◎一時間目の授業は突然、自習になった(1936・2・26)
あいも変わらず、二・二六事件の話である。机上に、相田猪一郎著『70年代の右翼――明治・大正・昭和の系譜』という本がある。どういうわけか奥付がないので、詳しいことはわからないが、一九七〇年(昭和四五)に、大光社から出された本らしい。著者の相田猪一郎は、朝日新聞社会部の記者で、「事件記者」として知られていた(インターネット情報)。
著者は、福島県相馬郡原町(原町市を経て、現在は南相馬市)の出身で、小学校六年生のとき、地元で事件を知ったという。以下は、前掲書の第三章第二節「二・二六事件」からの引用。
二・二六事件は巷の庶民にどううつり影響を与えていたか――東京やその周辺の状況などは、いままでいろいろの本に書かれたり、語り伝えられているが、地方のことはあまり書かれていない。地方といっても、上野駅からそのころ汽車で十時間、福島県の太平洋岸の人口一万二千人ぐらいの田舎町での話しであるから、これもやはり一断面である。それも当時、小学校六年の私の目で見たり聞いたりした話である。記憶がいまだに昨日のように鮮明に残こっている。これからみてもいかに同事件の影響が社会に強烈な印象を与えたかを物語る証拠であろう。
田舎町―通称、浜通りといわれている原町(現在は市)は、そのころ、これという全国的な名産もなく、火事の火元になれば親子孫と三代ぐらいにわたってあの家は火元だったといわれ、中学の入試におちると「××の家の息子は中学に入れなかった」と数年間にわたっていわれるような話題の少ない静かな町であった。旧正月が過ぎ、二月もなかばになると、人びとは三月の中学校の入試、農家の今年の作付けなどがまず話のタネになるのだ。
こんなとき、二・二六事件の第一報が二月二十六日の朝、H町に入ってきた。
わたしはこの朝、友達の新聞販売店の息子を登校のためさそいに行った。中学校の入試を目前にして、あれこれ入試のことをいつも話し合いながら小学校へ通っていたのだ。この朝も例によって、そのためにさそいにいったのである。ところが家の前までいくと「大変なことが起きた。大変なことが起きた」と、友人の父親がひとりごとをいって速報を家の前に貼り出してした。みると総理大臣や大臣などが早朝軍人に殺されたという一報だった。家へ入っていくと、父親は、電話機をがらがら回しながら東京の本社を早くつないでくれ、と町の郵便局の電話交換手をどなっている。事件はあっという間に町に知れ渡ったのだろう。登校すると、一時間目の授業は突然、自習ということになった。自習はわたしのクラスだけでなくほとんどのクラスもそうだった。わたしは、教室をぬけ出し、前夜雪が降ったため銀世界の校庭に飛び出し、悪童グループと雪合戦をして遊んだ。自習なのに遊んでいるところをみつかれば、あとがうるさいと、担任教師の様子をうかがうため、こっそり教員室をのぞいた。ところが、教員室においてある木でつくった一㍍四方の大きな火ばちを多数の教師が囲こんで真剣な表情で話し合っている。話の内容を聞こうと窓に耳をつけてじっとしていたが、内容は聞きとれない。ときおり「大変なことが起こった」「これからどんな世の中になるのだろう」――こんな話を、大きな声で話すのが聞こえてきた。軍人に内閣総理大臣や大臣が殺される大変な時代になったのだということは子供心にも強く印象に残こった。
家に帰ってくると、家人も、また近所の人びとは数人集まると路上でひたいを寄せながら「これからどうなるのだろ」と心配そうな表情で話し合っていた。子供心にも大変な世の中になっているということが、身にしみて感じたので、なんとなく販売店の友人のところへ行った。おそらく分からないながらも、新しいニュースを入手しようとしたのではないだろうか。ところが、友人の父親は、おしかけた近所の人びとを前に「東京の本社に問い合わせても、本社は朝知らせたほかのくわしいことは、まだ、わからないと、いう返事なのだ」と、説明し「困ったもんだ」「どうなるんだろう」との連発だった。
町はその後、三、四人集まると、話題はこの事件のことでもち切りだった。いずれにせよ一断面かも知れぬが地方の片田舎の町には混乱とか騒然さとかいうものは、まったくなかったが、かつてなかった心配、不安のうずをまき起こした。
二・二六事件と、直接の関係はないが、火事の火元になれば三代にわたって噂されるという話がおもしろい。もっともこれは、たぶん日本全国、どこのムラでもマチでも、また、昔も今も、同じことだと思う。