礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

豊後竹田城で起きた刃傷事件の顛末

2014-04-28 05:44:39 | 日記

◎豊後竹田城で起きた刃傷事件の顛末

 昨日に続き、北村清士『こぼれ史談 寸話秘帖』(藤井書房、一九六七)に載っていた話を紹介する。元禄四年(一六九一)に、岡城(豊後竹田城)で起きた刃傷〈ニンジョウ〉事件の顛末が記されている。故き千葉徳爾先生なら、おそらく注目されたであろう事例として読んだ。表記は原文のまま。

 66 岡城内の殺人騒ぎ
 元禄四年四月二十九日暁におこつた凶変で、当時西の丸の賄所で炊事がかりである、下村助右ヱ門がかねて反目していた同僚の三宅右ヱ門を殺害したのである。この二人は宿直当番のいざこざから口論となって、ついに大立廻りとなり、双方が台所から鋭利な庖丁をとり出して、上へ下へと斬りむすび、三宅右ヱ門が台所から渡りローカへ逃げ走るところを、下村助右ヱ門が、大広間までおいつめ、双方とも血達磨となつて戦つたのである。
 夜がほのぼのと明け白む頃、この騒ぎをききつけて、扣え〈ヒカエ〉の番人であった上田又兵衛、平井源太左ヱ門、小泉勘左衛門等が、何に事かと驚きかけつけ、血達磨になっている両名を、ヤツと取り押えてこれを引き分けて取り静めた。見れば右ヱ門は全身に十四ケ所、助右ヱ門も八ケ所に手負〈テオイ〉の疵〈キズ〉を受けて、双方とも、いきの根もきれそうになっている。まもなく右ヱ門は深い疵で出血おびたゞしく遂に絶命した。番人上田又兵衛等三名は、その場へ立合つた関係で、双方の申分を聞こうとしたが、すでに三宅右衛門は息気〈イキ〉がたち切れたあとのことで不明であるし、一方の助右ヱ門の言葉のみでは、片手おちで、その真実はつかめない点がある。たゞ助右ヱ門のいうことは、
「何のおぼえもないのに、米びつから米を盗んでかくした」
と申したので双方口論となつた、私は無念で刃傷に及んだと訴えるのである。急報によつて早速ご城代役、ご用人番の森田総左ヱ門が登城した。総左ヱ門は一応事情をきき、使者九郎三郎という者を、右ヱ門の屋敷へつかわし、事のしだいをつげ、同時に死体を同家に収容させた。さて四月五日になつて下村助右ヱ門に対し、「城中という場所がらをもわきまえず、喧嘩口論をなし、その上刃傷に及びたるは不届、至極」の旨、藩主からお仰せ出されてついに切腹を命ぜられたのである。
 この時、検死役には、槍の指南番志水源兵ヱ重俊、その介錯人として可村彦八という腕ききが任命された。切腹の申渡しには源兵衛と側用人の広沢儀右ヱ門があたり、期日は八日、午前十時執行の沙汰である。その日助右ヱ門は白装束に身を清め、自宅裏(十川町)の小屋で、家伝来の名刀裕定で腹を真一文字に切腹を正規の通り行い、何の臆びれ〈オクビレ〉もなく絶命した。それにしても万一のことがあつてはと心配して、彦八の介錯にさらに高久宗全一名を加えて、首尾よくその刑を終つて、検死役志水源兵衛以下は退去した。
 四月二十七日助右ヱ門の嫡男下村弥七は、父のこの不祥事件で長のお暇を申し渡され追放となつた。また下村助左ヱ門から数年来、取立られていて、その庇護をうけていた、三宅六郎右ヱ門は城中で双方口論の場にあつて、暗に助右ヱ門を煽動した疑いで、その職を免ぜられ遠国追放となつた。五月二日六郎右ヱ門は妻子と別れ城下を出発し、下村弥七としめしあわせて、大阪で落合い苦労を重ね悲劇のドン底から、遂に大阪の与力に浮び上つて活躍した。

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