礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

幸田露伴、「歴史」を語る

2014-06-05 04:08:19 | 日記

◎幸田露伴、「歴史」を語る

 あいかわらず、清水文弥の『郷土史話』(邦光堂、一九二七)について。この本の巻頭には、三つの序文が置かれていることは、すでに述べた。順に、農政史家の小野武夫による「郷土史話に序す」、作家の幸田露伴による「序」、清水による「自序」である。
 このうち、幸田露伴(一八六七~一九四七)の「序」を、まだ紹介していなかったので、本日は、これを紹介してみよう。露伴は、同書の趣旨をよく把握した上で、みずからの歴史観を開陳している。なお、幸田露伴は、清水文弥より一八歳年少で、あり、露伴にとって文弥は、ほほ「父母」の世代にあたる。

 
 明治維新以来世態人情の変は驚くべきものが有る。大なるは政体の変から、微なるは民俗の変まで、何から何まで旧い物を留めないやうになつてゐる。これは国内の必然の趨勢から然様〈サヨウ〉なつたのでも有るが、一〈ヒトツ〉にはまた世界の自然の機運からも然様なつたのである。それで大正の今日に至つてはもはや吾人は我等の父母や祖父母の時代の社会の組織をも風俗の状態をも知ることが無いやうになり、当時の人々の思想をも感情をも殆んど解せぬまでに立至つてゐる。
 然し我等は前の時代の人々の奴隷では無いが、正しく父母の子であり、祖父母の孫であり、我等の血は我等の父母祖父母の血を受け紹いで〈ウケツイデ〉ゐるのである。我等は我等の父母祖父母等と無関係の地に立つて居るものではない。我等と我等先人との間には、相呼応し、相関連するものがあるのである。我等は我等先人の良い子孫であらねばならぬ。我等は今日の個人として発達し進歩すると同時に我等先人の良い子孫として、我等の血の中に内在するところの我等先人の遺徳を揚げ余栄を発するものとして、自ら立ちたいものである。先人は先人である、我等は我等であるとして、関せす焉〈エン〉の態度を持ちたくはない。【以下、次回】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銭湯は若衆と遊女の会合所

2014-06-04 04:28:07 | 日記

◎銭湯は若衆と遊女の会合所

 昨日の続きである。清水文弥の『郷土史話』(邦光堂、一九二七)は、往時の性規範が、出版当時とは異なるものであったことを、具体的な例で示している。本日は、「湯屋と遊女」という文章を紹介してみよう。これは、同書の「民俗」篇の「六、男女の風紀」の「イ、遊女と遊女屋の話」に含まれている四つの文章のひとつである。

 湯屋と遊女
 むかしの銭湯はすべて男女混浴であつた。であるから、遊女屋付近の銭湯になると、昼過ぎから日没まで遊女の入浴する者が多いといふので、土地の若衆連〈ワカシュレン〉はわざわざその時刻を見計つて出掛けたものである。従つて、遊女町の銭湯と云へば、之等若い男女の入浴で特別の繁昌を見たもので、その間風紀上に少なからざる弊害のあつたことは云ふ迄もない。則ちその当時の銭湯と云へば、若衆と遊女の会合所ともいふべきで、そこにば若い男が女郎の背を洗ひ流しながら、猥談衆人を煙に巻き或は今宵逢瀬の約束話など、風紀上の紊乱を如実に開展してゐたものであつた。

 清水は、同書の自序で、「私は過去に於ける事実に対し、その批判や議論をしようとする者でないことは、前に申述べた通りであります。左様な批判や議論は諸君にお任せして、私は唯事実は強いものであるといふ信念の下に、昔の農民生活……農村世態等その実際を茲に開展せしめたのであります」と述べている。ここに紹介した「男女の風紀」に関する話題も、清水は、そうした観点から提供しているのである。引用した文章中に、「風紀上に少なからざる弊害」という批判的表現があるのは事実だが、清水はここで、そうした批判をおこないたかったわけではなく、あくまでも、往時の「事実」を紹介したかったのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「性規範」の断絶、清水文弥と小野武夫

2014-06-03 04:35:51 | 日記

◎「性規範」の断絶、清水文弥と小野武夫

 昨日における「このブログの人気記事」を見ると、九位に「大正期農村の性的風儀」、一〇位に「乃木将軍と盆踊り」が入っている。おそらく、このふたつのコラムを読み比べてくださった方がいらしたのであろう。このふたつを読み比べると、清水文弥と小野武夫との間で、「性」的な規範意識に大きな断絶があることが見てとれる。
 清水文弥は一八五一年(嘉永四)生まれ、小野武夫は一八八三年(明治一六)生まれで、その年齢差は、三二歳である。当然、性的な規範意識に断絶があっても不思議はない。
 小野武夫は、一九二六年(大正一五)に刊行した『村の辻を往く』の中で、次のように書いた(当コラム「大正期農村の性的風儀」2012・6・24参照)。

 私等〈ワタシラ〉も子供の時に頬冠り〈ホッカムリ〉した村の若者が、祭りの晩に娘さん達の群から意中の人の手を無理矢理に引つ張つて、林の中に隠れたのを今でも覚えて居るが、此頃は警察の方で矢釜しい〈ヤカマシイ〉のと、学校教育が普及したので、斯〈カク〉の如き性の乱れは余程〈ヨホド〉でないと見られなくなつた。七月の盆踊りとても同じことであつて、前頃は月皎々〈コウコウ〉と輝く十五夜の夜、節〈フシ〉面白く踊り行く娘達に対し、異様の眼を光らす若者も少からずあつたのであるが、之〈コレ〉も今日では親達の監督の厳重なると、娘自身の反省とで余程改つて来た。

 小野は、こうした遺風を「性の乱れ」と呼んでいる。そうした遺風に対し、批判的な意識を持っていることは明らかである。
 一方、清水文弥は、一九二七年(昭和二)に刊行した『郷土史話』の中で、次のように書いた(当コラム「乃木将軍と盆踊り」2014・5・23参照)。

 盆踊といふものは、なるほど野卑な踊であろう。併し、また其の野卑であるところに盆踊の生命があり、価値があるのである。而かも、その野卑なる一面に於ては純朴なる地方的人情と風俗を、如実に伝へ得て余りあるものと云へる。/余談はさておき、我が那須郷地方では、盆踊は昔から盛んに行はれたものであつた。寺又は神社の広い空地〈アキチ〉で若い青年男女達が、陰暦十四日、十五日、十六日の三日間殆んど徹宵して踊りつゞけたものである。

 清水は、こうした遺風を「野卑」と呼んではいるが、批判しているわけではない。むしろ、「純朴なる地方的人情」等の言葉によって肯定している。おそらく、年代からいって、清水は、「若い青年男女」のひとりとして、そうした遺風を体験したことがあるのではないか。
 ちなみに、乃木稀典は、一八四九年(嘉永二)生まれで、清水とほぼ同世代、「性」に対する規範意識は、清水と近いものがあったと考えられる。【この話、続く】

《参考》このブログの人気記事(2014・6・2)
1・小野武夫と清水文弥
2・石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因
3・ルビつき活字を考案した大阪朝日の松田幾之助
4・憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか
5・安重根が挙げた伊藤博文暗殺の理由15か条
6・当時の雑誌が報じた力道山・木村政彦戦の内幕(『真相第78号より)
7・小平事件(小平義雄連続暴行殺人事件)研究の重要性
8・古畑種基と冤罪事件
9・大正期農村の性的風儀
10・乃木将軍と盆踊り

*このブログの人気記事(2014・6・3)
1・清水文弥『郷土史話』の自序(1927)
2・ルビつき活字を考案した大阪朝日の松田幾之助
3・石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因
4・古畑種基と冤罪事件
5・小野武夫と清水文弥
6・歴史家らしからぬ文章
7・憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか
8・水野吉太郎弁護士、安重根を幕末の志士と比べる
9・大正期農村の性的風儀
10・伊藤博文、ベルリンの酒場で、塙次郎暗殺を懺悔

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清水文弥『郷土史話』の自序(1927)

2014-06-02 04:12:52 | 日記

◎清水文弥『郷土史話』の自序(1927)

 昨日の続きである。清水文弥の『郷土史話』(邦光堂、一九二七)の巻頭にある三つの序文のうち、昨日は、農政史家の小野武夫による「郷土史話に序す」を紹介した。続いて、作家の幸田露伴による「序」を紹介する順序だが、都合により、清水による「自序」のほうを、先に紹介する。

 自序
 私は文章を以つて世に立つて居るものでもなければ、社会の情況を論ずる学者でもなく、又さういふ者にならうと云ふ望〈ノゾミ〉を抱いてゐる者でもありません。たゞ下野国那須郡……今の親園村に嘉永四年〔一八五一〕を以つて生れ幸にして今日に及んでゐる一老人に過ぎないのであります。
 さて、さうした老人たる私が、何んの目的の為めに今回この書を上梓するに至つたかと申しまするに、夫れは今更に名誉や利益を贏ち得たい〈カチエタイ〉とか乃至は自分の意見を世に問ひたいなどふいふ左様な自我本位の考へからではなく、一つに昔の農村の実情を今の人々に知らしめ、以つて近代文化研究の資に供したいといふさゝやかな希ひに外ならぬのであります。
 従つて、本書に述べてありますところのものは、批判とか議論といふものを可及的〔なるべく〕避け努めて私の若い頃に見聞した世態や人情等をその有りの侭に記述したのであります。
 有りのまゝの事実……世の中に於て是れほど強いものはないと、私は固く信じてゐるものであります、そして、遇ぎ去つた事実は既に存在した事実といふことであります。かくて、昔の事実は今はもう私のやうな老人にとりましては、その頭の中に一つの幻影の如くに遺つてゐるに過ぎませんが、而かもその影としての事実は、恰も写真の種板の如く容易に一つの印象として諸君の眼前に展開させる事が出来るのであります。
 ところで、私は過去に於ける事実に対し、その批判や議論をしようとする者でないことは、前に申述べた通りであります。左様な批判や議論は諸君にお任せして、私は唯事実は強いものであるといふ信念の下に、昔の農民生活……農村世態等その実際を茲に開展せしめたのであります。そして、これによつて読者諸君が幾分なりとも益せらるゝ処があつたならば、著者としての本望これに過ぎずと考へるものであります。
 終りに臨み、本著に対して序文を寄せて下されたる幸田露件、小野武夫両博士及び此の編纂並に出版に就いて御尽力下された姉尾幸三、品川潤、日高節の三氏の御厚意に対し篤く感謝の意を表する次第であります。
 昭和二年三月 著 者 識

このブログの人気記事(2014・6・1)
1・ルビつき活字を考案した大阪朝日の松田幾之助
2・雄山閣文庫の既刊書目(1937年6月)
3・石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因
4・憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか
5・殷王朝の崩壊と大日本帝国の崩壊(白川静の初期論文を読む)
6・三たび「日本の経営」を論じたアベグレン
7・伝説のレスラー、ズビスコによる「史上最大級の騙し討ち」
8・カワウソに関する伝説(藤沢衛彦執筆「カワウソ」を読む)
9・小野武夫と大日本壮年団連盟
10・隠語の分類あるいは隠語の作り方

このブログの人気記事(2014・5・31)
1・ルビつき活字を考案した大阪朝日の松田幾之助
2・石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因
3・雄山閣文庫の近刊広告(1936年10月)
4・憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか
5・乃木将軍は米一粒を落としても拾って食べた
6・『敵国日本』(1942)における「宮中」勢力の分析
7・古畑種基と冤罪事件
8・伝説のレスラー、ズビスコによる「史上最大級の騙し討ち」
9・内田百間と「漱石全集校正文法」
10・寺子屋では師匠の言行を見習う

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小野武夫と清水文弥

2014-06-01 08:41:51 | 日記

◎小野武夫と清水文弥

 先月二三日以降、清水文弥の『郷土史話』(邦光堂、一九二七)という本を紹介した。この本の巻頭には、三つの序文が置かれている。順に、農政学者の小野武夫による「郷土史話に序す」、作家の幸田露伴による「序」、清水による「自序」である。
 このうち、小野武夫による「郷土史話に序す」は、同書の成立事情を説くと同時に、清水文弥の人となりを語っていて興味深い。本日は、これを紹介してみよう。

 郷土史話に序す
 昨年の夏、突然一葉の端書〈ハガキ〉が私の家に舞ひ込んだ、一度会つて話をしたいから、都合の好い日を知らせよとの申入れであつた。約束の日に茅屋〈ボウオク〉を下訪せられたのは、足袋素足に質素の身装〈ミナリ〉をした一人の老翁であつた。初対面ながら何となく懐し味〈ナツカシミ〉のある訪客であつたので、早速座敷に御招じ〈ゴショウジ〉申して御用件を承ると、多年心懸けて置いた農村経済史に関する著述を出版したいから、其相談に乗つては呉れまいかとて、柿色の風呂敷包の中から一括〈ヒトククリ〉の原稿を出された。老翁の話を聞きながら、原縞を点検して行く内私の頭の中にも一個の案が纏つたので、其事を申上げると、翁は其れに同意して其日は拙宅を辞せられた。其れから私と翁とは同じ用件で数回の面談を遂げたが、斯くする間に翁の起稿の業も段々と進み、遂に最近に至り上梓の運〈ハコビ〉にまで至つたのである。
 老翁とは外ならぬ、本書の著者清水文弥翁其人〈ソノヒト〉である。今年七十七歳になられると云へば、維新の際は十五六歳の少年であつたらふが、明治になつてからは、其郷里下野国〈シモツケノクニ〉那須郡親園村〈チカソノムラ〉で各方面の村役人を勤め、其五十歳の頃からは、社会事業に興味を持たれて東京に出で、財団法人修養団に関係し、其の団の地方巡回講師として足跡を全国に印し〈インシ〉、殊に九州新潟及び秋田地方の農村青年の啓発には、最も其力〈ソノチカラ〉を致されたと云ふ。
 喜の字を祝はるゝ程の高齢にありながら、元気尚衰へずして記憶力に富み、其談論はいと歯切れよく、粗朴にして熱意ある態度は相手の人を動かさずには已まぬ〈ヤマヌ〉であらふ、私の如き其〈ソノ〉初対面より打寛ろいで〈ウチクツロイデ〉翁と相談じ〈アイダンジ〉其の教〈オシエ〉に預らんことに決意したのは、全く野人其侭〈ソノママ〉なる翁の風格であつた。去る本年〔一九二七〕の三月二日の夕、私共平生〈ヘイゼイ〉農民史に興味を有する数人の同好者相集り、翁を招いて徳川時代の農村生活に就き、一場の講話を聴いたのであるが、列席の学友諸君も恐らくは、私と同様の感に打たれたことであらふ。
 郷土史話は芸術的作品としては勿論物足らない点があらふけれども、強記なる翁が七十年の昔を回顧して語り出づる処、皆真実ならざるは無く、土の香〈カ〉のせざるものは無い、されば動〈ヤヤ〉もすれば上層描写の史論に堕し易き経済史学徒は、之を読みて文献記述の正否を確むることが出来ようし、又一般世間の君子は翁の経験談を聴いて、古人の生活事実に触るゝことが出来るであらふ。此意味に於て郷土史話は、下野〈シモツケ〉一地方に限られたる地方史であり、清水翁一人の実験記でありながら、今や散逸せんとしつゝある徳川時代の農民史料を、故老の手記を通じて後世に貽す〈ノコス〉には、最も適切なるものとして之を江湖に薦め、同時に翁の寿齢の益々高らん〈タカカラン〉ことを祈るものである。
 昭和二年三月 小野武夫謹識

 これを読んだ限りの印象だが、この『郷土史話』という本は、小野武夫がプロデュースしたものではないのか。小野は、既存の原稿の並べ方を考えたほか、清水翁に対して、追加の原稿を依頼するといったことをおこなったのではないか。
 文中、「足袋素足」の読みは、タビスアシ、またはタビハダシ。要するに、清水文弥翁は、ハダシ足袋をはいて、小野の家を訪れたということであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする