◎二度と国の道を誤って貰っては困る(三文字正平)
一昨日、昨日の続きである。三文字正平の「葬られた繆斌工作」という文章(『人物往来』第五〇号、一九五二年二月)を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
腰抜け朝、野の態度
この具体案を持って山県〔初男〕氏は再び〔一九四四年〕二月九日東京に舞い戻った。当日小磯〔国昭〕総理にあって委細を報告すると、総理は直ちに繆斌を招くことに決心し、訪日の具体的な話合いが進められた。繆斌等一行は、無電機、暗号手、通訳、相内氏ら七名と決り、東京、重慶間の一切の連絡を頼むことになった。しかし一応南京政府の要員である繆斌を通じるこの工作が、果して本当に日本政府の意を受けてなされるかを確める為に、北京に傍受所を置いて内容を確める計画であった。これで活路が開けるかと、私等は唯々〈タダタダ〉この実現が待たれた。
繆斌等一行は出発の準備を終った。小磯は情報入手の名目で外務、陸、海軍の諒解をつけ、南京総軍から飛行機を出すように指示した。けれども陸軍のサボタージュでなかなか飛行機は用意されない。徒らに月日は経ち、三月に入って小磯総理のやっきの催捉にもかゝわらず、遂に陸軍からの便宜は得られなかった。仕方なく海軍からの許可を得て、漸く繆斌が来日したのは三月十六日であった。それも無電機も暗号手も伴わず、相内重太郎一人につき添われて羽田に着いた。その日繆斌は、「渡日については蒋〔介石〕委員長の諒解を得ている。しかし直接重慶を代表する者ではない。中日全面和平についての日本政府との折衝の期限は三月三十一日限りという蒋委員長からの内命を受けている」と語っていた。その後直接重慶との往復電報を、緒方竹虎〈オガタ・タケトラ〉氏、内閣書記官長田中武雄、山県氏に示した。それは次の文である。
礼刪子電悉、繆斌請求指示事項、可照前在濾与山県所、商定之原則進行、万勿譲、並将洽語情形、随時具報、為要。
礼廻午義仁甲渝六七〇号
(訳文
三月十五日の電報承知した。繆斌の請求して来た指示事項は、前に上海で山県と商定した原則に照し進行させ、決して譲歩するな。なお交渉の様子をその時々詳報せよ、
三月二十四日 重慶義仁甲六七〇号)
こうした繆斌の熱意をよそに、日本側は、重光〔葵〕外相、杉山〔元〕陸相l、米内〔光政〕海相らの反対意見で、政府の態度はにえきらなかった。繆斌訪日して間もない日の閣議で、米内海相が、
「繆斌を呼んで工作をしているのですか」
と問うた。小磯総理は「やっている」と答えたが,更に米内は「それはいかん」という。
「どうしていけないのか戦争指導者会議では和平を決議しているではないか」
「いや、和平が悪いのではない。総理がやるということがいけないのだ。和平は外務大臣がやるのが当然だ……」
「外務大臣がやらないから俺がやるのだ」
と、こんなやりとりがあつて、小磯総理を援け協力する閣僚は乏しく,この問題に初めから協力していた緒方竹虎氏以外は反対、若しくは態度保留の極めて白けた空気であった。最高戦争指導者会議においても、真向から反対する重光外相につゞいて、杉山陸相、梅津〔美治郎〕参謀総長、及川〔古志郎〕軍令部長、米内海相等の反対意見で、まとまらぬまゝ散会している。
繆斌は、小磯総理と会見した直後、傍ら〈カタワラ〉の山県氏をかえりみてこう語ってる。
「本日、小磯総理にお目にかゝって失望落胆と共に、少からざる不満を感じました。それを挙げてみると、一には、総理が私を信頼されているかどうかという点がはっきりしなかったのです。信頼されておらなければ仕事の出来る筈はありません。二には、外務省や陸海軍の諒解がなければ、話が出来ないというようなことでは、あまりに総理は無力ではありませんか、私共の折角〈セッカク〉信頼して来た総理が無力であっては、重慶側も手を引くでしょう。重慶では外務省や陸海軍を絶対に信用しておらないのです」と。
この工作を最初から支持され、成就を期待されていた東久邇宮〔稔彦王〕が、杉山陸相、梅津参謀総長を個々に招いて熱心に勧説されたが、このお骨折も水泡に婦した。四月に入って、小磯は宮中に参内を命ぜられ、「小磯、繆斌を呼んで和平工作をしているのか」と御下問がありその旨御奉答申し上げると、「たゞちに返えせ」と仰せられた。
このお言葉で繆斌は目的を達せぬま、日本を去ることになった。
その時の繆斌は次の詩に自らの心中を託して山県氏に残した。
所感 繆丕成 於東京
全局黒白愈分明、挽救狂瀾在此行
保得東海一角在、休愁西洋百万兵
驕横便覚仇人多、患難方知兄弟情
独惜伊藤早謝世、誰来与我訂誓盟
山県氏も又次の詩を以て応えている。
次繆丕成先生韻 山県初男
誰言勝敗已分明、大局拾収存此行
豈計廟堂空失幾、可憐堅子不知兵
歳寒始見老松節、国乱愈彬烈士情
排除万難須奮闘、与君誓結善隣盟
それにしても妨害の手は、早くも木戸を通じて宮中にまで届いていたのである。この前日、外相、陸海大臣へ既に御下問され、三相揃って反対意見を申し述べていたのである。今、和平をしなければ破滅するという微妙な時機に、しかも繆斌の訪日が実現している時に、ついに和平への機会を逸したのである。これは小磯内閣瓦解の大きな原因であったが、思えば日本の政治が内蔵するあらゆる矛盾と腐敗が集約的に現われた時機であった。かくして日本は惨澹たる終戦を迎えねばならない主なる原因となったのである。
重光、虎口を脱す
その後、東京裁判に際して、私は小磯の弁護人として立った。終り近くなって口述書を作ることになり、これにソ連を通じての和平と繆斌工作を詳しく述べ、小磯が和平を計っていたことを書いているところへ、重光の弁護人、柳井恒夫とファーネスが来て、重光に関する問題は書かないでくれと懇請された。
「それを書いて出されると、重光は死刑になる」というのである。ファーネスは「小磯のためにロンドンまで行って有利な証言――以前日本にいたピコール少将の証言をとって来るから書かないでくれ」とまでいうのだが、私は、これは小磯個人の弁護の為にではなく事実は事実として残して置きたかった。書きあげて小磯に廻わすと、小磯はその箇所を削って返えして来た。「これを書くと重光が死刑になる、重光を死刑にするのは小磯だということになるから書けない」という。東京裁判でキーナン検事は「昭和二年〔一九三七〕から一貫した侵略行為」ときめつけているのに、事実を事実として指適するのに何が悪かろう。私は小磯に言った。
「貴方の弁護は辞める。私の使命は貴方個人の弁護のみではないのだ。日本の真実の歴史
をこゝに残そうと思うからソ連を通じての和平及び繆斌工作の顛末を書きたかったのだ」その時本当に私は辞めるつもりであった。が小磯はたゞ黙って〝管鮑貧時之交〟と云う詩の一節を私に寄せられたので、その心情を汲んで弁護を続けることになったが、結局口述書は「小磯はソヴィエト及び重慶を通じて和平を計った」という一行に止められた。昭和二十五年〔一九五〇〕小磯は遂に刑務所内に於て不帰の人となった。この工作に反対した重光は再び脚光を浴びて政界に入り、今や外交の中心に存在する。不思議な時代だと思うが、二度と国の道を誤って貰っては困る。
繆斌は戦後漢奸として逮捕され一九四六年死刑に処せられた。これを以て日本では、現在、繆斌に対して二重人格者などという奴輩〈ドハイ〉があるが、これは全くの誹謗の言である。アメリカからの帰りに渡日した何応欽〈カ・オウキン〉は、「惜しいことをした。私がアメリカに行かずに中国にいたなら、決して彼を殺しはしなかったものを」と語っていた。繆斌の人格については生証人〈イキショウニン〉として何応欽氏が現存している。 (筆者は弁護士)
繆斌工作については、まだ研究途上なので、この文章における三文字正平の見解についてコメントすることは避けたい。しかし、繆斌あるいは小磯国昭という人物に対する評価が、これまで、あまりに低かったのではないか、という印象は持っている。