◎柏木隆法さん、『斬り抜ける』『必殺仕掛人』を語る
本日も、柏木隆法さんの「隆法窟日乗」を紹介したい。昨日、通しナンバー535を紹介したが、本日、紹介するのは、通しナンバー536。日付は記載されていない。
隆法窟日乗
『斬り抜ける』〔1974~1975〕は拙が接した作品の中でも記憶に残る作品であった。意欲的で拙もあらゆることで勉強になった。1960年代にはアメリカのテレビ映画『逃亡者』が自分の無実を晴らすために全国を流離う〈サスラウ〉。テビット・ジャンセンなどという俳優は聞いたこともない無名の俳優であったが、この作品一本で世界に知られるようになった。物語は一話完結の形式をとりながら全体の共通するサブストーリーを通す事、これがアメリカのテレビ映画の特色だった。ワンクール、三カ月をメドに番組を試作し、視聴率が高ければ続行、悪ければ即打切り。制作費は最低、スタッフも揃っていないから拙のようなアルバイト学生でも大道具の手伝いから俳優まて、あらゆる制作の裏面まで手伝わされた。これは個人プロダクションの製作映画の現場でも裏方の厳しい現象が見られた。三船プロの『新選組』の時なんか黒谷のロケ現場で拙は150人もの学生エキストラに衣装を着せていたが、中腰でせっせと袴をはかせていたところ、同じように衣装を着せていたスタッフとぶつかり、尻もちをついた。思わず「気を付けろ」と叱ったら、その相手は三船敏郎だった。三船の娘が離婚するとかしないとか最近メディアを賑わせていたが、まだ影も形もない昔の話である。三船の腰の低いのには驚いた。ちょっとばかり世の中に知られるようになったばかりの若い歌手や俳優がふんぞり返っている姿をよく見かけたが、そういう生意気な奴は直ぐに消えていった。スタッフやカラミに嫌われてはたちまちにしてツンボ桟敷に追いやられる。このころNHKでヒットするとそのまま民放が同じ俳優で別作品を作ることがよくあり『国盗り物語』の近藤正臣、火野正平がそうだった。同じように『文吾捕物帳』から杉良太郎、東野英治郎、露口茂が『水戸黄門』だった。そのころ一番モテていたのが睦五郎〈ムツ・ゴロウ〉でリチャード・キンブルの吹替えで他の番組のスタッフが顔を見に来ることもあった。『トラ・トラ・トラ』〔1970〕で黒澤明が降坂すると深作欣二〈フカサク・キンジ〉がそれに代わり、深作は山村聰の個性を視だして『必殺仕掛人』〔1972~1973〕の音羽屋半衛門の役をあてた。松竹の凄いところは原作を演出と脚本で越えてしまうところで、藤枝梅安〈フジエダ・バイアン〉の相棒を『鬼平犯科帳』〔1971~1972〕に一度だけ登場する「西村左内」を林与一にてて変えてしまった。そしてなかなか役が決まらなかったのが元締の音羽屋で全員がホームドラマの出演者ばかりだった。忘れられないが、視聴率は第一回目から高く、延長間違いなしといわれていたが、途中で『赤旗』に「金を貰って人を殺すのは道徳に反する」と叩かれたところで緒形拳は二度とテレビで藤枝梅安を演じなくなった。その後、梅安は田宮二郎、萬屋錦之介〈ヨロズヤ・キンノスケ〉、小林桂樹、岸谷五郎、渡辺謙などの名優が演じたが、どれもイメージに合わなかった。拙が『必殺』に関わったのは『仕掛人』だけだったが、それぞれゲストに津川雅彦、三国連太郎、今はもう名前すら忘れ去られたが、園井恵介、渚まゆみなども会った。林与一の殺陣は流石に群を抜いて上手かった。少人数のスタッフでよくあれだけの作品ができたと記憶に残って居る。あの作品は大映からきた楠本栄一と深作欣二の合作だと今も思っている。松下電器スポンサーの月曜日8時の時代劇の三分の一の制作費だった。視聴率は提供企業のふんだんな制作費によって決まっていく。松下電器の制作部門から独立したCALの制作はギャラの高い俳優を贅沢に使い、他のドラマを押し退けたところがあった。松竹で原田大二郎主演で『柳生十兵衛』を放映したら東映で山口崇〈ヤマグチ・タカシ〉主演により同名番組が制作され、松竹では8回目で放送打切りになった。真にテレビ業界というものは隙間産業だった。Panasonicが不況になり月8が維持できなくなるとCALが制作した『寒月霞斬り』『逃亡者おりん』など安上がりの時代劇を制作したが今は活動していない。536