礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

本郷弓町の教会で占領軍の残飯をもらう

2025-02-12 00:38:55 | コラムと名言
◎本郷弓町の教会で占領軍の残飯をもらう

 川島武宜『ある法学者の軌跡』(有斐閣、1978)の紹介を続ける。本日以降は、同書の第Ⅴ部「終戦前後」の第二章「終戦直後の研究室生活のことなど」を、三回に分けて紹介したい。

      終戦直後の研究室生活のことなど
      ⑴ その頃の研究室
 ここで、少しばかり終戦直後の大学の様子やわれわれ研究者の生活について話しておきましょう。
 日本が降伏したころのことを思うと、今でも胸が痛みます。「お茶の水」の駅から東大までのあいだは、じゅうたん爆撃の結果見わたすかぎり一面の焼野原になっていて、見えるのはただ瓦礫のみでした。本郷三丁目から赤門へゆく道のかたわらには、青ざめて動くこともできない人が何人かうずくまっていました。言うまでもなく、その人々は食べる物も住む家もなく、しかも動く力もない人々で、朝はともかく生きていたらしい人々が、夕方帰るときにはたおれて死体になっているのでした。そういう状態でしたから、われわれも食料にも住居にも苦労しました。当時、私は研究室に軍隊用の組立式ベッドをもちこみ、そこで寝泊りしていましたが、食物には全く困りはて、文字どおり飢えをしのいでいる程度で、湯の中にメリケン粉の小さな団子が浮んでいるようなものを行列して食べたりしていました。もちろん、露店ではいろいろな食べものを売っていましたが、われわれの乏しい月給ではそういうヤミ商品を買うことができません。こういう生活をして何時まで生きられるか、何時あの本郷通りの道ばたで死んだ人々のような運命をたどるようになるのか、という不安な思いが時々心の底にありながら、それを忘れるように努力していました。もちろん、歩く力もだんだん弱ってきていましたし、特に野菜は稀にしか口にすることができないので、自分の栄養状態については強い不安とともに、一種の絶望感さえありました。
 今もなおはっきり思い出しますが、昭和二一年の五月ごろ本郷弓町の教会で、占領軍の残飯をもってきて食べさせてくれるという話をきいて、力のないからだに鞭打って弓町まで歩き、行列してその残飯をたべました。何年ぶりかに、肉のにおいのするドロドロの汁のかかった白米のごはんを口にして、「ああこれで何日分かの栄養にありついた」と思いました。
 そういう栄養上の欠陥のせいかと思われますが、私は昭和二一年の一月から断続的に三回、眼底出血をわずらいました。そのたびに読書と執筆とを禁止され、特にその最初のときは視野の中央に灰色の円形の盲点ができて、見ようとする場所か常にその盲点の中に入ってしまうので、精神的に打ちのめされてしまいました。そのうち、だんだんと盲点が小さくなりましたが、そのかわりにその盲点の部分が傷跡のようになったとのことで、視野の中央に来る物体はすべて折れ曲ってジグザグに見えることになってしまい、読書・執筆はおろか、目を開いている間中〈アイダジュウ〉、一種の精神的不安からのがれられませんでした。しかし、我ながら今の自分とはちがうのに驚くのですが、当時は「必ずなおる」と信じ、他日にそなえて専ら色々な問題についてあれこれと思索して暮していました。そうして、あとになって考えてみると、眼底出血のおかげでそのつど何ヵ月かの思索期間をもつことができたことは、私の研究生活にとって別の意味で大へんなプラスになったのでした。

 文中、「本郷弓町の教会」というのは、日本基督教団の本郷弓町教会のことである。1927年(昭和2)に、日本組合基督教会の会堂として建てられる。1941年(昭和16)、日本基督教団の創立とともに、同教団に加入。

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