礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『急流の如く―岩波新書の三十年―』における見解

2014-05-14 05:40:21 | 日記

◎『急流の如く―岩波新書の三十年―』における見解

 昨日のコラム「岩波茂雄は、なぜ編集部に相談しなかったのか」で、岩波茂雄が、戦前の岩波新書(旧赤版)に付されていた刊行の辞「岩波新書を刊行するに際して」(一九三八年一〇月)を草するにあたって、なぜ、編集部に相談しなかったのかについて、考えるところを述べてみた。
 もちろん、そこで述べたことは勝手な臆測なのであって、岩波書店の見解とはたぶん異なるものだろう。では、このことに関する岩波書店の公式見解というものがあるのか。「公式見解」というわけではないのだろうが、それに近いのではないかと思われる解説を、『急流の如く―岩波新書の三十年―』(一九六七、岩波書店、非売品)で読むことができる。
 この冊子は、『激動の中で―岩波新書の25年―』の四年後に出たものである。署名はないが、たぶん筆者は、吉野源三郎であろう。
 この冊子では、「岩波新書を刊行するに際して」の全文が引用され、そのあと、この宣言についての解説がある。その解説の部分を引用してみよう。

 この刊行の辞は、或は今の若い人々には、何故岩波〔茂雄〕がこのように力んでいるか、理解しがたいものがあるかもしれない。一九四五年以前には、日本には、出版法というものがあって、すべての出版物は内務省警保局で、厳重な検閲がされていた。平和な時代がなくなってからは、検閲は一層きびしくなり、「反国家的」という名のもとに、批判的な言論はすべて弾圧されていた。ことに日中事変がおきてからは、内務省だけでなく、陸海軍の情報部が検閲をはじめた。
 これはもちろん法律にない行為であったが、その方が暴力的に言論を弾圧したのであった。右翼の勢力、それに巣くっている学者が虎の威を借りて、理由にならないような論理をふり廻していたのである。そういう時勢に「岩波新書」が発刊され、その刊行の辞を岩波茂雄が書いたことを考えてもらえば、少々むずかしい文章ではあるが、読むことを読者もいとわないであろう。私たちはこの文章は歴史的な意味のあるものだと考えている。
「天地の義を輔相し」という句は、易経の泰卦の中にあるものだ。補相はたすけ匡す〈タダス〉という意味をもっている。岩波は多分この言葉を幸田露伴から聞いていたのであろう。今度刊行の辞を書くときに、もう一度たしかめるために、編集部の者を露伴のところへやった。また、つぎに続く「王道楽土」という言葉は満洲国を作って以来、日本の支配者たちが使った言葉である。はじめ岩波は「現下の政党は健在でない」「官僚は独善である」「財界は奉公の精神に欠けている」「武人に高邁なる卓見と一糸乱れざる統制がない」というように、断定的に書いた。社の者には見せなかったが、二、三の友人にはこの草稿を見せたという。そしてその友人の一人が、ここに示すように「……なりや」というように疑問形にするように注意したということである。五ケ条の御誓文を引用したのも岩波がこれを大変尊重していると同時に、ここではやはり防禦のためであったと思う。
 日附を靖国神社大祭の日、と書いたのも、逆手をとるような意味があったのだ。

 これを読むと、岩波茂雄が時局迎合的な言葉を使ったことについての岩波書店関係者の見解が、防御説、逆手説であることがわかる。しかし、この解説は、なぜ岩波茂雄が、編集部に相談せず、ひとりで「刊行の辞」を書いたのかという疑問を解消してくれるものではない。昨日の臆測は、一応、そのままにしておくことにする。
 ところで、この「刊行の辞」の原文二行目に、「白人の跳梁に委す」という言葉が出てくる。この「委す」の読みは難しい。最初、「まかす」と読むのかと思っていたが、『急流の如く』が引いているものには、ルビがあって、「たくす」と読ませている。委託という言葉があるので、「委す」を「たくす」と読む場合もあるのかと思ったが、やはり納得できない。悩んだ末、これは、「いす」と読むのではないかという結論に達し、今月一二日のコラムにおける引用では、〈イス〉としておいた。

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