◎役人や知識階級はドイツ流の統制主義一本槍
実話雑誌社発行の月刊誌『実話雑誌』一九四八年新春号(第三巻第一号)について、もう少し述べておきたい。
同誌同号の裏表紙に、唱歌「箱根八里」一番の替え歌が載っていることは、今月二一日のブログで紹介した。同号四二ページの余白には、著名な和歌をモジった「狂歌」が、五つ載っている。
本日は、まず、これを紹介しておこう。
○なげけとて闇屋は物を思はする
買ふことならぬ我がくらしかな
○もろともにあはれと思へ引揚者
やみより外に食ふすべもなし
○無償ではくれぬものとは知りながら
なほうらめしき配給の品
○心あてにそれと思ひし番号の
人まどはする宝くじかな
○闇市の店に吊りたる裾模様
流れし質の紅葉なりけり
いずれも、当時の世相を皮肉たっぷりに描写したものである。一応、それぞれの「本歌」も引いておこう。
○嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな(西行法師、百人一首86)
○もろともにあはれと思へ山桜 花より外に知る人もなし(前大僧正行尊、百人一首66)
○明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしきあさぼらけかな(藤原道信朝臣、百人一首52)
○心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花(源氏物語26)
○山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり(春道列樹、百人一首32)
「箱根八里」一番の替え歌にせよ、和歌のモジリにせよ、時代に対する批判精神と相当の教養、それに加えて、機智のセンスを持った人物でなければ、とても、こういうものは作れない。作ったのは、編集担当の畠山清身、畠山晴行兄弟のいずれかだったのだろう。あるいは、兄弟の合作だったのかもしれない。
ところで、同誌同号の最終ページ(五〇ページ)には、「編輯後記」というものが載っている。署名もなく、非常に短いものだが、感心させられた。次のようなものである(改行は原文のまま)。
編 輯 後 記
明けましてお芽出度う。いよい
よ終戦四年目の年を迎へる訳だが
今年こそ何んとか目鼻のついた年
にしたいものだ。それにつけても
一般庶民が一足先に民主的になつ
てゐるのに、お役人や所謂知識階
級が、戦争中の味が忘れられず、
独逸流の統制主義一本槍の机上プ
ランに終始してゐるのは困つたも
のだ。ともあれ、平素の御愛顧を
謝し、読者諸氏の艶福を祈る。
ここで注意したいのは、「お役人や所謂知識階級が、戦争中の味が忘れられず、独逸流の統制主義一本槍の机上プランに終始してゐる」という指摘である。
敗戦後、軍部が解体され、国民主権・民主主義の世の中に変わったが、戦中の統制経済は、そのまま維持された。占領軍のニューディール派の主導によって、農地改革・財閥解体などの社会変革がおこなわれたが、これは、戦前戦中に進行していたナチ的(国民社会主義的)社会政策を引き継ぐものだったとも言える。
当時、「ヤミ」が横行したのは、国家の統制主義が経済の実態に合わなかったからである。庶民にとっては、「ヤミ」は、生きるための手段であり、国家の統制主義に対する反抗でもあった。この「編輯後記」の筆者は、そのあたりを、よく見抜いていた。だからこそ筆者は、当時における「ヤミ」の横行を、皮肉な目で観察することができたし、また、「戦争中の味が忘れられず、独逸流の統制主義一本槍」という指摘をおこなうこともできたのである。
なお、今でこそ、「戦中戦後体制連続論」という議論が、知られるようになってきたが、こうした視点が初めて提起されたのは、一九九〇年前後のことであった。「編輯後記」の筆者は、直観的にではあったが、まさにリアルタイムで、戦中戦後体制の「連続」に気づき、それを指摘していたことになる。