◎自殺には「必然の脈絡」というものがある(西部邁)
一九九一年九月に、光文社のカッパ・サイエンスの一冊として、『立ち腐れる日本――その病毒は、どこから来るのか』という本が出た。西部邁〈ニシベ・ススム〉氏と栗本慎一郎氏とによる対談をまとめた本である。
数日前、偶然、この本を手にとったところ、三島由紀夫氏の自殺について論じあっている箇所があった。引用してみよう。
対極にある三島由紀夫と坂本龍馬の死が意味するもの
西部 死ということで言いますと、僕は三島由紀夫氏の自殺というか自裁はいまだに納得できないんです。僕にも自殺願望が皆無というわけではありませんが、それでもやはり必然の脈絡というものがなければ納得できない。自分がガン細胞に蝕まれ、数週間以内には意識を失って、親族その他に不愉快な思いをさせる、そういうプロセスのギリギリのところで青酸カリを飲むというような自殺はすごく理解できるんです。
政治でも、たとえば楯の会という小さな軍隊が、あっちとぶつかり、こっちとぶつかりしていくなかで、ここでひとつ死んでみせなければどうにもならんという必然の力学、マキャベリふうに言うとフォルトゥーナ〔Fortuna〕という運命の力学が働いてギリギリまできたところで、自分の意志が決定的に発動されて死を選ぶというのならわかります。ところが三島氏のように、どうみてもフォルトゥーナがわずかしか働いていないように思われるときに、自裁して果てるというのが、どうにも納得できないわけです。私の保守主義というもののなかには、そういうフォルトゥーナの力学を迎え入れたいということがあるんですね。
栗本 私もまったく同感ですね。死に方としては、戦っているうちにスパッと死んでしまうのが最高なんですよ。坂本龍馬に対する日本人の共感というのは、そこなんです。若くて、力もあった。しかし志半ばにして死んでしまった。志半ばだったから、人びとの無意識の共感を呼ぶんです。次が西郷隆盛で、もう死んでみせねばしようがないというところまできて、最後の最後に城山で死んでみせた。だから人びとは西郷隆盛に対しても、坂本龍馬の次くらいに共感を抱くわけです。
けれども三島由紀夫氏の場合には、共感を得るのはどうしても無理なんですよ。私自身は、そうかそんなに追込まれてしたのか、きっと不幸だったんだろうなという逆のシンパシーを感じますけど。
西部 三島氏が自決したあと、多くの文学者や思想家たちがその理由を説明しましたね。「ホモであった」とか「サン・セバスチャン信仰にとらわれていた」とか、「お祖母【ばあ】ちゃんの過剰な愛のせいだった」とかいろいろな説が出てきたけれども、僕の目から見れば、みんなまちがっていると思うんです。というのは、それらの説明では、彼がなぜ市谷の自衛隊のバルコニーで決起を呼びかけ日本刀で死ななければならなかったのかということがわからないからです。ホモが理由だというのならば、どこぞのホモ・バーで死んだっていいわけでしょう?
栗本 僕の価値観では、そのほうがカッコいいと思います。
西部 僕の説は簡単なんです。これは先ほどの必然論につながるんですが、三島氏は小さいとはいえ楯の会という軍隊をつくったとき、若者を前にして、「時が至れば俺は死んでみせる」と言った。相手は若者ですから、当時のいろいろな状況もあって、「あなたはいつ死んでみせるんですか」という問いを発しはじめた。そこで「遠からずやってみせるよ」となった。つまり「死んでみせる」と言った己れの言葉の責任をとらなければならなくなって、また、とらざるをえないと思い、あるいはとりたくなり、そして死んだのである、という仮説なんですね。
栗本 狭い世界のなかでの〝流れ〟ということですね。
西部 そうです。ただ、あまりに狭いので、ちょっと納得できない面もあるんですけど。
栗本 狭いけれども、そうだと思います。だとすれば、僕が考えていたほど気の毒ではないということになりますね。ただ僕は、彼自身の意識というものも、やはりあったように思います。つまり、坂本龍馬や西郷隆盛には大きな集団を動かしていける感応力があったわけですが、三島氏は自分にはそれがないことを自覚していたと思うんです。そこにある程度の意志を感じたんですね。孤立を選ばされ、かつその孤立を選んできたという、誰かの「意志」をですね。
西部 それはあるかもしれませんね。僕は三島由紀夫氏に関する勉強をしたときに、ドナルド・キーン氏などが「三島の『文化防衛論』や『太陽と鉄』などの評論は理解できないし、ましてや自決の一件は理解できない。ただ、三島がそのようにファナティックになったことは理解できなくても、三島文学の美しさは変わらない」というような言い方をしていることに、びっくりしたんです。
栗本 死に関わる行動と作品とが別だなんていうことは、ありえないですよ。
西部 人格と作品とは無縁であるどころか、ほとんど重複しています。『太陽と鉄』などの死の哲学めいたものは、当然、彼の文学作品とオーバーラップしていますし、人格とはさらにオーバーラップしているはずなんです。【以下、略】
西部邁さんはここで、自殺には、「必然の脈絡」がなくてはならないが、三島由紀夫氏の自殺には、それが感じられないと述べている。
と述べている以上は、今回の西部さんの自殺には、「必然の脈絡」があったと考えるべきだろう。はたして、それは何だったのだろうか。