◎正覚寺の山田亮因師、内郷村村落調査を回想する
またまた、内郷村の話である。
松本三喜夫氏の『柳田国男と民俗の旅』(吉川弘文館、一九九二)には、「内郷村への旅」という章があるが(初出は一九九〇)、同章の末尾には、松本氏が、正覚寺の前住職・山田亮因師におこなったインタビューの記録「相州内郷村余聞」が収められている。インタビューの日付は、一九八九年(平成元)一一月一八日だという。
このなかで山田師は、郷土会の村落調査があった大正期の村の食糧事情についても語っている。なかなか貴重な証言なので、引用させていただこう。一部、すでに紹介している部分もあるが、重複を厭わず引用する。
松本 柳田らの調査のとき、十日間泊まっているんですが、その時の食料はどうしていたのでしょう。
山田 食料はね、私はあまり細かくは知らないが、ただ〔長谷川〕久さんという人が来て、この辺であぶらあげを買ったりしてね、豆腐とか里芋とかあるもので料理をやっていたということは記憶にあるね。あの頃、物売りも来ないし、買うこともできないし、南瓜など畑で取れたもので、本成りであろうと末成りであろうと、味に構わず取って食べてね。十人が十人、十日間ここに泊り通したということはない訳で、ちょっこら明日帰るという人もあり、帰ると何か持ってくるんで、そういう意味での食料の持込はあって、ビールみたいな物を持ってきて、おいしい菓子を持ってくる、キャラメルを持ってくる、机の上にはそういうおいしいものがのっている。それをみんな出ていった後、子供だから失敬したこともあり、怒られたこともあるね。珍しいキャラメルなんて食べられないですよ、キャラメルが転がっているんですよ。
松本 夜はどんな様子でしたか。
山田 夜は遅くまで調べ物をしていたりしていたね、そりゃ遅いです、ながながと。ランプのしたで遅くまでやっていたね。
松本 泊まっていたときの寝具はどうされたのですか。
山田 寝具は借りたと思うね。家にもそんなに泊めるほどはないんでね、二人や三人分くらいだね。普通の家でも布団〈フトン〉はそんなに持っていないね、大きい旧家とか、宿屋でした、そういう家にあった布団を借りてきたと思うね。
松本 お食事の世話とかはお寺さんの方で全部世話をなさっていたんですか、だれか人を雇って世話をお願いしたんですか。
山田 それは今ここに書いてある(『石老の礎』の中のご自分の文章を指す)長谷川久さんという、この人は長谷川〔一郎〕先生の在所〔住所〕のすぐそばの、増原の人で、この人がうちの勝手の炊事場を使って、炊事場というけど狭いんで、台所は広いからその台所に釜を追加して、三升とか五升とか炊くんで。子供の頃のことでよくわからないけどね。母のいうのは、長谷川さんが寺を宿泊場所として頼みに来られたけど、父も病気で大変だからということで、一度はお断りしたんですがね。そう、リョーマチでね。自分の連れ合いの世話をしなければならないし、皆さんのお勝手まではどうもということで、世話はできないからお断りしたんだが、長谷川先生はなにいうとる、しょっちゅう旨いものを食うとるんだからそんな心配はいらんとか、寝るといっても夏のことだから、何かにくるまって眠るんだろうから、そう心配しないで泊めるだけ泊めてくれということで、泊めることになったらしいんですね。実際にどうであったかは、親じゃなけりぁ分からんがね、わしは遊びに行っていたからね。
松本 柳田は長谷川に、村の人に迷惑をかけてはいかんとか、食べ物は全部自分で持っていくとかいっていますが、それは実際とはちょっと違うんですか。
山田 うん、ちょっと違うね。持ってきていたかもしれんがね、ちょっとは。
松本 柳田の俳句「山寺や葱と南瓜の十日間」が、何か新聞記者に洩れ、村の人に大目玉を食ったとか聞いているんですが。
山田 それはよく知らないがね。こころあるというか、この土地に育った成人の人たちからみれば、あんまり稗飯はうまくないし、宣伝するほどじゃあないしということかも。新聞は、私の母のいうことには、当時の『日々新聞』か、『貿易新聞』だか、何か今でいえば天声人語のああいうところに出たらしいね。『東京日々』に、『神奈川新聞』なら当然神奈川のことだから出ても差し支えないが、それはあんまり葱とか南瓜とかで十日間過ごしたというんじゃ、この村では稗でも食べているらしいとみられては、何で。
松本 当時の食料はどんなものでしたか。
山田 いやいやお米なんて、私ら檀家〈ダンカ〉へいくと、まず割飯〈ワリメシ〉、麦飯と麦の多いこと。それから粟〈アワ〉の多いこと、粟飯なんていうと米の白いのが、ポツポツとした程度で、温ったかいうちに食べないと固くなりまずいこと。それから麦飯はね、ただの割飯もあるし、まる飯もあるしね、まる飯の方がまあいい方で米なんか全然関係なしで、麦ばっかりのめしをバクといい、麦飯〈バクハン〉というね。まる飯はそのかわりすぐにはやわっこく炊き上がらないから、まあ夜業〈ヤギョウ〉の仕事でもしながら、火を燃やしながら、グツグツと煮る。いろりを囲んで仕事をする者は仕事をする。夜が深ける〈フケル〉にしたがって炊ける訳で、そして朝になると水分を吸って膨れ上がっていて、朝また温めて食べる。そういう時代だから勝手〔台所〕をする者は、砂糖、塩、こういうものは買ってこなければ、この土地からは採れないからね。それを買うことでさえ骨の折れることでした。小さい頃だから覚えがないが、久さんという人がそういうものを買ってきていたんで、久さんにはお手伝いを頼んだんだから当然、お金を出していたと私の考えではそう思うね。考え方によると長谷川一郎さんがそれだけの接待をしていたか知らないがね。
こうした食糧事情の中で、柳田國男ら調査団の一行は、正覚寺に滞在していたのである。受け入れ側は、おそらく調査団に対しては白米を提供していたと思うが、一般農民の水準からすれば、これがとんでもない贅沢であったことは間違いない。柳田らには、「麩や南瓜の十日間」などの不満を述べることは許されなかったのである。
ちなみに、この「麩」は、おそらく「この土地からは採れない」ものであり、「それを買うことでさえ骨の折れる」ものだったのではないだろうか。おそらく柳田には、「麩」が贅沢品だという感覚はなかったであろう。
山田亮因師の証言によれば、大正期における内郷村の主食は「麦飯」が一般的だったと見てよいだろう。山田師が、「この村では稗でも食べているらしいとみられては」と言っている意味は、麦を食べているにもかかわらず、稗を食べていると思われては心外だ、と解釈すべきであろう。
なお、山田師のいう「割飯」、「まる飯」とは、文脈から考えて、それぞれ「挽き割り麦で炊いた飯」、「丸麦で炊いた飯」の意味であろう。
今日の名言 2012・9・28
◎私の知る限り、勝てる監督はみんな腹黒かった
野球評論家・豊田泰光さんの言葉。昨27日の日本経済新聞「チェンジアップ」欄より。豊田さんによれば、野球の監督というのは、相手ベンチを疑心暗鬼にさせるような「すごみ」がなくてはならないという。豊田さんが、そうした「すごみ」のある監督として挙げているのが、落合博満前中日監督で、逆に「いい人」(「すごみ」がない監督)として挙げているのが和田豊阪神監督である。