◎三島由紀夫の「二・二六事件」観について
今月九日に、「三島由紀夫における治安維持法と二・二六事件」というコラムを書いた。タイトルだけは立派だったが、内容がそれに追いつかず、やむなく、コラムの最後に、次のような「まとめ」を付しておいた。
……三島由紀夫によれば、治安維持法(一九二五年=大正一四年公布)が「天皇制」と「私有財産制」とを並列してしまったことは、天皇制と私有財産制とを等値することである。これは、本来の「国体」とは似て非なる「国体」が創出されたこと意味する。その後の昭和初年、資本主義社会の危機に直面した日本社会は、そうした似て非なる「国体」を変革し、本来の「国体」を回復する動き=「昭和維新」を掲げる革新運動を生み出さざるをえなかった。しかし、結局、この「昭和維新」の動きは、二・二六事件に対する鎮圧という形で消滅することになった。これが、三島由紀夫の「二・二六事件」観ではなかったのか。
二・二六事件については、ごく一般的な知識しか持っておらず、三島由紀夫の「二・二六事件」観についても、詳しく検討したわけではない。しかし、研究の方向(あくまでも、「自分の研究」の方向である)を見定めるために、右のまとめを、もう少し長めのものにしてみたい。なお、ことわるまでもないが、以下はあくまでも、礫川の捉えた〝三島由紀夫の「二・二六事件」観〟である。
三島由紀夫によれば、治安維持法(一九二五年=大正一四年公布)が「天皇制」と「私有財産制」とを並列してしまったことは、天皇制と私有財産制とを等値することである。これは、本来の「国体」とは似て非なる「国体」が創出されたこと意味する。
三島にとっては、天皇制と私有財産制とを等値する「国体」観は、とうてい、受け入れられないものだった。しかし、当時の日本の支配層(宮中勢力、政界、財界、地主階層)にとっては、そうした「国体」観こそがリアルなものだったのである。あるいは、当時の日本の支配層は、そうした「国体」観によって、みずからを支えようとしていたのである。
一方、軍部内の革新派は、昭和初年の危機の中で、日本の支配層、特に政財界に対する反発を強め、民間の右派革新勢力と連携しながら、「昭和維新」をスローガンに掲げる革新運動を展開していった。彼らが理想とした「国体」の実質は、必ずしも明白ではなく、また、同じ軍部内の革新派でも、「皇道派」と「統制派」とでは、その「国体」観には、かなりの開きがあった。しかし、治安維持法的な「国体」観をを容認せず、本来の「国体」を回復しようとする点においては、ほぼ一致していたと思われる。
三島由紀夫は、二・二六事件を主導した「皇道派」の青年将校に共感を寄せていた。皇道派は、統制派に比べて、日本の支配層を批判する姿勢が鋭く、治安維持法的な「国体」観に対する反発も強かった。少なくとも三島由紀夫は、そのように認識した上で、皇道派を支持していたと考える。
二・二六事件は、軍部内で、皇道派と統制派との対立が激化する中で、「皇道派」の青年将校が、民間の右派革新勢力との連携なしに、軍隊のみで起こしたクーデター未遂事件であった。なりゆきによっては、軍部内皇道派を中心とする臨時内閣樹立ということもありえたが、天皇および宮中勢力が、「叛乱」鎮圧の意思を固めたために、挫折することになった。
このクーデターの挫折によって、軍部は統制派が主導権を握ることになった。同時に統制派は、日本の支配層(宮中勢力、政界、財界、地主階層)と妥協し、治安維持法的な「国体」観を容認しながら、「合法的」な形で「革新」運動を展開してことになる(実質的には、戦時統制経済の導入)。皇道派を支持していた三島由紀夫としては、こうした軍部ないし統制派の動向は、許しがたいものだったであろう。