礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

内村鑑三「末松男爵と人糞事件」(英文)

2014-05-20 06:01:08 | 日記

◎内村鑑三「末松男爵と人糞事件」(英文)

 昨日の続きである。内村鑑三は、一八九九年(明治三二)二月一三日、今度は『万朝報』で、この「人糞事件」を採り上げている。よほど、この事件に関心を払っていたものと思われる。タイトルは、BARON SUYEMATSU AND NIGHT-SOIL AFFAIA(末松男爵と人糞事件)である。この英文は、『内村鑑三全集』第六巻(岩波書店、一九八〇)に載っているが、翻訳はついていない。一方、道家弘一郎〈ドウケ・ヒロイチロウ〉訳『内村鑑三英文論説 翻訳篇 下』(岩波書店、一九八五)には、その翻訳が載っている。
 本日は、道家弘一郎氏による、その翻訳を紹介してみよう。これによると、事件が起きたのが「去る十二月下旬」であるかのようにも読めるが、事件は、記事と同じ年(一八九九)の一月一一日に起きている。

 末松男爵と人糞事件 Baron Suyematsu and Night-Soil Affair
 全極東の歴史において、一か月あまり前、青森で起こった事件以上の大事件が起こったことはない。「日本の元老政治家」伊藤〔博文〕侯の愛婿末松〔謙澄〕男爵は、みずから去年の秋、板垣伯の憲政党に入党し、とうぜん大変有力な一員となった。全東北地方を自党に加入させんとの雄図をいだいて、去る十二月下旬、彼は東北地方へ一大政治キャンペーンに出発した。この遠征は大成功であると伝えられた。福島、仙台、一関、盛岡その他の土地において、彼が出席するだけで、大隈〔重信〕伯の政治的牙城は次々に落ちたと言われる。彼の勝利は完璧であったから、彼が侵入した全域にわたり、この著名な侯爵の著名な女婿になびかないで立っている草木は一本も見られなかった(と彼の機関紙は報ずる)。勝ちに乗じて彼は北進し、その前進をはばむものは何もなかった。やがて青森市に到着したとき、思いもかけぬことが彼を待ちうけていた。――あたかも百年前モスクワに着いた常勝の将軍ナポレオンを待ちうけていたように。時は冬のさなか、今や死物狂いの大隈党は、皇帝アレキサンダー一世が採った方法にも劣らずやけっぱちな防衛手段に訴えた。彼らは全市を灰燼に帰するようなことはしなかった――そんな必要はなかったが、敵は、もっと穏やかでもっと効果的な手段によって同じように効果的に追い払われた。彼らは一団の壮士を雇い、小さな樽に汚物を詰めさせ、それをもって、歓迎されざる訪問者の上に、したい放題のことをせよと命じたのである。そんなわけで、勝ち誇った末松男爵の一行がホテルに向かっていたとき、雪空から彼らの頭上に噴射物が炸裂し、異臭を遠く広く四囲に満たした。幸い男爵は無事で、傷つくことも汚れることもなくホテルに護送された。しかし噴射物は所期の効果を奏した。男爵はその臭いを嗅ぎ、それがひじょうに不快なものであることを知った。そして、もうこれ以上勝利を追求しないことに決心した。彼は二十人ほどの警察官の特別の護衛のもとにその夜を過ごし、翌朝早く自分とその一行のための専用一等車に乗って東京に向かった。こうして記憶すべきキャンペーンは終わった。この事件は、帝国の政治史上、わたしがこの論説のために採用した表題のもとに永久に残るであろう。
 しかし男爵はしごく当然のことながら立腹した。彼は、青森には警察とよぶべきものはないのかと激しく政府を糾弾し、全責任を知事に帰した。いまや有名な岳父〔伊藤博文〕を後盾〈ウシロダテ〉にもつ男爵は、侮るべからざる政治的人物である。そこで政府は彼の非難に耳をかし、あわれ知事をその職から解任し、後任にその名を宗像〔政〕〈ムナカタ・タダス〉という、ある知れわたった肥後人を当てた。前松方内閣の恥ずべき瓦解以来職を解かれていたこの紳士は、ほんの二、三週間前、一新聞記者に対して、「もっぱら冷飯をくって下肥〈シモゴエ〉を作っている」と語ったといわれる。いまや、「下肥作り」の彼が、下肥事件の結果空席となった地位を与えられたのである。わたしの知るかぎり、全世界の歴史において、これ以上に完璧な偶然の一致のあったためしはない。(『万朝報』 2・13 Diogenes)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

内村鑑三「末謙人糞事件」(1899)

2014-05-19 05:34:23 | 日記

◎内村鑑三「末謙人糞事件」(1899)

 昨日の続きである。本日は、内村鑑三が、『東京独立雑誌』第二〇号(一八九九年一月二二日)に掲載した「末謙人糞事件」と題する文章を引用してみよう。「末謙」は、末松謙澄〈スエマツ・ケンチョウ〉を指す。「スエケン」と読むのであろう。榎本健一を「エノケン」と呼ぶたぐいである。引用は、『内村鑑三全集』第六巻(岩波書店、一九八〇)より。和歌を紹介したあと、話題が変わるが、その部分は割愛した。

『末謙人糞事件』
 明治32年1月25日
 『東京独立雑誌』20号「見聞録」
 署名 笑肥生
◎『末謙人糞事件』とは近頃奇異なる文字の配列なるが之に解釈を付すれば、日本国の貴族末松謙澄なる人が憲政党と名づけら〔れ〕たる政党に入り明治の三十二年一月と申すに党勢拡張の為め陸奥国〈むつのくに〉青森に下りし時、憲政本党と名づけられし他の政党の壮士の襲撃する所となり、将さに〈マサニ〉人糞を浴せられんとせしなりと云ふ。
◎昔は楠正成〈クスノキ・マサシゲ〉長柄杓〈ナガビシャク〉を以て熱糞を敵の頭上に注いで千早の城を全うし、今は進歩党の策士樽詰の冷糞を投じて自由派の驍将〈ギョウショウ〉を却かす〈シリゾカス〉。古今の智謀同一轍〈ドウイツテツ〉、進歩党に策士多しとは余輩今日始めて之を知るを得たり。
◎人糞事件に題して
 陸奥の雪に黄金の花咲きて
  匂ひぞわたる末の松やま

追記 このコラムを書いたときは気づかなかったが、内村鑑三の和歌には、「本歌」があったようだ。大伴家持の「天皇(すめろき)の御代栄(みよさか)えむと東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)に黄金花咲(くがねはなさ)く」という歌である(万葉集・巻18-4097)。2023・9・11追記。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人糞事件を和歌に詠んだ内村鑑三

2014-05-18 14:17:57 | 日記

◎人糞事件を和歌に詠んだ内村鑑三

 昨年の一〇月三日、このブログに、「内村鑑三、和歌を引いて黒岩涙香の要請に応ず」というコラムを書いたことがある。一八九七年(明治三〇)初頭、内村鑑三は、『万朝報』〈ヨロズチョウホウ〉の社主・黒岩涙香〈ルイコウ〉から、入社の要請を受けた。最初は固辞していた内村だったが、黒岩のたっての頼みに対し、黙考久しく、ついに頼みを受け入れた。
 受諾に際し、内村は、一首の和歌を引用した。
「思ひきや我が敷島の道ならで浮世の事を問はる可しとは」
 さすがは明治の教養人である。もちろん私も知らなかったのだが、この歌は、『太平記』にあるもので、二条中将為明〈タメアキラ〉が詠んだものだという。後醍醐天皇の倒幕計画が洩れたとき、その側近であった為明は、「思ひきや我が敷島の道ならで浮世の事を問はる可しとは」(思いもしなかった、和歌のことでなく、浮世のことについて聞かれるとは)と詠み、六波羅探題からの追及を逃れたという。内村鑑三は、その故事を踏まえて、この歌を引いたのである。しかも、これを引いて、涙香の要請を断ったのではなく、逆にその要請を受け、「浮世の事」に関わることにしましょう、伝えたのである。
 なかなか味のある話である。内村鑑三という人は、以前から敬愛している人物であるが、この逸話を聞いて、さらに敬愛の度を強めた。
 さて、以上は前置きであって、本日は、内村鑑三が詠んだと目される和歌を一首、紹介してみよう。
「陸奥〈ミチノク〉の 雪に黄金〈コガネ〉の 花咲きて 匂ひぞわたる 末の松山」
 これは、『東京独立雑誌』第二〇号(一八九九年一月二二日)に掲載されている「末謙人糞事件」に引かれている和歌である。この文章を書いているのが内村であることは間違いないが、和歌が、内村の自作かどうかは、ハッキリしない。ここでは一応、内村の自作ということにしておこう。和歌についての教養があった内村のことであるからして、自分でも和歌を詠んだと考えても、おかしくはない。
 この和歌は、憲政党の末松謙澄〈ケンチョウ〉が、青森で人糞をかけられた事件(一八九九年一月一一日)を題材にしたものだという。【この話、続く】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文庫から叢書に、さらに全集に、再び文庫に

2014-05-17 04:00:47 | 日記

◎文庫から叢書に、さらに全集に、再び文庫に

 昨日の続きである。小川菊松の『出版興亡五十年史』(誠文堂新光社、一九五三)の第一部「出版界興亡の跡」の「二三、文庫本の流行と回想~結末は地獄落しの危険もある」より。本日が三回目(最後)。

 岩波文庫のように巻数が揃うと、その中の優秀なものを抜萃しても、随時に集合広告が出来るから、宣伝費は割合安くつくであろう。しかし二千数百巻中の、目ぼしいもの数百巻だけのストツクを刷り置きするだけでも容易なことではあるまい。何も他所の台所を頭痛にする必要はないが、文庫本は生命が短ければ短いで、地獄落しの憂き目を見なければならないし、生命が長ければ長いで、こういう人知れぬ苦労がある。出版業者として考えさせられるものがあると思う。
 さて叢書本の歴史を回想すると、前言つたように、古くは大型、中型、小型本共、多く文庫の名を用い、稀に「全書」とか「叢書」とかしたものがあつたが、文庫というと、古いものを集大成しただけの感もあり、女性的に、軽い感じもするので、大正期に入つてからは、叢書の称が多く用いられ、稀に「大系」「大成」(冨山房の「漢文大成」の如く)「集成」等の称が用いられた。また故人の遺著を集めた「全集」は、警醒社の「大西博士全集」、博文館の「紅葉全集」「樗牛全集」等が早い方で、共に明治三十七、八年から四十年へかけて出ているが、その後、学界や文壇の物故者が多くなると共に、その全集が相ついで発行され、昭和時代に入つてからは「全集」や「選集」が特に目立つて多くなつたのはよいとして、著者がまだ健在であるのに、その全集が出るに至つては、聊かどうかと思われる。ところで、叢書ものの称が、こういう推移を辿つて来た今日、急に文庫ものが多くなつたのは、「岩波文庫」の依然として老衰を見せない、頑健な存在ぶりに追随しようとする出版界の通弊たる模倣性の抬頭でもあろうが、それが自然に、大時代の名称への逆行となつて、歴史は繰返すの一文句通りになつたのも面白い現象である。それはともあれ、「新潮文庫」「市民文庫〔河出書房〕」「アテネ文庫」「角川文庫」等も大した売行きで、新にまた「創元文庫」も出現し、ここもと出版界は、文庫本流行の形で結構だが、乱発となつて、地獄落しの痛ごと〈イタゴト〉が出来ぬよう切に祈るものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早々と撤退した誠文堂十銭文庫

2014-05-16 05:25:27 | 日記

◎早々と撤退した誠文堂十銭文庫

 昨日の続きである。小川菊松の『出版興亡五十年史』(誠文堂新光社、一九五三)の第一部「出版界興亡の跡」の「二三、文庫本の流行と回想~結末は地獄落しの危険もある」より。本日、紹介する部分で小川は、誠文堂十銭文庫と岩波文庫について語っている。
 誠文堂十銭文庫の創刊を「昭和八年」としているが、これは一九三〇年(昭和五)が正しいようである。撤退は、一九三二年か。また、岩波文庫の創刊を「大正時代」としているが、岩波文庫は、一九二七年(昭和二)の創刊である。

 十銭、廿銭の小型文庫は、売れさえすれば、これ程手がけよい、楽な仕事はない。が百巻二百巻の叢書となつて見ると、各巻のストツクを用意するだけでも容易なことではない。そこへ競争者が出たり、飽かれたりすると一気に行きつまつて、案外にその尻が大きい。底知れずの地獄落しといつた形になる。わが誠文堂でも、昭和八年に、「誠文堂十銭文庫」を企画し、短期に百冊を出版して主だつた小売店に陳列ケースを提供したりして、相当華美な宣伝等を試みたのであるが、期待した成果は得られなかつたし、調子に乗つて地獄落しの馬鹿を見てもツマラヌと思つて、残本か出ぬ程度に売り抜けて、後腐れなく打ち切つてしまつた。事実十銭本であれば、二万や三万の売行きでは、丸々儲けたところが知れたもの、身にも皮にもつかないし、気骨ばかりは一人前以上に折れるのだから、長くは続ける気にならなかつたわけである。
 アカギの十銭文庫は、ドイツのレクラム版にヒントを得たものであろうが、このレクラム版の方式をソツクリ模倣して、★一つ十銭という廉価の大叢書を作つて成功したのは「岩波文庫」である。大正年代から二十余年に渡つて二千数百巻を発行し、今なお盛〈サカン〉に出版して益々声価を高めているのは偉いもので、まさに文庫としても王座の揺がぬものであるが、これは内容がいすれも生命のあるというばかりでなく、用紙も最上質、印刷が鮮明で、蔵書家の愛好をそゝるに足ることも、この文庫が永く飽かれずに来た原因の一つであろう。事変から戦争中にかけて、用紙の統制が厳しかつた時代にも、岩波文庫は、遂にこの紙質を落さなかつたところを見ると、どの位紙のストツクがあつたのかと驚かされたものである。【以下、次号】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする