示』

アフ・テ・ピト・クラ

1830年代に西洋人により立っていることが確認された最後のモアイ像で、プカオを含むと高さ12m、重さ90トン以上と、アフの上に立ったモアイとしては最大の大きさである。

『16.星とモアイの神秘的な関係、モアイの向きとスバル?』

島には、約三百基のアフ(モアイを乗せている台座)があり、アフの上に立てられているものは僅かしかなく、殆どが拝めるように台座の正面に設置してありますが、1体だけ、30度以上ズレて設置してあり、作為性があり、その方向は、11月に、プレアデス星団(スバル座)が見える方向で、11月は、回遊魚、渡り鳥のやって来る時期で、収穫の時期でもあり、それを知ったり、祝う為に、ラパ・ヌイ部族の首長が、設置させたと思われています。

※殆どのアフが海岸線に造られ、しかも海に背を向けているのに対し「アフ・アキビ」と呼ばれるモアイ像7体が、島の真ん中に立てられ海の方向に向け立てられ、特徴的な存在ですが、「春分と秋分の日没の方角を見つめていて、天文学的な意味が込められている」と言われています。

 

『17.衰退原因はネズミ、海鳥の卵』

文明の発達で、豊富な森林を切り開き、農地化され、さらに島に渡って来た時、航海中の食料となったナンヨウネズミですが、天敵がいない状態で、ネズミが大繁殖し、木の実などを食べ尽くした為に、約500n年で、豊富な森林が消滅してしまいました。さらに、大きな木が無くなり、カヌーが作れず、豊富な魚を採る事が出来ず、森林が無くなった事で、肥沃な土が、海に流出し、農業も衰退していきました。

 

『18.食料危機』

島内では、食料不足から、部族間の争いが起こり、部族の象徴であるモアイが、、他部族の憎しみの標的となり、倒されたり、顔などが破壊されるようになり、戦いの時代となりました。

 

『19.人骨に刃物の跡(女性・子供)森林崩壊から100年』

島の博物館にある木彫り像はあばら骨が突き出しが、おなかが異常に膨らみ、顔は苦痛の表情を浮かべています。 戦いで食糧を奪えるうちは、未だ良かったのですが、ニワトリ、ネズミなど、食料が食べ尽くされ、それを表現したのが木彫り像と言われ、島の西に「アナ・カイ・タンガタ」と言う洞窟があり、アナは洞窟、カイは食べる、タンガタは人という意味で、つまりは「食人洞窟」を意味しています。 わざと切られたような人骨などがあり、人を食べるしか
ないような状態もあったと思われ、老人、女性、子供など弱者が狙われ、島の人口は、2万人から3000人に減ったと言われます。

 

『20.希望を託された鳥人伝説』

イギリス大英博物館に、19世紀、イースター島から持ち出された唯一のモアイ像があり、特別なモアイ像で、島にあるモアイ像は、ほぼ全てが凝灰岩でつくられていますが、固い玄武岩で作られ、背中に、再生の象徴と言われる鳥のイレズミが掘られています。

部族間の戦いで、イースター島の絶滅寸前迄行き着きましたが超自然的な力である「マナ」を持つ首長信仰的なモノが崩れ新たに、それを超える存在として「鳥人崇拝」が起こり、部族統一機運と重なりました。

 

オロンゴ儀式
オロンゴ儀式村は、島の南西部にあるラノ・カウ火山の頂上にあり、儀式村は海に面した崖の上にあり、「鳥人儀式」が行われていたところで、毎年、部族の中から選ばれた者が、ここから高さ約280mの断崖を駆け下りて、1.5㎞先の島に泳いで渡り、その年、最初の渡り鳥の卵を取って戻ることを部族間で競い、最初に持ち帰った部族の長がその年一年、島を支配するという決まりで、命懸けの行為ですが戦争での大量死を防ぎ、部族統一の合理的な儀式を作りました。 ぎりぎりのところで再生の機運が起こりました

 

『21.ラパヌイ文明滅亡

1722年、イースターの日曜日に、オランダ人提督ヤコブ・ロッヘフェーンに発見されたため、イースター島と呼ばれるようになり、イースター島に黒船が来航し、その後、18世紀19世紀にかけてペルー政府の依頼を受けた外国人が島民が奴隷として連れ出すようになり、1862年に襲ったペルー人による奴隷狩りでは、数ヶ月間の内に当時の島民の半数に当たる約1,500人が島外に拉致され、外部の批判もあり、1863年に誘拐された島民が15人が、島に返されるなどしましたが、それが、逆に外部から天然痘や結核など伝染病を持ち込む事にになり、免疫を全く持たない島民は、壊滅的は被害を受け人口は更に激減し、1877年当時では僅か111人となり、この過程でロンゴロンゴ文字を初めとする文化伝承は断絶し、1888年にチリ政府が島を併合し名前を「パスクワ島」と定めました。

1960
年、チリ沖地震が起こり、アフトンガリキの15体のモアイをアフごと破壊されました。
1964年、 チリ海軍の統治に反対する政治運動がおこり、その結果、文民行政官統治への切り替えと、自治選挙の実施が認められ、1966年に 初の市長選挙が行われました。

1992年には、日本のクレーンメーカー「タダノ」が、アフ・トンガリキの15体のモアイの復帰工事を開始し、1995年に無事終了しました。

 

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった!』の残り(1~21)のこれからの調査は、楽しみな今後の課題です。 表題『絶海の孤島の歴史「黎明期・隆盛期・衰退期」の変遷から現世界は学ぶべき!』の通りです。

(記事投稿日:2023/01/15、#620)

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『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 2』 『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

2023-01-13 09:54:55 | 歴史・世界・古代

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 2』

『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

『絶海の孤島の歴史「黎明期・隆盛期・衰退期」の変遷から現世界は学ぶべき!』

 

次の前置きは、『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 1』からの再掲です。

 

ロンゴロンゴの記された24の木片(文字板)が19世紀後半に収集されたが、風雨による損傷や、破損、焼失部分のあるものも多かった。 これらは現在、世界各地の博物館に分散しており、イースター島に残っているものはない。

 

先日、NHK BS『絶海!謎と神秘の巨石文明モアイとイースター島▽21のミステリー徹底究明』再放送(2021/08/26)を見ました。 もし『ロンゴロンゴ』の破損・焼失した過去の、残念な歴史がなければ、こんなに多くの謎が残らず、多くは解読・解明されたことだと思い、残念です。

 

イースター島には『ロンゴロンゴ』と言う不思議な絵文字がありました。 謎の『ロンゴ・ロンゴ』の解読と解明の歴史は?

1770
年、
スペインからフェリーペ・ゴンザレスが、イースター島にやって来ました。 そのとき島民は、奇妙な文字でサインしたと言う。 それが「ロンゴ・ロンゴ」です。

しかし、1862年
ペルーの奴隷狩りによって、最後の読み手である、『タンガタ・ロンゴ・ロンゴ』たちも、さらわれ死んでしまった。

 

1864
宣教師ユージン・エイラウドは、島の民家から、いくつかの文字が彫られた木片を発見したと言うが、その後、島民のキリスト教改宗とともにほとんどの、『コハウ・ロンゴ・ロンゴ』のもの言う木は、『悪魔の文字』として焼き捨てられてしまった。 謎の文字となった『ロンゴ・ロンゴ』ですが、根気強い研究によって、文字の読み方は、解明されました。 まず、右上から左へ読み、180度回転させて板の上下を逆にして、下から2行目を右から左へと読む、これを、繰り返すという奇妙な読み方でした。

この文字のルーツは、インダス流域の『古代インド文字』、『アンデス文字』、『エジプト文字』と、諸説入り乱れています。 内容にしても、
  神への祈り
  神官への支持
  鳥に伝わる伝説
  死者の名簿、など様々です。

ロンゴ・ロンゴの文字が刻まれている木片で、現存しているのは、世界でたった28点。 世界各国の博物館などにあるが、イースター島の博物館には、本物は、1枚しかありません。 チリ本土の「サンチアゴ国立自然史博物館」にあるものの複製が、2枚展示されています。 この文字が解明されれば島に残された多くの謎が解明されるかも知れません。

 

ロンゴロンゴの『文字板B』

ウキペデイア情報から引用

数字は何行目かを表す数字。Fin de 13 は「13行目の終わり」という意味

 

バルテルが発表した絵文字の一例 [Jacques B.M. Guy / Public Domain / 出典]

ウエブ情報から引用

 

イースター島

モアイ1,000体以上、周囲60㎞、休火山3個の火山島、木がなく、川がない、動物もいない。 そのイースター島の21の謎。

 

1.  楕円形の遺跡、と

2.  石垣箱型がセットになっている

3.  石がゴロゴロなのに栄養満点のタロイモ、水分蒸発防いだ

4.  川がないが、5か所の地底湖

5.  黎明期、隆盛期、衰退期 島民のルーツはタヒチ

6.  島民のルーツは台湾?

7.  どうやって渡ってきた、ダブルカヌー

8.  綾取り創世神話、溶岩の中に巨木の化石

9.  未解読文字 ロンゴロンゴ

10. モアイ 面長、ほりが深い、長い爪

11. 頭蓋骨に羽根飾りの跡

12. 超能力

13. 1000体も量産

14. 運び方

15. なぜ巨大化、全長12、巨人21、人口2万人で、12世紀3座している、14世紀5、16世紀10、権威誇示

16. 星とモアイの神秘的な関係、モアイの向きとスバル?

17. 衰退原因はネズミ、海鳥の卵

18. 食料危機

19. 人骨に刃物の跡(女性・子供)森林崩壊から100年

20. 希望を託された鳥人伝説

21. ラパヌイ文明滅亡

 

『3.石がゴロゴロなのに栄養満点のタロイモ、水分蒸発防いだ』

3000年以上前の時代、イースター島は原生のままの自然で40種類以上の樹木の森で覆われていたと分析されている。 イースター島に最初の居住者がついた頃、彼らはタロいもやさとうきび、バナナ、ココナツなどを栽培した。 島の人口が増えるにつけ農作物の作付けを増やすために畑を広なければならず、そのために行われた焼畑や森林伐採は土着の植物相を急激に消失させることになってしまった。

 

島に食料として持ち込まれたネズミは、やがてヤシの木の実や根を食べ尽くす。
次第に大きな木が失われていき、木の根が保っていた肥沃な土壌が海洋に流出していく。 そうして500年をかけて、豊かな楽園は石と岩の荒地となった。

材料である大木を失ったラパヌイ人たちは、幹をくりぬいて作る伝統の丸木船を作ることが出来なくなった。


もともと保水の悪い島の土壌に加え、焼畑で森が消失したことでさらに土地は乾き荒廃していった。 近代になってとうもろこし、じゃがいも、メロン、大豆などが栽培されるようになっている。 

 

現在のイースター島は基本的にユーカリなどで構成された林が散在する牧草地に覆われた乾燥地ではあるが、チョチョと呼ばれる黄色い可愛い花やハイビスカス、ひまわりなど南国の花も咲いている

 

『4.川がないが、5か所の地底湖』

イースター島には川がない、「川がないのに昔の人はどうやって生活に必要な水を確保していたのだろう。 実は、イースター島は火山の島なので、地下洞窟がたくさんある。 地元のガイドや考古学者の方々への取材に基づき、地下洞窟を調べた結果、直径30メートルほどの地底湖が存在していたのです。 この地底湖こそがイースター島で人々が暮らすことができた鍵だったのです。

『5.黎明期、隆盛期、衰退期 島民のルーツはタヒチ』

『6.島民のルーツは台湾?』

海底火山の噴火によって形成された島に最初の移民がたどり着いた時期については諸説ある。 文字記録がないため発掘調査における炭素年代測定が有力な調査手段とされ、従来は4世紀〜5世紀頃とする説や西暦800年頃とする説が有力だったが、近年の研究では西暦1200年頃ともいう。 

 

この移民は、はるか昔に中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びとの一派、いわゆるポリネシア人である。 ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会であり、酋長の権力は絶対で、厳然たる階級制度によって成り立っている。 部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者たちの霊を部族の守り神として祀る習慣があった。 

 

タヒチでは、マラエと呼ばれる祭壇が作られ、木あるいは石を素材とするシンボルが置かれていたことからも、当時のㇻパ・ヌイでも同様に行われていたと想像できる。 化石や花粉の研究から、世界でも有数の巨大椰子(チリサケヤシの同種もしくは近縁種(Paschalococos)が生い茂る、亜熱帯性雨林の島であったと考えられている。 初期のヨーロッパ人来航者は、「ホトゥ・マトゥア」という首長が、一族とともに2艘の大きなカヌーでㇻパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。 上陸したポリネシア人は鶏と大型のネズミ、ラットを共に持ち込んで食用とした。

 

『7.どうやって渡ってきた、ダブルカヌー』

イースター島はポリネシア民族がたどり着いて共住した島と言われます。 その航路は、サモア・タヒチあたりで南赤道海流・西風海流から、フンボルト海流に乗るとイースター島付近にたどり着きます。 もちろん一回で行った訳では無いでしょうし、失敗もあってでしょうし、漂着もあったでしょうが、星の位置などで方向はつかめますから(過去のその様な土地があると解っていて)移住しようという場合は結構風任せでも計画的に行ける訳です。

 

ダブル・カヌー(double canoe)とは船体を二つ使用した大型のカヌーのこと。二つの船体は通常クロスビームを介して連結され、クロスビームの上にデッキが装着される。積載能力に優れ、この船形を用いたポリネシアの航海カヌーは、しばしば数千キロメートルもの距離を無補給で航海することが出来る

 

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった!』の残り(8~21)は、楽しみな今後の課題です。

(記事投稿日:2023/01/13、#618)

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