礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

玄関で石川啄木が「金田一君、金田一君」と呼んだ

2017-05-23 05:43:31 | コラムと名言

◎玄関で石川啄木が「金田一君、金田一君」と呼んだ

『実話雑誌』一九四八年新春号(第三巻第一号)に掲載されていた「心霊座談会」の記録を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した「幽霊子を救ふ」と題した節のあと、次のように続いている。

 のんだくれの借金
畠山 岡沢さん、その点やはり、心霊現象からいふと、第三霊の活躍といふやうな……
岡沢 さうです。さう解釈してゐます。人間には誰れしも先祖の霊がついてゐる。そして子孫を守護してゐるんです。姿なき声にしろ又幽霊となつて危難を救ふにしろ、今の二つの場合は、各々その本人が霊界からの通信を接受する霊能力のあつた人だから本人に来たんですが、霊界から如何に発信しても、本人に感受するだけの霊能力がない場合には、全然関係のない他人に来ることもある。
道島 すると、霊媒などによつて呼び出された霊が、いろんなお告げをするのは、みなそれなんですね。
岡沢 さうですさうです。しかし、これには非常にいんちきがありますから……。
松永 反対に、祟り〈タタリ〉を及ぼすといふのもあるさうぢやアありませんか。
岡沢 ありますね。先祖の霊が、子孫に甚しく不満を抱いてゐる場合。又、時には、思ひ残すことがあつて子孫が一向感受してくれないので、怒る――といふりもぢれて、いろんなことをやり出す。【中略】

 霊界通信と死の知らせ
記者 岡沢さん、霊界通信に就いて、もう少しくわしく話して下さいませんか。
岡沢 霊界に入つた霊魂は、皆ひとしく現世との通信を望んでゐるんです。自分のその後の生活を知らせたがつたり、又肉体は壊滅したが、自分の霊は生きてゐるといふことを示したがつたりします。さらに又、現世に思ひ残すことがあれば、それを告げやうとしたりする。
 これ迄の、内外の諸種の実例から見ましも、霊が肉体をはなれて霊界に転帰直後、即ち死の直後には、きわめて容易に自分の存在を示すことが出来るやうです。つまり、死の知らせといふやうな例が非常に多いのは、この証拠で、それから数日、又は数ケ月間は混迷期らしいのです。霊界の事情に馴れぬために当惑してゐて、自然、霊力も一番弱い時代で、霊術家が呼び出しても、応ずるものが少い。
松永 さうですね。死の知らせといふ奴は実にに多い。我々もしばしば耳にしますよ。
道島 普通人でも、霊気の豊かな人には、可成り〈カナリ〉強く来るやうだ。私なんかにも、予感といふか、なんといふか、感じで来る。あゝ誰れそれが病気だな、とか、誰れそれが死んだな、とか、自分では考へてもゐないことがひよいひよいと心に浮んで、それがちやんとあたる。岡沢さんなんかも、もちろんおありでせう?
岡沢 あります。私の場合は音で来て、夜など遅くまで起きてゐると、とんとんとんと、普通の音とはちがつた、なんとも言へないさえた音が、雨戸や窓をうつ。あゝ誰れか死んだな――と、思つてゐると、きつと報せが来る。
羽田 私の処なんかも音だ。壇徒の死んだ時は、必ず本堂で音がする。その音次第で、仏の年齢がわかりますよ。
松永 さう言えば、私にもその経験があります。北海道の小樽の、ある寺に泊つた時、庫裡【くり】の方が改築中だつたので、和尚と二人、本堂に床を並べて睡りにつきましたが、真夜中頃、なんとなく周囲がざわめいてゐるやうな気がして目をさますと、かすかに廊下を歩くやうな音や、ひそひそ話すやうな音。さらさと衣ずれ〈キヌヅレ〉の音。しまひには木魚や鐘の音まで、かすかに聞えて来るんです。それが、非常に遠い処のやうな無もするし、近い処のやうな気もする。私も、物に動じない方だが、さすがにこの時ばかりはこらえきれなくなつて、和尚をゆり起すと、和尚はもう先刻から気付いて、狸寝入りをきめこんでゐたらしいんです。そして、
「この音の様子では、仏様はまだ若い方ぢやな。騒ぎなさんな。人間一度は、誰れでもある。死ぬとすぐ、自分の宗旨の寺へ来るのぢや。そして、斯うして、仏霊や先に死んだ沢山の霊に導かれて冥界に入るのぢやよ。南無阿弥陀仏」
 と平気なものでした。音は三十分近くも続いてはたとやみましたが、果してその翌朝、三十歳になる壇徒の死を知らせてきましたよ。
 もつとも、その霊によつて、騒がしいもの静かなもの、いろいろあつて、こんなのはごくまれなんださうですがね。
藤村 私の処には、音になつて来たり、姿を現はしたり、時には光りもの――俗にいふ人魂となつて来たりします。
羽田 桂太郞公が死んだ時には、例の愛妾お鯉さんの処へ、人魂となつて行つて名残りを惜んださうですね。
岡沢 石川啄木が死んだ時は、声だつたさうだ。アイヌ語の研究家で有名な、帝大教授の金田一京助氏。あの人の玄関で、死の前夜、
「金田一君、金田一君」
 と二声三声呼んだ。金田一夫妻は顔を見合して、あれ程の病人が急によくなるわけはないと話し合つたさうだが、もちろん出て見ると玄関には誰れもゐなかつたんですよ。
道島 大阪堀江の惨劇〔一九〇五〕。六人斬りで両手を斬り落された芸者の妻吉。本名は大石米子と言ひましたね。あの妻吉を斬つた芸者屋の主人は、以前から妻吉を非常に可愛いがつてゐて、妻吉だけは斬る気がなかつたんです。それが、血を見て狂ひ出し、あんなことになつたので、兇行後も、
「妻吉にはすまない、すまない」
 と、言つてゐたさうですが、死刑になつた夜、旅芸人になつて地方巡業中の妻吉の処へ幽霊になつてわびに来たさうですよ。
藤村 新聞にまで出て有名になつたのは、北海道夕張の小学校の土方の霊です。なんでも地ならし工事の時に、崩壊する土の下敷になつて死んだらしいんですが、始めは宿直室の戸を叩いた。連夜それが続いて、結局三人連れの亡霊が現はれて、供養をたのんだのです。
岡沢 北海道には有名な鉄道工事で生き埋めになつた土工の幽霊がある。
道島 写真にうつゝたあれですね。
岡沢 あれは何処の鉄橋でしたか、昭和六七年〔一九三一、一九三二〕の頃でしたね。ある人がその鉄橋の写真をうつすと、その背景にぼんやり浮いてゐるものがある。不思議なんで二度三度やつて見ると、たしかに人の形だ。顔もやゝはつきりして来たが、どうしてそんな人物が現はれるのか、なんとしてもわからない。そこでいろいろ調べて見ると、その鉄橋工事の時にトロツコに積んだ土砂と一緒に転り〈コロガリ〉こんで惨死したのを、監督が、責任問題でもあり面倒臭くもあつたので、逃亡行方不明といふことでそのまゝにすました土方の霊といふことが解り、供養したんで、その後は写真にも現はれなくなつたさうです。
羽田 死を知らせる。ことに、変死などで、自分の死がうやむやに葬られてゐるやうな場合には、それが多いやうです。【以下、次回】

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