知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『大ピラミッドのこと 9(益々、その凄さと不思議が残った』 ―今回は230万個の石材の不揃いと想像を超えたキャップストーンの大きさ―

2024-10-06 23:21:03 | 歴史・世界

『大ピラミッドのこと 9(益々、その凄さと不思議が残った』

『230万個の石材の不揃いと、想像を超えたキャップストーンの大きさ、大 ピラミッドにはキャップストーンは理由不明の損失』

『エジプトでは地震は発生するものの その回数は極端に少なく 過去100年以上、マグニチュード6以上が発生していない』


最近ウエブで見つけました凄い写真、『エジプト、ギザの砂漠にある三大ピラミッドの中で最も大きなギザの大ピラミッドを上空から俯瞰撮影』です。 今までいろいろ調べ、4500年前の巨大石造物のスケールと、内部構造の凄さは、想像を絶するものでした。 今回の写真は、新たな凄さと不思議さの再確認でした。

 

キューブ石材の不揃いと、接着剤不使用の急こう配の積み上げキャップストーンの大きさと持ち上げ方法と取り外し方法

 

先ずは、ウエブ情報の抜粋引用です。

『エジプト、ギザの台地で圧倒的な存在感を放つ大ピラミッドは幾多の謎をわれわれに投げかけている。

そのひとつが、頂上に冠されていたはずのキャップストーンの行方だ。キャップストーンがないため、大ピラミッドは他の第2、第3ピラミッドと異なり、正四角錐ではないのだ。 
と言われているが、下記の通り、どちらもキャップトーンは失われていますので、正四角錐ではない。

 第2のカフラー王のピラミッドは、元の高さ143m、現在の高さは136mですので、キャップストーンは失われています。

第3のメインカフラー王のピラミッドは、元の高さ65.5m、現在の高さは62mですので、同様にキャップストーンは失われています。


正四角錐のピラミッドは真正ピラミッドとも称されるが、その由来は太陽信仰の聖地ヘリオポリスの神殿に祀られていた正四角錐状のベンベン石だといわれている。古代エジプトにおいて石は高貴なものだったが、中でもベンベン石は聖なる石とされ、格別の信仰対象だったのである。

ベンベン石は四角錐の黒い花崗岩で造られたもので、ちょうどピラミッドと同じ形をしている。ベンベン石、つまりキャップストーンは古代の記録から推測すると4~8メートルはあったとされるが、実物は見つかっていない。またどうやって10トン以上はあろうかというこの石を頂上に置いたのかもわからない。』

 

大ピラミッド全景

ウエブ情報から引用

 

最も大きな大ピラミッドの内部構造

ウエブ情報から引用

 

最も大きな大ピラミッドの俯瞰撮影

 ウエブ情報から引用

 ウエブ情報から引用

ウエブ情報から引用

ウエブ情報から引用

 ウエブ情報から引用

 

アメンエムハト3世のピラミッドのキャップストーン

ギザの大ピラミッドに関しては、不明です。 ほかのピラミッドでは、残っていて、発見されたものもあります。

  

ウエブ情報から引用

 

大ピラミッドには不思議がまだまだ沢山あり、必ず、どのピラミッドのトップに存在したキャップストーンも新たな課題です。

(記事投稿日:2021/06/15、最終更新日:2024/10/06 #345)

 

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『スケールが違う「ナポレオンの功罪」と「ナポレオン帝国の終焉」』 ―法整備と奴隷制復活、ワーテルロー・トラファルガー・ロシア遠征の敗戦―

2024-09-22 09:10:49 | 歴史・世界

『スケールが違う「ナポレオンの功罪」と「ナポレオン帝国の終焉」』

『法整備と奴隷制復活、ワーテルロー・トラファルガー・ロシア遠征の敗戦』

ナポレオン・ボナパルトがあまりに有名であったために、この王朝一族については知らないことが多すぎました。 知れば知るほど、一世から四世までのそれぞれの波乱万丈の生涯は、『凄い』の一語に尽きます。

ボナパルト王朝四代、ナポレオン一世・二世・三世、四世と19世紀フランスに興った王朝。 一時はフランス本国のみならず、一族が周辺諸国の君主にもなった。 

 

ナポレオン一世(ナポレオン・ボナパルト)

ウキペデイア情報から引用

ナポレオン・ボナパルト、(1769/08/15-1821/05/05)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(在位:1804年 – 1815年)となった。 

フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を樹立した。 大陸軍(グランド・アルメ)と名づけた軍隊を築き上げて、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、流刑先である南大西洋の英領セントヘレナにて没した。

英雄ナポレオン一世は軍人でしたが、クーデタによってフランスを変革し、そして世界中へ侵攻し戦争を仕掛けた人物です。 ナポレオンと言えば、『私の辞書に不可能という文字はない』という文句はとても有名です。 もう少しナポレオン一世の生涯を調べてみました。 

 

コルシカ島の貴族

1769年にコルシカ島で生まれ、彼の生家は貴族。 そして1784年にパリ士官学校に入学。 通常4年はかかる士官学校でしたが、ナポレオンはわずか11か月で卒業した、かなりのエリート。 余談ですが、ナポレオンは数学が得意で、幾何学でナポレオンの定理を発見しています

 

ヴァンデミエールの反乱

1795年にパリで王党派の反乱。 これの鎮圧の指揮を取ったのがナポレオン。彼は王党派の暴徒に対してためらいなく葡萄弾と呼ばれる大砲用の砲弾を放ちました。 しかしこの反乱を鎮めたことで、彼の名声と昇進につながることに。

 

イタリア、エジプトへの遠征

フランス革命後に革命政権を打倒しようと対仏大同盟が結ばれました。 大同盟を解体するため、1796年から97年にかけてイタリアへと遠征し、イタリアとオーストリアに勝利。 1798年からはイギリスとインドの交易を分断する為にエジプトへ。 ナポレオン軍は陸の戦いでは勝利を収めましたが、海上ではネルソン率いる海軍に敗北し、エジプトで孤立することに。 このエジプトへの遠征でナポレオンはロゼッタ・ストーンを発見しました。

 

ブリュメールのクーデタ

ナポレオンの遠征軍が孤立している中、イギリス、オーストリア、ロシアらが第2回対仏同盟を結ばれた。 ナポレオンは部下をエジプトに置いたまま、パリへ帰還。 そしてクーデタを起こし統領政府の第1統領へ就任しました。 これは事実上の独裁政権の誕生

 

銀行設立とナポレオン法典で国内の安定を

アルプスへの遠征でオーストリアを破ったナポレオン。 その後イギリスと和約を結んだことでつかの間の平和が訪れた。 ナポレオンは国内政策で、銀行を設立し税制改革を行い、フランス経済を立て直しに成功します。 またナポレオン法典では、法の前で人は平等であることや私有財産の絶対、政教分離などを示しました。 このナポレオン法典は、ヨーロッパの法律に影響を与えることになりました。

 

ダヴィッド描く「ナポレオンの戴冠式」

ウキペデイア情報から引用

この絵ではナポレオンの母が描かれていますが、実際には参列していなかったのです。 ナポレオンの弟が出席を許されなかったため、同情して出席しなかった説や、息子が皇帝に相応しくないと思ったからという説も。 

 

ナポレオンの妻たち

戴冠する少し前にナポレオンは、ジョセフィーヌと結婚、彼女は6歳年上の寡婦。 つまり彼女にとっては再婚ですね。 もともと彼女はナポレオンの上司バラスの愛人でした。

 

ジョセフィーヌを愛していたナポレオンでしたが、ジョセフィーヌとの間では子どもに恵まれませんでした。 そのため1809年に離婚。 しかし次の年に、ハプスブルク家出身のマリ・ルイーズを花嫁として迎えました。完全な政略結婚。 ナポレオンは軍人から成りあがったため、箔をつけるために皇女であったマリと結婚した。

 

英雄のファッション

軍服姿に白馬。 かの有名な絵はアルプスを越えている際の様子を描いたもので、これは宣伝用に描かれたものでした。 実際には山道に強いロバでアルプスを越えていたのですが、白馬へ変更。

 

英雄に失望した天才ベートーヴェン

ナポレオンに対して大きな期待を持っていたベートーヴェン。 彼が作った曲に第三交響曲に「英雄」があります。 ベートーヴェンはボナパルトの名をこの曲につけて贈るつもりでした。 しかし皇帝へ就任したニュースを受け、失望。なぜ失望したのかというと、ナポレオンはせっかく人権宣言で人々は平等だと宣言したフランスで、再び新しい王朝の幕開けを図ったから。 結局この曲は「英雄」という名に変更しナポレオンへは贈られませんでした。

 

皇帝ナポレオン、ヨーロッパへ戦争開始! 攻めるナポレオン

ナポレオンは1805年、イギリスへと侵攻、トラファルガーの戦いで敗北。 再びネルソンに敗れました。 2度も勝利したイギリスでしたが、ネルソンは狙撃され亡くなりました。 しかし同年、アウステルリッツ戦いに勝利すると、神聖ローマ帝国を解体します

 

ロシア遠征の失敗

ナポレオンはロシアへの制裁で60万もの兵を率いてロシアへ、しかし大失敗に終わる。 ナポレオンは軍を捨てパリに逃げ帰りました。 そしてロシア遠征の次の年に、各国がフランスを襲います。 1813年に諸国民戦争と言われるライプツィヒの戦いでナポレオンは敗れました

 

ナポレオン戦争後の王政復古

ナポレオン戦争を受けて、ウィーン会議は、各国の利害が対立したためなかなか進まず、その状況を「議会は踊る、されど進まず」と 揶揄されてしまう始末。議論を進めて、正統主義を採用し妥協が成立する。正統主義とは、フランス革命よりも前の状態に戻すというもの。 これにより亡命していたルイ18世が即位することに。

 ナポレオンの百日天下

ナポレオンはエルバ島を脱出、ナポレオンがパリへ到着する頃には陛下のご到着などと書かれていた。 彼がパリへ着く頃にはルイ18世はとっくに亡命した後でした。

 

ワーテルローの戦い

1815年にイギリス、オランダ、オーストリアなどの各国は打倒ナポレオンを掲げフランスを攻撃。 そこへプロイセンも参戦し、ついにナポレオンは倒される。 こうしてワーテルローの戦いは集結と同時にナポレオンの百日天下も終わりを迎えました。

 

ナポレオンの功績

フランス革命の理念がヨーロッパ中に広まる。 フランス革命前では、身分の違いが当たり前で個人の自由はなかった時代。 しかし革命を通して、王政ではなく個人の尊重が叫ばれたことは、その後の19世紀で起こった自由主義やナショナリズム(国民運動)へ繋がっていきます。 やはりナポレオンの功績は大きなことで。 

 

 

ナポレオン二世(ナポレオン・フランツ)

ウキペデイア情報から引用

ナポレオン・フランツ(1181/03/20-1832/07/22)は、ナポレオン一世の嫡男で、フランス帝国の皇太子、ローマ王。 第一帝政のフランス皇帝(フランス人民の皇帝)。 病弱で21歳で没した。 ニ世の死によりナポレオン一世の直系(男系)は絶えたとされている。 ナポレオン三世はナポレオン一世の甥であり、二世の子ではない。

 

ナポレオン三世(シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト)

ウキペデイア情報から引用

シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(1808/04/20 – 1873/01/09)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848 - 1852)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852- 1870)。 皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る前は一般にルイ・ナポレオンと呼ばれていた。

 

ナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年のフランス革命で王政が消えるとフランスへの帰国が叶い、同年の大統領選挙でフランス第二共和政の大統領に当選した。 第二共和政の大統領の権力は弱く、はじめ共和派、のち王党派が牛耳るようになった国民議会から様々な掣肘を受けたが、1851年に国民議会に対するクーデタを起こし、独裁権力を掌握。

 

1853年に皇帝に即位して「ナポレオン3世」となり、第二帝政を開始した。1850年代は「権威帝政」と呼ばれる強圧支配を敷いたが、1860年代頃から「自由帝政」と呼ばれる議会を尊重した統治へと徐々に移行した。 内政面ではパリ改造計画、近代金融の確立、鉄道網敷設などに尽くした。 

 

外交ではクリミア戦争によってウィーン体制を終焉させ、ヨーロッパ各地の自由主義ナショナリズム運動を支援することでフランスの影響力を拡大を図った。またアフリカ・アジアにフランス植民地を拡大させた。 しかしメキシコ出兵の失敗で体制は動揺。 1870年に勃発した普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、それがきっかけで第二帝政は崩壊し、フランスは第三共和政へ移行した。

現在までフランスは共和政であるため、彼がフランスにおける最後の君主にあたる。

 

ナポレオン四世(ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト)

ウキペデイア情報から引用

ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(1856/03/16 – 1879/06/01)は、フランス第二帝政時代の皇太子。ボナパルティストからはナポレオン4世(フランス語: Napoléon IV)と呼ばれた。 寡黙な人柄であったという。

 

普仏戦争初期、フランス軍が各地で劣勢となり、ナポレオン3世は捕虜となった。 1870/09/029-09/02の2日間、父ナポレオン3世に代わって政務を執った(摂政皇太子)。 しかし9月4日にパリで民衆の暴動が起こると、9月6日にイギリスへ亡命した。

 

イギリスではウーリッジ砲兵学校に入学し、好成績で卒業した。 ヴィクトリア女王に愛称の「ルル」で呼ばれて寵愛され、末娘ベアトリス王女との縁談も持ち上がるほどであった。 イギリスへの恩返しとして1878年に勃発したずーる―戦争に従軍、1879/06/01にズールー族の襲撃を受けて戦死した。 子はなく、ナポレオン3世の直系は絶えた。これを聞いたボナパルティストたちは悲嘆に暮れたという。

(記事投稿日:2021/10/11、最終更新日:2024/09/22、#403)

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『大ピラミッドのこと 5(化粧石・化粧板から、古代人の美的センスが)』ー約10トンの石灰岩の化粧石を、あの巨大な3基のピラミッドに貼り付けたー

2024-09-14 10:54:33 | 歴史・世界

『大ピラミッドのこと 5(化粧石・化粧板から、古代人の美的センスが)』 

『約10トンの石灰岩の化粧石を、あの巨大な3基のピラミッドに貼り付けた』

 

ギザのピラミッドは完成時の想像図、最近、ウェブ情報で見つけました—

 ウェブ情報(ギザのピラミッドは完成時の想像図の写真)から引用

 

3基の中央のカフラー王のピラミッド(第2ピラミッド)最下部だけが赤で、他の大部分が白く外装されていた。(現在は最下段の1列だけに赤い花崗岩の外装が残っている)

ウェブ情報から引用

3基の手前のメンカウラー王のピラミッド(第3ピラミッド)は下から16列がやはり赤い花崗岩となっていた。

『ギザの三大ピラミッドの現在の風景』です。

ウェブ情報(ウィキペディアの「ギザの大ピラミッド」)から引用

 

3基の中央のカフラー王のピラミッド(第2ピラミッド)に残った化粧石

ウエブ情報から引用

エジプトのピラミッドは、確認されている物だけでも138基あり、 見事というくらいナイル川の西岸に偏っています。 ピラミッドばかりではなく、王家の谷もナイル川西岸部にあります。 古代エジプト人はナイル川を挟んで西側があの世、東側が現世と考えていたようです。

古代エジプトでは、太陽信仰があったので、太陽が昇り、そして沈んでいく方向に関係があるのかもしれません。 そのため西岸にピラミッドが集結していると考えられています。 また、ピラミッドを作るにあたり、船で切り出した石を運ぶ際に、岸の形が石を降ろすのに都合がいい地理をしていたからとする説もあります。

古代エジプトのピラミッドは、文献上一番初めの物は紀元前27世紀中頃から、現在確認されている物で最後の物は紀元前16世紀までなので、その1100年ほどの間に建設されました。 完成度の最も高い、ギザの三大ピラミッドは、ピラミッド建造の歴史の中で真ん中あたりです。 

理由ですが、半世紀も前に、読んだ『岩波講座 世界歴史 29巻』の1巻にありました。 次のようにあったと覚えています。 『国家の経済的理由と、直系で王朝を統一してきたことに終止符が打たれたこと、時代の流れによってピラミッドから神殿造りへと移り変わっていった。 ピラミッドが作られなくなってから、数多くの巨大神殿が造られている』と。

 

『今後の課題、大ピラミッドから神殿へ、「巨大5神殿」

  • ルクソール神殿。
  • アブ・シンベル神殿。
  • カルナック神殿。
  • イシス神殿。』

 

ギザの三大ピラミッド、3基に組み込まれた、薄茶色の石灰岩の石材は見慣れています。 特に、クフ王の大ピラミッドには、260~280万個が組み込まれているそうです。 この度は、この大ピラミッドをカバーしていた白色の石灰岩の化粧石・化粧板を調べていて驚きました。 

日本では、竪穴住居、約4500年前、縄文時代中期の竪穴住居時代です。

三大ピラミッドのクフ王のピラミッドの北側の斜面の最下段には、白い化粧石の一部が今も残されている。 この『化粧石;高さ1.5m、幅1.5m、断面は台形、上辺奥行1.3m、下辺奥行2.3m、重量約10トン、三基ピラミッドで十数万個か?』。

ウェブ情報(ピラミッドの化粧石の画像)から引用

一方、隣のカフラー王のピラミッド(第2ピラミッド)の場合は、頂上付近に今も化粧石を見ることができる。 まるで白い帽子をかぶっているように頂上部だけに化粧石が残され、それはとても滑らかな表面に仕上げられている。 ところが、このピラミッドの場合、上から下まですべて白い外装石で覆われていたのではなく、なぜか、一番下の2列だけは赤い花崗岩になっていた。 最下部だけが赤で、他の大部分が白く外装されていた。(現在は最下段の1列だけに花崗岩の外装が残っている。


ウェブ情報(ピラミッドの化粧石の画像)から引用

写真はありませんが、記録によると、もっと極端なのは、3大ピラミッドのうち一番小さなメンカウラー王のピラミッド(第3ピラミッド)です。 このピラミッドでは下から16列がやはり赤い花崗岩となっていた。 ピラミッドの高さにして上部の四分の三が白い石灰岩、下部の四分の一が赤い花崗岩と、二色に色分けされていた。 約4,500年前の、このツートーンカラーのセンスには、ただただ驚くばかりです。 

さらなる驚きは、加工しやすい石灰岩とは言え『約10トンのシャープなエッジ部分の多い石灰岩の化粧石を、あの巨大な3基のピラミッドに貼り付けた』ことです。 この化粧石を下から積み上げたか、上から貼り付けてきたかの議論があるそうですが、カフラー王のピラミッド(第2ピラミッド)のトップに、庇のように残った風景を見ると,上から貼り付けてきた方法は、多少疑問が残ります。

次の課題、『クフ王の大ピラミッドには、260~280万個が組み込まれているが、石材のサイズが、下段から201段のトップまで、リニアに小さくなっていない、途中で大きくなっている層がいくつかある』ことです。 この点も、これから調べてみたいと思っています。
 (記事投稿日:20190903、最終更新日:2024/09/14、#148)

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『毛沢東と、周恩来と、始皇帝陵と、兵馬俑と、偉大な強者の歴史』 「始皇帝陵の発掘止めたのは周恩来」 「兵馬俑を遺せたのは始皇帝の宰相の名前と毛沢東の死」

2024-09-14 09:41:24 | 歴史・世界

『毛沢東・周恩来・始皇帝陵と、兵馬俑と、偉大な強者の歴史

『始皇帝陵の発掘止めたのは周恩来』

『兵馬俑を遺せたのは始皇帝の宰相の名前と毛沢東の死』

 

島国日本にも世界三大墳墓の一つ、大山陵古墳(百舌鳥古墳群)がありますが、始皇帝陵と大ピラミッド、それぞれの複合施設・コンプレックスとしての広さの比較をすると、それぞれの特徴のあるスケールは驚異的です。

                             複合施設の

            全長(m) 高さ(m) 体積(万㎥) 面積(K㎡)

大山陵古墳(1700年前)  486    36    140   38

始皇帝陵(2400年前)   350    76    300   55

大ピラミッド(4500年前) 230   146    260    2

 

 

兵馬俑(文化大革命の中、偶然・奇跡的に、現代まで残された)

ウキペデイア情報から引用

今回の表題で、毛沢東について、理解するために、思い出したことは、良く例えられる一言です。 『毛沢東の誤算、毛沢東はなぜ、「私は孔子様にはならない。始皇帝になる。これを思い出しました。 兵馬俑を遺せたのは、兵馬俑の遺跡の中に始皇帝の宰相・呂不韋の記録が発見されたことが最大の理由でしょうか。

 

先日(20210916)NHKBSプレミアム 世界遺産スペシャル!『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』の再放送の中で『20世紀最大の発見と言われる中国の兵馬俑。文化大革命の真っただ中、いかにして破壊を免れたのか?』を興味深く視聴しました。

 

半世紀も昔のことですが、香港に赴任した直後に、中国から香港に避難してきた上海の方から聞いたのですが『始皇帝陵は、中国の技術が、陵を発掘した後で、遺物が陵内地下に収まっていた状態を維持できるようになるまでは、発掘は許可しません』と周恩来首相は言い続けたそうです。

 

秦始皇帝陵

ウキペデイア情報から引用

秦始皇帝陵平面図(陵・緑色とその周囲の墓域)

ウキペデイア情報から引用 

今回の再放送で知ったのですが『兵馬俑は、文化大革命の真っただ中、いかにして破壊を免れたのか?』です。

 

アナザーストーリーズ「兵馬俑は見ていた!~巨大遺跡に翻弄された人々~」

放 送 2019年11月5日(火)午後9時~[BSプレミアム]

 

放送前の予告

中国の古代遺跡「兵馬俑(へいばよう)」を43年前、井戸を掘っていた1人の農民が掘り当てました。 秦の始皇帝の軍隊を忠実に再現したおよそ8千体の兵士像が2千年以上の眠りから覚めたのです。 だが時代は文化大革命の真っ最中。 スローガンは「古い価値を否定せよ」。 名だたる歴史遺産が次々破壊されていました。 数奇な運命をたどる発見者、その中で遺跡を守った人々の驚きの行為とは?20世紀最大の発見、その裏に隠されたアナザーストーリーです!

 

「兵馬俑遺跡」とは?

1974年、西安の東北、臨潼県の農民が井戸を掘っていて偶然見つけた陶器の破片。これが兵馬俑坑発見のきっかけでした。 総面積約1万4260平方メートルの1号坑を皮切りに、2号坑、3号坑が次々に発掘され「20世紀最大の発見」と世界を驚かせました。3つの俑坑の規模は2万平方メートルを超え、総計8,000点にのぼるとみられる陶製の兵馬が、死後の秦始皇帝を守るため地下に配置されていたことがわかったのです。

 

兵馬俑坑の西約1.5キロメートルには秦始皇帝陵があります。 約2200年前、中国統一を果たした秦始皇帝は、その絶大な権力を永遠のものにするため、すぐに陵墓の造営に着手。 70万人もの囚人を動員し、36年もの歳月をかけて完成した陵墓は、『史記』によると地下宮殿のようであったと記されています。 長らく伝説と考えられていたこの記述も、近年の調査で痕跡が確認され、秦始皇帝陵の発掘が待たれています。

 

俑とは古代中国で、殉死者の代わりに埋葬した人形(ひとがた)のこと。 敵国のある東を向き、整然と隊列を組んで並ぶ兵士俑はほぼ等身大。 表情、髪形、衣服のどれひとつとして同じ形のものはなく始皇帝の軍団が広範な民族の混成部隊であったことを窺わせます。 当初は鮮やかに彩色されていた俑。酸化による退色を防ぐため発掘は注意深く行われ、全貌はいまだ歴史の彼方に埋もれたままです。

 

発見された当時、中国は毛沢東が掲げた「文化大革命」の嵐で、「古い価値は否定しろ」という考えから歴史遺産が次々と破壊されていました。そんな中で、この古代遺跡・兵馬俑を守ったのが考古学者・袁仲一でした。万里の長城をはじめ始皇帝に関する遺跡は特別に守られていたことから、この兵馬俑も死後の始皇帝を守るために埋葬されたものであることを突き止めたのです。

 

そして、もう一人、この兵馬俑の価値を世界的に知らしめた人物が、ジャーナリストのオードリー・トッピングでした。 中国政府がこの古代遺跡・兵馬俑についての報道を厳しく規制していましたが、彼女はかなり強引に発掘現場へ取材に行きニューヨーク・タイムズに記事を掲載したのです。さらに、極秘ルートから兵馬俑の写真を入手して雑誌に掲載し、世界中で兵馬俑の価値を高めたのです。その記事には、発見者が誰であるかも掲載されました。その後、1987年には世界遺産登録されました。

 

島国日本にも世界三大墳墓の一つ、大山陵古墳がありますが、それぞれの複合施設・コンプレックスとしての広さの比較は含まれておりませんが、世界三大墳墓(単体の比較)でも、やはり凄いです。

            全長(m)  高さ(m) 体積(万立米)

大山陵古墳(1700年前)  486     36    140

始皇帝陵(2400年前)   350     76    300

大ピラミッド(4500年前) 230    146    260

ウエブ情報から引用

やはり島国の王国と、大陸の王朝・帝国はかなりのスケールの差があります。

(記事投稿日:2021/09/17、最終更新日:2024/09/14、#386)

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『巨石文明石造物にはロマンが(オーパーツと呼ぶには巨大過ぎ)』 「敬虔な信仰心から・威厳の象徴からか、超巨大化した石造物は置き去りに」

2024-09-14 07:52:05 | 歴史・世界

    『巨石文明石造物にはロマンが(オーパーツと呼ぶには巨大過ぎ)』

「敬虔な信仰心から・威厳の象徴からか、超巨大化した石造物は置き去りに」


オーパーツは、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品を指す。 英語の「out-of-place artifacts」を略して「OOPARTS」とした語で、つまり「場違いな工芸品」という意味。

米国の動物学者で超常現象研究家のアイヴァン・サンダーソンの造語で、同国の作家、レニ・ノーバーゲンの著書を通じて一般に広まった。 サンダーソンは発掘品の類のみを指す言葉だとして、伝世品の類はオープス(OOPTH; out of place thingの略)と呼ぶことを提唱していた。 

ただし、ノーバーゲンは伝世品も併せてこう呼んでおり、現在では伝世品も区別せずにオーパーツと呼ぶことが多い。


 『バールベックにある「ジュピター神殿のトリリトン」』

(紀元60年頃に完成)

ウキペデイア情報から引用

通称「トリリトン」(驚異の三石)と呼ばれる三つの組み石で、バールベック遺跡の象徴でもあるジュピター神殿の土台に使われている三石の大きさは、長さが約18メートル、高さと幅は約4メートル、重さは650トン~970トン。 建築物に使われた切石としては世界最大である。 人力では15,000人の人間が必要な計算になるが、それだけの人間の力をまとめて石に働かせるのは現実問題として不可能であるとされている。


『通称「南方の石」と呼ばれるバールベックの巨石』

(紀元前3000年頃、建築物には使われていない切石として世界最大)

ジュピター神殿から南西に約1キロ離れた場所に存在している。 その大きさは、長さが約21.5メートル、高さ4.2メートル、幅4.8メートル、重さはなんと2000トンもある。

ウキペデイア情報から引用

この巨石が存在している場所が「石切り場」であること。 南方の石は地上に露出している部分は四角く加工されているが、下の部分は土に埋もれている。 そして、この石が動かされた形跡は、発見されていない。

 

南方の石は、もともと自然にあった巨石を他の石と同様、まずは加工してみたものの、その後、何らかの理由で切り離しや移動は行われなかった。 そのあまりの大きさゆえに断念され、そのまま放置されたのだと考えられる。


最大のモアイ像(正確な年代は不明ですが、7世紀から8世紀ごろ、土台が作られ始め。モアイ像は10世紀ごろ)

モアイ像は、耳が長く足のない男性の上半身を一様の手法で表したこの石像は、そのほとんどが約4.5ⅿないし6ⅿの高さ持つが、最大のものは20ⅿ(5階建てのビルより高い)を超え、重量は10トンから、最高90トン。

作成中で完成できずギブアップした、長さ(高さ)21m、重量約270トンにも及ぶものもある。

 

ウエブ情報から引用


これらの巨石は人力では運搬不可能か?

さて、南方の石に動かした形跡がない。 しかし「トリリトン」のほうは実際にジュピター神殿の土台に使われており、石切り場からは1キロ離れた場所に存在している。

しかも最大970トンの石を運ぶのには1万5000もの人手が必要となり、現実には運搬不可能だとされている。 トリリトンはやはりオーパーツなのだろうか。

過去にはトリリトンよりも重い石が運ばれた実例が見つかる。それは今からおよそ230年前、ロシアのエカチェリーナ2世がピョートル1世の騎馬像をつくらせた際、その土台に使う石を運んだときのも。 この土台の石は重さが1,250トンもある巨大なもので、石切り場から騎馬像のあるサンクト・ペテルブルグまでの約6キロの道のりを木製のソリにのせて人力で運ばれた。 そのためこの例を見れば、たとえトリリトン級の巨石といえども運搬不可能だとは言えない。 運搬方法は存在すると考えられる。

 

『ピョートル1世の騎馬像』(建設は1770年に開始、1782年に完成)

ウキペデイア情報から引用

木製のソリによる巨石の運搬は、古代エジプトのレリーフにも描かれている。古代エジプトでは最大約1000トンの石の巨像を、ソリ、ロープ、滑車、テコなどを使って運んでいた。 ちなみにトリリトンが土台に使われているジュピター神殿はローマ人によって建てられたもので、彼らは神殿建造当時、木製の大型クレーンを開発して使っていたこともわかっている。

現代の最新技術でも吊り上げ・運搬不可能か?

現代の最新技術では、バールベックの巨石級の重さでも吊り上げ運搬可能な重機が存在している。 たとえば、

無限軌道クレーンの「CC8800-1 Twin-kit」では、最大3,200トンまで吊り上げ可能。

❷また海上での使用に限られるものの、日本のクレーン船「海翔」は最大吊り上げ重量限度が4,100トン。

❸陸上での運搬では、日立物流では、「ユニットドーリ」と呼ばれる特殊トレーラが、最大3,226トンの重さまで運搬可能だという。

 

つまりバールベックの巨石でも十分に運べることがわかるが、時代が違うので

比較にはならず、何とも言えませんが、実際に運ばれており『埋もれた技術』を探す楽しみが出来ました。

(記事投稿日:2021/08/17、最終更新日:2024/09/14、#374)

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