◎吉野作造は社会的情熱をもつ思想的闘将
今月一日のブログで、吉野作造著『新井白石とヨワン・シローテ』(元々社、一九五五)という本について紹介したが、その巻末にある赤松克麿による解題「校訂者の言葉」は、まだ紹介していなかった。本日は、この解題を紹介してみたい。
校 訂 者 の 言 葉 赤 松 克 麿
吉野作造博士(明治十一年〔一八七八〕宮城県古川町に生れ昭和八年〔一九三三〕死去す)が欧米三年の留学を終えて帰朝したのが大正二年〔一九一三〕七月であった。翌三年〔一九一四〕七月に東京帝国大学法学部の助教授から教授となり、政治史と政治学の講座を担当した。彼は教壇で講議するかたわら、雑誌に筆を執りはじめた。最初はキリスト教の雑誌「新人」に寄稿し、ついで「中央公論」に寄稿した。彼を中央公論の論壇に引っぱりだしたのは同誌の主筆瀧田哲太郞(樗蔭〈チョイン〉)氏であった。そのころ彼はあまり雑誌に書くことに興味をもっていなかった。外国留学から-帰ったばかりの彼は、大学の講義に関心を注いで、雑誌に執筆することには気が進まなかった。瀧田氏が最初彼を訪ねたのは、彼が留学から帰った年すなわち大正二年の十一月であったが、瀧田氏の依頼に応じてはじめて執筆したのが大正三年の一月の中央公論に載った「日米問題」でる。その後瀧田氏はたびたび彼を訪ねて熱心に寄稿を促したが、彼は瀧田氏の要請に応じなかった。しかし瀧田氏はなかなか引っこまなかった。瀧田氏はいったんこれと見込んだ人間にたいしては執拗に食い下って、これを引っぱりだす強引力をもっていた。ついに瀧田氏は彼にたいして、それほど余暇がないなら、私があなたの口述を筆記しましょうといゝだした。彼は瀧田氏の熱心にほだされてちょいちょい書いているうちに、段々と雑誌に書くことに興味を覚えてきた。そのうち欧洲大戦(大正三年七月勃発)がはじまった。この大戦の勃発によって世界思潮は大きく動揺したが、これが彼が積極的に論壇に乗りだすに至った強い契機であった。彼は手記のなかで「やがて欧洲大戦が始った。近く欧洲の形勢を見てきた私として、おのづから心の躍るを覚えざるをえない。加之〈シカノミナラズ〉、戦争の進展とともに、デモクラシイの思潮が涌然〔ママ〕として勃興する。そこへ瀧田君は再々やってきては私をそそのかす。到頭私は瀧田君の誘導に応じて、私から進んで半分雑誌記者見たような人間になってしまったわけだ。これを徳としていゝのか悪いのか、とにかく瀧田君は私を論壇に引っぱりだした伯楽である」と書いている。
当時中央公論は論壇の王座的地位を占め、評論おいて文芸において、燦然〈サンゼン〉たる光彩を放ったが、これは偏に〈ヒトエニ〉瀧田氏の卓拔な編輯技能によるものであった。瀧田氏が強引に吉野博士を中央公論に引っぱりだして、自由に論陣を張らせたことは、雑誌経営の上からも成功であった。欧洲大戦がはじまってから、彼の執筆は多くなったが、大正三年から、大正十三年〔一九二四〕東大を辞して朝日新聞に入るまで、一二度病気其他の都合で休んだ外は「我ながらよくも毎月まめに書いたと思ふ」と後年述懐するほど精力的な筆戦をつゞけたのである。彼が中央公論を拠点として展開した筆戦は、全国の知識階級に大きな思想的影響を与え、彼は大正時代の民主主義の指導者をもって目せらるゝに至った。彼の思想的業績が我国の民主主義思想史上に画期的足跡を残したことはたしかである。
彼は学者として象牙の塔に立てこもる性格ではなかった。彼にはキリスト教的人道主義からきた社会的情熱と勇気があり、そして何人にたいしても、胸襟を開くという開放的性格があった。そして親切であり世話好きであった。彼は天成のデモクラットであったということができる。彼は頼まれるままに社会運動や社会事業にたいして、直接関接にいろいろな指導や助力を与えた。したがって彼は多くの人々を引きつけ、彼の周囲にはつねに生き生きした新時代の気流が渦巻いたのであった。第一次世界大戦後の社会運動者、社会思想家、大学教授、ジャーナリストなどで、濃淡の差はあれ、吉野博士の門を潜り、その指導と感化をうけたもの実に多数に上っている。中国人や朝鮮人の学生で、彼の指導と助力をうけたものも決してすくなくない。
ところで彼がわが国の民主主義史上に不滅の歴史的足跡を残したについては、時代的環境を考慮に入れて考える必要がある。明治時代が終りを告げて、大正時代を迎えると、なんとなく新しいものを求める風潮を生じた。「大正維新」の標語もジャーナリズムの上に現われた。たまたま大正元年〔一九一二〕に桂〔太郎〕内閣が成立したのを契機に、憲政擁護運動なるものが起り、藩閥官僚にたいする国民的反抗の運動が燃えあがり全国的に彼及した。これは支配階級の伝統的中核をなす藩閥官僚勢力にたいする政党の民主的抗争であったが、大正時代の民主的新気運の到来を思わしめるものがあった。こうした社会的動向のあったとき、第一次世界大戦が勃発したのである。
この大戦は全世界にわたって、思想的・社会的の一大変動の機縁となった。我国もその強い影響をうけた。この大戦はドイツの軍国主義にたいするイギリス・フランス・アメリ力の民主主義の戦いであると一般に解釈され、我国が民主主義陣営に加担して参戦するに及んで、国内的には民主主義の進展に有利な状勢をつくりだした。すでに大正時代に入って明治以来の官僚主義的または軍国主義的政治性格にたいする国民的反感がかもしつゝあったときであるから、大戦を転機として、民主主義を支持する空気が国民の間にしだいに高まったのである。彼が外国留学から帰ったのが、大正二年〔一九一三〕の七月であるが、その翌年〔一九一四〕の七月に欧洲大戦は起ったのである。彼は欧米において民主主義の政治学を研究し、さらに欧洲の政治状勢を視察し、今から民主主義の方向へ飛躍しようとする祖国に帰ってきたのである。しかし彼は純学究ではなく、社会的情熱をもつ思想的闘将の性格を備えていた。かように考えてくると、天の配剤が畤と人との調和の妙を発揮したと言いうるのである。彼が民主主義の論陣を張って一世を指導していたころ、新渡戸稲造〈ニトベ・イナゾウ〉博士が「吉野君は使命をもったひとである」と筆者〔赤松克麿〕に語ったことがあるが、彼は使命をもったひとと思はれるほど、絶好の舞台で打ってつけの役割を演じたのである。【以下、次回】
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