沖縄県は日本に復帰して以降初めての人口減少
- 人口増加は東京都のみとなっています。
- 東京都の人口増加率は0.20%で、前年の減少から増加に転じています。
- 人口減少は46都道府県となっています。
- 沖縄県は1972年(昭和47年)に日本に復帰して以降、初めての人口減少となっています。
- 人口減少率が前年に比べ拡大したのは23道県で、うち岩手県、福井県及び和歌山県(対前年差0.16ポイント)が最も拡大しています。
- 人口減少率が縮小したのは京都府(対前年差0.20ポイント)など19府県となっています。
2015年は高齢者1人に対して現役世帯2.3人という比率でしたが、2065年にはこの比率は1.3になります。2053年に日本の総人口は1億人を割り、2065年(約46年後)の日本の人口は8,808万人となることが想定されています。2016年での総人口は1億2,670万6千人なので、およそ50年で4,000万人減り、現在の3分の2になります。このまま進めば、2100年頃までには約6,000万人程度と現在の半分になることが予想されています。
端島は、長崎市ある島。 「羽島」とも書いていた。 三菱高島炭鉱端島鉱業所は今や通称である「軍艦島(ぐんかんじま)」の方が、はるかに知名度が高くなっていますが、その名の由来は、島の外観が三菱長崎造船所で建造されたが、『艤装もされず、廃艦され、曳航されたときの「戦艦土佐」に似ていたこと』だと言われます。
しかし、同時に進行中であったワシントン軍縮会議において英・米・日の主力艦隊保有率が「5:5:3」と決定されたため、「八八艦隊案」は中止となり、建造は中止後、廃艦となり、建造半ばで海軍に引き渡されていった「土佐」。
「土佐」は艦橋や煙突、砲塔などの艤装がされておらず、なだらかなシルエットをしており、曳船の吐く石炭の煙がもうもうとして見えています。この姿は所員のみならず、長崎の人にはひどく印象的に見えたことでしょう。
『三菱高島炭鉱「端島」鉱業所全体が廃墟と化した軍艦島』
長い海外生活(22年余)から、頻繁に利用せざるを得なかった飛行機ですが、今は飛行機恐怖症になっていますので、沖縄以外の国内旅行は、地に着いた交通機関(鉄道・バス等)を使って、昔からの地図・地理好きの習慣で車窓風景を楽しんでおります。
『ヨルダン・ペトラ(自然の要塞で、人や物の行き交う要衝の地)』
『「人や商品の交流」で栄えた、サバテア王国の首都ペトラ(岩の意)』
『隊商都市と認識して理解できた、キャラバン交易路のターミナル機能で発展』
ペトラ周辺は広大な岩石砂漠に囲まれてり、その間に『シーク』と呼ばれる渓谷が交通路になっている。(中央がエド・ディル)
ウエブ情報から引用
エド・ディル
ウエブ情報から引用
シークの中央の『アル・カズネ(エル・ディルより少し小さい)』
ウエブ情報から引用
シークの間から見える『アル・カズネ』
ウエブ情報から引用
ペトラのある地は、自然の要塞であった。 また西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあった。 ナバテア人の首都、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられてきた。
ナバテア人;歴史に登場するのは紀元前4世紀のこと。 紀元前6世紀、後にナバテア王国が栄えることになる土地には、エドム人が住んでいたと言われている。 エドム人はアラブ系の民族で、山脈から銅や鉄を採掘し、また、交易路の十字路を支配していたためそこを通る隊商から利益を得ていた。 そのため、彼らの領土の西にすむユダヤ人とは、交易路の支配権を巡って長い間敵対関係にあった。 ソロモン王の時代、エドム人はナバテア人に敗北し、交易路はナバテア人の支配下に入る。
立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えた。 ペトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられる。
完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きであった。 また雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していった。 ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水設備を作り上げたことが分かっている。
当時のユーラシアのアジアとヨーロッパを結ぶ交易路(サプライチェーン)のターミナルでした。 岩石砂漠の不思議な遺跡と単純に理解していましたが、最近の中国の『シルクロード経済ベルト(一帯)』、『21世紀の海上シルクロード(一路)』の先駆けとして、やはり凄いと思います。
(記事投稿日:2023/02/25、#631)