◎乃木将軍と盆踊り
先日、某古書店の百円均一の平台で、清水文弥〈ブンヤ〉著の『郷土史話』(邦光堂、一九二七)という本を見つけた。この「郷土」というのは、野州那須郷のことである。読んでみると、なかなかおもしろい。
本日は、そこから、乃木稀典〈マレスケ〉と盆踊りの関わりについて触れている文章を引いてみたい。
三、盆 踊
明治二十七八年の頃、時の政府は盆踊を野卑のものであるとの理由の下に、全国一斉に禁止した。ところが、此の盆踊なるものは其の元来の主旨なるものが、先祖の供養にあるので、単に野卑であるといふ一理由で之を禁止するといふことは、甚だ当を得ぬといふやうな議論が、さかんに巷間に伝へられ他面その禁止令の如き極めて徹底せぬ風が見へたが、果然その後十年を出でずして、又元の通り禁止令を解かれた。
盆踊といふものは、なるほど野卑な踊であろう。併し、また其の野卑であるところに盆踊の生命があり、価値があるのである。而かも、その野卑なる一面に於ては純朴なる地方的人情と風俗を、如実に伝へ得て余りあるものと云へる。
余談はさておき、我が那須郷地方では、盆踊は昔から盛んに行はれたものであつた。寺又は神社の広い空地〈アキチ〉で若い青年男女達が、陰暦十四日、十五日、十六日の三日間殆んど徹宵して踊りつゞけたものである。
明治二十七八年の盆踊禁止令の発布された頃の如き、我が那須郷石林部落では、山の中に隠れて盆踊をやつたものであつた。石林部落は以前から乃木将軍が農園を経営してゐられた処で、将軍は公務の余暇よく此の地に来られて、そこに起居座臥〈キキョザガ〉してゐられたことがある。
恰度〈チョウド〉盆踊の禁止令が発布された時、乃木将軍はその禁止令に反対せられ、自分の農場内に櫓〈ヤグラ〉を造り、そこに、音頭取〈オンドトリ〉を乗せ、大勢の石林部落民に盆踊をやらせられたものであつた。ところが此の事が何時しか〈イツシカ〉当局の耳に入り、大田原警察署長は知事の内命をうけて、乃木将軍の許〈モト〉にやつて来た。すると、将軍は署長に対し
「盆踊といふものは、昔から有り来つた〈アリキタッタ〉もので、その主旨は先祖の供養にある。人が死んだ時悲しんで泣くのも、また笑つて踊るのも其の供養の意義に於て何等変りがあろう筈がない。国家の御禁制に背いた罰金は、乃公〈オレ〉が出すから、こゝに集てゐる青年其の他の人達は愉快に遊ばして貰ひたい」
と云はれた。
こんな訳で、毎年盆が来ると、踊の群集が三里四里の遠方から、乃木将軍の農園内に集つて、さかむに〔盛んに〕踊つたものであつた。【以下、次回】