知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『古代は、古代人は凄い 5(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 1)』 『ローマの大火でキリスト教徒の迫害で、典型的な暴君とされたが』

2024-02-05 09:12:50 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 5(第5代ローマ皇帝ネロの光と影 1)』
『ローマの大火でキリスト教徒の迫害で、典型的な暴君とされたが』
『著名な歴史小説家は言う、どんなに文字記録があっても、当時の人の心の中まではわからない? だから好きなように想像して、書けると!』

第5代ローマ皇帝
ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス

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世界史で「暴君ネロ」と習ったけれど……実は名君だった? と聞いてはいますが、やはり知りたいのは真実です。

第5代ローマ皇帝ネロ(紀元37~68)は、類いまれな「暴君」として知られます。母を殺害し、キリスト教徒を迫害し、芸術に心を奪われた末に自ら命を絶ったその人生は、小説や映画に描かれました。 ところが、その暴虐無人ぶりは虚像に過ぎず、実は帝国繁栄の基礎を築いた「名君」だった、との説が近年有力になっています。 

ネロは紀元54年、伯父であり養父でもあった第4代皇帝クラウディウスの死去を受けて、16歳で即位した。 その背後には、強い政治的野心を抱く母アグリッピナの策謀があったという。 哲学者セネカの指導を受けて当初は政治にいそしんだものの、何かと政治に口を出す母を殺害。 哲学者セネカも、彼の妻も死に追いやった。 64年に起きたローマ大火の際には、キリスト教徒に責任を負わせて弾圧した。

この間、次第に芸術にのめり込み、ギリシャ文化を熱愛。 自らコンサートを開いたり、劇場で舞台に立ったり、さらには古代オリンピックに出場して優勝したりした。 こうした姿のネロを、元老院は「国家の敵」と名指しする。 追い詰められたネロは、30歳で自害した。

「暴君」としての人物像は、「年代記」「ゲルマニア」などの著作で知られるタキトゥスや、スエトニウス、カッシウス・ディオといった著名な歴史家の記述に多くを負っている。 その後、ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説「クォ・ヴァディス」がネロの悪行やキリスト教徒迫害の様子を描き、さらにこれが映画化され、悪役イメージが定着した。 このような先入観に挑戦し、ネロの業績の再評価を試みたのが、ロンドンの大英博物館で10月24日まで開かれている特別展「ネロ 虚像に覆われた男」でした。
特別展「ネロ 虚像に覆われた男
大英博物館(British Museum)で2021年5月27日〜10月24日まで開催されている『Nero: the man behind the myth』展

英国は、ネロとの深い関係がある。 紀元60年ごろ、この地方の王族の女性ブーディカがローマ帝国に対して反乱を起こし、ネロによって最終的に鎮圧されたからだ。 その後、ブーディカは英国で英雄と見なされ、英国の歴史教科書にも登場するという。 「そのような関係があったにもかかわらず、英国内ではこれまで、ネロをテーマにした展示が開かれた形跡はありません。 今回が初めてです」と、特別展を企画した同館のトルステン・オッパー上席学芸員(52)は説明する。 特別展は2年あまり前から企画されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大で準備が中断し、2021年5月に開幕にこぎ着けた。

落書きが語る人物像
ネロの治世下、ローマ市内をはじめ帝国内にあふれていたその胸像は、死後削られ、後の皇帝の胸像につくりかえられた。 現代まで残るネロの姿のものは少ないが、特別展ではこれらを丹念に収集。 家族や歴代皇帝の胸像や、関係者の遺物、その時代の社会を物語る工芸品や資料なども、広範囲に集めた。 イタリアの各博物館所蔵品や遺跡からの出土品が、その多くを占める。

展示コーナーの中ほど、母アグリッピナや3人の妻ら家族の胸像が並ぶ華やかな場所の隅に、あまり目立たない形で立てかけられた一つの展示品が、ネロの復権を象徴している。 イタリア南部の遺跡ポンペイで出土した漆喰(しっくい)の壁だ。 有力者宅の台所の一部だという。 そこに、無造作に落書きが刻まれている。

ポンペイの他の落書きにも、ネロの名は多いという。 また、ローマでは、いたずらで描かれたネロの似顔絵も残されている。 実は、こうした落書きこそが、ネロに対する庶民の意識を示す。 タキトゥスら歴史家が記した公式の記録とは大きく異なる人物像だ。 「エリートによってつづられた公式記録がネロを悪者扱いしているのに対し、落書きは彼の大衆人気の高さを物語っています」と、オッパー上席学芸員は語る。

ネロが汚名を着せられたわけ
オッパー氏によると、皇帝としてのネロの業績は、税制・通貨改革や古代コンクリートによる街づくり、東方への領土拡大など、実際には多岐にわたっている。ネロの死から28年後、ローマではネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続く「五賢帝」の黄金時代が始まるが、その際に称賛された政策の多くは、ネロの治世に基盤が用意されたという。 

「もし事情が少し異なっていたら、ネロは偉大な改革者として語り継がれたかもしれません」なのに、どうしてネロは「暴君」の汚名を着せられたのか。
一つは、タキトゥスらローマ帝国の歴史をつづった人物が、元老院と対立したネロに厳しい目を向けていたこと。 タキトゥスは、自身も元老院議員を務め、元老院寄りの視点を持つといわれる。加えて、中世になってキリスト教が広がる中で、ネロはその弾圧者と位置づけられた。

実際には、キリスト教徒は当時ローマにごく少人数しかおらず、ユダヤ教徒の一部だと見なされていたなど、状況がその後とは大きく異なっていたというが。
「同じように暴君として知られた第3代皇帝カリグラは、在任中に殺害されました。しかし、彼はキリスト教との接点がなかったため、ネロのようには憎まれなかったのです」

『古代は、古代人は凄い 5(第5代ローマ皇帝ネロの光と影』についてな今後も調べていきたいと思っております。
(記事投稿日:2024/02/05、#723)
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