◎「変体仮名」廃止の経緯(春日政治『国語叢考』より)
今日の私たちにとって、江戸時代の庶民が読んでいた読本〈ヨミホン〉、草双紙〈クサゾウシ〉、瓦版の類を読むことは、ほとんど不可能である。それは、私たちの多くが、いわゆる「変体仮名」についての知識を欠いているからである。
今日、私たちが使用している「ひらがな」は、ほぼ一音に一字が対応している。しかし、かつては、「変体仮名」というものが存在し、必ずしも「一音一字」でなかった。そうしたことは、もちろん知っていたが、明治期に「変体仮名」が廃止された経緯について解説した本には出会ったことなく、以前からそのあたりのことが知りたいと思っていた。
一昨日、高円寺の古書展で春日政治〈カスガ・マサジ〉『国語叢考』(新日本図書、一九四七)を入手し、昨日これを読んでいたところ、明治期の「変体仮名」制限の経緯について言及している箇所があるのに気づいた(ただし、それほど詳しい言及ではない)。同書の最後に収録されている「国語問題展望」(初出は一九三八年)の第三節である。
しかるに明治三十三年〔一九〇〇〕帝国教育会国語改良部の仮名調査部において、議決十九条の発表があり、中に「同音ノ仮名ニ数種アルヲ各一様ニ限ルコト(即チ変体仮名ヲ廃スルコト)」の一條があって、両仮名〔ひらがな・カタカナ〕の標準字体を示した。この体は現今の標準字体とほぼ同一であるが、ア行のお・オにを・ヲを置き、お・オ・ゐ・ヰ・ゑ・ヱを用いないといったようなものであった。しかるに文部省は同年八月に小学校令施行規則において、仮名の字体を一定した。いわゆる第一号表(第十六条)がこれであって、ここに初めて今日の標準字体が定まり、これを国語はじめ諸学科の教科書に適用した。かくてこの字体は漸次〈ゼンジ〉一般社会に普及して、やがて一国の活字体がすべてこれに統一されてしまった。
平仮名における変体仮名は、三十七年以後使用の国定小学読本にはなかったたのを、四十三年以以後使用の尋常小学読本には、世上慣用の最も弘い〈ヒロイ〉ものを知らしめる為に、変体仮名二十五字を加えて上級用の韻文に出した。勿論読方〈ヨミカタ〉に課するのみで、書方〈カキカタ〉・綴方〈ツヅリカタ〉には用いなかった。しかるに大正七年以後使用の尋常小学国語読本にはこれを省いて、ただ八巻の「看板」の課にその数個を出したのみで、「今ナホ古風ヲ守リテ………」という語で、暗に現代には用いないことを示してある。新読本にいたってはそれもすっかり除いてしまって、現代の小学教育には変体仮名を全く見ないことになった。かくて、仮名字体が完全に統一されたのみならず、一般社会がまたよく調子を合せてくれた。元来文字の事は社会民衆に最も関係ある印刷物、すなわち新聞・雑誌のごときが勢力をもつものであるのに、その印刷物がたちまちこれに賛同してくれたのは、それらの印刷物は同音の仮名に幾つもの異体をもちことが、はなはだ迷惑であったからおいそれと〔すぐに〕歓迎したのである。国語問題の成功は一般民衆の読物に調子を合せてもらうことが第一に必要である。
要するに、「変態仮名」制限の推進者は文部省であって、一般社会がこれを歓迎したために、たちまち学校教育以外にも普及していったということらしい。
なお、文中に「新読本」とあるが、これは、一九三八年(昭和一三)時点での新読本ということであり、具体的には、一九三三年度(昭和八)入学生から順次使用した「四期国語教科書」(サイタ サイタ サクラガ サイタ)を指すものと思われる。
さて、この文章に接して、なおいくつかの疑念が去らない。それは、現代かなづかい、漢字制限に対しては、今日でも強硬に反対している人がいるぐらいであるから、明治期に「変体仮名」が制限された時に、強硬な反対論が出てもおかしくはなかったような気がするが、そうしたことはなかったのか。もしなかったとしたら、それはなぜだったのだろうか。
また今日、現代かなづかい、漢字制限に反対している人の中には、今日でも現代かなづかいを拒否し、旧かなづかいを使用している人々、あるいは、漢字の新字体を拒否し、正字体を使用している人々がいる。しかし、そうした守旧派の中に、「変体仮名」復活論者、「変体仮名」愛用者がいるという話を聞いたことがない。これはなぜなのだろうか。
今日の名言 2012・9・4
◎小学校の教科の文章は言文一致体を採用すること
明治34年(1901)、全国連合教育会は、帝国教育会が提出した「小学校の教科の文章は言文一致体を採用すること」という案を可決したという。明治期の教育界は、国語に関してはかなり革新的だったと言えよう。春日政治「国語問題展望」(1938)より。『国語叢考』(新日本図書、1947)では、265ページにある。