◎三島由紀夫における治安維持法と二・二六事件
今年も、二月二六日が近づいてきた。例年、この時期になると、二・二六事件事件のことを思い出す。おそらくこれは、私だけではないだろう。
以前、批評社が発行している『ニッチ』というPR誌の28号(二〇一三年一月発行)に、〝三島由紀夫に影じた治安維持法の〈国体〉概念〟という文章を寄せたことがある。文章を執筆したのは、二〇一二年の一一月か一二月だったと思う。
この段階では、三島由紀夫と二月二六日事件との関わりについて、十分に展開することはできなかった。そこで、三島の『文化防衛論』(新潮社、一九六九)を引用しながら、彼の「治安維持法」観について、思うところを述べた次第である。
このブログでは、このあと、三島由紀夫と二・二六事件について論じてみたいと思っているが、とりあえず本日は、既発表の〝三島由紀夫に影じた〈国体〉概念〟の後半部分を、そのまま引用してみたい。なお、この文章は、入稿に際しての文章であって、実際に『ニッチ』28号に掲載されたものとは、若干、異なっているかもしれない。
三島由紀夫に影じた治安維持法の〈国体〉概念 礫川全次
【前略】
以上はマエフリで、ここからが本題である。「普通選挙法」とほぼ同時に成立した「治安維持法」(一九二五年公布・同年施行)という法律がある。「普通選挙法」が「五箇条の御誓文」の精神と矛盾しないことは、いま確認した。では、「治安維持法」は、「五箇条の御誓文」の精神と矛盾するのだろうか、それともしないのだろうか。
ここで、このような問題を立ててみたのは、かつて三島由紀夫の『文化防衛論』(新潮社、一九六九)を読んでいて、次のような「私見」に出会ったのが発端になっている。
《私見によれば、言論の自由の見地からも、天皇統治の「無私」の本来的性格からも、もっとも怖るべき理論的変質がはじまったのは、大正十四年の「治安維持法」以来だと考えるからである。すなわち、その第一条の、
「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ……」
という並列的な規定は、正にこの瞬間、天皇の国家の国体を、私有財産制度ならびに資本主義そのものと同義語にしてしまったからである。この条文に不審を抱かない人間は、経済外要因としての天皇制機能をみとめないところの、唯物論者だけであった筈であるが、その実、多くの敵対的な政治理念が敵の理念にしらずしらず犯されるように、この条文の「不敬」に気づいた者はなかった(五四~五五ページ)。》
繰り返すまでもないが、ここで三島は、「治安維持法」という法律に、天皇制=私有財産制度=資本主義という認識を見出している。鋭い指摘である。東大法学部で学んだ三島由紀夫であるが、その言論活動の中で、その法律的素養を見せつけることは、あまりなかったのではないか。そうだとするとこれは、その数少ない例外と言えるだろう。
治安維持法は、天皇制と私有財産制を並列した瞬間に、明治維新の本質が、資本主義への移行と、その基礎となる私有財産制の確立であったという事実を暴露してしまったのである。三島はおそらく、このことを「不敬」と評したのではないか。
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ここで、「治安維持法」は、「五箇条の御誓文」の精神と矛盾するか、しないのかという問題について考えてみる。明らかに矛盾する。「五箇条の御誓文」のどこを見ても、「私有財産制」などという概念はない。
戦後の一九四六年六月二五日、吉田茂首相は、「いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史・日本の国情をただ文字に表しただけの話でありまして、……この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」と述べた。この、吉田首相の言葉にならって言えば、「日本国は私有財産制の国体でなかったことは明瞭であります」ということになるだろう(古代の公地公民制を想起されたい)。
明治以降、私有財産制が導入されたことは事実である。しかしそれは、「国是」として導入されたわけではない。もちろん、歴史的に「国体」とともにあった特徴でもない。最も問題なのは、治安維持法という法律の中で、国体=私有財産制が並列されていることである。
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ところで三島由紀夫は、同じ『文化防衛論』の中で、次のようなことも述べている。
《私は本来国体論には正統も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があって、むしろ国体思想イコール変革の思想だという考え方をするのである。(六九ページ)》
短い言葉だが、これまた、きわめて重要な問題を提起しているような気がしてならない。
三島のこの論理からすれば、治安維持法が自明としている「国体」を否定し、これとは別の「国体思想イコール変革の思想」を以て、治安維持法のいう「国体」を変革することも肯定されるのか。三島が一貫して支持してきた「昭和維新」とは、そういう意味における「国体思想イコール変革の思想」に依拠する変革ではなかったのか。
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保守派・右派・民族派を名乗る人は多く、三島由紀夫を支持する人も多い。しかし、「治安維持法」という法律に関わって、以上のような三島由紀夫の問題意識を継承した人が、ひとりでもあったのか。もし、なかったとすれば、それはなぜなのだろうか。いま、このあたりのことが、少し気になっている。
まだ、いくつか論じ残したことがあるが、すでに紙数が尽きた。
若干、補足する。最初に述べたように、この文章においては、三島由紀夫と二・二六事件との関わりが、十分に展開できていない。しかし、それから五年経った今日においては、とりあえず、次のようにまとめることができる。三島由紀夫によれば、治安維持法(一九二五年=大正一四年公布)が「天皇制」と「私有財産制」とを並列してしまったことは、天皇制と私有財産制とを等値することである。これは、本来の「国体」とは似て非なる「国体」が創出されたこと意味する。その後の昭和初年、資本主義社会の危機に直面した日本社会は、そうした似て非なる「国体」を変革し、本来の「国体」を回復する動き=「昭和維新」を掲げる革新運動を生み出さざるをえなかった。しかし、結局、この「昭和維新」の動きは、二・二六事件に対する鎮圧という形で消滅することになった。これが、三島由紀夫の「二・二六事件」観ではなかったのか。―― 【この話、続く】