◎中村春二の「かながきひろめかい」と春日政治の「かながき論文」
一昨日、春日政治博士の「手だて と 目あて」という文章を紹介した。その初出については未確認だったが、昨日、国会図書館に出向き、中村春二編の『かながきのすすめ』(成蹊学園出版部、一九二二)を閲覧してきた(デジタル資料なので、モニター上での閲覧)。
驚いたことに、この『かながきのすすめ』は、全編「かながき」で書かれた本であった。本のタイトルも、正しくは『かながきの すすめ』であった(わかち書きされている)。
同書は、「かながき ひろめかい」のメンバーによって執筆されているが、春日博士の文章は、一点のみ。文章のタイトルは「てだて と めあて」で、署名は「かすが まさじ」とあった。
『かながきの すすめ』の本文は、タテ組みで、活字は、やや横に長い扁平のもので、しかも、その字体は見たことのない独得のものであった。おそらく、この会のために、新しく鋳造された活字であろう。
春日論文の冒頭、および末尾を引用してみよう。
―とくがわじだいの がくしゃ やなぎさわきえんの 「うんびゅーざっし」と ゆー ほんに、つぎの よーな はなしが ある。―
―つまり ぶんしょーの ことばわ はなしことば、もんじわ をんを しめす もんじ、しかも それを はつをん どーりに かかなくてわ ならない。―
こんな感じである。「やなぎさわきえん」は柳沢淇園、「うんびゅーざっし」は雲萍雑志のことである(雲萍雑志の読みは、一般的には〈ウンピョウザッシ〉のようである)。
奥付によれば、『かながきの すすめ』は、東京市外池袋の成蹊学園出版部から、「大正十一年十二月」に発行されている。
巻末には、「かながき ひろめかいの しごと」というページがあり、会の要綱が紹介されている。「かながき ひろめかい」の事務局は、成蹊学園の中に置かれていたことなどがわかる。会の役員についても定められているが、当時、誰がどういう役職にあったかについての記載はない。
さらにそのあとには、「かながきの しるべ」というページがあり、同会の「かながき」の方式について、簡潔な説明がおこなわれている。もちろん、「かながき ひろめかいの しごと」も、「かながきの しるべ」も、全部ひらがなで書かれている。
この会の中心人物は、成蹊学園の創立者として知られる中村春二だったと思われる。中村春二と「かながき ひろめかい」の関わりについては、このあと、もう少し調べてみようと思っている。
とりあえず『朝日日本歴史人物事典』の「中村春二」の項(執筆・稲垣友美)を引用しておく。ただし、ここでは、「かながき ひろめかい」についての言及はない。
中村春二【なかむら・はるじ】
生年:明治一〇・三・三一(一八七七)
没年:大正一三・二・二一(一九二四)
明治大正期の教育者。歌人中村秋香〈アキカ〉と母清子の次男として東京に生まれ、早くから詩歌や絵を学ぶ。東京帝大国文科を卒業し、曹洞宗第一中学林等で教鞭をとる。明治三九(一九〇六)年に友人今村繁三の協力で学生塾(翌年、成蹊園と命名。現、成蹊学園)を創設。すぐに岩崎小弥太〈コヤタ〉も援助者となる。やがて私学の必要を痛感し、四四年に家塾風な実務学校を、続いて中学校、小学校、専門学校、女学校を順に開設していく。独得な東洋的理念と方法をうちたて、師弟の「心の触れ合い」による「真剣な気分」の育成を教育精神とした。個性教育、人物教育を掲げて鍛練主義、実力主義、作業主義、少人数主義を採り、不言実行の「真」教育を目ざす。特に心操の法「凝念」〈ギョウネン〉と「心の力」の朗唱は注目を集める。日ごろ「教え子はこれ神なりと思え、ゆめおろそかに扱うべからず」と戒めていた。〈著作〉『教育一夕話』『導く人の為めに』『かながきのすすめ』〈参考文献〉小林一郎編『中村春二選集』、中村浩著『人間中村春二伝』
なお、タカハラ・タケヨシ氏の『土着の学問の発想』(東洋経済新報社、一九七三)によれば、攻玉社の創立者である近藤真琴(一八三一~一八八六)は、その晩年に『ちしつがく うひまなび』(一八八六)という「かな書き教科書」を刊行しているという。『土着の学問の発想』の一二一ページには、その版面が影印によって紹介されている。ひらがなによるタテ書き、分かち書きなど、中村春二編『かながきのすすめ』と酷似しているという印象を受ける。中村春二は、この近藤の教科書のことを、よく知っていたのではないだろうか。
ただし、近藤の教科賞と中村の『かながきのすすめ』とでは、使われている「ひらがな」が違う。近藤の教科書で使われている「ひらがな」活字は、ごくありふれたものであり、また、いわゆる「変体がな」も使用されている。一方、中村の『かながきのすすめ』の「ひらがな」活字は、きわめて特殊な字体で、近藤教科書以上に古風な字体という印象を与える。しかし、「変体がな」は使っていない。
今日の名言 2012・9・27
◎ようを べんずるには かなでよい
近藤真琴の言葉。攻玉社の創立者として知られる近藤真琴は、1885年(明治18)1月、神田錦町学習院で開かれた「かなの会」の大会で、このように演説したという。タカハラ・タケヨシ『土着の学問の発想』111ページによる。