礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

津田三蔵君は慧眼であった(林逸郎)

2017-05-28 02:19:55 | コラムと名言

◎津田三蔵君は慧眼であった(林逸郎)

 昨日の続きである。林逸郎弁護士の「血涙以つて守るべきは陛下の赤子の命なり」という文章を紹介している。本日は、その二回目で、昨日、紹介した部分に続く部分を紹介する(二三ページの途中から二五ページの途中まで)。

  津田三蔵と小島先生
 更に又今回の事件を以て大津事件と比較して論ずる者があるやうでああります。御承知の如く此の事件は露西亜の皇太子ニコラス、アレキサンドルウヰツチが明治二十四年〔一八九一〕五月に日本に巡遊に参つて、長崎に上陸し、漸次日本を巡遊致しまして、明治天皇陛下に対し奉り、拝謁を賜るべく大津まで参りました時に、警戒に当つて居りましたる巡査津田三蔵君が之に向つて三度斬りつけたのであります。殿下は此の時顔面より鮮血淋漓たりと記録に残つて居ります。左様な重傷を負はしめた。予審の調書に依りますと、津田君は言つて居ります。彼は日本帝国に参つて皇室に礼をしないで日本を巡遊するといふことは、日本を横領するものに違ひないと考へた。斯う〈コウ〉言つたのでありますが、それより僅かに二十年にして日露戦争が始まつたことを考へる時、津田三蔵君の眼は洵に〈マコトニ〉慧眼であつたと私は考へるのであります。此の時に廟議は非常なる問題と相成り、畏くも〈カシコクモ〉明治天皇に於かせられましては、皇后陛下、皇太子殿下御同列で神戸沖の軍艦にまで御見舞になつたのでありまして、幾度かの御前会議も開かれ、津田三蔵を死刑に処さなければならぬといふことであつた。然るに此の小島先生〔児島惟謙〕が断じて応じない。若し〈モシ〉斯様な〈カヨウナ〉ことから露西亜が戦争を仕掛けて来た時には一体どうするかと山田〔顕義〕司法大臣が小島先生に申したした所、若し〈モシ〉露国が事を構へて帝国を横領に参るが如きことがありましたならば、其の時こそは私共判事を以て一隊を組織し、奮戦して斬死致さん、其の時は法律は担ぎ出さざるべしと言つて居ります。之を以て遂に津田三蔵は無期徒刑を言渡された。此の時先生は大津京都の市民に恰も凱旋将軍の如くに迎へられたと言はれて居ります。
  血涙法を守ると云ふが如きは法律を解せざるもの
 此の小島先生の行は決して法律を守つて居るのでなく、血涙以て国家の恥辱を守つたのであります。今日亦同様に、青年将校を処するに当つて、血涙法を守ると云ふが如きは、日本の法律を真に解釈すべき人の云ふ言葉ではないと思ひます。血涙以て守るべきものは 陛下の赤子の命でなければならぬと云ふことを私は痛感するのであります。即ち法律を守ると云ふことは大してむづかしいことではありませぬ。吏僚の末、小役人でも法律を守る位は出来る。併しながら法律を生かすと云ふことは中々出来ない。大丈夫のみ之を為すのであります。法律を守るべきではなくして、生かすべきものでなければならないと私は思ふのであります。

 ここで、林逸郎は、一八九一年(明治二四)の大津事件を持ち出して、五・一五事件の青年将校を擁護しようとしている。要するに、青年将校の行為を、法を以て処置するのは適当でないという主張である。
 林は、その主張の根拠として、大津事件を挙げているわけだが、その同事件に対する林の理解が正確でない。大津事件においては、法を枉げて津田三蔵を極刑(死刑)に付そうとしたのは、政府であって、大審院長であった児島惟謙は、法に従って極刑を回避しようとしたのである。
 したがって、林が、法は守るべきものでなく活かすものだという持論を根拠づけるために、ここで大津事件を持ち出したのは、適切でなかったのである。しかし林は、全くそのことに気づいていない。大津事件のことをよく知らなかったのか、あるいは、知っていて、あえてストーリーを改変してしまったのか。
 それにしても、「津田三蔵君の眼は洵に慧眼であつたと私は考へるのであります」と言っているのは、いかにも、林らしい。ここで、大津事件を持ち出したのは、実は、このことを言いたかったからかもしれない。

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