◎山寺や葱と南瓜の十日間(柳田國男の俳句)
柳田國男が、この内郷村調査を終えての帰路に詠んだ句として、「山寺や葱と南瓜の十日間」というものが知られている。宿舎となった正覚寺には、今日、その句碑があるという(『相模湖史 民俗編』による)。
柳田にとって、調査中の食事は、かなり印象に残ったもようである。というのは、朝日新聞の記者に対しても、村での食事のことを語っているからである。一九一八年(大正七)九月五日の東京朝日新聞記事を引用してみよう。この記事は、『相模湖史 民俗編』(相模原市、二〇〇七)の四三二ページに影印で紹介されている。記事の見出しは、「麩と南瓜の十日間」である。
●麩と南瓜の十日間
=内郷村へ研究に行つた
郷土会の御連中帰京す=
▽村の衆を驚かせながら
▽出来上つた立派な地図
相模川の上流に当る神奈川県津久井郡内郷村に学者達が大勢行く事になつたといふ噂はかなり村の衆を驚かせた、それは新渡戸博士等の郷土会が此の
▲夏期休暇を 利用して総ゆる〈アラユル〉方面から村の研究をする為の先づ此の内郷村を選んだ事であつた、学者達の一行は三宅驥一、草野俊一博士、柳田〔國男〕貴族院書記官長、中桐〔確太郎〕早大教授、石黒〔忠篤〕、小平〔権一〕両商農務事務次官、正木〔助次郎〕東京府立三中教諭、田村〔鎮〕陸軍技師等〈ラ〉各方面の専門家であつて夫々〈ソレゾレ〉得意の研究準備を整へて村に行つたのは去る八月十五日であつた『何様
▲初めての事 だから村ではお奉行様御巡視と云つた調子に我々の出張を印象したらしかつた』と是は柳田氏のお話である、処が実際村に着いて正覚寺の本堂に陣を構へた此の一行は毎日朝は露を踏んで夕は星を戴く迄村の小道や小川や林を尋ねて全で〈マルデ〉お宝でも探す様に石塊〈イシコロ〉一つも見落すまいと云ふ熱心さに村の衆は再度吃驚〈キッキョウ〉の声を放つたらしい、『此の様に愉快に隔て〈ヘダテ〉の無い
▲学生時代の 様な旅行をしたのは十何年振り〈ブリ〉だつたでせう……随分遠慮の無い激論も戦はせるし喜劇もあつたのですよ』柳田氏は愉快な笑顔に崩れて『最初食べた物は皆お向ふにまかせ切りにしたのですね処が恰度〈チョウド〉南瓜〈カボチャ〉の好い時季なのです最初の晩飯に出たのが麩〈フ〉に南瓜のお汁です何しろお腹〈ナカ〉が好く空いてゐるから美味しい〈オイシイ〉のです、処が其翌朝〈ヨクチョウ〉もやつぱり麩と南瓜又其晩も麩と南瓜そして其翌朝も麩と南瓜それから
▲何でも豆腐 と南瓜になりましたがね――それやお腹が空いてるからおいしいにはおいしいんです――何しろ東京ではかなり紳士生活の連中ばかりですから好い修養になつたでせうよ』此処〈ココ〉迄話を持つて来た柳田さんはホツとした様な顔をする『夫〈ソレ〉から議論もよく起つたが或る時は村を貫いてる川は自然の流れであつて其岸に村が出来たといふ説と村に
▲便利の為め 水を其処〈ソコ〉に引いたのだといふ説が出て大いに論じたが果し〈ハテシ〉が無いので翌日皆で其川に行つて見る、又論じるといふ調子で未だに釈然とせぬのもある、然し十日間で立派な村の地図も出来たから紙価でも安くなつたら印刷にして村へ土産〈ミヤゲ〉に贈らうといふ話も出てゐる』と
おそらく柳田は、新聞記者を喜ばせるために、あえて話をおもしろくしたのだろうが、それにしてもこれは、配慮に欠けた発言だった。特に、「好い修養になつた」という言い方がきつい。「村の衆」としては、招いたわけでもない調査団の中心人物から、村の食生活が、いかにも貧しいように言いふらされたわけであり、怒り心頭に達したのではないだろうか。【この話、さらに続く】
今日の名言 2012・9・21
◎ハルノユキヒトゴトナラズキエニケリ
作家・久米正雄が詠んだ俳句。親しかった随筆家・高田保〈タカダ・タモツ〉の死を知った久米が、弔電として送ったものという。発信人名は「クメマサヲ」。その久米も病床にあり、高田の死は「ヒトゴト」ではなかった。昨20日の東京新聞夕刊「続・百年の手紙」(梯久美子執筆)より。高田保の死は、1952年2月20日、久米は、その10日後の3月1日に亡くなった。久米正雄の忌日を三汀忌という。久米はその若き日、斬新な句風の俳人として知られていた。三汀は久米の俳号。