礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大正初年に岡山県の小学生が体験した小旅行

2012-09-10 05:21:15 | 日記

◎大正初年に岡山県の小学生が体験した小旅行

 たまたま、アルス日本児童文庫『むかしの旅』(日本児童文庫刊行会、一九五八)という本を手にしたところ、興味深い記述にぶつかった。それは、この本の筆者である長尾宏也〈ナガオ・コウヤ〉さんが、まだ小学生だった大正初年に、岡山県西部の山間部から金川〈カナガワ〉駅の先まで旅行したときの回想である。長尾さんは、一九〇四年(明治三七)生まれの児童文学者である。では、早速引用してみよう(二三七~二三九ページ)。
 
 そういうわたしにも、ほんとに旅行する日がやってきました。尋常(小学)四年の夏やすみをむかえて、わたしと、こめえねえさんふたりで、そのころ、岡山の近くにいたおじいさんのところへ、いかしてやるという、ゆるしがでたのです。こめえおねえさんといっていたこの姉は、六年生でした。ふたりで、六十キロ、いやもっと遠いおじいさんのところまでいけるかしら? わたしたちは、不安でもありましたが、それよりも、もっとうれして、いざ、あすは出発するという夜など、ろくろくねむることもできないほどでした。
 いよいよ、出発の日の朝は、もう暗いうちから、母はべんとうをつくるやら、「そう、あれは、はいっているか……?」など大さわぎでした。そうこうしているうちに、人力車がやってきて、ふたりはならんで、それにのりました。
 十六キロの山坂をくだると、大きな川のある町につきました・成羽〈ナリワ〉です。その川には、はじめて見る船が、岸ちかくとまっていました。高瀬船です。ここから、船にのって川をくだるのですが、なにしろ、貨物をはこぶ船のことです・船頭ひとりに・荷役人夫〈ニヤクニンプ〉がひとり、わたしたちは、荷もつをつみこんだかたすみにすわりました。ここまでくると、知っているひとといっては、ひとりもありません。成羽川はやがて高梁川〈タカハシガワ〉といっしょになって、川はばは、いっそうひろくなってきます。すずしい川風をいっぱいあびながら、あるときはゆっくり、あるとさは矢のように早く、船はどこまでもくだっていきました。
 わたしたちは、見るものすべてものめずらしく、川の両岸の風景に、あるときはおどろきの目を見はりながらも、なんとなく、不安がたえよせん。姉は姉で、安寿と厨子王の話などおもいだして、つかれてねむろうとするわたしを、ゆりおこして、「ねえ、ねむってはだめよ。」そういって、いざとなったら、どうにげるかなど、こども心に、どんなにしんぱいしていることか、わたしにも、それが、つたわってきて、そうなったら、けしきどころではありませんでした。
 しかし、これはまったくつまらない想像であったことが、やがてわかりました。
 湛井〈タタイ〉というところに、船はつきました。ここは、あのなみだでねずみの絵をかいた雪舟がいた宝福寺があるところです。そのころ、中国鉄道の終点でした。
 船頭のあんないで、停車場にきてみると、そこには祖父のもとから、むかえのひとがきて待っていました。わたしたちは、やがて汽車で、岡山をへて、金川という駅につきました。祖父のうちは、金川から、さらに旭川〈あさひがわ〉にそって一里さかのぼるのでした。
「さあ、ぼっちゃん、うちへきましたよ。」
 そういわれて、人力車からおりると、こんどは、わたし船で、この川をわたるのでした。
 祖父はそのころ、この旭川ぞいの山あいのの一角でベンガラ(赤い色の塗料)をつくっていたのです。
 
 長尾さんは、自分の生れた場所を記していないが、おそらく、川上郡吹屋町〈フキヤチョウ〉であろう。というのは、ここは、昔からベンガラの産地として有名だからである。長屋さんのおじいさんは、ベンガラを作っていたとあったが、この人は、旭川沿いの地にベンガラの材料が採れる場所を見つけ、吹屋を離れていたのではないだろうか。
 長尾さん姉弟は、湛井から中国鉄道に乗ったとある。一九〇四年(明治三七)開業の中国鉄道吉備〈キビ〉線(岡山駅―湛井駅)である。なお、この湛井駅は、一九二五年(大正一四)に廃止されている。
 姉弟は、中国鉄道吉備線を全線乗車したあと、岡山で中国鉄道本線(岡山駅―津山駅)に乗り換え、金川駅まで乗車したのであろう。
 ちなみに、金川は、当時まだ御津〈ミツ〉郡金川村だったはずである。金川村は、一九一五年(大正四)に町制を実施して金川町となり、戦後の一九五三年(昭和二八)には、他村と合併して御津郡御津町〈ミツチョウ〉となった。その後、二〇〇五年に岡山市に編入されている。慶応四年一月(一八六八年二月)に起きた神戸事件の責任をとって、翌月に切腹した瀧善三郎は、この金川の出身で、金川駅から数キロ歩いた七曲〈ナナマガリ〉神社の前には、「瀧善三郎義烈碑」が建っている。
 長尾宏也さんが、こうした回想を残しておいてくれたおかげで、この当時の交通事情の一端を知ることができた。それにしても、当時、小学生がこうした旅行をするというのは、きわめて珍しいケースだったのではないだろうか。

今日の名言 2012・9・10

◎きみたちは、いちどは、徒歩の旅をしてみてください

 児童文学者・長尾宏也さんの言葉。『むかしの旅』(日本児童文庫刊行会、1958)の最後に出てくる。「徒歩の旅こそは、ひとりで歩かねば、なんの意味もありません。というのは、自由ということがなければならないからです」。

コメント
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